第58話 百年の夜明け
「――というわけで、いかにも怪しげに接触してきたわけですが。これは“釣り”だと思われますか? カルヴァート大隊長」
セルジウィック侯爵邸を後にしてすぐ。何事もなければ帰宅予定だったルシエルは、謎の男からの接触を受けたその足で、騎士団本部にとんぼ返りしていた。当然ながら、周囲には充分注意を払った上である。少なくとも、尾行された様子はなかった。
無論、あの時“話を聞こう”などと返答したのは、相手の狙いを探るための引き留め以外の何物でもない。だがまるきりの嘘というわけでもなかった。よしんばあの男が、セルジウィック侯爵家のメイドに接触していた男と同一人物であった暁には、是非とも委細詳らかに喋っていただきたい所存である。いくらでも話を聞いてやろう。
ルシエルの報告を聞き、ジェラルドは思案するようにその黒の双眸をすがめた。
「さてな……釣りじゃなかったら、間抜けに過ぎる気もするが。もっとも、自分の立てた策に酔ってる阿呆なら、本気で誘いを掛けてきてる可能性もあり得なくはない。クローネル家の事情に多少詳しけりゃ、おまえが異母兄二人を疎んじてもおかしくない立場なのは見当が付くだろうしな」
とはいえ、当のルシエルは異母兄たちを疎んじる以前に、そもそもつい最近までその存在を意識してすらいなかったのだが。何しろ彼はこのところ、道を歩けば何かしらに巻き込まれるような親友の方に大体掛かり切りだったので。
「おまえを引き込めれば、あわよくばその縁を辿って《擬竜騎士》も――なんて虫の良いことを考えてる可能性もありそうだしな、その場合」
「《保守派》にしてみれば、今は貴重な高位元素魔法士が二人とも、敵対派閥に抱え込まれてる状態ですしね。その片方を引き込めるなら、リスクを取る価値はあると考えているかもしれません」
「……ですが、今回の一件、セルジウィック侯爵家とクローネル伯爵家が奔走したのが功を奏して、詳しい事情はあまり知れ渡っていないはずです。わざわざ訳知り顔でクローネル二級魔法騎士に接触するなど、自分が関わっていると白状するようなものでは?」
セリオが愛用の魔動端末の手入れをしながら、そしてパトリシアが思案顔で自らの意見を述べる。ジェラルドは皮肉げに唇を歪め、
「口説き落とす自信がある、ってところか? まあいい、向こうから寄って来たんだ、食い付いてみるのもいいだろうさ。もしかしたら、そいつから主を辿れるかもしれんしな」
「じゃあ、《スニーク》を張り付けておきますね。クローネル二級魔法騎士に接触した相手を追うように指示しておきます」
手入れを終えた魔動端末を仕舞いながら、セリオがそう請け負った。
「了解しました。できるだけ泳がせて情報を取ってみます」
「ああ、任せたぞ」
ジェラルドの同意を得て、この一件に関してはルシエルの裁量で判断することが許可された。うまくすれば、今回の一件の黒幕を突き止めるチャンスだ。
(とりあえず、あの男が何者なのかを調べないと。向こうもなかなか尻尾は出さないだろうけど……)
自分だけに粉を掛けられるならともかく、アルヴィーにまで累が及ぶようであれば、早々に対処しなくてはならない。ただでさえ彼は、色々とややこしい立場なのだから。
「では、僕はこれで失礼します」
「上手くやれよ」
ひらひらと手を振ってくるジェラルドに一礼し、ルシエルは執務室を後にした。
(一応、父上とも話はしておいた方がいいか……変に引っ掻き回す形になってもまずい)
今回の一件は、クローネル家も決して無関係とはいえない。事態の処理に動いているであろうジュリアスにも、あの謎の男の接触は伝えておいた方が良いだろうと、ルシエルは判断した。
……だが彼は、一つ重要なことを、綺麗さっぱりと忘れていたのだ。
その日の夜、自宅で父の帰宅を待っていたルシエルは、使用人から知らせを受けるや否や、すぐに父の書斎に向かった。
