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片翼のドラグーン  作者: 八月 あやの
第七章 流転の時
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第54話 新たな一歩

 オークションで賑わう王都ソーマからは数百ケイルほど離れた、レクレウスとファルレアンの国境近くに位置する小さな街・ラーファム。大陸環状貿易路グレート・ロードから南部街道への入口近くに位置するこの街では、数日前からどこか異様な緊張感が漂っていた。

 まあそれも無理はあるまいと、ナイジェルは思う。


 何しろこの街で、講和のための条約が正式に交わされるのだから。


 この日のために、ファルレアン側からも特使がすでにラーファムに入っている。今回の件に関して主に動いてきた、ファルレアン王国外務副大臣ヨシュア・ヴァン・ラファティー伯爵を始め、数名のファルレアン側外交官とその護衛だ。対するレクレウス側は、新たに即位したまだ若過ぎる新王に全権を委任されたという形の――実際は王の方が操り人形であるのだが――貴族議会代表のナイジェルと、同じく議会に属する貴族数名が、調印式に出席する。

 そして、もう一人。


「――ああ、クィンラム公。ここにいたか」


 カツン、と床を踏む硬質な音。振り返ったナイジェルは、そこに立っていた人物ににこやかな笑みを作った。

「これは、殿下。今日は一段とお美しい」

「……わざとか、公? わたしはもう王室の人間じゃない、けいと同じく公爵位だ」

 ため息をついて眉をひそめたのは、臣籍にくだり“オルロワナ公爵”となったユフレイアだ。鋼色の髪は普段より数段複雑に結い上げられ、その虹彩異色ヘテロクロミアの瞳と同色の宝玉をあしらった髪飾りで飾られている。身に纏う鮮やかな蒼いドレスは、装飾こそ少ないながらも優美な曲線を多用し、落ち着いた品格をかもし出していた。

 彼女は銀糸で飾られた靴を高らかに鳴らし、ナイジェルのもとまで歩み寄る。

「それにしても、貴族議会に名を連ねていないわたしまで、この場に呼ばれるとはな」

「何をおっしゃいます。オルロワナ公こそ、これからの我が国に必要な人材でありましょうに」

 ナイジェルの微笑に、ユフレイアは軽く肩を竦めた。

「分かっている。――“抑え”としての役割はきちんと果たすさ」

 そして彼女は、軽やかに身をひるがえす。

「……ともあれ、主役がいなければ始まるまい。思索にふけるのも良いが、早めに戻られよ、クィンラム公」

「ええ、そろそろ戻ろうかと思っていたところです。――よろしければ、控室までエスコート致しましょうか、オルロワナ公?」

「結構だ。そういうことはしとやかな令嬢にでもして差し上げるが良い。卿もまだ独り身だ、今をときめく貴族議会の代表ともなれば、引く手数多だろう」

「戦後処理を一手に引き受けざるを得ない、貧乏くじですよ」

「何を言う。それを好き好んで引きに行っておきながら」

 ユフレイアに笑われ、ナイジェルも苦笑を形作る。

 確かに、今のこの状況は彼の望みから始まったものだ。王家の影であった身から、光のもとへ。自領を王家の盾にされないため、奪われないための反抗。そしてそれはいつしか、政治に手が届かなかった者たちが、自らで国を動かす力を得るためのものになった。

 かつては望むべくもなかった、国の舵取りという大役に、否が応にも胸が高鳴る。もちろん、貴族として領地を持つ以上、その地を治めるという意味では、彼もそれなりの期間“まつりごと”を行ってきたわけではあるが、自身の領地と国一つではやはり規模が違うのだ。国政に関わるということは、このレクレウス一国のみならず、巡り巡ってこの大陸全土へも影響を与えることすらあるのだから。

「ふ――やはり、わたしにも野心はあったということでしょうか。この手で一国を、果てはこの大陸を動かすこともあるやもしれぬと思うと、どうにも気がはやって仕方がない」

「そういうものか。女であるわたしには、いまいち分かりかねるが。わたしは今の領地だけで充分だ。――それにしても男というものは、身分に関わらず、広い世界を望むものなのだな」

 ユフレイアの言葉には何だかやけに実感がこもっていて、ナイジェルはふと引っ掛かる。

「……どなたかお心当たりが? オルロワナ公」

 尋ねると、ユフレイアは我に返ったようにわずかに瞠目どうもくし、そして苦笑と共にかぶりを振った。

「……いや、戯言ざれごとだ。忘れてくれ」

「公がそう仰るならば」

 もとより、女性の事情を深く勘繰るものではない。ナイジェルは早々に、先ほどの一幕を忘れることにした。

 調印式は、ラーファムの中心部にある王家の離宮で行われることとなっている。そもそもここラーファムが講和条約締結の舞台に選ばれたのは、両国の王都の間のほぼ中間地点に当たり、なおかつ賓客ひんきゃくを迎える設備が整っているからだ。国境戦線の主戦場に程近い立地ではあったが、街道からわずかに外れており、加えて規模も小さく戦略上ほぼ無意味な場所であったことから、物資の徴用や部隊の通過がいくらかあっただけで、戦争の影響をあまり受けずに済んだ、まことに幸運な街であった。

