第59話 こころのかけら
シャーロットは、騎士団本部に併設された宿舎の前で、何となく足を止めて手にした籠を持ち直した。
「……多分もうすぐ、あなたのご主人様も戻って来ると思うんですが」
「きゅっ!」
籠の中で目をきらきらさせて良い返事をしたのは、アルヴィーの入院中(といっても一日だけだが)ユナに預けられていたフラムだった。施療院にいる間、放りっぱなしになってしまうことを危惧した飼い主によって、フラムは小動物大好きなユナにルシエルを介して預けられたのだが、いざ返す段になって、彼女は起伏に乏しい表情でシャーロットにフラム入りの籠を手渡してきたのだ。
「……残念だけど、ちょっと用事ができたから。ロットが返しに行って?」
などと言ってはいたが、その後ろでにやにやとこちらを見守る仲間たちに、気付かないシャーロットではなかった。
(……しかも、隠す気すらないでしょう、あれ……)
第一二一魔法騎士小隊の面々が、アルヴィーと自分との距離を事あるごとに縮めようと――というかぶっちゃけくっつけてしまおうと――色々ちょっかいを出してきていることに、シャーロットはとうに気付いていた。何しろあからさまだ。むしろ、気付いていないアルヴィーの方が驚異である。もっとも彼の場合、色恋より友情の方が、心に占める割合は大きいようだが。
(どう考えても、優先順位の一番は隊長だし……)
はあ、とため息をつき、シャーロットは気を取り直して、宿舎の管理人が常駐する小部屋に赴く。基本的にこの宿舎は出入りが激しいが、可能な限り管理人に宿舎への出入りを申告する決まりになっているので、管理人に尋ねれば目当ての人物が宿舎に戻っているかどうかは、大体把握できるのだ。
だが残念ながら、アルヴィーは退院後一度宿舎に戻ったものの、すぐに出たらしかった。入れ違いになってしまった形だ。《伝令》で連絡を取れば良かったと思っても、時すでに遅し。一旦戻ってすぐに出て行ったということはおそらく任務が入ったのだろうから、うかつに《伝令》も飛ばせない。
どうしたものかと思いつつ、とりあえず壁際に寄る。今のところ時間の余裕はまだあるし、飛び込みの任務が入ればそれこそ管理人にフラムを預ければ良い。そう思いながらひとまず待つ態勢に入っていると、目の前を見覚えのある顔が通り過ぎた。
(……あら?)
蒼い髪の、同年代の少女。騎士団の制服に身を包んだ彼女は、やや気後れしたようにおずおずと宿舎に入って来て、やはり管理人から情報を得ようというのか管理人室に向かった。少し話をしていたが、望む情報は得られなかったのか、すぐにそこを離れる。
当てが外れたように、だがどこか安堵もしたように、彼女は回れ右して宿舎を出ようとした。
「――こんにちは」
「ひゃあ!?」
眼前を通り過ぎようとした彼女に声をかけると、少女は飛び上がらんばかりに驚いた。
「わっ、わたしに何か!?」
「いえ、ただこの前お会いしましたので」
「あ……」
少女――四級騎士ニーナ・オルコットも、シャーロットのことを思い出したようだ。碧の瞳がわずかに見開かれる。
「し、失礼しました、フォルトナー三級魔法騎士」
「いえいえ、わたしも先ほど驚かせましたからお相子ということで。――アルヴィーさんは一度戻って来て、またすぐに出たようですよ。任務が入ったんでしょうから、時間が掛かるかもしれませんね」
「ええ、わたしもさっきそう聞いて……」
頷いて一拍。ニーナがぎしりと固まり、頬に赤みが差していく。
「え、いえ、その……ど、どうしてそれを……!」
「ええまあ、わたしも彼に用がありまして。この子を返しに来たんですが」
籠の中のフラムを示すと、ニーナの瞳が輝いた。
「か、可愛い……! 講義の時にも来てたけど、あの時はわたしの方が荒んでいたから。あの時はごめんなさいね?」
「きゅ?」
小首を傾げる愛くるしい小動物に、彼女のどこか硬質な印象を与える雰囲気も見るからに緩んだ。やはり年頃の少女、可愛らしいものには弱いようである。
「こんなところでは何ですし、少し場所を変えませんか」