「――お疲れのところ申し訳ありません、父上。ですが是非、お耳に入れておかなければならないことがあります」
「ふむ、聞こう」
セルジウィック侯爵邸での事件のせいで予定外の面倒事が舞い込み、終わらなかった仕事を一部自宅にまで持ち帰っていたジュリアスだったが、ルシエルの真剣な様子に、それを一旦机の端に押し退けてペンを置いた。
「ありがとうございます」
そしてルシエルは、今日の一件を話した。聞き終えたジュリアスは、難しい表情になって腕を組む。
「そうか……確かにそれは、見るからに怪しいな」
「罠かどうかはまだ分かりかねますが……捨て置くには少々惜しいかと」
「確かにな。――良かろう、騎士団の了解もあるというなら問題もない。《保守派》の尻尾を掴めるかもしれぬ機会だ、ものにせねばな。上手く探れ」
「はい、心得ています」
「うむ。――それにしても、今日は酷い一日だった」
ジュリアスは大きく息をつき、椅子に背を預けた。心なしか、表情も疲れの色が濃い。
片や王城ではクレメンタイン帝室の継承者と名乗る女が帝国の再興を宣言し、《擬竜騎士》と同じ力を揮う少女が大暴れ。片やセルジウィック侯爵邸では刃傷沙汰である。アルヴィーの機転と、ルシエルが現場に居合わせた偶然がなければ、どれほどの有形無形の被害が出ていたか分かったものではない。報告を受けた時、ジュリアスは背筋が凍り付くような思いをしたものだ。特に、侯爵邸での事件の一報には。
(だが、事が侯爵邸の中だけで片付いたのは、不幸中の幸いだった。まかり間違って街にでも出て、市民を無差別に殺傷でもしていれば、このクローネル伯爵家の傷は今の比ではなかっただろうからな……)
事件を引き起こしたのはクローネル家のドロシアとディオニスだが、彼らは侯爵家にとっても娘と孫である。セルジウィック侯爵も、血を分けた娘と孫を捨て置けはすまい。無論、一時の糾弾は免れまいが、直接の原因となった剣を持ち込んだ者の素性が分かれば、それを武器として巻き返しもできるはずだ。
(それが《保守派》の人間だと確定すれば、立場は逆転する。ルシエルがどれだけ情報を持ち帰って来るか……)
思慮を巡らせ、ジュリアスは目を細める。
「……ともあれ、しばらくは周りがうるさくなろう。余計な雑音には耳を貸さず、己の務めを果たすが良い」
「はい。――それはそうと、父上。ドロシア様や異母兄上たちは……」
「何だ、あれらの心配をするのか。迷惑の掛けられ通しであったろう」
「……あの人たちが歪んだ原因の一つである自覚は、あるつもりです」
クローネル伯爵家の後継者としてルシエルが据えられたことが、彼らの暴走の要因であったことくらいは、ルシエルも分かっている。彼らの素行の悪さが招いたものとはいえ、結果がこれでは後味もよろしくないというものだ。
浮かぬ顔のルシエルに、ジュリアスはふと唇の端に笑みめいたものを浮かべた。
「心根はロエナに似たか。――あれらはウィーガンに行かせる。あそこには我が家の別荘があるのでな。もう二十年は使っていないが、定期的に手は入れてある。暮らすには困るまい」
ウィーガンはクローネル伯爵領の中でも辺境に当たる地だ。自然豊かといえば聞こえは良いが、つまりは鄙の地ということになる。もう彼らを人前に出す気はないという、何よりの意思表示だった。
「ディオニスはあの剣の影響で、未だ正気に戻らん。ドロシアも精神的に不安定になっている。領主の妻としての役目はもはや果たせまい。クリストウェルはまだまともだが、それゆえに母と兄の面倒を見て貰わねばな。無論、使用人はいくらか付ける。生活に不自由はないだろう」
「……そう、ですか」
「さすがにこれ以上はな。いくら相手が平民の使用人で、剣に操られてのこととはいえ、ディオニスは人を殺し過ぎた。――騎士団とも話は付けたし、セルジウィック候にも了承は得ている」