 この離宮も、数代前の王が“静かな田舎で何もかも忘れてゆっくり隠居したい”というだけの理由で建てさせた離宮である。それがこんな形で活用されることになるとは、かの王も夢にも思わなかっただろう。

 本来、こうした二国間の紛争では、講和条約は仲介を果たすなどした中立的立場の第三国で締結されることが多い。だが今回は、国境付近のみが主戦場になった比較的小規模の紛争であり、また仲介役となった第三国などもなかったため、紛争当事国であるレクレウスの領内で締結されることとなったのである。

 離宮の中心である“春の間”には、今日のために特別に席がしつらえられ、文官たちが忙しく行き来していた。準備ももうほとんど終わり、もうしばらくすれば調印式が始まる予定となっている。二人は部屋の入口からそれを一瞥いちべつし、レクレウス側に割り当てられた控室へと戻って行った。


 そして調印式は予定通り、つつがなくり行われた。


 レクレウス側代表としてナイジェル、ファルレアン側代表としてヨシュアが、条約の文書に署名する。記された内容は条約締結以降の互いの国境の不可侵、賠償金、ファルレアンからレクレウスへの輸入物品への関税優遇、逆にレクレウスからファルレアンへの資源及び技術の提供などだ。そもそもの開戦理由の一つとなった、越境犯罪の取扱いについても盛り込まれた。

 署名された二部の文書は、一部ずつそれぞれの国で保管される。仮にも国家間で締結された条約である以上、破ればペナルティが課せられることになるが、万が一にもそうした事態が起きぬよう、この文書の存在そのものが一種の抑止力としての役割を果たすのだ。

 署名が終わり、文書が一部ずつそれぞれの国の文官の手によって丁重に運ばれていく。これは特別製かつ専用の文書箱に入れられ、すぐに各王都に運ばれる手筈だった。

「――やれやれ、これで肩の荷が下りましたね、クィンラム公」

 署名を終えたペンを、傍らの文官に手渡しながら、ヨシュアが親しげに声をかけてくる。ナイジェルもそれにならいながら、

「まったくです。――まあこちらは、これからもやることが山積みですよ」

「それは仕方がない。戦争というものは、始めるのはさほど難しくもないが、終わらせるのは大変なものです」

「ええ、今回のことで思い知りました」

 どちらの国も、開戦を決めた当時の王はすでにく、子の代になってようやく決着が付いた。両国は戦争によってそれぞれ小さからぬ傷を負い、これから長い時間を掛けてそれを癒していくのだ。特にレクレウス側は、戦争の後始末に加えて、新しく生まれ変わる国の立て直しをも行わなければならない。

 だがそれでも、滅びに向かっていると知りながら手出しもできなかった以前よりは、ずっとましな道であることは確かだった。

「――では、ようやく訪れた平和を言祝ことほぎつつ、しばしくつろぐことと致しましょう。ちょうど昼時となりましたし、別室に食事と飲み物を用意させてあります」

「それは有難い。是非、ご相伴しょうばんあずかりましょう」

 ヨシュアが笑みを浮かべる。

 その時、“春の間”に文官が一人駆け込んで来た。

「ク、クィンラム公爵閣下!」

「何事だ、騒々しい」

「そ、それが……申し訳ありません、少々お耳を」

 ただならぬ様子に、ナイジェルはヨシュアに非礼を詫び、少し距離を取る。そこで文官からもたらされた知らせに、その表情が色を変えた。

「――両国の護衛が、小競り合いだと……!?」

「は、はい。ですので、すぐにお取り成しを、と……」

「分かった、すぐに行こう」

 頷き、ナイジェルはヨシュアに向き直る。

「――失礼、ラファティー伯。急用ができましたので、どうぞ昼餐ちゅうさん会の会場の方へ」

「いえ、それには及びません、クィンラム公。――今しがたわたしのもとにも、おそらく同じ知らせが参りました」

 こちらも表情を硬くし、ヨシュアはその手に止まった白い鳥を示す。《伝令( メッセンジャー)》だ。なるほど、そういえばレクレウスが魔動機器大国なら、ファルレアンは魔法技術大国と呼ぶべき国であったと、ナイジェルも思い出す。

「今回の特使団の責任者はわたしになります。であれば、事の収拾にもわたしが当たらねば」

「では、ご一緒に」

 二人はすぐに館の外に出た。

 ――館の周囲は庭園となっており、芝生の上に石畳の道が規則的に走る合間、繊細な設計で配された低木や花壇がアクセントとなっている。両国から護衛として出された近衛騎士と近衛兵は、それぞれ配置を決められ、万が一にも外からの侵入者などないよう警戒していたのだが、当のその護衛たちの間でいさかいが起こったのだという。

