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片翼のドラグーン  作者: 八月 あやの
第八章 よみがえる亡国
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第57話 嵐が過ぎて

 ファルレアン王国王都・ソーマの中心部、王城に程近い立地に、国が運営する施療院はある。主な利用者は任務や演習などで負傷した騎士がダントツという、騎士団がとても世話になっているこの施療院に、先の襲撃で負傷したアルヴィーも担ぎ込まれていた。

 通常であれば、竜の細胞によって得た超人的回復力で、怪我など負った側から治ってしまうのだが、今回はいささか勝手が違う。竜の鱗そのもののような《竜爪( ドラグ・クロー)》で負った傷は、半分人間を辞めているような回復力でも治せないのだ。

 アルヴィーをこの施療院に叩き込んだジェラルドの気遣い(?)によって、彼は個室を宛がわれていた。もっともそれは、関係者以外の立ち入りを制限するためという意味合いもあったのだが。今回の一件で、アルヴィーは改めてその常人離れした戦闘力を垣間見せた。その力と火竜の加護を受けた血に目を付けたやからの接触を、できる限り制限しようというわけだ。

 そしてその個室のベッドの上で、アルヴィーは現在、ジェラルドからの尋問の真っ最中だった。

「――つまり、あの銀髪の女は《擬竜兵ドラグーン計画》に参加してた研究者の一人で、おまえらの世話役みたいなもんだった、と」

「ああ……でもその頃は、もっと年上の外見してた。どう見ても四十代くらいだったし……何であんなに若返ってんのか、こっちが分かんねーよ」

「ふむ……」

 ジェラルドは小さく唸る。

「しかも、死んだはずの《擬竜兵ドラグーン》までぞろ出て来たとなると……」

 その言葉に、アルヴィーは膝に掛けた掛布を固く握り締める。


 ――彼女は死んだと、自分が殺したようなものだと、そう思っていた。

 それを忘れないために、あの識別票ドックタグを持っていたのに――。


 左手が、胸元をさまよう。

 あの時から肌身離さず身に着けていた僚友たちの識別票ドックタグは、あの戦いの際にメリエの一撃によって鎖を斬られ、落としてしまったままでまだ探し出せていない。

「確かに、死人が蘇るなんて話もなくはないが……見た感じ、どうだった」

 ジェラルドの問いに、アルヴィーははっと我に返った。

「あ、ああ。――あの時のままみたいだったよ。少なくとも俺には、生きてる時と変わらないように見えた。それにメリエは、“シアが生き返らせてくれる”って言ってたんだ」

「となると、アンデッドともまた違うのか」

 ジェラルドは眉をひそめる。死んだ人間が生き返る――それも在りし日の姿そのままでなど、現在の魔法技術では不可能なはずだ。

(……だが、“クレメンタイン帝国”ってのが本当なら)

 かつて、世界最高峰にして最先端の魔法技術を誇ったあの国になら、もしかしてそういった技術もあったのかもしれない。しかし百年前のあの大戦で、帝国の魔法技術は帝都もろとも吹っ飛んだ……はずだった。

(旧クレメンタイン帝国領……特に帝都クレメティーラの辺りは、強力な魔物がうようよしてやがって、まともな人間じゃ近付けもしない。逆に言えば、失われたはずの魔法技術を隠し持つにはうってつけだったってことか)

 各国の研究者や、名うての傭兵たちでさえうかつに近寄れない魔境――それが帝都クレメティーラ跡だ。大戦時に謎の壊滅をげたその一帯には、在りし日の栄華の面影すらもはやなく、魔物がうろつく危険極まりない地域となっているという。《擬竜騎士( アルヴィー)》なら行けるかもしれないが、国から離してまでアルヴィーを送り込まなければならない案件ではなかった。

 今までは。

「……しかし、あの女が言ってたように、本当にクレメンタイン帝国を再興しようっていうんなら、場合によっちゃ《虚無領域》内の帝都跡に調査隊の一つも出さなきゃならんかもな」

「え、何で?」

「あの女は確実に、クレメンタイン帝国時代の技術を握ってるんだ。どの国もそれが欲しい。下手すりゃ、各国で競争になるぞ。――こうなると、各国の貴族やら傭兵連中やらが集まる時を狙ったとしか思えんな」

「え、と……国同士に競争させたいわけ?」

「ああ、まあな。正確には、多国間の足並みを乱したいんだろうが。ファルレアン(うち)含め、この大陸じゃもう魔法技術の進歩はそろそろ頭打ちだ。その状況に風穴開けられる帝国時代の技術は、各国の垂涎すいぜんの的だろうな。当然どの国も抜け駆けを狙う。――クレメンタイン帝国は百年前に、周りの国に連合組まれて負けたからな。そのてつを踏みたくないんだろう」