それでこの話は終いとでもいうように、ジュリアスは言葉を切った。騎士としてのルシエルにとっては、少々腑に落ちない決着ではあったが、政治絡みで事件の解決から騎士団が遠ざけられるケースは、別段これが初めてではない。まして事件現場が侯爵家の邸内である。高位貴族の意向が働いた結果であれば、これも暗黙の了解と受け止めるしかなかった。
使用人たちが命を落とし、剣に操られたとはいえ直接手を下したディオニスは、貴族としての生命を絶たれた――そういう落としどころとなったのだ。
「……これで、名実共におまえが、このクローネル伯爵家の後継者となったわけだ。これまで以上に身辺に注意を払え」
「はい、承知しました」
確かに、ここでルシエルの身にも万一のことがあれば、クローネル家の後継者がいなくなる。そう得心してルシエルは頷いたが、ジュリアスはそれだけの意味でそう言ったわけではなかったのだ。
「そうか。――では、例の婚約の件も、そろそろ進めねばな」
「…………は?」
いきなり飛んだ話に、ルシエルはぽかんと立ち尽くす。だが、ジュリアスは容赦なく、
「身辺に注意を払えというのは、身の安全の話だけではない。異性関係も身綺麗にせねばな。もっとも、おまえは騎士団の任務で飛び回っていたゆえ、浮いた話の一つもないが。とはいえこれからもそうとは限らん。早い内に身を固めてしまえ」
「そ、それは……」
父が投げ込んできた爆弾の威力は絶大だった。とっさに言葉が返せず詰まるルシエルに、ジュリアスは次々と追い討ちを掛けてくる。
「今日はそれどころではなかったが、近い内に席を設ける。まずは一度、顔を合わせんことには始まるまい。先方に何度も王都まで出向いて貰うわけにもいかぬのでな、このオークションの開催期間中に最低でも顔合わせは済ませなければ」
「ちょ、ちょっと待ってください!?」
そういえば父は婚約の話を持って来ていたのだと、ルシエルは今さらながらに思い出したが時すでに遅し。恐ろしいほどの強引さで、そして当事者の意思は丸ごと無視でさくさくと予定が決まっていく。おとなしく黙っていればそのまま結婚まで持っていかれそうな気がして、ルシエルは慌てて口を挟んだ。
「まずは例の、僕に接触してきた男の素性を探るのが先ですよね!?」
「それは仕事だろう。婚約は私事だ。同時に進めて悪いという法もなかろう」
「……はい」
撃沈。
反論も一言で片付けられ、がくりと項垂れるしかないルシエルであった。
◇◇◇◇◇
アルヴィーが施療院を退院したのは、騒動の翌日だった。
騎士団本部に戻ると、早速下働きの少年が伝言を持って来る。ジェラルドからの呼び出しだ。
自室に戻る間もない早々の呼び出しに、アルヴィーはげんなりしたが、まさか無視するわけにもいかない。その足でジェラルドの執務室に向かう。
そこで彼は、少々毛色の変わった任務を命じられることとなった。
「……メリエのことを話す?」
「ああ、ヴィペルラートの要人からの依頼だ。――実は、公にはされてないが、この間ヴィペルラートとモルニェッツの国境近くで、ヴィペルラート側の国境守備部隊が壊滅したらしい。陛下の風精霊からの情報だから、まず事実と考えて良いだろう。ちょうど、おまえがファレス砦に行ってた頃だ」
「それが……メリエの仕業だってことか?」
「ヴィペルラート側の話によれば、犯人と思われる魔法士は女で、炎を操り高位元素魔法士クラス。極め付けに、左腕が変形したそうだ」
「…………!」
アルヴィーは絶句する。そこまで条件が揃っている以上、別人である可能性は確かに限りなく低い。
(でも、何でだ? 今のメリエが動くっていったら、多分シアの指示だ。シアがどうして、ヴィペルラートにまで喧嘩を売るような真似するんだ……?)