「まったく……それを防ぐために、両国の護衛の区域を厳格に区切ったというのに」

 ぼやいたところで、起こってしまったものは仕方がない。ナイジェルは取り急ぎ、騒ぎが起こっている一角へと向かった。


「何をやっている!?」


 互いに剣を向け合っているそれぞれの国の騎士と兵を、固唾を呑んで見守っていた周囲の人間たちは、両国の高位貴族の登場に一斉にひざまずいた。

「し、失礼致しました、クィンラム公爵閣下!」

「副大臣閣下、お見苦しいところを――」

「うろたえるな。それより、一体どうなっている」

 ヨシュアの問いに、ファルレアン側の近衛騎士がおずおずと、

「そ、それが……この度護衛に選ばれました者の中に、今回の戦争で縁者を亡くした者がおりまして。間の悪いことにレクレウス側にも、同じ境遇の者がいたようで、しかも互いの配置が隣り合っていたのです。最初は世間話程度だったのですが、いつの間にか売り言葉に買い言葉の状態になりまして……」

「この状況に、というわけか。――申し訳ない、クィンラム公。出来うる限り、今回の戦争で身内を亡くした者は護衛から外したはずだったのですが、どうやら漏れがあったようです」

「それはお互い様でしょう、ラファティー伯。しかし、どうしたものか……」

 ナイジェルは唸った。何とか両名を取り押さえて、諍いの件は闇に葬り去りたいところだが、当の本人たちはすっかり頭に血が上っているようだ。取り押さえる時に剣でも振り回されて被害が出れば、さすがに完全になかったことに、というのは難しいだろう。

 ナイジェルが考えあぐねたその時。


「――どうした、騒がしい」


 背後から聞こえた声に、クィンラムは振り返った。

「オルロワナ公……! ここは女性が足を向けられるところではありません、お戻りを」

「固いことを言うな。それに、この程度で卒倒するようなか弱い乙女ではないのでな、わたしは」

 ナイジェルの諫言かんげんをばっさりと切って捨てたユフレイアは、騒ぎの中心を見てため息をついた。

「まったく、近衛ともあろう者が、あれほど喧嘩っ早くてどうする。――とにかく、あれらを無傷で取り押さえれば良いのだろう?」

 彼女はこともなげにそう言って、すっと虚空に手を差し伸べた。


「――杖よ」


 すると、彼女の傍らの地面が伸び上がり、見る間に銀の輝きも鮮やかな杖となって、彼女の手に納まった。

「なっ――!」

 周囲が絶句するのにも構わず、ユフレイアは杖の石突きでとん、と地面を叩く。


 次の瞬間、人垣の中心で互いに剣を向け合っていた二人の足下がうごめき、あっという間に鎖と化して、その身体を縛り上げた。


「こ、これはっ……!?」

「何だ、何が起こった!?」


 慌てる二人に、ユフレイアが半ば呆れたような声を投げる。

「おまえたち、ここをどこだと心得ている。両国の平和をはなからくじく気か」

「平和など……! こいつらに、一体どれだけの民が殺されたと!」

「それはこちらの台詞だ!」

 なおもわめき合う二人に、ユフレイアは今度こそ呆れたようだった。


「そうか。――ならばもう少し頭を冷やせ!」


 ユフレイアの一喝とほぼ同時。

 二人の周囲の地面がいきなり伸び上がり、あっという間に高さ二十メイルはあろうかという土の柱となった。


『うわあああああっ!?』


 ついさっきまで角突き合わせていた二人が、息もぴったりに絶叫する。何しろ、自分たちを乗せたまま、地面がいきなり急上昇を始めたのだ。悲鳴の一つも出ようというものである。

 唖然としてそれを見上げるナイジェル始め周囲の人々に、ユフレイアは肩をすくめた。

「しばらく放っておけ。その内頭に上った血も下がるだろう」

「こ、これは……」

 呆然と土の柱を見上げながら、ヨシュアが呟いた。

「これほどの魔法を無詠唱で……まさか、高位元素魔法士ハイエレメンタラー

「ああ……そういえば自己紹介が遅れたな。非礼をお詫びする」

 ユフレイアは杖を片手に、ヨシュアに向き直った。

「わたしはユフレイア・アシェル・オルロワナ。国の北端、オルロワナの地を治め、公爵位をいただいている。――そして、地の高位元素魔法士ハイエレメンタラーだ」

「もしや……閣下は王室の」

 さすがに外交の専門家というところか、外には隠されていたユフレイアの存在も、彼は知っているようだった。ユフレイアは苦笑する。

「臣籍に降りたからな。今はクィンラム公と同じく王の臣下である身だ」

「左様ですか……お目に掛かれて光栄です」

 一礼し、ヨシュアはふと、その緑灰色の双眸をきらりと光らせた。

「失礼ながら、一つお尋ねしたいことが。――そのお力をもってすれば、我々ファルレアンを押し返すことも不可能ではなかったでしょう。なぜ今まで、その力を眠らせておられたのです?」

「そうして、さらに両国の将兵のむくろを積み上げろと?」

 ヨシュアの探るような問いを、ユフレイアは短く切り捨てた。

「確かに、わたしが出れば戦況はもう少し違ったものになったかもしれないがな。そもそも、わたしの“友”は戦を好まない。それに、王家もわたしが表に出るようなことは、決して許さなかった。――何より、戦力が多少拮抗(きっこう)したところで、それは戦争を長引かせるだけだ。それならいっそ、断ち切ってしまった方が良い。たとえ、我が国の敗北という形でも」