「あ、なるほど」

 その辺りはアルヴィーも座学で習ったので知っている。納得して頷いた。そしてふと首を傾げる。

「……でも、技術が手に入るなら他の国と分け合うことになっても、って国もあるんじゃね?」

「否定はできんな。だが、どの道国同士が腹の探り合いをする状況に変わりはない。帝国時代の技術を手に入れりゃ、頭一つ抜けられるのは確実だろうしな」

 大戦から百年。大陸に存在する国の政情はほぼ安定していて、今や大陸の覇権を狙うなどという時代でもない。だが――失われたと思われていた、世界最高峰の魔法技術が手に入るとなれば、手を伸ばす国もあるだろう。

 それに――。

「……何か言いたいことでもあるのか? じっとこっち見て」

 居心地悪げに身じろぎするアルヴィーに、いや、と小さくかぶりを振って、ジェラルドは改めて彼の身の上を思う。

(……そういやこいつも、ある意味魔法技術の塊か)

 《擬竜兵ドラグーン計画》はレクレウス国内において行われたが、その中核にシア・ノルリッツ――レティーシャ・スーラ・クレメンタインがいたのなら、計画に密かに帝国時代の技術が使われていたとしてもおかしくはなかった。

(やっぱり、レドナで資料をごっそり持ち去られたのが痛かったな。あれが残ってりゃ、相当分析を進められたろうに)

 もっとも、向こうはそれを承知していたからこそ、その場に居合わせた人間を皆殺しにするという何とも血腥ちなまぐさい手段で、極力こちらに情報が渡らないようにしていたのだろうが。

 どうしたものかと思っていると、廊下の方からばたばたと足音が聞こえてきた。

「――アル!」

 ドアをノックするという最低限の礼儀もすっ飛ばし、勢い良く室内に飛び込んで来たのはやはりと言おうか、ルシエルだ。しかしさすがに、室内のジェラルドの姿に気付いて居住まいを正す。

「……申し訳ありません、見苦しいところをお見せしました」

「それは構わんが……よく部屋まで分かったな」

「ああ、それは――」

「僕が教えました」

 ひょこ、と戸口から顔を出したのはセリオだ。彼もジェラルド共々アルヴィーをこの施療院に突っ込んだ張本人なので、もちろん部屋も知っている。彼はルシエルに続いて部屋に入って来ると、

「それと、これ」

 そう言ってアルヴィーに差し出されたのは、千切れた鎖と三枚の金属の板。識別票ドックタグだ。

「これ……」

「あの後、現場検証してたら見つけてね」

「そっか、ありがと」

 受け取って、そっと握り締める。

「ただ、もう一枚だけがどうしても見当たらなかったんだけど……」

 そう言われて、アルヴィーは思い出した。

「ああ……そういや一枚、あいつに持ってかれたっけ」

 あの時確か、メリエが識別票ドックタグの中の一枚を拾い上げていた。タグの名前を確認してみると、欠けていたのはアルヴィー自身の名前だ。


 ――あたしはただ、アルヴィーと一緒にいたいだけだよ!!


 悲痛にすら聞こえたあの叫びが、まだ耳に残っている。

 かつてアルヴィーと相討ちになる形でたおれた彼女が、まるで彼の代わりのように持ち去った識別票ドックタグ


「……チェーン、直さないとな」

 そう呟いて、三枚の識別票ドックタグを握り締めた。そんなアルヴィーに、ルシエルが歩み寄る。

「――でも、知らせを聞いて驚いたよ。施療院に運ばれたなんて……何かあったの?」

 アルヴィーは大抵の怪我なら即座に治るし、そうでない怪我(今回のような)もポーションを使えば良い。わざわざ施療院に運ばれること自体が、すでに異常事態なのだ。ルシエルの疑問ももっともだった。

 だがそれを聞いたアルヴィーは、さっとあからさまに視線を逸らす。

「そ、そーだよなあ。大袈裟なんだからさ……」

 途端、ジェラルドが目の笑っていない笑いを浮かべて、アルヴィーの頭を鷲掴みにした。

「あ? おまえが傷口焼いて中途半端に塞ぎやがるから、わざわざ切開治療になったんだろうが、この阿呆が」

「いででででで!」

 ぎりぎりと頭を締め上げられて、アルヴィーが悲鳴をあげる。ルシエルの目がすうっと細くなった。

「……アル? どういうこと?」

「あ、いや、その」

 アイスブルーの据わった双眸に正面から見据えられ、うろうろと視線をさまよわせるアルヴィー。だが、何とか誤魔化せないかと思考を巡らせていたその努力は、ジェラルドによってあっさりぶち壊される。

「この馬鹿はな、腹から背中まで《竜爪ドラグ・クロー》で串刺しにされたのを、ポーションを出す間も惜しんで傷口を焼いて止血しやがってな。表面はともかく体内なかの傷はそのまま、しかもその状態で一戦交えやがった。おかげで失血でバタン、だ。半端に傷口塞いでやがるから、中の筋肉やら臓器やらの傷を修復するのが一苦労だったそうだぞ」

 結局、大急ぎで施療院に担ぎ込み、傷口を切開してポーションと治癒魔法で傷を修復することになった。医療器具で付けた傷はすぐに塞がろうとするため、施療院の医師たちも相当な苦労を強いられたそうだ。

