第49話 帰郷
オルグレン辺境伯領領都・ロウェル。第二都市レドナと共に、戦前は隣国レクレウスとの交通の要所としての側面が強かったが、公の交流がほとんど潰えてしまっている現在では、むしろレドナに駐留する騎士たちがたまの休暇に足を伸ばす、程近い休養地のような場所となっていた。《擬竜兵》の襲撃による傷が未だ癒えていない現在のレドナでは、まずは防御の要である結界陣の防壁や生活に必要な施設の修復が最優先され、娯楽のための設備はまだ充分整っているとはいえないのだ。
そのためロウェルでは、非番の騎士であろう姿を多く見掛ける。彼らの多くは私服に身を包み、久しぶりの休日に羽を伸ばしているようだった。それに倣って、街に着いて宿を確保したアルヴィーも、ここでは私服で過ごしている。
そしてアルヴィーがロウェルに到着してから二日後、待ち人は街に姿を現した。
「――アル!」
「ルシィ! 久しぶりだな!」
人の波に紛れようとも、無二の親友を見紛うはずもない。アルヴィーは予め《伝令》で打ち合わせた待ち合わせ場所の広場で、無事ルシエルと顔を合わせた。ロウェルに到着してからこまめに《伝令》を放って、ルシエルと連絡が取れないか試みていた甲斐があったというものだ。
「あれ、ルシィだけか?」
「いや、一緒に……ああ、来たみたいだ」
ルシエルの言葉に応えるように、第一二一魔法騎士小隊の面々も姿を見せる。到着したばかりなのか、制服姿で馬の手綱を引いたままだ。
「宿はまだだよな。決まったら俺もそっち移ろうかなあ」
「でも、空きがあるか分からないし、どうせディルに行く時に合流するから、宿はそのままでもいいと思うよ」
「ま、それもそうか」
ルシエルの言うことももっともだったので、アルヴィーも納得して頷いた。
「よう、西方騎士団本部で聞いたぜ? ファレス砦のこと。大分派手にやったみたいだな」
「え、もうそんなとこまで話行ってんの?」
「ええ、各方面の騎士団本部と領地ごとの支部、それに防衛上重要な砦の間では、通信網が確立されてますから。情報共有なんてすぐですよ」
「騎士団怖ぇ!」
カイルの第一声に驚き、シャーロットの補足に戦慄する。各地の出来事もほぼ筒抜けということか。
だが、魔動巨人部隊を壊滅させた時に、並の人間なら五回は死んでいるレベルの重傷を負ったことは、さすがに伝わっていないようだった。アルヴィーは内心胸を撫で下ろす。まあ、重傷を負ったといってもすぐに治ってしまったし、すべて現場でのことだったので、騎士団の方でも不確定情報として報告を上げなかったのかもしれないが。
(ルシィにばれたら、また怒られそうだもんな)
もちろん心配ゆえだと分かってはいるのだが、ルシエルが怒ると背筋が凍る迫力があるので、アルヴィーとしてはできる限り避けたい事態だった。
「けど、ルシィたちの方も魔物討伐任務だったんだろ?」
「魔物っていっても、それほど強力なものじゃなかったからね。数はそこそこいたけど……」
ルシエルの方も、異母兄が雇った暗殺者もどきの傭兵に襲撃されたなどとは言えないので、言葉を濁す。幸いというべきか、アルヴィーはさほど気にした様子もなく、それで納得したようだった。
「そっか。ま、ルシィたちがその辺の魔物で梃子摺るとは思わないけどさ」
「そーだろそーだろ」
カイルがわしわしとアルヴィーの髪を掻き回したので、顔をしかめてその手を振り払った。
「ガキみたいな扱いすんなって」
「高さがちょうど良くてなー」
「うぐっ」
カイルの身長はアルヴィーより優に十セトメル以上は高い。まあ、それをさらに軽々と上回るディラークという大男がいるので目立たないが、カイルも意外と長身な方である。