思考に沈みかけたアルヴィーを、ジェラルドの声が現実に引き戻す。
「あちらさんは、早ければ早いほど良いと言ってる。どうだ」
「それは……話くらいなら、構わないけど……でも俺だって、そんなに詳しいわけじゃ」
彼女について、アルヴィーが知ることはさほど多くない。かつては同じレクレウスの《擬竜兵》だったとはいえ、肩を並べて戦線に立った時間はあまりに短かった。彼女と合流した前後は、ちょうど故郷の村が壊滅した裏事情――もっともそれは、レクレウス側に都合良く編集された情報だったが――を知った頃とも重なり、精神的に余裕がなかったため記憶もあまり鮮明ではない。
それでも確かに今、彼女について語れるのは、アルヴィーしかいないのだろう。
「よし、じゃあ今から行くぞ。ついて来い」
「え、今から!?」
「……向こうさんにはちょっとした借りがあってな。さっさと返すに越したことはない」
パトリシアとセリオに留守居を言い付け、ジェラルドはアルヴィーを連れて騎士団本部を出る。向かう先は城内だ。正確には、建ち並ぶ城館の一棟である。そこは国外からの賓客が逗留するための、いわば迎賓館だった。
ある意味国の顔ともなる場所だけあって、内部は最高級の調度を揃えつつも、派手さを抑えて品を感じさせる洗練された設えだった。正直、どう足掻いても感覚は平民でしかないアルヴィーは、その時点で回れ右して帰りたくなる。だがそういうわけにもいかなかった。
正面玄関を入ってすぐの大広間に、何気なく飾られた絵画や彫刻、金糸や銀糸を惜しみなく使ったタペストリーなどが放つ無言の圧力に慄きつつも、アルヴィーはジェラルドの後に続いて大広間を横切る。さすがに高位貴族出身のジェラルドは、こんなところでもまるで自宅の広間を歩くかのごとく平然としていた。やっぱ貴族って半端ねえ、とアルヴィーがぼそりと呟いたのは余談である。
「――ここだ」
大広間から廊下に入り、やがて、一つの扉の前でジェラルドは足を止めた。
見事な彫刻が施された、マホガニーの両開きの扉の脇には、門番よろしく青年が立っている。ヴィペルラートの武官だろう。ファルレアンのものとは意匠が違うが、やはり軍服を思わせる装いに身を固めていた。だが銀の鎖や飾り紐を着け、鞘にまで細工を施した儀礼剣と思しき剣を下げているところを見ると、近衛クラスの人間に違いない。
彼は二人に恭しく一礼した。
「――この度は、我々の要望をお聞き届けいただき、まことに感謝致します」
ジェラルドが軽く頷くと、青年はドアをノックして、二人の来訪を伝える。中から入室を促す声が返り、青年が扉を開けた。
中はどうやら応接室のようで、壁の一面すべてを使ったような広い窓の外には、この迎賓館のためだけに造られた庭が望める。足元の絨毯はふわふわと足が沈み込みそうなほど柔らかく、天井には一面に紋様が彫り込まれていた。そこから吊るされたシャンデリアは、カットされ曇り一つなく磨かれた水晶が連ねられてきらめき、壁際には大きな暖炉。
そしてその前に置かれた、緑地に金糸の刺繍が施された猫足のソファに、ドア前の青年と同じ軍装を纏った護衛らしき二人の男性武官、そしてその間に挟まれるように、一人の少年が腰掛けていた。
(……あ。確か、オークション会場にいた……)
その少年に、アルヴィーは見覚えがあった。癖のある鈍色の髪に、翠緑が混ざった蒼い瞳。オークション会場で、やたらアルヴィーを凝視して来た、あの少年だ。
軍装の二人は、アルヴィーとジェラルドの入室に際し立ち上がったが、少年はそのまま、猫のようにこちらを見上げている。してみると、彼ら三人の中で一番立場が上なのは彼らしい。
紹介と挨拶を交わし、アルヴィーとジェラルドもソファに腰を下ろしたところで、武官の片方が口を開いた。
「此度はわざわざお運びいただき恐縮です。――そちらの少年が……?」
「ええ、我が国の二人目の高位元素魔法士です。もっとも、実力と経歴の釣り合いが取れないせいで、《擬竜騎士》なる階級を新たに創設することとなりましたが」
「ほう……」
ジェラルドが対外用の笑みを浮かべつつ放った牽制に、武官は目を細める。高位元素魔法士はどの国にとっても、一人でも多く抱え込みたい存在だ。そのためジェラルドも、新階級を創設してまでアルヴィーを厚遇していると言明したのである。……実際のところは便利に使われているといった風情だが、そんなことはおくびにも出さない。