「ふーん……」

 幼馴染の眼光がみるみる鋭くなり、アルヴィーは背筋が寒くなるのを感じた。

「……えーと、そういやポーションがあるのに何で治癒魔法使うんだ? ポーションだったらみんな持てるし、魔力使わずに済んでいいよな?」

 苦し紛れにそう疑問を呈せば、ルシエルはじとりと親友を見たが、ため息一つついて教えてくれる。

「ポーションは確かに手軽だけど、色々な材料を使ってるから、人によっては身体に合わないものもあって、かえって状態が悪化することもあるんだよ。だから治癒魔法の出番もある。うちの隊のユフィオなんかは、防御魔法もだけど治癒魔法にも適性が高い」

「へー……何か、ポーションで具合が悪くなるなんて、変な感じだな。そういうのがないポーションって、作れないのか?」

「そりゃ当然、どこの国もポーションを解析して、レシピを探ろうとはしてるよ。でも、正確なレシピはサングリアム公国がほとんど一手に握ってるし、ポーション自体もそこそこ適正な価格で流通してるから、わざわざ費用コストを掛けてレシピを詳細に分析する必要性もあまりない、って意見もある」

「……それ、そのサングリアムがポーション出し渋ったら、どの国も一気に困るんじゃね?」

「そうなったら、ファルレアンも含め他の国が黙ってないよ。軍事力ではサングリアムが圧倒的に不利だからね。サングリアムは、ポーションの流通を握ることで自分の身を守ってる部分もあるんだ」

 ルシエルの説明に、アルヴィーは感心して頷いた。

「そっかー……国にも色々あるんだな」

「そういうことだね。――ところで、まさかこれで誤魔化せたとか思ってないよね?」

 にっこり――だが目だけはマジな笑顔を向けられて、アルヴィーはこきりと固まった。

「……え」

施療院ここではさすがにお説教ってわけにはいかないけど、退院したら覚悟しててね」

「…………ハイ」

 アルヴィーはがくりと項垂うなだれて頷いた。だって怖い。

「ま、今出てったらそれはそれで周りがうるさいからな。少なくとも今日明日はここでほとぼり冷ましとけ。その間にこっちでも対策を打つ。――セリオ、クローネル、行くぞ」

「はい」

「じゃ、ちゃんと休むんだよ、アル」

「あ、ルシィ……悪いけど、フラムの世話、ユナ辺りに頼んどいてくれるか? 放りっぱなしになっちまう」

「分かった、伝えておくよ」

 フラムの世話を頼み自室の鍵を渡すと、アルヴィーは部屋を後にする三人を見送った。手にした三枚の識別票ドックタグに視線を落とす。

(“生き返らせる”……か)

 それは確かに、夢のような技術だろう。アルヴィー自身、両親を失っている。これが悪い夢ならばと、再び生きて目の前に現れてくれたならと、何度思ったか知れない。

 だが――それが人の踏み込んではならない領域であることも、アルヴィーは知っていた。


 失われた命は、二度と戻ることはない。

 たとえどれだけ嘆き、悔い、こいねがおうとも。


(……でも、シアはメリエを生き返らせた……メリエだけ、か? それにどうやって)

 彼女の遺体は塵のように崩れ落ちたと、ルシエルから聞いている。そしてそれは今、王立魔法技術研究所で厳重に保管されているはずだった。つまり、回収は不可能に近い。もちろん、向こうはかなり自由にあちこち転移できるようなので、絶対に不可能とは言い切れないが。

「……アルマヴルカン。どう思う?」

 こういうことは丸投げとばかりに、自分の中のアルマヴルカンに尋ねてみれば、

『さてな。ただ、塵となったむくろから生命体を作るのは不可能だろう。竜にも無理だぞ』

「だよな」

 ため息をついて、アルヴィーはぽすりとベッドに背中から倒れ込む。

(シアがどうにかして、メリエを生き返らせたんだとしても……またこの国(ファルレアン)に攻めて来るんなら、俺があいつを止めないと。もし、もう一度戦うことになっても)

 あのレドナでの戦いで、アルヴィーは親友ルシエルを守るために、僚友メリエを迎え撃った。あの時は反射的に迎撃してしまったが、次は違う。アルヴィー自身が守るべきものを選んで、そう決めたのだ。

 決意を込めて握り締めた三枚の識別票ドックタグが、かちりとかすかな音を立てた。



 ◇◇◇◇◇



 施療院を後に、ルシエルはジェラルドたち共々、騎士団本部に戻った。ジェラルドの執務室に入ると、居住まいを正して報告を始める。

「通達のありました例の剣を、セルジウィック侯爵邸にて処分致しました」

「ご苦労。――しかし、よりにもよっておまえの縁者の手に渡るとはな。経緯は掴めたか?」

「はい。といっても、クリストウェル氏の知る限りは、という注釈付きですが。当のクローネル伯夫人とディオニス氏は、未だまともに話ができる状態ではありませんので」

 縁者とはいえ、今のルシエルは騎士団所属の魔法騎士、つまり公人として話をしているので、しかつめらしく異母兄たちの名を呼ぶ。その堅苦しさに微笑ましいものを感じつつ、ジェラルドは執務机の向こうで椅子に背を預け腕を組んだ。