「……カイルさん。それはわたしにも喧嘩を売っていると解釈して良いんでしょうか」
そしてアルヴィーよりさらに小柄なシャーロットに至っては、もはや頭二つ分近い差があった。同年代より控えめな身長と胸囲を“少々”気にしている彼女に、この手の話題は実は地味に地雷である。
にっこりと微笑みながら背後に暗雲を漂わせるシャーロットに、カイルは誤魔化し笑いをしつつさり気なく距離を取る。
「や、女の子はそういうのも可愛くていいだろ。なあ、アルヴィー?」
「へ!? ああ、うん」
「え、と、その……そうですか」
いきなり話を振られ、アルヴィーが条件反射のようについ頷けば、シャーロットも面食らったように目を見開き、わずかに頬に朱を走らせて黙る。周囲はその様子を生暖かく見守りつつ、上手く処理してのけたカイルに内心拍手した。見習いたいとは思わないが。
「――そ、それはそうと。もうお昼時ですし、どこかでお昼にしませんか。宿も決めないといけませんし」
そんな生暖かい空気を払拭するべく、シャーロットが少々強引に話を変えた。だが彼女の意見ももっともだったので、ルシエルも頷く。
「そうだな。じゃあアル、また後で――」
そう言いかけたルシエルに、ジーンが手を振った。
「あら、宿取るくらいあたしたちでどうとでもなりますし、隊長は先にアルヴィーと二人で予定を決めたら良いんじゃないかしら」
「そうですな。久々に故郷の村に“帰る”わけだし、二人で積もる話をしながらでも。我々は遠慮した方が良いでしょう」
「隊長とアルヴィーなら、護衛要らないだろうしね」
「あ、隊長の馬、預かりますよ」
久々の帰郷は親友同士で気兼ねなく、と勧めてくれる隊員たちに、ルシエルは甘えることにした。
「そうか、ならそうさせて貰うよ。悪いが頼む」
「では、宿が取れたら《伝令》で連絡するようにしますので」
そう言ってくれるシャーロットに頷き、ユフィオに自身の馬の手綱を任せて、ルシエルはアルヴィーが投宿している宿へと向かった。
宿に着き部屋に入ると、二人してベッドに腰掛ける。ちなみにその枕元では、例によってフラムがぷうぷうと寝息を立て爆睡していた。寝ていたのでさっきは置いて行ったが、ユナが残念そうな顔をしていたので後で貸してやろうと思う。
「――それで、最終的にはどうなったの? ファレス砦の方は」
「そうだな、レクレウスの侵攻部隊は多分押し返せたと思う。魔動巨人部隊は潰したし、応援部隊は遠距離特化が多いみたいだったから、もっかい飛竜で爆撃とかされても対応はできるだろうし。本隊も、砦の重装騎馬隊にそれなりにやられたっぽいから」
「そうか……それなら粘るとしても、当分はまた様子見だろうね」
「あ、そういや一三八小隊も来てたぞ。ちょっと話した」
「一三八小隊か。確かにあそこは遠距離特化で攻撃力もあるからね」
当初は彼らのようにファレス砦に向かうことができないことが歯痒かったが、結果的にはこうしてアルヴィーと共に、かつて暮らしたあの村に行けることとなったのだから、世の中何が幸いするか分からないものだ。
「そうだ、どうせだからルシィも着替えとけよ。ここ、レドナから騎士団の騎士が結構来てるみたいだし、制服だと紛らわしいぞ」
「ああ、そうかもしれないね」
アルヴィーもそうだが、ルシエルたちも現在、任務を終えての休暇扱いになっている。ジェラルドが手を回してくれたらしい。休暇ならいつまでも制服を着ている必要もないわけで、ルシエルも私服に着替えた。任務中でも騎士であることを伏せ、一般人に紛れて活動する必要に迫られることがあるので、大抵の騎士団員は私服を持ち歩いている。もっとも、魔法式収納庫に入れっ放しで私服の存在を忘れ、服を失くしたと思って買い替える者もたまにいるらしい。