と、少年――ユーリ・クレーネはきょろりと蒼い瞳をアルヴィーに向けた。
「――そんなことよりさ、さっさと本題入ろうよ」
どこか面倒臭そうに、彼はそう言ってその視線をアルヴィーの右手に移した。常人のそれとはまるで違う深紅の肌を、恐れる様子もなく見つめる。一つ間違えば不躾だと言われかねない行為だが、ユーリのそれは猫が興味あるものを見つめているような無邪気さがあって、不思議と不快感を感じさせない。
しばしの沈黙の後、彼はアルヴィーの顔に視線を戻した。
「……やっぱり、似てる」
「似てる?」
「昨日、直に見たのは一瞬だったけど。あの女と、力の質がそっくりだ」
「…………!」
武官二人が息を呑み、アルヴィーは自嘲めいた笑みを唇に刷いた。
「そりゃそうだ。――俺とあいつは、そもそも同じようなもんですからね」
「同じ?」
「同じ竜の肉片を植え込まれて、同じ力を手に入れた、ってことですよ」
「何と……」
思わずといったように、武官の一人が声を漏らした。
「竜の体組織を、人間に? 正気の沙汰か……!」
「おい!」
咎めるようにもう一人が鋭く囁き、武官ははっとして慌てて謝罪した。
「も、申し訳ありません」
受け取りようによっては侮辱とも聞こえかねない言葉だ。しかも相手は他国の高位元素魔法士と高位貴族。彼が焦るのも無理からぬことだった。
「謝罪には及びません。この席は非公式、記録にも残らない」
「……寛大なお言葉、痛み入ります」
ジェラルドの取り成しに、武官はほっと息をついた。
「まあ正直、俺が一番言いたいですけどね、“正気の沙汰か”っていうのは」
アルヴィーも肩を竦める。およそまともな人間なら考え付かないような所業なのだ、《擬竜兵計画》というものは。自分という安定した存在が生み出されるまでに、一体どれだけの犠牲があったのか、アルヴィーは知っている。実のところ、計画に関わった研究者たちの正気を疑ったことも一度や二度ではない。
重苦しくなりかけた空気を、清冽な水のような声が裂いた。
「ま、いいんじゃない。俺が見たとこ、今はまだギリギリ人間だから」
一部穏やかならない言葉に、ジェラルドが目をすがめた。
「……それは、一体?」
「俺は水を操れるから、相手の血の巡りを読めるし、それを通してどんな状態かも分かるよ。そっちの、《擬竜騎士》だっけ? はまだ、辛うじて人間。けど、これ以上竜の力が強くなったら分かんないから、気を付けて。――もう一人の、あの女の方は、もう人間から外れかけてるから」
ユーリがどうということもないように告げた言葉に、座の全員が息を呑んだ。
「メリエが人間から外れかけてるって……どういうことだ!?」
思わず腰を浮かせかけたアルヴィーの耳に、その時彼にしか聞こえない声が響いた。
『……あの娘からは、“わたし”の気配はほとんど感じないが、植え込まれた血肉の量は、どうやら主殿より多いようだ。そのせいだろう』
「何だ、それ……」
アルマヴルカンの声が他人には聞こえないことも忘れ、アルヴィーは呆然と呟く。
ほんの一欠片の肉片を移植されただけで、アルヴィーたちは強大な力を得、そして自分以外の三人はその力に呑まれて狂ったのだ。その一人であるメリエが、以前にも増す量の竜の血肉をその身に植え込まれたということに、彼は慄然とした。
「……じゃあ、またレドナみたいなことになるっていうのか」
『いや、わたしが見たところ、あの当時よりは安定している。――そもそもわたしの肉片に宿る力には、“わたし”の魂の欠片によるものも含まれる。主殿は上手く馴染んだが、他の者たちはそれができずに、いわば身体の主導権争いに敗れてああなった。それを踏まえての、あの娘への処置だろう。おそらく、肉片から“わたし”の魂の欠片を抜き取り、魂同士の干渉が起こらないようにしたのだ。ただその分、手に入る力は劣る。それを補うため、植え込む量を増やしたというところか』
「待てよ、シアはもうレクレウスを離れてるんだぞ、研究しようったって、設備も何も――」
「おい、頭ん中だけで会話してないで、こっちにも説明しろ」
ジェラルドにそう突っ込まれて、アルヴィーはやっと現在の状況を思い出した。
「……あ」
「傍から見てりゃ、盛大に独り言言ってるようにしか見えねえぞ」