「なるほど。まあ、事件が侯爵家の邸内で片付いたのは、不幸中の幸いというところか。高位貴族の屋敷の敷地内なんぞ、ある意味治外法権だからな」

「……現在、セルジウィック侯とクローネル伯が、事態の収拾について話し合っておられることかと」

 今回の一件は、端的に言えば“身内の不始末”だ。ゆえに、事態を重く見た二家の当主は、内密に会合し善後策を講じることとなった。

「侯爵家や伯爵家の名前には、できるだけ傷を付けたくなかろうしな。だが、使用人に何人か犠牲者が出てるんだろう。完全に無傷というのは難しいぞ」

「ある程度は覚悟の上かと。――クローネル伯夫人にあの剣を売ったという、貴族の使用人とやらの素性が掴めれば最良なのですが。残念ながら、唯一接触したメイドは死亡したそうです」

 クリストウェルは、貴族の使用人と思しき男が侯爵邸のメイドと共謀し、剣を売り込もうとした場面を目撃してはいたが、その男の素性となるとさっぱりだ。彼と接触したメイドも死亡した今、糸がほぼ途切れてしまった。

「ただ、クリストウェル氏が相手の男を目撃しているそうなので、その証言を基に似顔絵を作っています。証言によると、手引きをしていたメイドはその男の主が、セルジウィック侯爵と不仲であることを知っていたと」

「……セルジウィック侯爵は《女王派》だったわね。つまり……」

 書類を処理する合間、パトリシアが独り言のように漏らした言葉に、ジェラルドが目を細める。まるで猫が獲物を狙うかのような表情だ。

「その使用人とやらの主は、《保守派》の可能性が高いってことだ」

「まったく……ギズレ元辺境伯といい、ろくなことをしないな……」

 ルシエルはため息をついた。

「ついこの間、レクレウスとの戦争が終わったばかりだっていうのに」

「だからこそ、だろう。今まではそれどころじゃなかったし、それこそギズレ元辺境伯の件もあったから、ほとぼりが冷めるまではおとなしくしてただけの話だろうぜ。これからの宮廷は伏魔殿ふくまでんだ」

「宮廷で耳を澄ませていると良いかもしれませんね。社交の場で今回の件を積極的に喧伝けんでんしようとしている家があれば、要注意ということで」

「今回のオークションの後には晩餐会や夜会もあるしな。おあつらえ向きと言えんこともないか」

「……ああ、貴族の情報収集って大体そういうとこですよね」

 この中では唯一平民のセリオが、納得したように頷いた。もっとも、貴族組も普段は社交より任務の方にいそしんでいるので、それほど社交界に馴染みが深いわけではない。

「とにかく、まずはその使用人らしい男の特定だ。何なら似顔絵持って《保守派》の家を虱潰しらみつぶしに当たってみるか。面が割れてると知れば、そいつかその主が、何か行動を起こすかもしれん」

 ジェラルドがにやにやと悪い笑みを浮かべた。うまく尻尾を出してくれれば儲けもの、というところだろう。

 報告を終え、破壊した剣も提出して、ルシエルは退室した。

 セルジウィック侯爵邸での一件の後、ジェラルドに一報を入れて警護のための小隊を寄越して貰った後、彼らに引き継ぎを済ませて本部に帰還したので、ルシエルの隊はこちらに戻って来ている。その本部でアルヴィーが施療院に担ぎ込まれた報を聞き、慌てて突貫したわけだが。ジェラルドに報告も済ませたので、取り立てて急ぎの用というものはなくなった。

 もう一度アルヴィーのところに顔を出そうかとも思ったが、異母兄たちとその母のことも気になったので、様子を尋ねるために再びセルジウィック侯爵邸を訪れることにする。部下たちにその旨を伝え、ルシエルは侯爵邸に向かった。

 ――侯爵邸では、平素の静けさを取り戻しつつも、やはりまだピリピリとした空気が漂っていた。門番に取り次ぎを頼めば、すぐさま飛ぶように走り去って屋敷の人間に取り次いでくれる。門は恭しく開かれ、ルシエルは中に招き入れられた。

「……やあ、ルシエル」

 出迎えたのは、どことなくやつれたように見えるクリストウェルだった。

「今、父上とお祖父様が、今回のことで話をしておられるよ。幸い、屋敷の中で事を収められたから……」

「幸いといっても、使用人が何人か死傷したということですが」

「君だって分かってるだろう。貴族やその家に仕える人間にとっては、家の名誉を守るのが一番大事だってことくらい。――被害に遭った使用人やその家族には、いくらか見舞金が出る。それで手打ちだ」