現在地は宿舎の出入口近くで、人通りもそこそこある。というわけで、少し離れたところに移動した。
「……あ、あの……」
移動したはいいが、もじもじと口ごもっていたニーナだったが、意を決したように口を開く。
「何か?」
「その……フォルトナー三級魔法騎士は、アルヴィー・ロイとはどういう……こ、この間も、二人で出掛けていましたし」
「ああ、あの時はアルヴィーさんが商業ギルドに用があるというので、案内していたんですが」
「案内……ですか」
どこかほっとしたように、ニーナは息をついた。
「……オルコット四級騎士。あなたもしかして、アルヴィーさんのことを」
「わああああ!!」
シャーロットの疑問を掻き消すように、湯気でも噴きそうな顔色のニーナが素っ頓狂な声をあげる。近くにいた騎士たちが何事かと振り返り、シャーロットは手を振って何事もないと示した。籠の中でびくりと毛を逆立てたフラムも、撫でて落ち着かせてやる。
「……す、すみません……」
遅まきながらそれに気付いたのか、ニーナは身を竦めるようにして謝罪した。
「ですがその、わたしは本当に――そんな」
言葉を連ねるにつれ、声は小さくなり、それに伴うように上気した顔も伏せられた。だが、しばしの後に再び上げられた面には、何かを思い切ったように引き締まった表情がある。
「……ただ、彼は……わたしをもう一度、騎士として立たせてくれたんです」
きゅ、と両手を握り合わせ、ニーナは先ほどとは違った落ち着いた声で、大切なものを見守るような表情で、そう言葉を紡ぐ。
「――わたしの父は、レドナで殉職しました。そのことで、彼を恨んだこともあります。彼がわたしの父の件に関わっていないことは知っていました。でも……レドナに攻撃を仕掛けた《擬竜兵》の中で、生き残ったのは彼だけだった。だから」
それは、彼女の傷を掘り返すような告白だろう。しかし、ニーナの表情にそうした苦しさはなかった。
「ずいぶん、彼に当たってしまったけど……でも、彼はわたしを憎まなかった。わたしがこの国の騎士であることを思い出させて、憎しみに縋らず自分の足で立てと、そう言ってくれたんです」
きっと彼女は、その言葉を今も大切に、心の内に抱えているのだろう。そう思わされる、穏やかな表情だった。
「……そうですか」
シャーロットが頷くと、ニーナははたと気付いたように、一気に顔を真っ赤にし、
「……は、い、いえ、その……! ではわたしはこれで、し、失礼しますっ!」
バネでも付いているように勢い良く一礼したかと思うと、次の瞬間には脱兎の勢いでその場を後にする。
残されたシャーロットは、何となく複雑な気分でそれを見送った。
「……あなたのご主人様は、意外ともてますね?」
「きゅっ」
フラムにそうぼやいてみるも、この小動物は当然のごとく、良い返事で瞳をきらきらさせるだけだ。
(……ああいう風に慕われたら、きっと悪い気はしないんだろうな……)
どこかもやもやした感情が心に広がる自覚もないままに、シャーロットはフラムの入った籠を持ち直し、アルヴィーの帰りを待つのだった。
◇◇◇◇◇
オルロワナ北方領中心都市・ラフトの一画にひっそりと佇む宿屋。そこでフィランは、この数日寝起きしていた。
(うーん……出て来たはいいけど、そこで次どこへ行くかっていうとなあ……)
フィランの旅に、目的地というものはない。ついでに故郷と呼べるような土地もなかった。何しろ、物心付く前から親に連れられ、旅から旅への日々だったのだ。サイフォス家を興した人間は北――現在《虚無領域》と呼ばれている旧クレメンタイン帝国領の出身だそうだが、フィラン自身は自身が生まれた土地の名前も知らない。故郷というのがどういうものかすら、彼には想像が付かなかった。
そんな彼が、未だかつてないほど長く留まったのが、このラフトの地だ。ユフレイアの護衛という名目でしばらく腰を据えたここで、思いがけなく一国の改革という大事件を間近に知った経験は、フィランに少なからぬ影響を与えた。