ともあれ見た目は騎士団員から普通の少年になった彼らは、ルシエルが持っていた地図を使い、これからのルートを確認することにした。
「――まあ、国交が途絶えたっていっても、両国間の小さな生活道まで全部閉鎖されたわけじゃないからね。それを使おう」
「そだな。ああ……でも、村の方が廃村になっちまったし、整備はもうされてないか。倒木とかで塞がれてっかもなあ……いざとなりゃ《竜の咆哮》でもぶっ放すか」
「……そういう時は僕が何とかするから、《竜の咆哮》はやめてくれ、お願いだから。そんなの使ったら、新しい道ができるよ」
《魔の大森林》での豪快過ぎる“目印”は記憶に新しい。ルシエルのツッコミに、アルヴィーはあからさまに目を逸らした。まああれの主犯は、アルヴィーの身体を一時的に使ったアルマヴルカンだが。
「……とにかく、ルートはそれで。ディルに行けば、後は一日で行き帰りできるだろうし」
「だな。荒らされてないかの確認と、報告だけだしな」
アルヴィーの指先がそっと、地図の一点を撫でる。何も載っていないその辺りには、かつて彼らが暮らした村があった。
今はもう、誰もいない村。
「……墓をな、作ったんだ。あの後、生き残ったみんなでさ。――皮肉なもんだよな。家とかあの魔物どもにぶち壊されたから、墓標にするもんには困らなかった」
各々が、元は建物だった廃材を持ち寄って、一つ一つ死者の名を彫り込み、立てていった墓標。不格好で不揃いで、それでもその墓標と掻き集めた野の花だけが、生き残った者たちにできる精一杯の手向けだった。
「アル……」
痛ましげに眉を寄せたルシエルに、アルヴィーはわずかに笑ってみせた。
「そんな顔すんなって、ルシィ」
彼にそんな顔をさせたくて言ったわけではない。ただ、あの墓標は無事だろうかと、気に掛かっていたことが思わず口をついてしまったのだ。
「……墓地の近くを何らかの理由で使う時は、死者がアンデッドとして蘇ってしまわないように、魔法で対策を打つものだよ。いくらレクレウスでも、墓地を荒らすような真似はしないさ」
「うん。――だと、いいな」
アルヴィーはもう一度、本来なら村があったであろう辺りを指で辿る。それは故郷を愛しむような、優しい手付きだった。
「――きゅ? きゅーっ」
と、人の話し声にようやく目を覚ましたのか、フラムがひょこりと起き上がると、アルヴィーの膝にちょこんと乗っかる。小さな頭をぐりぐりと主の腹に擦り付け、全身で“構え”と主張するフラムに、アルヴィーはもとよりルシエルも思わず笑みを零した。
「……相変わらず懐いてるね」
「だろ? こいつもいるからさ、そんな落ち込んでらんないよ」
「きゅっ」
自分が話題だと気付いているのか否か、得意げに人間を見上げる小動物は何とも微笑ましい。だがそこで、ルシエルはこの愛らしさの裏にある正体を思い出した。
「……ところで、アル。このカーバンクル、そもそもは使い魔なんだけど、まさか忘れてないよね?」
「お、おう」
あまりの全身全霊の懐きっぷりに、正直最近ちょいちょい忘れそうになっていたアルヴィーは、慌てて頷いた。
「……どういう目的かは分からないけど、警戒は怠っちゃ駄目だからね」
「分かってる」
一応そうは答えたものの、こののほほんとした顔を見ていると、その警戒心も目減りしてしまう。
「……ほーんと、おまえの元々の主人は、何のためにおまえを寄越したんだかなあ」
胴体を掴んでぶらんとぶら下げ、真正面からその顔を見つめるが、ぱたぱたと四肢をばたつかせて肩の上に乗りたがるその様子に、ついつい望み通りに左肩に乗っけてやるアルヴィーなのだった。