 クリストウェルの言葉は、ルシエルの胸の内にもやもやしたものを残すが、貴族――特に上級貴族の間では、平民の命は貴族のそれに比べれば軽いものだという考えが、未だ根強く残っている。隣国レクレウスほどあからさまではないものの、やはり身分による差別が見られるのは、この国でも同じだった。

 加えて、いかにクローネル伯爵家とセルジウィック侯爵家が姻戚関係にあるとはいえ、それぞれ独立した家門だ。互いの問題に口出しはできない。クローネル家の後継者となったとはいえ、ルシエルが関われる筋ではなかった。

「……ディオニス異母兄上あにうえとドロシア様のご様子は?」

 納得できなくともそれを押し殺し、ルシエルが尋ねると、クリストウェルは困ったような表情を浮かべた。

「兄上はあれから、まだ目を覚まさないよ。母上も、ぶつぶつ何かを呟いてばかりだし……僕はどうすればいいんだろうねえ」

 昔から兄の後ろに控え、流されるままに生きてきた彼は、本当にどうしたら良いのか分からないのだろう。それでも、彼は危機に陥った時、自身の判断でその危地から脱出し、母親を守りきった。

(……きっとこの人は、方法が分からないだけなんだ)

 貴族として、領主の息子として。何を求められ、何を為すべきなのか、彼は学ばずにきたのだろう。また、次男である彼は、それがある程度許される立場だった。

 だが、彼に家族を守るという意思があるのなら、そのままでは駄目だ。


「クリストウェル異母兄上あにうえ


 真っ直ぐに見据えるアイスブルーの瞳に、クリストウェルは息を呑む。

「……何だい」

「まずは、騎士団の捜査にご協力ください。今回の件、異母兄上あにうえが以前仰っていた通り、《保守派》が裏で糸を引いていた可能性があります。それを証明できれば、多少なりとも風当たりは和らぐかもしれません。とにかく、王家の臣として、国への忠誠を示してください」

「あ、ああ」

「それから……これからはおそらく、あなたが上手く立ち回らなければなりません。貴族としての立ち回り方を、学ばれた方が良いでしょう。もう、前に立ってくれる人はいない。あなたご自身が前面に立たなければ、兄上も母上も守れませんよ」

「…………!」

 クリストウェルは明らかにたじろいだようだった。だが、諦めたように目を伏せる。

「……君は厳しいなあ、ルシエル」

「ですが、そこから這い上がって来られる気概があれば、父上も後継者について再度ご一考されるかもしれませんが?」

「ああ、嫌だ嫌だ。そんな面倒なこと、真っ平だよ、僕は」

 ひらひらと手を振って、クリストウェルはくるりと回れ右した。

「――説明は終わったから、似顔絵の方はもうできてるはずだよ。僕が知ってることなんて微々たるものだろうけど、とにかく知る限りのことを話せば良いんだね?」

「ええ」

「それと、父上とお祖父様に話をしてみるよ。――今の母上と兄上には、館に戻るより、静かで誰の目もない環境が必要だと思う。どこか田舎へでも移れないか、駄目元で頼んでみよう」

 彼なりに心を決めたのであろう、顔付きを引き締めて、クリストウェルは廊下の奥へと消えていった。

(……あれなら、大丈夫か)

 今までは怠けていたようだが、本来クリストウェルは、頭脳や判断力はそれなり以上のものを持っているはずだ。その怠け癖に負けさえしなければ、もしかするとひとかどの人物になれるのかもしれない。


 ――“家族”という言葉に、真っ先に連想するのは今でも、母のロエナとアルヴィーだ。

 それでも、クリストウェルに対してはまた違った形で、何か繋がりが持てるような気がした。


 侯爵邸を辞したルシエルは、もうそのまま帰宅してしまおうと歩き始めた。するとそんな彼に、スッとさり気なく近付いて来た者がある。

「……クローネル伯爵家のルシエル様とお見受け致します」

「何だ、おまえは?」

 見たところ、どこかの使用人らしい出で立ちの男だ。つまりは平民である。さすがに、平民が貴族に身分をわきまえずに話しかけたので罰する、というような法はファルレアンにはないが、不躾ぶしつけであるのは確かだった。

「どこの家の者だ? せめて名の一つも名乗るのが礼儀だと思うが」

「申し訳ございません……ひらにご容赦の程を」

「名乗りもしない者を、相手にしようとは思わないな」

 そのまま不審者を振り切って立ち去ろうとしたルシエルに、その男は囁いてきた。


「――此度こたびの一件、まことに残念なことでございました。仮にも兄上様にお命を狙われたいきどおり、お察し致します」


「……おまえは……!?」

 絶句して思わず足を止めたルシエルをどう思ったのか、男は安心させるように笑みを浮かべる。

「腹違いとはいえ、血を分けた弟を手に掛けんとなさるなど、人道にもとる振る舞いでございましょう。――あなた様がお望みであれば、その鬱屈うっくつを晴らすお手伝いができるものと存じております」