 そよいだ風に、ユフレイアはその虹彩異色ヘテロクロミアの瞳を少し細める。


「国が敗れようとも、民の命が保たれるならば、またそこから国は力を取り戻す。――違うか?」


 国民の血と命で勝利を買うよりも、敗北によって救われる命を取る。ひいてはそれが、国の命脈を長らえる道だと知っているから。

 今この瞬間に、敗戦国のそしりを受けようとも――すべては数十年、数百年後の未来まで、この国が途絶えず在るために。


「わたしが出なかったことで失われた命があるというなら、その糾弾きゅうだんは甘んじて受けよう。それが筋というものだ。だがその命を切り捨ててでも、より多くを生かせる道を選ぶ……それもまた、領地領民を預かる者の務めだと、わたしは思う」

 真っ直ぐに自分を見つめる金と紫の眼差しを、ヨシュアは好ましく見返した。

「なるほど。お覚悟、確かにうけたまわりました」

 ユフレイアはその言葉に微笑をひらめかせ、遥か頭上で仕置き真っ最中の二人に声を投げた。

「――どうだ、頭は冷えたか?」

『は、はいっ!!』

「……あの二人、実は気が合うんじゃないのか」

 またしてもぴったり揃った返答に笑いを零しながら、ユフレイアは再び杖の石突きで地面を叩く。すると先刻の光景を巻き戻すように、土の柱はするすると地面に吸い込まれていった。二人をいましめる鎖も砕けて地に還り、後には呆然とへたり込む二人の青年が残される。

「しばらく、どこかの部屋にでも叩き込んでおけ。――では、わたしは先に失礼する。公らも中に戻ると良い。せっかくの昼餐が冷めてしまう」

 そう言い置いて、ユフレイアが杖を手放すと、それもあっという間に地面に呑み込まれてしまう。彼女はそのまま館に戻ろうとしたが、ふと立ち止まった。

「――ああ、そうだ」

 そして、ドレスを翻しヨシュアに向き直る。


努々(ゆめゆめ)、条約を破り再び開戦しようなどとは考え召されるな。――守るための戦いならば、わたしは受けて立つぞ?」


 不敵な笑みを残し、ユフレイアは今度こそその場を後にする。ヨシュアは肩を竦めた。

「……釘を刺されましたね。――それにしても、レクレウスにあれほど勇ましい姫がおられたとは」

「不遇をかこっておられた方ですが、良くご領地を治めておられますよ。あの方を、その辺の貴族の姫君と一緒にするのは、お止めになった方が良い」

「肝に銘じましょう」

 頷いて、ヨシュアはナイジェルを促す。

「……では、我々も戻ると致しましょうか」

「ええ」

 後のことは部下たちに任せることにして、二人も館に向かって歩き出した。



 ◇◇◇◇◇



 街の浮き立つような空気も届かない、閑静な貴族街の一画、セルジウィック侯爵邸。その裏門を、呼び付けられた服飾店の一行と、商品を売り込みに来たという宝飾店の人間が潜ったのは、太陽がそろそろ中天に駆け上ろうという頃だった。

「――それでは、お品の方が出来上がり次第、こちらにお届けに参上致します」

「ええ、よろしく頼みます」

 採寸も済み、店の人間とドロシア付きのメイドとの間で、話はとどこおりなく付いた。サンプルとして持参した大量の布地を片付けて箱に詰め直し、彼らはそそくさと屋敷を後にする。

 ――宝飾店の人間を名乗った男がいつの間にか姿を消していたことなど、彼らは気にも留めなかった。


「……それが、例の剣なの?」

「ああ。ちょっとしたもんだぞ」


 屋敷の中、人通りのほとんどない場所で、密かに組んでいるメイドと落ち合った男はニヤリと唇を歪めた。

 男は宝飾店を名乗り服飾店の一行に素知らぬ顔をして追随ついずいすると、屋敷に入るやそっと離れて、メイドと落ち合ったのだ。メイドはさすがと言うべきか、邸内でも人目のない場所を熟知しており、その密談を見咎められることはなかった。

(それにしても、服飾店の連中と行き会えたのは運が良かったな。何しろこちとら、商人の御用伺いのやり方なんて知らないからな)

 内心でほくそ笑みつつ、男はメイドの案内でドロシアのもとに向かう。


「――奥様。例の件で、お目通りを願いたいと申します者が参っております」

「……通しなさい」


 ドロシアに与えられている部屋の手前で男を待たせ、メイドがそっと入室の許可を乞うと、ややあって返事があった。メイドは男を呼び寄せると、扉を開けて入室する。

 室内には、どこかピリピリした雰囲気を漂わせるドロシア、ただ一人だった。彼女はメイドたちに当たり散らすので、メイドたちの方からもうとまれており、呼ばれない限りメイドたちがこの部屋に足を踏み入れることはない。人払いして貰う手間が省けたというべきか。