その日その日を暮らす平民にとって、国というのは不動のものだ。人間が多少代替わりしようと、国そのものは揺らぐことなくそのまま在り続ける――無意識に自身もそう思い込んでいたフィランにとって、戦争という異常があったとはいえ、国一つが大きく変化した今回の改革は、言ってみれば常識を引っ繰り返されたような衝撃だった。
そしてその改革には、表に出ることのない形とはいえ、フィラン自身も少なからず関わったのだ。
(凄いもんだなあ……戦争に負けたってことはあるにしても、国の政治のやり方を変えるなんて。そんなやり方もあるのか)
レクレウスでは王の存在は形骸化し、政治の実権は貴族たちが組織した議会へと移った。未だ王が大きな決定権を持ち、国政を左右するのが当たり前のこの時代、レクレウスの政治形態は非常に斬新なものだ。もちろん、国や王の年齢によっては、実際に国を動かしているのは宰相などの臣下であるなど珍しくもないのだが、どんな政策も最終的には王の名のもとに行われる。だがこれからのレクレウスでは、すべての政策は貴族議会の名で発表され、王はそれを追認する形となるのだ。そしてその貴族議会の中には、今まで大きな政策には関わることを許されなかった、下級貴族も含まれている。
権力からあえて遠ざかることを選んできたフィランには、ユフレイアに説明されたそれらのことも、あまり実感として理解はできない。それでも、このレクレウス王国という国が、大きく変わったのだということは分かった。
そして、その中心に彼女がいたということも。
(……そもそも、一国の姫様なんて、俺には本来縁なんかないはずの人だしなあ……)
数日前までユフレイアの護衛などに納まっていたのも、自分のほんの気紛れと、彼女側の事情が奇跡的に上手く噛み合ったからに他ならない。常であれば、自分のような流れの剣士と一国の姫君など、出会うことすらないはずだったのだから。
一つ息をついて、フィランは窓から外を見る。ラフトの街は今日も活気に溢れていた。この間までの戦争の余波も、国の北端であるこの一帯にはあまり及ばず、豊かな鉱物資源とそれがもたらす富により経済的に潤っている。宿の人間も、フィランのような流れ者を妙な目で見ることもなく、為政者たるユフレイアの自慢をしてくるような土地柄だ。
(居心地は良いんだよなあ、確かに)
いつもの自分なら、さっさと別の地へと旅立っていたところなのに、なぜかそうする気になれず、こうして数日だらだらと居続けている。もちろん、鍛錬は欠かしていないが、それでもこのまま留まり続ければ、実戦の勘は鈍るだろう。この地は小さな喧嘩沙汰くらいしかない、実に平和な地だ。
(いいんだけど……剣士としちゃまずいんだよなあ。もうそろそろ、発たなきゃさ)
窓枠に頬杖をついて、ぼんやりと外の景色を眺め――フィランの眼が、ふと鋭くなった。
(あれ……あいつら、何か変だな)
フィランの部屋の窓からは、宿の出入口が見下ろせる。今、そこから数人の男が出て来たところだった。特筆して変わったところは見受けられない、旅装の男たち。だがフィランは、その男たちから何か、背筋をざわざわと逆撫でするような気配を感じたのだ。
目をすがめ、そして彼は思い出した。
(そうだ。あいつら……前にあの姫様襲撃した奴らと、感じが似てる。――でもそれより、もっとやばい感じだ)
理屈ではない。言うなれば、勘だ。だがフィランのそうした勘は、今までに幾度も彼自身の身を救ってきた。剣を振り慣れた者に特有の、ある種の雰囲気。そして人殺しを厭わない者が持つ、どこか歪な空気。
それは、自らも剣を振るい、そして必要とあらば相手の命を断ち切ることも辞さない、そんな道を歩んできたフィラン――《剣聖》の血筋に生まれた者であるからこそ、感じ取れたものなのかもしれなかった。
フィランはほぼ無意識に剣を掴み、部屋を出ていた。何とかドアの鍵を掛けることだけは忘れずに、剣を腰に帯びて宿を出る。
(今この街で一番狙われそうな人って、一人しかいないもんな!?――ああもう、カッコ付けて出て来た数日後にこれかよ!)