 眼をすがめて、ルシエルはその男を見据えた。

「……話を聞こうか」

 その言葉に、男はにやりと唇を歪めた。



 ◇◇◇◇◇



「あ、俺、そろそろここ出てくから」

 その日出し抜けに言われた内容に、ユフレイアはわずかに目を見張った。

 ――ファルレアン王国とレクレウス王国との間に講和が結ばれ、レクレウス側の有力貴族として講和条約締結に立ち会った彼女が、自身の領地たるオルロワナ北方領に戻ってすぐ。まるで今日の天気の話でもするようにあっさりと、フィランがそう告げたのだ。

「講和結んで戦争も終わったし、姫様は公爵になって、議会とかいうのもできた。――もう、おれは要らないよ」

 確かに、フィランの言うことは事実だった。もうユフレイアが誰かにおびやかされるようなことは、おそらくあるまい。今の彼女は、国の北方を統べる国内有数の大貴族の一人であり、貴族議会にも強い影響力を持っている。おいそれと危害を加えられる存在ではなくなっているのだ。

 そしてそうなれば、“剣”の果たすべき役目はもはやなかった。

「そう、か……そうだな」

 もとより彼は、大陸を流離さすらい歩き剣の道を極めるのが本来の目的なのだ。ここに留まっているのは、いわば道草のようなものでしかない。

「分かった。長らく世話になった……もうつのか?」

「そうだね、今日明日くらいには」

「では、今までの報酬を用意させる」

「え? いいよ、ここじゃずいぶんいい生活させて貰ったしさ」

「そうはいかない、わたしの沽券こけんにも関わる話だ。――政権を引っ繰り返すまでの間、身の安全と密偵の心配をしなくて良かったことが、どれほど助けになったか分かっているのか?」

 フィランがここに留まってユフレイアの護衛を務め、他の貴族たちから送り込まれて来た密偵を片っ端から引っ捕らえたおかげで、情報漏洩の心配もなく、ナイジェルの後方支援を円滑に行うことができた。あの期間に情報が漏れていれば、今回の成功はなかったかもしれないのだ。

 金銭への執着がないフィランに、路銀にでもしろと報酬を受け取ることを納得させ、ユフレイアはすぐにその旨を手配する。

 荷物はそうないが、それなりに支度があるというフィランと別れ、ユフレイアは執務室に戻った。現在は領主としての仕事の他、貴族議会の方から内々に意見を求められることもあり、以前にも増して忙しい。それでも、自身の存在が求められているという状況は、彼女を充足させた。

 もう、いないものとして扱われていた以前とは違う。ユフレイアの存在は中央の貴族たちにも認められ、よしみを結ぼうと近付いて来る者も、以前とは比べ物にならないほどに増えた。中には、“自分の子息を婿に”と見合い話を持ち込む者もいるほどだ。

 レクレウス王国の貴族社会では、女性は二十歳前の結婚も珍しくない。そういった意味では、ユフレイアは地位と資産を持ち合わせる上に適齢期でもある。貴族たちにとってはさぞかし、狙い甲斐のある獲物に見えることだろう。

(しばらくは多忙を理由に断れるだろうが……情勢が落ち着いてくると、それも難しくなるな)

 鬱陶しい、と妙齢の女性らしからぬ悩みにため息をつく。

(むしろ、多少()き遅れても、何の問題もないんだがな。大抵の貴族は、オルロワナの資源が目当てだし。わたしの配偶者に納まって、上手いこと実家に有利な取引をさせようというはらだろう。――そういうことを考えずに済む相手なら、やぶさかでもないんだが)

 後継者を作らなければならないことは事実なので、独身を貫くという選択肢は彼女にはない。ただの領主であったなら養子という手もあっただろうが、ユフレイアは妖精族と友誼ゆうぎを結んだ高位元素魔法士ハイエレメンタラーだ。その血を残さないというのはまず許されまい。

 だが今のところ、彼女の眼鏡に適うような相手はまだ現れていなかった。

 もっとも、彼女は多分に相手を選べる立場だ。あと数年ほどは焦る必要もない。

(やはり、一緒にいても気を張らずに済む相手が良いな。腕が立てばなお良い。変な欲もなくて、女を下に見ていないような……)

 望ましい条件をつらつらと考えたところで、それらがぴたりと当て嵌まる人物が身近にいることにふと思い当たり、ユフレイアは一瞬思考を止めた後、思い切り狼狽した。

(……いや、フィランは無理だ! ここに留めるわけにはいかない。――それに、目指すものがある男だ)

 たとえ茨の道であろうとも、フィランがその歩みを止めることはないのだろう。魚が陸上で生きられないように、彼はその道を外れられず、剣を握り戦い続ける。この北の地を守り続けることを第一とするユフレイアとでは、どうあっても相容あいいれない。