 ともあれ、男は跪きこうべを垂れる。

「――お目通りをお許しいただき、まことに有難く存じます。本日は、我が所蔵の品を奥様がご所望とのことで、取り急ぎせ参じましてございます」

 男がうやうやしく差し出した木箱を、ドロシアは食い入るように見つめる。

「……それが、不可思議な力を持つという?」

「はい。持つ者の望みを叶える剣にございます。何でもかつては、さるやんごとなきお方の所有物であったものだそうですが」

 男は立ち上がって木箱をテーブルに置くと封を解き、蓋を開ける。その中に納められた、宝玉と繊細な細工で飾られた宝剣に、女性であるドロシアやメイドさえも、一瞬目を奪われた。

「まあ……」

 メイドが感嘆の声を漏らす。それほどに見事な代物だった。

「この剣は、持ち主の望みを叶えは致しますが、それは持ち主ごとにただ一度だけとのことですので、くれぐれも慎重にお使いください。また、願う際には必ず素手で剣をお持ちになり、強くこいねがうことが必要となります。――わたくしめはもう望みを叶えましたゆえ……次は奥様にお役立ていただければと」

「そう……それは殊勝しゅしょうな心がけだこと」

 ドロシアは優雅に口元を扇子で隠したが、その顔が笑みに歪んでいるのは目元を見れば分かった。

「……それで、おまえはこの剣にいくらの値を付けているのかしら」

「は……実はこれを元手に、商売の方も手を広げようと考えておりまして。二百万ディーナばかり頂戴できれば、充分でございます。――無論、額が額でございますし、すぐにとは申しません。商人もそれだけの額面を即金で支払うことは滅多にございませんので。十日ほど後に、またお伺い致します」

「そう」

 ドロシアは悠然と頷くが、内心では胸を撫で下ろしていた。さすがに、二百万ディーナもの大金を自由に動かす力は、ドロシアにはない。だが十日もあれば、何とか都合を付けられるだろう。

(いいえ……剣さえ手に入れてしまえばこちらのもの。何も平民風情を相手に、馬鹿正直に取引する必要などないのだわ)

 彼女がそう考えている前で、男は木箱の蓋を元通りに閉じ、それはテーブルに置いたままで再びドロシアの前に跪いた。

「では、わたくしめはこれにて、御前失礼致します」

 ドロシアの頷きを得て、男はメイドに送られ屋敷を後にする。門番には持っていた木箱について尋ねられたが、品を吟味して貰うために一時預けて来たと言うと、そういうこともあるのかと納得したようだった。

 以前とは違って堂々と屋敷を後にした男は、そのまましばらく歩いて、別の屋敷の裏門を潜る。こちらでは普通に、門番とも挨拶を交わして、男は屋敷に足を踏み入れた。

 セルジウィック侯爵邸に勝るとも劣らない広い敷地に、壮麗そうれいな城館が佇むここは、男が本来仕える貴族の屋敷だ。彼は足早に邸内を歩き、主人である貴族の書斎に向かった。


「――旦那様、只今戻りました」

「うむ、入れ」

「失礼致します」


 ノックの後、入室の許可を得てから扉を開く。書架に囲まれた室内、ソファで寛ぎながら本のページをめくっていた初老の主の前で、男は跪いた。

「……して、首尾は?」

「は、上々にございます。例の剣は問題なく、かのご夫人の手に渡りましてございます」

「そうか、それは重畳ちょうじょう

 主は小さくわらい、本のページをめくった。

「……それにしても、おまえが例の剣の話を聞き込んで来たおかげで、ずいぶん事が楽に進みそうだ」

「は、勿体ないお言葉です」

 男はおもてを伏せたまま、慇懃いんぎんに答えた。

「例の剣は確かに、かつて何人もの人間をあやめたいわく付き。まあ、世の中には物好きが多いゆえ、オークションに出せば買い手が付くと踏んだのであろうが……そのおかげで我らが利用することもできたわけだ。前の持ち主には感謝せねばな」

 くだんの剣は、呪われた剣として噂に高かったが、血腥ちなまぐさい事件に用いられた後、長らく行方知れずになっていた代物だった。それが今回のオークションでひょっこりと表に出て来たのだ。そして偶然人夫たちの噂話を聞き込んだこの家臣の話を聞いた主は、すぐに人を雇ってその剣を盗ませた。


「妾腹の子に後継者の座を奪われ、嫉妬に狂った異母兄、もしくは正妻が、呪われた剣の力を借りてかの子息を亡き者にする……なかなか、それらしい筋書きではないか。ははははは……!」


 高らかに笑い、主は膝を叩く。

「それでクローネル家の末子を始末できればそれで良し、失敗しても身内に自身の命を狙われるのだ、生家に嫌気が差してこちらに寝返ることもあろうよ。クローネル家の末子はなかなか優秀と聞く。《擬竜騎士( ドラグーン)》共々、我々にくだるというのなら、それはそれで好ましいではないか。事と次第によっては、《女王派》への密偵としても使えよう。――まあ、それはその本人が生き残ればの話だがな」

 そう言うと、主は跪く男に目を向ける。

「そうなれば、またおまえに調略ちょうりゃくを任せることになろう。励めよ」

「はっ」

 再び頭を垂れた家臣を下がらせ、主は再び本に目を落とす。

 その口元には、やはり薄く笑みが浮かんでいた。



 ◇◇◇◇◇



「……うーん……」

 商業ギルドからの帰路。落札した腕輪をためつすがめつし、アルヴィーは唸った。

(……ほんとにこれ、マジックアイテムなのか?)