胸中で慨嘆しつつも、気配と足音を殺して追うのはもはや無意識だ。相手に気取られない程度に距離を置き、だが決して見失うことはないように、フィランは男たちをマークし続ける。
やがて彼らは、繁華街の路地裏にある一軒の建物に入った。気配を探ってみるが、どうも人の住む雰囲気がない。
(空き家か……勝手に使ってんだろうな)
さすがに中の話が聞けるほど、建物の壁は薄くなかった。諦めて、建物の周囲を調べる。結果、出入口は一つしかなかったので、そこさえ見張っていれば事足りるだろう。
(にしても……俺、何やってんだかな)
そっとため息一つつき、フィランは手近な壁に背を預けた。出入口からは手前の建物が障害物となり、こちらの姿の大部分を隠してくれる位置取りだ。よくよく見れば気付かれるだろうが、その前に動ける自信がフィランにはあった。
もとより、待つのには慣れている。呼吸を落ち着け、時折周囲にも気を配りながら、男たちが消えた出入口を注視することしばし。
ざり、とかすかな足音が聞こえた。
そっと覗いてみると、一人の少年が路地に入って来たところだった。こちらも旅装なのか、サイズが大きめに見えるフード付きのマントを羽織り、顔の半ばまでをフードで隠している。だがフィランには、体格や足運びなどから性別の見当が付くのだ。
少年はしばらく進んで足を止めると、マントの下から何かを引っ張り出した。それを口にくわえたことから、小さな笛であるとフィランは推察する。だが、それらしい音は聞こえてこない。
(何だあれ、壊れてんのかな。――いや、そういえば昔、祖父ちゃんにその手の話を聞いたことが……)
フィランが自身の記憶を引っ繰り返している間に、変化は起こっていた。
いつの間にか、路地の上空をいくつもの影が飛び交い始めている。それは、見る間に数を増やし、上空から地上近くへと舞い下りてきた。目をすがめ、フィランはその正体を何とか見破る。
(あれは……蜂か!? あんな馬鹿でかいの、見たことないぞ!?)
目測ではあるが、人の握り拳ほどもありそうな巨大な蜂だ。おそらくは魔物だろう。
(もしかして、あいつが呼んだのか?――って、やべ! 消えた!)
不覚ながら、フィランが上空の蜂に気を取られた隙に、少年は忽然と姿を消していた。まだまだ修行が足りないと、内心反省する。とはいえ、あの蜂たちに気取られないよう、気配を殺すことは忘れていないが。
少年の目的が分からず、とりあえず様子見を続行していると、空き家のドアが開いた。出て来たのは、領主館で立ち働く使用人たちの服装に身を固めた男たちだ。だがフィランから見れば、その歩き方や身のこなしで、それが先ほど空き家に入って行った旅装の男たちだとすぐに分かった。服で上手くごまかしてはいるが、あちこちに何か――おそらく暗器の類だろう――を仕込んでいることも。
(ここには変装のために立ち寄ったってとこか……領主館の使用人に化けたってことは、やっぱ狙いはあの姫様だな)
腰の愛剣にそっと手をやり、左の親指で音もなく柄を押し上げる。擦れる音一つ立てず、銀の剣身が鞘から顔を覗かせた。
その時。
「――うわっ!?」
「何だ、魔物……痛ぇっ!?」
ぶうん、と低い羽音と共に、空中で留まっていた巨大な蜂たちが、一斉に男たちに襲い掛かった。
「くそっ、何でこんなもんが街中に――」
「痺れる! 毒持ってやがるぞ!」
「は、早く解毒ポーションを……!」
あっという間に阿鼻叫喚となった場に、その時少年のやや高い声が響いた。
「――やーっと見つけたよ! さ、雇い主のこととか、ちゃっちゃと吐いて貰うからね!」
一旦姿を消していた、マント姿の少年が、再び姿を現したのだ。彼は見せ付けるように、ちゃらちゃらと鎖で下げた笛を揺らす。
「そいつら、結構強い毒持ってるからね。ランクの低い解毒ポーションじゃ、完全には解毒できないよ。そいつらどっかにやって欲しけりゃ、ここのご領主を襲うように依頼した奴の名前、おとなしく喋るんだね!」
「何を、ガキが――」
と、男の一人が手を翳す。その手首にはまった腕輪が、頭上からの陽光にきらめいた。