 かぶりを振ってその想像を頭から飛ばすと、ユフレイアは頭を切り換え、机の上の書類を少しでも減らすことにした。


 ――フィランが彼女のもとから旅立ったのは、その言の通り翌日だった。


「世話になったな」

「こっちこそ、美味いメシ食わせて貰ったし。姫様も元気でやんなよ。じゃ」

 彼らしい簡素な別れの言葉を残して、フィランはまるでその辺に散歩にでも行くような足どりで、あっという間に見えなくなってしまった。

「……行ったか」

 しばしそれを見送って、ユフレイアはきびすを返す。彼女には他にも、やるべきことが山のようにあるのだから。やがてそれらに埋もれて、この名残惜しさも消えていくのだろう。

 歯切れの良い足音だけを残し、ユフレイアもまた、迷いのない足どりで歩き始めた。



 ◇◇◇◇◇



 水音だけが響く静謐せいひつな空間。ぱしゃん、とかすかに乱れた水音に、オルセルは顔を上げた。

 《薔薇宮ローズ・パレス》地下の研究施設。現在の持ち場であるそこで、彼は主たるレティーシャから与えられた書物を読み、知識を蓄えていた。まだまだ道半ばではあるが、時にはレティーシャその人がふらりと現れて、内容を分かりやすく解説してくれることもあるため、オルセルの方も必死になってそれらの知識を取り込もうと努力している。

 そしてその勉強の傍ら、オルセルにはレティーシャから、とある仕事を任されていた。

 ここに常駐するようになって以来、愛用している肘掛け椅子から立ち上がり、用意してあった籠を手に、もう片方の手は壁に埋め込まれた宝珠に触れる。途端、広大な施設の各所で生まれる、冷ややかで柔らかい青みを帯びた光。

 靴音を響かせながら、オルセルは施設の深部に向かって歩いて行く。あちらこちらから聞こえる単調な水音と、それを受ける棺のような水槽は、普通の少年であれば尻込みしそうな光景だったが、オルセルにしてみればもう見慣れたものだった。

 しばらく歩き、一つの水槽の少し手前で、オルセルは足を止めた。

「……メリエさん。その……起きてますか?」

 すると、

「……起きてる」

 不機嫌そうな声が、水音に紛れて聞こえてきた。努めて水槽の中を見ないようにしながら、オルセルは籠を足元に置く。

「ええと、着替え、ここに置いておくので……あ、用意したのは侍女の人たちなので、心配しないでください」

「ああ、あの気持ち悪い連中ね」

 身も蓋もない形容に、だがオルセルも否定できずに黙るしかない。

 宮殿内を闊歩かっぽし、細々と立ち働く使用人たちは、だが揃いも揃ってどこか作りものめいた雰囲気を纏っている。見た目も似たような顔ばかりだ。妹のミイカなどははっきりと気味悪がっていた。対してゼーヴハヤルはそもそも、彼らの顔などさほど気にしてもいないようだが。


 ――そんな二人とは違い、オルセルはこの宮殿の人々について、ほんの少しだけ詳しく知っている。


「……じゃ、僕はもう戻りますね」

 踵を返し、定位置である出入口脇のスペースに戻る――そうしようとした時、背後で大きな水音。そして次の瞬間、巻き起こった熱に背中を撫でられ、オルセルは思わず悲鳴をあげた。

「うわあ!?」

「振り向いたら消し炭にするからね」

 何事かと振り返りかけたのを物騒な一言で止められ、さりとてこのまま何事もなかったように立ち去りもできず、オルセルはその場に立ち尽くすしかない。

「――もういいわよ」

 しばしの後、許しが出たので振り向くと、そこにはいつもの服装に着替え終えたメリエが立っている。露出した左肩も綺麗なもので、帰還して来た時の凄惨せいさんな傷は、すでに跡形もなかった。

「にしても、いつ見ても辛気臭いとこよねー、ここ。あんたさ、気味悪くなんないの」

「慣れてしまえばあんまり。――それに、一度死にかければ、怖いものもそんなになくなりますから」

「それもそっか」

 メリエも頷いた。彼女にも、覚えのあることだったからだ。

「着替えありがと。じゃあね」

 そう言い置いて、メリエはつかつかと施設を出て行った。オルセルも定位置に戻りかけ、ふと手近な水槽に目を落とす。

 揺らぐ水面の下で目を閉じるのは、二十歳ほどに見えるうら若い女性だ。一糸纏わぬ姿にそっと目を逸らしながら、オルセルはその存在に思いを馳せる。


 ――人造人間ホムンクルス


 母親の腹の中ではなく、フラスコの中で生み出される命。だがレティーシャは、本来フラスコの中でしか生きられないはずの人造人間ホムンクルスに、錬金術を用いて人間と変わらぬ体躯たいくや身体能力を与えることに成功したのだ。

 宮殿で立ち働く者たちは、大部分がこの人造人間ホムンクルスである。ただし、彼らは生まれながらに膨大な知識を持つも、自身が率先して何かをやったり、判断を下したりという能力には乏しかった。ゆえにレティーシャは、彼らに指示を下せる管理者として、人間であるオルセルたちを積極的に受け入れているのだという。

(身体は大人でも、経験が少ないから……ってことかな?)