 腕輪はアルヴィーの手首にも少し緩いくらいなので、おそらくは成人男性用に作られたものなのだろう。全体的にくすんではいるが、全面に施された彫刻は確かに繊細で見事なものだ。

『人の手で作ったにしてはなかなかの逸品だぞ。その彫刻は、魔法陣を腕輪の形に上手く編集して落とし込んでいるな。おそらく、魔力を通せばまだ充分使用に耐えるだろう』

「へえ、これがねえ……」

 アルマヴルカンがこうまで言うのだから、間違いないだろう。アルヴィーは感心して腕輪を眺めた。

 と、アルヴィーから詳しい事情を聞き、何やら考え込んでいたシャーロットが申し出る。

「……アルヴィーさん。その腕輪、わたしの父に見せてみませんか?」

「へ? シャーロットの親父さんに?」

「以前にも言いましたが、わたしの父はクレメンタイン帝国時代の研究をしていますので。古い時代の魔法にも多少は通じています。見せてみれば、何か分かるかもしれません」

「へー……そんなもんなのか。今使われてるのと昔の魔法って、そんな違うの?」

「そうですね……そこまであからさまに違うというわけではないんですが。そもそも現在大陸で広く使われている魔法からして、古くから存在した魔法体系を少しずつ磨き上げてきたものですし。例えば」

「……あ、うん、分かった、いや分かんないけど分かった。――俺にはそんな小難しい話は無理だって、よく分かった……」

 ともすれば魔法について一説ぶち上げられそうな気がしたので、アルヴィーは手で制した。

「けどとりあえず、誰かに見て貰うってのはいいな。でも、これの出品者はそれやんなかったのか?」

「まあ、この腕輪、一見したらただの地味な腕輪でしかないですしね。よほど魔法に詳しい人間でもなければ、ただ彫刻がされた腕輪だと思ってそのまま出品、でもおかしくはないですよ」

 疑問をていすればそう返されて、そんなものか、と思う。言われてみればアルヴィー自身、アルマヴルカンに指摘されるまで気付かなかったのだし。

 ともあれ、シャーロットに連れられ彼女の家へと向かうこととなった。相変わらず洒落てはいるが見分けの付き難い住宅が建ち並ぶ一画、そこにシャーロットの自宅はある。前回は家人がいなかったのでお邪魔するのは遠慮したが、今日はほぼ確実に在宅しているあろうとのことで、訪問することにしたのだ。

「――戻りました。あと、お茶をお願いします」

「あら、お帰りシャーロット。――そちらは?」

「あ、お邪魔します……」

 在宅していたシャーロットの母が、アルヴィーに目を留める。シャーロットが軽くアルヴィーを紹介すると、母親は目尻を波打たせ、

「まあそうなの。いつも娘がお世話になって。母のマーサよ。――ああ、今お茶を用意するわね。うふふふふ……」

 ……何だか意味深な微笑と共に台所に消えた。

 シャーロットは心持ちげんなりしたようにそれを見送っていたが、

「……とりあえず、父を呼んで来ますね。アルヴィーさんはそこで座って待っててください」

 と、奥に入って行く。手持ち無沙汰に、アルヴィーはそっと室内を見回した。

 シャーロットの家は、玄関を入るとすぐ、大きめのテーブルを置いた食堂らしき部屋になっている。その奥は台所などの水回り、そして父親の部屋となっているようだ。間口は狭めで奥行きがそこそこあるようだが、これはおそらくこの辺りの住宅は皆共通しているのだろう。壁際には木製の簡素な階段があり、二階へと続いている。

「まあまあ、そんなところに立っていないで、お座りなさいな」

「あ、どうも……」

 そこへマーサが茶を持って来てくれたので、礼を言って勧められるままに椅子に腰を下ろした。すると彼女はにこにこしながら、

「それにしても、あの子が男の子を家に連れて来るなんて、年頃になってからは初めてだわー。それで? どれくらいのお付き合いなのかしら?」

「……え」

 初会話にしてはド直球な内容に、とっさに答えられずアルヴィーが固まっていると、

「――ちょっとお母さん、何言ってるんですか!」

 父を連れて来たシャーロットが、焦ったように割って入って来た。だがマーサはまったく動じない。

「だってねえ、あなたもうすぐ十九になるのよ? 近所の娘さんの中には、もう結婚してる子だってあちこちに――」

「っ、そういう話は今はいいでしょう!――アルヴィーさん、気にしなくていいですからね!」

「お、おう」

 急に話を振ってきたシャーロットの勢いに、思わずこくこくと頷くアルヴィーだった。

「――それで、わたしに見て欲しいものとは?」

 そのまま続くかと思われた、母と娘の心温まるかどうかは微妙な会話は、だが穏やかな声にぴたりと止まる。シャーロットの父・リチャードは、アルヴィーの対面に腰を下ろしながら尋ねてきた。アルヴィーも本来の目的を思い出し、テーブルの上に例の腕輪を出す。