「喰らい付け、《火炎大蛇》!」
詠唱と共に放たれた炎が、蛇のように大きくうねり、飛び交う蜂たちを襲った。
「げっ!?」
炎に焼かれて落ちていく蜂魔物たちに、少年が焦る。逆に、男たちには余裕が戻った。蜂に刺された者はポーションで毒を中和し、魔法士の男が少年に手を翳す。
「形勢逆転だな。そっちこそ、誰の手先か――」
瞬間。
「――うん、あんたたちが誰の手先なのかは、俺も知りたいな」
すっ、と。
フィランの剣の切っ先が、まるで寄り添うように、背後から男の首筋に突き付けられた。
「……なっ!?」
「こ、この野郎、いつの間に――!」
周囲の男たちが、気配もなくいつの間にかそこにいたフィランにようやく気付き、一斉に飛び退く。
「てめえ、何者だ!」
「何であんたらに教えなきゃなんないんだよ。それに、質問してるのはこっち。――言っとくけど、この剣こないだ調整したばっかだから。良く斬れるよ?」
その言葉通り、ほんの少し強めに刃を押し付けただけで、ぷつりと皮膚が切れて血が滲み出した。剣を突き付けられた男は慄然とする。
背後にいる男の声は、ごく落ち着いたものだった。自分が人一人の命を握っているという状況への高揚も、恐れもない。必要とあらばあっさりと刃を滑らせそうな、そんな感情の見えない無機質な恐ろしさが、その声にはあった。
「ふ、ふざけるな――!」
別の男が短杖を取り出す。この男も魔法士らしい。
「奔れ、《雷鞭》!」
振り抜かれた杖の先から迸った稲妻が、その名の通り鞭のようにしなって背後からフィランに迫る!
「――ぎゃああああ!?」
だが、雷撃を喰らって絶叫をあげたのは、剣を突き付けられていた男の方だ。標的であったフィランは、男をさっさと放り出して離脱、ほんの一瞬で雷撃を放った男の眼前まで肉薄すると、その剣を振るった。
ピシッ、というかすかな音。そして短杖が半ばから斬り飛ばされ、先端が宙に舞う。それが地に落ちるより早く、フィランは剣の柄でその男を殴り倒した。
「……やっぱ全員どつき倒した方が早いのか。面倒だ……」
そうぼやきながら、フィランは集団の中心に躍り込む。手にした剣が翻るたび、腕や足を斬られた男たちの悲鳴があがった。腱を斬られたため、命に別状はないものの、反撃や逃走の手段をことごとく奪われ、彼らは苦痛に呻きながら地面に這いつくばるしかできない。
あっという間に男たちを制圧し、フィランは剣身を布で拭うと鞘に納めた。
「ふう……で、何こっそり逃げようとしてんの、そこ」
「あ、あはははは……やっぱダメ?」
どさくさに紛れて逃げ出そうとしていたマント姿の少年は、もちろんきっちり見咎められて乾いた笑いを漏らした。こめかみを冷や汗が伝う。
「参ったなー……にしても、あんた強いねー。何者なのさ?」
「……ただの通りすがり」
「ふーん」
しげしげと、少年はフードの下からフィランを見つめる。完全に信用していない風情だったが、フィランとしてもそんな言い訳が通るとは思っていないため諦めた。
「……ま、いっか」
やがて満足したのか、少年は口元に笑みを刷く。手近な男の足を引っ掴み、彼らが出て来た空き家の方へと引きずりながら、
「あんたも、こいつらの素性とか雇い主とか、知りたいんだよね? これから吐かせるからさ、とりあえずこいつら運ぶの手伝ってくんない? 表に放り出しとくわけにもいかないしさ。こいつら領主館の人間の服着てるし、警邏とかに見つかったら言い訳できないよね?」
「…………」
またしても厄介事に首を突っ込んでしまった予感をひしひしと感じながら、フィランもまた、近くに転がっていた男の腕を掴むと、空き家に運び込むべく引きずり始めた。
◇◇◇◇◇
三公国が揃って“クレメンタイン帝国”に降ったという知らせは、大陸の各国を震撼させた。無論、ファルレアンも例外ではない。
「――駄目だわ。どの国の首都にも、精霊たちが入り込めない。先手を打たれた……」