 オルセルなどはそう思っているのだが、結局のところ真実は分からない。まだ勉強を始めたばかりの彼の知識では、理解できないことが多過ぎるのだから。

(その辺りも分かるようになれば、きっと僕もここで役に立てる。――もっと頑張らないと)

 改めてそう心に決めると、オルセルは少しでも多くの知識を得るため、そして施設監視の仕事に戻るために歩き出した。


「――シア!」


 一方、施設を後にしたメリエは、宮殿内を歩き回り、中庭で優雅にティータイムを楽しんでいるレティーシャを見つけて声をあげた。

「あら、メリエ。傷の方はもうよろしいの?」

「これくらい、どうってことないわよ。それより、何であの時邪魔したの!? アルヴィーを連れて来て良いって言ったじゃない!」

 詰め寄るメリエに、レティーシャではなく、給仕役を務めていたベアトリスがまなじりを吊り上げた。

「あなたこそ、姫様がおくつろぎのところを邪魔した挙句に、その口の利き方は何!?」

「前線に出ないお嬢様は黙ってなさいよ!」

「何ですって――」

 女の戦いが勃発ぼっぱつしようとしたところで、鈴が鳴るような笑い声がそれを断ち切る。

「まあ、二人とも、仲がよろしいこと」

「どこが!?」

「誤解です!」

 タイミングもぴったりに反論する二人に、レティーシャはまたしてもころころと笑った。

「ちょっと、笑ってないで説明してよ、シア!」

「ええ、もちろんですわ、メリエ」

 レティーシャは微笑むと、手にしたティーカップを置いてテーブルの対面の席を勧める。

「ですが、まずはお座りなさい」

「……これでいいの?」

 不承不承ながら椅子を引いて腰掛けたメリエに、レティーシャは満足げに頷く。

「ええ。――ベアトリス、彼女の分のお茶もお願いできますかしら?」

「……畏まりました」

 こちらも不服げな雰囲気ではあったが、さすがに顔には出さずに、ベアトリスは香り高い紅茶をカップに注ぎ、メリエの前に置く。そしてすぐに主の後ろに戻って控えた。

「……で? あの時邪魔したのは何で?」

 紅茶に口も付けずに口火を切るメリエに、レティーシャは聞き分けのない子供を見るような表情で苦笑した。

「だって、あの時はメリエが大怪我を負っていましたでしょう? あれ以上戦わせて、女の子の身体に傷を残すわけには参りませんわ。通常の武器と違って、《竜爪( ドラグ・クロー)》や竜素材で作られた武器での傷は、即時回復は致しませんのよ?」

「でも! アルヴィーだって怪我してたし、あのまま戦ってればあたしが勝って――」

「メリエ」

 さほど強くもない口調で名を呼ばれ、だがその声にメリエは言葉を切る。

「……何よ」

「たとえ強引に連れて来たとしても、あの子(アルヴィー)はわたくしたちに膝を折りませんわ。あの時、それが分かりました。――あの子はもうすでに、守るべきものを定めてしまっています」

 アルヴィーはその心のうちに、折れることのない一本の芯を見出している。それがある限り、彼がこちら側になびくことはないだろう。

 あの時レティーシャたちを真っ直ぐに見据えた、炎を内包したような朱金の双眸。その光の静かな強さに、レティーシャは悟ったのだ。


 ――なぜならそれは、帝国が失われようとしていたその時、彼女の騎士が持っていた眼差しと同じだった。

 自らの一命に代えてでも、何かを守り通そうとする覚悟の眼。


 過ぎ去った時にほんの少し、彼女が思いを馳せた時、椅子を蹴立てる音が響いた。

「分かった。――じゃあ、それが無くなればいいのよね?」

 爛々(らんらん)と菫色の双眸を光らせ、メリエは虚ろな笑みを浮かべる。左手の爪を立てたテーブルの天板が、ばきりと突き破られた。

 テーブルに穴を開けた左手を引くと、彼女は身を翻して歩き去る。紅茶は結局、手付かずのままだった。

「あらあら……ベアトリスのお茶は美味しいのに」

「……勿体無いお言葉です、姫様」

 メリエの気迫と怪力に、反射的に息を詰めていたベアトリスが、大きく息をついてそれだけを喉から絞り出した。そんな彼女に、レティーシャは微笑みかける。

「せっかく淹れていただいたのに、ごめんなさいね、ベアトリス」

「いいえ、そんな」

 かぶりを振り、ベアトリスは残された紅茶を片付け始める。レティーシャはふと、空を仰いだ。


(……それにしても、ファルレアンでは思いがけないものを見つけたものね。とうの昔に、朽ちていると思っていたけれど……)


「――姫様」

 またしても過去に飛びそうになった思考を、ベアトリスの声が引き戻す。

「何か? ベアトリス」

「ご気分が優れないようなら、お部屋にお戻りになられた方が……」

「いいえ、そうではありませんわ。少し、昔のことを思い出していただけですもの。――それより、新しいお茶をいただけますかしら?」

 カップを優雅に取り上げ、レティーシャは嫣然えんぜんと笑みを浮かべた。


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