その微笑ましさについ笑いそうになりつつも、ルシエルは考える。
(今のところ、特に接触らしきものはなさそうだけど……アルが気付いてないだけかもしれないし。こっちでも気を配っておく必要があるか)
そう頭の片隅に書き留めて、開け放した窓から外を眺めた。この空のさらに西に、あの日後にしてきたかつての故郷がある。
いつかアルヴィーとその母を迎えに行こうと誓い、そして果たせなかった場所。
幼い頃、もう一人の母のように何くれと面倒を見てくれた彼女の顔が、脳裏をよぎった。
(……ごめんなさい、小母さん。僕は間に合わなかった)
ルシエルがもっと早く足元を固め、彼ら親子をファルレアンに迎えていれば、彼女もきっと死なずに済んだ。その思いが、ルシエルの胸を刺す。
もっとも、アルヴィーにそれを口に出して告げたことはない。そうしたところで、優しい彼は頑として否定するだろうから。
だからこの思いは、墓前で彼女にだけ言うことにする。すでにこの世を去った彼女には意味などなく、赦す者もいない懺悔でも。
それは赦しを乞うためではなく、力の足りない自分を戒めるためなのだ。
「――ルシィ」
呼び声にふと振り返ると、アルヴィーがこちらを見つめていた。
「どうかしたの、アル」
「いや……何か、難しい顔してたからさ、ルシィ。――俺も気掛かりではあるんだけどさ、墓のこと。けど、きっと大丈夫だから。元気な顔、見せに行こうぜ」
「……ああ。そうだね」
彼が思うようなことで、憂えていたのではないけれど。
頷いて、ルシエルは微笑んでみせた。
◇◇◇◇◇
ファルレアンより遥か西方、レクレウス王国を挟んださらに西側に位置する帝国、ヴィペルラート帝国。大陸内に現存する国の中で唯一“皇帝”を戴き“帝国”を名乗るこの国の帝室は、かつてかのクレメンタイン帝国皇帝の血を引く皇女を娶ったことをその根拠としている。もっともそれも、軽く三百年は前のこととなるのだが。
国土のほぼ中心部に位置する帝都・ヴィンペルンは、風光明媚な水の都として近隣諸国に知られていた。街中には道と同等以上の密度で水路が張り巡らされ、荷物や客を乗せた小舟が行き交う。岸辺には舟を連ねた露店が並び、帝都の民たちの台所として、常に人で溢れている。そんな活気に満ちた街を見下ろす高台に、皇帝の住まう宮殿があった。
《夜光宮》。敷地内の建物のほとんどが、帝国の特産でもある《夜光岩》で造られているためそう呼ばれる。《夜光岩》は青みがかった灰色を基調とする硬い岩だが、光を受けると表面の鉱物粒子がきらめき、地の色と相まってまるで星空のように光り輝くのだ。その美しさから、建材として国内外で根強い需要がある。
その《夜光宮》の一角に、清らかな水を湛えた広い水盤があった。
地下から水が湧き上がっているのだろう、その中央部には一段高く小さな水盤が造られ、そこから澄んだ水が溢れるように流れ出している。それが流れ落ちる広い水盤は、すべてを《夜光岩》で造られ、その表面と飛び散る水滴が日の光を反射してきらきらと輝いていた。そこからさらに溢れ出した水は、六つの水路に流れ落ちるようになっており、その水路はそれぞれ宮殿の各所を巡った後、外に流れ出て街の水路に注ぎ込んでいる。
その水盤の中に、少年が一人立っていた。
雨雲を髣髴とさせる鈍色の髪は癖が強く、それを何とか一つに結っている。水面を見下ろす瞳は翠緑を帯びた蒼。ひらひらとした衣服の裾や袖が水に濡れるのも構わず、彼は中央の水盤に歩み寄ると溢れる水を両手に受ける。
ぱしゃり、と跳ねた雫が、水面に落ちることなくそのまま宙を泳ぎ、少年の周囲を巡り始めた。それは一つや二つではない。数十にも及ぶ水の珠が、まるでじゃれるように少年の周りをふわふわと浮遊する。