「この腕輪なんですけど……何か、古い時代の魔法に関係があるみたいで」

「ふむ、どれどれ……」

 リチャードは腕輪を取り上げ、ルーペで表面の彫刻をじっくりと調べる。その表情が、みるみる内に驚愕にいろどられていった。

「……こ、これは……! まさか、」

「え?」

 アルヴィーが面食らうのを余所に、リチャードは椅子を蹴倒す勢いで立ち上がると、奥の部屋に駆け込んだ。

「あらまあ……父さんがあんなに慌てるなんて、珍しいこと」

 妻であるマーサでさえ、半ば唖然としながら呟く。そこへリチャードが、一冊の本を抱えて駆け戻って来た。

「お父さん、何か分かったんですか?」

 シャーロットが尋ねるが、リチャードは答える暇すら惜しむかのように、開いた本のページを恐ろしい勢いでめくり始める。

 やがて、その手が止まった。

「……やっぱり……間違いない」

 興奮がにじむ掠れた声で、リチャードは腕輪を見つめ、そしてアルヴィーに向き直った。


「――これは、クレメンタイン帝国時代のマジックアイテムです」


 その言葉に、アルヴィーも思わずまじまじと、腕輪を見つめてしまった。

「クレメンタイン帝国って……百年前に滅んだはずじゃ」

「ええ、最先端の魔法技術もろとも。――しかし、たまにこうしてその時代の遺物が見つかることがあるんですよ。帝国が大戦で滅びるより前に国外に流出したものは、戦禍をまぬがれて保管されている場合があるので……いやそれにしても、これは素晴らしい」

 うっとりと、リチャードは腕輪を手にして見入った。

「この彫刻はおそらく、魔法障壁を張るための魔法陣を改造アレンジしたものでしょう。意匠いしょうに共通点がありますし、発動に必要な要素はすべて組み込まれています。いやあ、これほどに小型化かつ洗練された魔法陣を、こうして拝めるとは……!」

 子供のように瞳を輝かせ、リチャードはやおら身を乗り出してくる。

「これは大発見ですよ! この技術を解析することができれば、ファルレアンの魔法技術は格段に進歩します!」

「あ、ハイ……」

 その勢いに、思わずけ反るアルヴィーだった。

 興奮しつつも研究者の目で腕輪をさらに検分し始めたリチャードを余所に、アルヴィーも自身の考えに沈む。


(クレメンタイン帝国のマジックアイテム……それとあの時の剣士が持ってた魔剣と、同じ気配がするってことは――あいつも、クレメンタイン帝国に何かしら関係してんのか)


 そして、シア・ノルリッツと名乗っていた彼女も。


(……とりあえずこれは、騎士団に報告しとくべきだよな)

 シャーロットを見やると、彼女も表情を引き締め、小さく頷いた。やはり彼女も王国の魔法騎士、考えるところは同じなのだ。

 どの道、アルヴィーは騎士団本部に戻らなければならないのだから、こうなると早々に戻ってジェラルドを捕まえなければならない。彼はひとまず腕輪の現物を持ち帰るため、リチャードに声をかけようと口を開くのだった。



 ◇◇◇◇◇



 この日ルシエルは、馴染みである武具店を訪れていた。

「これで、《イグネイア》の鞘をあつらえて貰いたい」

 そう言って彼が引っ張り出したのは、アルヴィーから貰った《下位竜( ドレイク)》の皮だ。説明を受け、店長の顔も引きつる。

「そりゃあ、また……豪勢なことで」

「《イグネイア》の剣身に負けない鞘となると、やっぱりこれくらいの素材は要るだろう?」

「そりゃまあ確かに……《下位竜ドレイク》の皮なら申し分ありませんが。――しかし、加工には結構な時間が掛かりますが、それでもよろしゅうございますかね」

「ああ、別にこの鞘だって今すぐに壊れそうだというわけでもないからね。良いものを作ってくれれば、それで構わない」

 それならばと、店長はその注文を引き受けた。といっても、彼本人が手掛けるわけではない。店長は鍛冶師であり、鞘はまた別の職人が手掛けるという。そもそも鍛造たんぞうの剣というのは、部位や工程ごとに専門の職人がいるほど手が込んでいるものなのだ。

「じゃあ、よろしく頼むよ」

 頭金と《下位竜ドレイク》の皮を置き、ルシエルは店を出る。鞘を作るには剣の形や寸法を熟知する必要があるが、《イグネイア》の採寸は済ませているので、そちらは変わらず主の剣帯に納まっていた。普通の剣ならば鞘を作る間の摩耗などもあろうが、この《イグネイア》は剣身のほとんどが竜の鱗のようなものだ。摩耗の心配はまずない。