ジェラルドの言うことももっともだ。武官たちにも、何だか胡乱げな目で見られている。
そんな中、ユーリだけはその大きな目をきょとりと瞬かせた。
「……なに、何かいるの」
「ああ、まあ」
アルヴィーの中に火竜アルマヴルカンの魂の欠片があるというのは、上級の騎士たちの間ではそこそこ知られた事実だったが、さすがに他国の人間にまで漏らして良い情報かどうかは分からず、彼は言葉を濁しかける。ちらりとジェラルドに目をやると、一瞬思案気な表情を見せたものの、彼は頷いた。
「まあ、知れたところでそう影響はないだろう。対策を打てるようなもんでもない」
「ならいいけど」
ジェラルドから許可が下りたのなら、アルヴィーとしても気兼ねなくバラせるというものだ。一つ息をついて、ユーリたちに向き直る。
「――実は、施術を受けた時に、肉片と一緒に火竜……アルマヴルカンの魂の欠片ってやつも俺ん中に入り込んだみたいで。ちょいちょい話しかけてくるんだ。他の人間には聞こえないみたいだけど」
「へえ、そんなことあるんだ。――まあいいよ、とりあえず俺たちには関係ないし。こっちが知りたいのはあの女の素性と実力。ヴィペルラートの守備部隊やられたんだ、あのまま放っとくわけにはいかない。でも、あいつのことが何も分からないままじゃ、戦力の振り分けようもないからね」
結構重要な情報のはずだったが、ユーリにはあっさりスルーされた。拍子抜けしたが、それならそれでまあいいかと気を取り直す。
「あいつは……メリエ・グラン。元はレクレウス軍の人間だった。俺と同じで。魔導研究所が進めてた《擬竜兵計画》ってのの被験者に選ばれて、それで手術されて、俺とメリエ含めて四人だけが生き残ったんだ。けど俺以外の三人は、レドナで暴走して……俺は、色々あってメリエとほとんど相討ちみたいな格好になって。――あいつはそれで、一度死んでる」
さすがにそれには、ヴィペルラート側も驚愕の色を見せた。ユーリも首を傾げる。
「死んだって、でもあいつ生きてるよね」
「生き返ったって、あいつは言ってた。どんな方法使ったのかは、俺も分からないけど」
「生き返る、か……死霊術とは、また違うのかな」
ふとユーリが漏らした言葉を、アルヴィーは耳聡く聞きとがめる。
「死霊術?」
『死者の魂や死体を操る術だ。死者の尊厳を穢すという精神論や、死体を保存して疫病が発生すると危険だという理由から、大抵の国で禁術に指定されているそうだがな』
「うげ……」
アルマヴルカンの注釈に、アルヴィーはげんなりと呻いた。
「じゃあ、具体的にはどれくらい強いの、そのメリエって」
「俺たちは大体、《下位竜》相当の強さだって言われてた。だからまあ、そんくらい?」
「ふーん……《下位竜》か」
顔をしかめ、ユーリは唸った。武官二人も、難しい顔になる。
「《下位竜》だと……それこそ、部隊単位で戦力が必要ということか」
「だが、必要な戦力が数値的に分かっただけでも収穫だ」
話し合う武官たちを余所に、ユーリは話の続きをせがむ。
「で? あいつの戦闘力は分かったけど、俺たちはどうすれば有利に戦えるの」
「そうだな、接近戦の方が有利かな。あいつ、魔法で吹っ飛ばす方が好きだし、得意みたいだから。俺たちは周りの魔力を取り込めるから、魔法勝負だと埒が明かないと思う。俺の時は……あいつの攻撃を、俺が魔法障壁で跳ね返したのが多分、止めになった」
「そっか。ありがと、だいぶ分かった」
ユーリがこくりと頷いた時、部屋の扉が性急にノックされた。
「何だ?」
「聞いて来ましょう」
武官の一人が立ち上がり、扉を開ける。すると、王城に仕える文官が、息せき切って立っていた。それだけでなく、外の空気もどこか浮付いたようにざわめいている。
「何があった」
自国の文官の姿に、ジェラルドが席を立って武官と入れ替わる。文官はよほど急いで来たのだろう、息を切らせながら急を告げた。
「た、大変です! サングリアム、ロワーナ、モルニェッツの三公国が……クレメンタイン帝国の再興に伴い、自国の主権を返上して、帝国の支配下に入るとのことです……!」
滅んだはずの国が、再び蠢き始める。
シア・ノルリッツ、あるいはレティーシャ・スーラ・クレメンタイン――二つの名を持つ女が不敵に微笑む様を、アルヴィーは見た気がした。
◇◇◇◇◇
大陸北部、通称《虚無領域》と呼ばれる一帯。