風精霊たちの話を聞き、アレクサンドラは眉をひそめた。彼女の強みである風の下位精霊たちによる情報網についても、クレメンタイン帝国側は先んじて対策を施しているらしい。彼女が得たのは、三公国の首都のいずれにも強力な結界のようなものが張られ、風精霊たちが近付けないという情報のみだった。
「しかし、クレメンタイン帝国側がなぜ、陛下の風精霊への対処を……」
「わたしが風の下位精霊たちから話を聞けることは、広く知られているわ。それに、アルヴィー・ロイの話によれば、帝国再興を宣言したレティーシャ・スーラ・クレメンタインは、偽名を使ってレクレウスの研究施設に潜り込んでいた……レクレウスは精霊除けの魔動機器を開発しているでしょう。彼女がその魔動機器の情報を持っていれば、同じものを再現するのは可能なはずよ」
「た、確かに……」
言われてみればその通りだと、大臣たちも頷く。しかし、この状況で公国の動向が掴めないというのは、いかにもまずかった。特に三公国の一角・サングリアム公国は、ファルレアンのみならず大陸に流通するポーションの製造をほぼ一手に握っているのだ。
「そういえばここ最近、サングリアム公国がポーションの流通量を絞っているという報告が上がっておりましたが……まさか、このために?」
「我が国のポーションの備蓄は、どうなっているの?」
「は……かねてより数年は持ち堪えられる計算で、サングリアムより購入し備蓄しておりましたが……レクレウスとの戦争で、予想以上に数を消費致しましたので、種類によっては少ないものがございます。特に、体力・魔力の回復用と、身体組織修復系ポーションの備蓄が減っております。ただ、これらのポーションに関しては、王立魔法技術研究所の薬学部が解析を試みておりまして……」
「分かりました。財務の方にも、その研究に予算を付けるように言っておくわ」
仮にこのまま、ポーションの安定供給が難しくなれば、薬学部の研究が唯一の望みとなる。アレクサンドラは即座に決断した。
「……しかし、我々も油断しておりましたな。まさか、ポーションの流通が危ぶまれることになろうとは」
「サングリアムがこのような行動に出るなど、予想も付きませんでしたからな」
「だが、陛下の風精霊も首都に入れぬとなると、やはり諜報部隊を現地に派遣すべきですか……」
「それしかあるまい。最悪、他の二国は捨て置くとしても、サングリアムには探りを入れねばな。地理的にも、我が国の隣国だ」
大臣たちの会話に耳を傾けていたアレクサンドラは、すぐさま騎士団長を呼ぶよう指示を出した。諜報部隊は騎士団の管轄下なので、動かすには騎士団長に話を通す必要がある。
――騎士団長ジャイルズ・ヴァン・ラウデールは、程なく女王の前に駆け付け膝を折った。
「お召しにより参上致しました、陛下」
「ええ、ありがとう。――この度の一連の件、聞いているわね?」
「は。歴史が浅いとはいえ、あの三公国が百年の独立を反故にして、帝国を名乗る者に膝を折るとは、ただただ驚くばかりでございます」
「その件について、諜報部隊をサングリアムに送って貰いたいの。三公国の首都には、風精霊が入り込めなくなっているわ。おそらく、何らかの対策を打たれているのでしょう。けれど、人であれば入り込めないことはないはずよ」
「畏まりました。すぐに部隊を選抜致します」
「頼みます」
深く頭を垂れ、ジャイルズは女王の命を受諾する。そして尋ねた。
「……陛下。此度の件、《擬竜騎士》は動かさずともよろしゅうございますか。クレメンタイン帝室の後継者を名乗る者とも、因縁があるとのことでございますが」
「必要ならば動かします。けれど今は、まだその時ではないわ」
アレクサンドラは緩やかにかぶりを振る。
「彼の力は大き過ぎるの。むやみに揮うべきではないわ」
「畏まりました。では、早速差配致します」
ジャイルズの返答に頷いたアレクサンドラは、ふと思い出したように、
「……そういえば、その《擬竜騎士》は、ヴィペルラートの要人と会談しているそうね」
「左様にございます。ヴィペルラート側からの要望とのことですが、先の騒ぎの際に、成り行きとはいえヴィペルラートの高位元素魔法士に力を借りておりますので、多少の譲歩は致し方なしかと」