 店を出て、帰宅するべく歩き出す。平素とはどこか違う浮ついた雰囲気に、非日常が始まることを実感した。

(こういう時こそ、治安維持が重要になるからな。何か事件でも起こって解決に手間取れば、騎士団の力量が疑われる)

 改めて気合を入れ、ルシエルは自宅に戻った。

「――お帰りなさいませ、ルシエル様」

「ああ、ただいま」

「旦那様も、今日はもうお帰りでいらっしゃいますよ」

「父上も?」

 出迎えてくれた従僕フットマンの言葉に、ルシエルは面食らった。国主催のオークションはもう数日後に迫っている。それを主導する責任者の一人である父が、この時間にもう帰宅していて良いのだろうか。

 首を傾げながらも自室に向かい、私服に着替えていると、ドアがノックされた。


「お帰りになったばかりのところを申し訳ございません、ルシエル様。――旦那様がお呼びでございます。ルシエル様がお帰りになりましたら、すぐに書斎にお連れするようにと」

「父上が? 分かった、今身支度をしているから、もう少し待ってくれ」


 身形みなりを整える手を心持ち早め、着替え終えたルシエルはドアを開ける。執事のセドリックが、丁重に一礼した。

「お疲れのところ、まことに申し訳ございません」

「いや、構わない。――それにしても、父上は何の用だろう」

 このところ、呼び出されるような心当たりはない。強いて言えば、領地経営についての勉強を始めるにあたって、教師役が見つかったとでもいう連絡くらいか――と、ルシエルは思っていたのだが。

 書斎に顔を出した彼に、父ジュリアスから告げられた用件は、そんな予想から斜め上に大きく逸脱したものだった。


「――婚約者……ですか?」


 唖然として問い返すルシエルに、ジュリアスは頷く。

「貴族の子弟――それも、次代の領主となろうという嫡子ちゃくしだ。婚約者の一人くらいは、いても当然だろう。今までとはもう状況が違うのだぞ、ルシエル」

「は……はい。それは分かっていますが……」

 辛うじて首肯しゅこうしながら、ルシエルは差し出された絵姿を見つめる。そこには、十代後半と思しき令嬢の姿が描かれていた。

「彼女はティタニア・ヴァン・メルファーレン。メルファーレン伯爵家の四女で、魔法の才能もなかなかだそうだ。家格や年の釣り合いも良いだろう。メルファーレン伯爵領は我がクローネル伯爵領とも隣り合っているし、滅多にない良縁だぞ」

 確かに、メルファーレン伯爵領はクローネル伯爵領の南西に位置し、気候風土も似ている。嫁いで来るとしても、馴染むのは早いだろう。

 しかしそれでも、ついこの間まで騎士一本でやって行くとばかり思っていた彼は、結婚どころか恋愛についても考えたことなどなかったのだ。そこへこれである。正直、当惑するしかなかった。

 だが息子の困惑を余所に、ジュリアスはこの縁談を進めたいようだ。

「先方も今回の縁談には乗り気でな。ご令嬢も、騎士学校時代や騎士となってからのおまえの評判を、メルファーレン伯から聞いているらしい。聞いた話ではなかなか利発なご令嬢ということだし、領主の妻としても向いているだろう。――まあ、ドロシアほど行き過ぎられても困るがな」

「はあ……」

 そんなうかつに相槌も打てないようなことを言われても困る。ルシエルは言葉をにごしながら、再び絵姿に目を落とした。

 絵姿の中の少女は、オレンジブロンドに黄緑色の瞳の、華やかな顔立ちをした美少女だ。もっとも、こういう絵姿は――特に女性側のそれは――絵師により若干補正が入ることも珍しくないので、やや下方修正する必要があるのが困りものだが。とはいえ、それを差し引いても、充分美少女の範疇はんちゅうに入る令嬢ではあるようだった。

(何ていうか……順調に外堀から埋められてる感じだな……)

 そう思ったルシエルに、ジュリアスから追加の爆弾が落とされた。


「そういえば、今度の王都でのオークションを、メルファーレン伯もご家族で見物に来られるそうだ。一度顔合わせをしておいた方が良いな」

「は……」


 ルシエルが呆然としている間に、あれよあれよと話が決まってしまう。といっても、こうした貴族同士の婚約というのは、当人同士の意思というのは往々にして無視されるものでもあった。家柄も年頃も釣り合いが良く、双方の家が乗り気となれば、後はもう結婚というゴールに向かってまっしぐらというのが大多数だ。

「ち、父上……その、僕はまだ、結婚など考えたことも……」

「ふむ? 安心しろ、ルシエル。貴族にとって結婚など、いちいち考えてするものではない。――考える以前に、心の準備も何もなく、すべてが決まってしまうものだ……」

「…………」

 父の、経験談というにはあまりにも疲れたような最後の一言に、ルシエルは黙るしかなかった。そういえば第一夫人であるドロシアは、伯爵家より格上の侯爵家の出であるし、父にも複雑な過去があったのかもしれない。

 ともあれこれでまた一つ、自分の人生の岐路が自身の意思とは無関係に決まってしまったらしいと、半ば諦めの境地でため息をつくしかないルシエルであった。


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