そこに点在する集落に、一つの噂が流れ始めていた。
――百年前に滅びたとされるクレメンタイン帝国の使者を名乗る者が、再び帝国への従属を求めて姿を現す。
その申し出に従えば、暮らすに困らないだけの物資や戦力が手に入る――と。
「……領内に点在する村落は、順調にこちらの支配下に移行しています。今のところさしたる問題はありません、我が君」
ダンテの報告に、レティーシャは満足げに頷いた。
「そう、ありがとう、ダンテ。彼らもわたくしの民となる者たちですもの、分け隔てなく扱いませんと。――村落同士を結ぶ道の開設や、魔動彫像の配備はどうなっていまして?」
「そちらも順調です。道は地魔法と魔動巨人を併用して、順次開通していますし、村落警備用の魔動彫像も、各村落に二体ずつ配備しています。周辺の魔物の討伐程度ならそれで充分かと」
「結構ですわ。こちらもそろそろ、人造人間の高性能化に取り掛かろうと思っておりますの」
レティーシャが地下研究施設で大量に保有している、人造人間。彼女が現在取り組んでいるのは、その欠点である自我の薄さの改良だった。その点が改善されれば、人造人間も充分戦力に数えられる存在となるだろう。
とにかく、現在のクレメンタイン陣営は人手が足りないの一言に尽きる。三公国を支配下に置き、国民ごと取り込んだとはいえ、やはり国民の増員は急務だった。
「現在の人造人間では、人間と遜色ないレベルで自我を芽生えさせるには、何らかの刺激が必要なようですわ。おそらくは、人間との交流が良いようですわね」
「では、オルセルたちを召し上げられたのも、そのために?」
「ええ、ゼーヴハヤルは彼らとの交流によって、あれほど確固たる自我を得たと思われます。オルセルたちには、現行の人造人間とも交流していただいて、その仮説の確認を致しますわ。その検証結果を基に、次世代の人造人間の高性能化に着手致します」
レティーシャは楽しげに微笑み、外からの音に耳を澄ます。遠く聞こえる重々しい音は、建物の補修のために宮殿内を闊歩している、魔動巨人の足音だろう。レクレウスでは兵器として運用されているが、元々クレメンタイン帝国では、魔動巨人は土木作業用として開発された。疲れを知らず、命令さえしておけば同じ作業を飽きることなく延々とトレースする魔動巨人は、単調な力仕事にはまさに適任だったのだ。
帝国再興を宣言する少し前から、レティーシャは活動を開始していた。帝都クレメティーラの再建と防備の強化は、その最たるものだ。ラドヴァンのアンデッド魔物を帝都外縁部に移し、その内側の整備を進めている。現在は多数の魔動巨人が稼働し、帝都外縁をぐるりと囲む防壁の建造と、内部の整地及び区画整理が進んでいた。昼夜問わず働き続ける魔動巨人による進捗の早さは、人間とは比べ物にならない。
「クレメティーラの整備がある程度進めば、魔動巨人は迎撃用として転用致します。建物などは、細かい部分は人造人間の魔法を使いましょう。今はまだ帝都の人口も少ないですし、順次増やしていけばよろしいですわ。――魔法技術については、かつての帝国の方針を継承致します。最先端の技術はやはり、帝都で一括管理致しませんと」
「畏まりました」
「いずれは人造人間で軍を創設することになるでしょう。その時はダンテ、あなたにお任せ致しますわ」
「はい、我が君のお望みのままに」
胸に手を置き、ダンテは一礼する。
「――陛下」
そこに姿を現したのは、侍女頭のベアトリスだ。レティーシャが帝国再興を宣言したことを受け、彼女がレティーシャを呼ぶ呼び方も、君主に対するそれに変わっていた。
「サングリアムとロワーナ、及びモルニェッツの様子を見て参りました。特に変わった様子はありません。ただ、ポーションの流通量を絞り始めた影響で、サングリアムの方には問い合わせが増えています。現在は原材料の産出量の減少ということで対応しています」
「それで結構ですわ、ベアトリス。引き続き、そちらの対応をお願い致します」
「畏まりました、陛下」
「あの三国を我が帝国の支配下に置いたことも、大陸に存在するすべての国家に通達しました。他の国は我が国の再興をなかなか認めはしないでしょうけれど、三公国が帝国支配を認めたとなれば、他の国も混乱するでしょう。――ベアトリス、三公国の首都に設置した、“あの設備”に異常は?」