「……ヴィペルラートとモルニェッツの国境で、ヴィペルラート側の国境守備部隊が壊滅した一件、覚えていて?」
「は、おそらくは先の騒ぎの際、《擬竜騎士》と戦ったという、かの娘によるものでしょう。あのような力の持ち主が、そう何人もいるとは思えませぬ」
「つまり、クレメンタイン帝国側が関与していた……」
アレクサンドラの呟きに、どよめきが起こる。
「そ、それは……あの時からすでに、少なくともモルニェッツは、クレメンタイン帝国の干渉を受けていたということでございましょうか」
「ならば、サングリアムがポーションの供給量を絞り始めたのも……」
「となると、ロワーナも何らかの干渉を受けている可能性も」
「ことによると、此度の三公国の帝国への帰順も、いささか怪しくなって参りますぞ。本当に国としての決定なのかどうか……」
「そういえば、今回のオークション、三公国の関係者が一人として姿を見せておらぬぞ」
目を閉じてそれらの声を聴いていたアレクサンドラは、その瞳を開く。
「――とにかく、まずは情報を集めないことには、何も判断できないわ。騎士団長、諜報部隊の派遣の件、できるだけ急いでちょうだい。外務大臣も、外交ルートを通じて情報収集を」
「はっ!」
一斉に答える臣下たちに頷き、彼女は鋭く目を細める。その意志の強さに呼応するように、彼女にしか見えない風の精霊たちが周囲を取り巻き、室内だというのにその豊かな金糸の髪を、ドレスの裾を軽やかにはためかせた。
息を呑む臣下たちを余所に、彼女は呟く。
「……たとえ何者であろうと、この国に手出しはさせない。――ここはわたしの、わたしが守るべき国なのだから」
◇◇◇◇◇
ヴィペルラート側との会談を終え、アルヴィーが宿舎に戻ったのは、もう日も大分高くなった頃だった。
(フラムも引き取りに行かないとな……)
出入口を潜り、管理人に戻ったことを伝えようと向かった、その時。
「――きゅ―――っ!!」
甲高い鳴き声と共に、弾丸と化したフラムが騎士たちの足下を器用に駆け抜け、アルヴィーの左肩にジャンプ一番飛び付いた。
「おぶっ!?」
だが勢い余って左頬に突っ込まれ、間の抜けた声をあげてしまう。
「きゅっ、きゅきゅーっ!」
当のフラムはぶつかった衝撃もどこへやら、アルヴィーの左頬にぐりぐりと頭を擦り付け、常にも増して甘え倒す勢いだ。
「……おまえなあ……」
フラムを掴んでべりっと引き剥がせば、フラムはその四肢をぱたぱたとばたつかせ、瞳をきらきらさせて見つめてくる。しばし無言でそれを見やり、根負けしたアルヴィーは、何も言わずにフラムを自分の左肩に戻した。仕方ない。小動物のうるうるきらきらした瞳に勝てる飼い主など、そうそう存在しないのだ。
「――アルヴィーさん」
そこへ声をかけられ、アルヴィーはきょとんと目を見張った。
「シャーロット?――その籠、もしかしてこいつの?」
「はい、ユナに頼まれまして」
「マジで? 悪い、だったら大分待たせたよな」
「いえ、時間はありますし。それに……知った方に会ったので、少々立ち話など」
「そっか? それならいいけど……」
「この間、商業ギルドに行く時にお会いした、オルコット四級騎士ですよ」
「え? 何で?」
ニーナはこの宿舎とは特に関わりなどないはずだ。首を傾げていると、シャーロットにため息をつかれた。
「……あなたの様子が気になったんですよ、多分」
「へ? 何でニーナが?」
さらに疑問が増える。シャーロットは頭でも抱えたそうな顔になった。
「……これはさすがに、同情したくなる鈍さ……」
「ん? 何のことだ、それ?」
「……いえ、何でもないです」
こほん、と咳払い一つ。シャーロットは気を取り直したように、
「そりゃあ、知り合いが施療院に担ぎ込まれたとなれば、様子が気になるものでしょう。わたしたちは隊長から情報が入りますが、オルコット四級騎士はそういったルートはありませんから」
「あー、そういうことか。――でも、そもそも何で俺が施療院に運ばれたなんてこと……」