「問題ありません。現在はすべて稼働状態です」
「それは重畳ですわ」
レティーシャはにこりと微笑む。そんな彼女に、ベアトリスがおずおずと質問した。
「……一つ、よろしいでしょうか、陛下」
「ええ、もちろん。何か疑問がありまして? ベアトリス」
「その……陛下はなぜ、この時機に帝国再興を宣言なさったのですか? 帝都もまだ再建途中です。もう少し間を置かれてからでも、問題なかったのでは……」
「そうですわね。あなたの疑問も分かりますわ、ベアトリス。――ですがまずは、わたくしたちが国家であることを宣言しておかなければ、国としての権利が得られませんの。たとえば、戦争を例に説明致しますわね。国同士であれば、開戦前に宣戦布告をしなければならないと、国際法で定められておりますの。ですが、片方が国でなければ、布告無しでの先制攻撃も可能なのです」
分類するならば地域紛争のレベルであった、ファルレアン王国対レクレウス王国の戦争も、レクレウス側からの宣戦布告によって開戦となった。当事国たる二国以外にも国家が存在する以上、法を順守することは重要なのである。場合によっては、国際法への違反を口実に、第三国が干渉してくる可能性もあるのだから。
「“国同士”となることで、他国の動きに制限を掛けることもできますのよ、ベアトリス。たとえ国としての内実が伴っていなくとも、国として名乗りを上げておくことは無駄ではないのですわ。それに、他の国が宣言を認めずとも、三公国が帝国支配を認めてその名の下に降っていますから、完全に否定することもできないはずです」
「そんなことが……」
ベアトリスも、貴族令嬢として人並み以上の教育は受けていたが、貴族令嬢であるがゆえ、国政などに関する知識には縁がなかった。そうした役職に関わりでもない限り、彼女のような令嬢に求められるのは、いずれ嫁いで家の女主人となること、そして社交界での人脈作りだ。そこに国や法に関する知識が入る余地はあまりない。ただただ、レティーシャの博識に感心するしかなかった。
「そんな理由があったとは、存じませんでした。無知を恥じるばかりです」
「構いませんわ、ベアトリス。これから追々、学んでくださればよろしいのですもの」
「は、はい!」
勢い込んで答えるベアトリスを微笑ましく見やり、レティーシャは歩き始める。彼女の騎士であるダンテと、侍女頭ベアトリスも、それに付き従った。
この《薔薇宮》には、いくつもの庭園があり、それを見下ろす形で回廊が何本も張り巡らされている。その内の一つを歩いていると、ふと目に入った光景があった。自然と足を止め、レティーシャはそれを見やる。
「あら。――可愛らしいこと」
それは、二つの小さな人影だった。ゼーヴハヤルとミイカだ。ダンテの部下という形で戦闘を担当するゼーヴハヤルは、平時は特に任務もない。一方のミイカも、どうやら今は休憩中のようだった。二人して柔らかな下草の上に座り、少し離れたところで群れる小鳥を眺めている。
「オルセルはいないようですね。また地下で勉強してるのかな」
「あの子は熱心ですものね。いずれ、研究面でわたくしを助けてくれることでしょう。先が楽しみですわ。――ですが、もしもの場合を考えて、彼らにも自衛の術を与えておいた方が良いかもしれませんわね。せっかく、あの子たちにも魔力集積器官を与えてあるのですもの」
「では、良さそうなものを見繕っておきます」
「ええ、お願いしますわ、ダンテ」
頷いて、レティーシャは再び歩き始めた。
「……そういえば、少し昔を思い出しましたわね、ダンテ。わたくしたちもああやって、生き物を眺めていたことがありましたわ。もっともあの時は、小鳥ではなく小川の魚でしたけれど」
「ああ……覚えています。今ではあの小川も、瓦礫に埋もれてしまいましたが。――再建を機に、あそこも元に戻されますか?」
「そうですわね。考えておきますわ」
自分の知らない過去に思い出話を咲かせる二人を、ベアトリスは羨望と共に数歩後ろから眺めた。
――この二人の間には、他の者たちとは違う、特別な空気がある。
それはきっと、自分が知ることのない、二人だけが共に積み重ねてきた時間の産物だ。
(……羨ましい)
どちらに向いたとも知れない、その思いを持て余しながら、ベアトリスはしずしずと歩みを進めるのだった。