「何でってそれは、施療院にお世話になる人の大半が、騎士団関係者ですからね。そこから風の速さで広まりましたよ」
「げ、マジか……」
顔と名が売れているのも考えものだ。おちおち入院もできない。アルヴィーはげんなりと呻いた。そういえば現に今も、ちらちらとこちらを盗み見るような視線をいくつも感じる。
「……その、怪我の方はもう良いんですか」
と、シャーロットがぽつりと尋ねてきた。
「ん、ああ、《竜爪》でやられたからすぐに治んなかっただけでさ。もうピンピンしてるけど」
「そうですか」
安堵したように表情を緩める彼女に、アルヴィーは何となく照れ臭くなって頭を掻いた。
「……あーでも、またルシィに説教食らいそうでさ……あいつ本気で怒らせると怖いんだよなあ」
人を遥かに超えた力を持った今でも、あの幼馴染には勝てる気がしない。昔はどちらかというと、アルヴィーの方がルシエルを引っ張り回していた感じだったが、度が過ぎると怒られた。そんな幼い頃の記憶が、すでに染み付いているのだろう。
……すると、なぜかシャーロットにため息をつかれた。
「どうかしたのか?」
「いえ。――やっぱりあなた、優先順位の一番は隊長なんですね……」
「え、と……それ、何か問題か?」
「……いえもう、あなたがそれで良いなら、何も問題はないと思いますよ……? じゃあわたし、もう戻ります」
「え、あ、うん。あ、フラム連れて来てくれてありがとな」
「ええ、それでは」
籠をアルヴィーに押し付けて、シャーロットは軽く会釈すると、そのままさっさと宿舎を出て行った。
「……何だ?」
良く分からないままそれを見送ったアルヴィーだったが、考えていてもしょうがないかと、フラムを肩に乗っけたまま自室に戻るべく歩き始める。時折じゃれてくるフラムをあやしながら、一日ぶりの自室に戻ると、まずはベッドにダイブした。制服の皺もひとまずは気にせず、仰向けに寝転がる。
「あー……色々あり過ぎて頭痛ぇ」
「きゅ?」
覗き込んでくるフラムの頭を撫でてやりながら、アルヴィーは今日の会談――正確にはユーリの言葉を思い出していた。
――まだ、辛うじて人間。けど、これ以上竜の力が強くなったら分かんないから、気を付けて。
(……やっぱり俺は、だんだん人間から離れていってるのか)
徒人では望むべくもない、強大な力と生命力。人と竜との“まざりもの”。
それでも、これから先この国の騎士として在るために、そしてルシエルの剣としてその隣に立とうとする限り、その力を使わないという選択肢はないのだ。
「……なあ、どう思う? アルマヴルカン」
人にはあり得ない深紅の肌と、人のそれに似て非なる形をした右手。それを天に掲げながら、アルヴィーは自身の裡の竜に問いかける。
『――どう思う、と言われてもな。わたしはただ、主殿の右腕に宿った、魂の欠片に過ぎない。主殿がわたしを切り捨てるというなら、それも良かろうが』
「そんなことはしない。それは、何ていうか……ずるいだろ。今まで散々助けられた自覚ぐらい、俺にだってあるんだ」
すると、小さく笑うような声が聞こえた。
『義理立てするか。こんな、欠片でしかないものに』
「欠片だって何だってな。――そこにいるって、知ってんだから」
異形の右手を握り締める。まるで、そこに宿る何かを掴もうとするように。
また、低い笑い声が聞こえた。
『これだから、主殿は面白い』
「何だよそれ」
『なに、純粋に興味があるだけだ。欠片とはいえ、竜の魂を抱えた人間の行く末にな』
「不吉なこと言うな」
顔をしかめ、アルヴィーは手を下ろすと起き上がった。制服の上着を脱いで掛けながら、静かな、真摯な声で乞う。
「でもさ。――俺がもし、人間じゃなくなる時が来たら、教えてくれよ」
しばしの沈黙の後、答えが返る。
『……善処しよう』
「おう、頼む」
その答えにわずかに笑みを見せ、ポケットに入れていたものを左手で取り出す。千切れた鎖と、三枚の識別票――それを親指でそっと一撫ですると、アルヴィーは鎖を直すため、道具を調達しに部屋を出て行った。