「――うん、今日もみんな機嫌良いね。良かった。じゃあよろしく」
蒼の双眸を細めると、少年はぱん、と一つ手を打った。途端に、水の珠は急に重力を思い出したとでもいうように、一斉に水面に落ちて跳ねる。
それを見届けると、彼は水を跳ね上げ歩き出した。水盤から上がり、指先を一振りすると、彼の服や足を濡らしていた水が引き剥がされるように集まり、一つの水球となる。それを水盤に投げ入れると、少年は呼ばわった。
「終わったよ、ラグ」
「はい、ユーリ様!」
駆け付けて来たのは、同い年ほどの茶色の髪と目をした少年だ。ラグと呼ばれた彼は、まるで仔犬か何かのように目をきらきらさせながら、一足の靴を地面に揃えた。
「ありがと」
靴を履き、鈍色の髪の少年――ユーリはさっさと歩き出す。ラグも数歩後に付き従った。
迷いもなくユーリが足を向けたのは、宮殿の中でも最も厳重に守られた、皇帝の座す玉座の間だ。ラグはかなり前で足止めされたが、ユーリは止められることなく、むしろ丁重な礼をもってここまで通された。
「――ユーリ様、ご入来でございます」
扉を守る騎士たちによって、恭しくその扉が開かれる。それをするりと潜ったユーリは、玉座に座る人物に声をかけた。
「陛下、今日の仕事終わったよ」
「ああ、良くやった。――にしても、その言葉遣いはどうにか……いや、いい。おまえにそんなものを期待した俺が間抜けだった」
「分かってるなら言わないでよ」
一国の皇帝に対して不遜にも程がある物言いだが、玉座の人物は軽く肩を竦めただけでそれを許した。目が覚めるように鮮やかな紺碧の髪、紫水晶の瞳。まだ年若く、整った容貌ながらもどこか稚気を残したこの青年が、今代のヴィペルラート帝国皇帝、ロドルフ・レグナ・ヴィペルラートである。
ユーリはそんな彼の側まですたすたと歩いて行く。彼にはそれが許されていた。なぜなら彼は、ある意味皇帝であるロドルフよりも、この国に必要な存在であるからだ。
ユーリ・クレーネ。彼は高位の水精霊の加護を受けた、水の高位元素魔法士だった。
この帝都ヴィンペルンは、昔から交通や物流の多くを水運に頼っている。また、帝都の水路は街の外にまで流れ出し、周辺の領地をも潤していた。だがそれを支えるヴィンペルン一帯の地下水脈は年々細っており、水位の低下や水質の悪化が深刻な問題として取り沙汰されていたのだ。
それを解決したのが、ロドルフに連れられ帝都にやって来たユーリだった。
彼は高位精霊が住まう泉の畔に捨てられていた子供だったという。そんな彼を不憫に思った泉の主の水精霊に育てられ、ユーリはその愛情と加護を受けて知らず高位元素魔法士となっていたのだ。彼は水精霊たちと親しみ、水を自在に操ることができた。彼がその力をもって帝都一帯の地下水脈に水を呼び戻したことにより、帝都とその水路の恩恵を受ける領地は、再び清らかな水とその豊かな恵みを得るに至った。
その功績により、ユーリには高い地位と権限、宮殿内での居室が与えられ、今ではこうして無条件で玉座の間にまで立ち入ることも許されている。もっとも、水精霊に育てられるという少々数奇な育ち方をした彼にとっては、人間社会の権威や富などさして意味もないものだったが。彼の在りようはむしろ、人間よりも精霊などの人外種族に近い。
「精霊のみんなも、このところ機嫌が良いよ。水に落ちた奴がいても、水を汚した奴じゃない限り助けてやってって頼んでおいた」
「そうか。それはご苦労だったな。――ところで、先の報告の件だが」
「うん、報告の通り。俺が現場の近くの川で会敵した奴が、多分国境守備部隊を壊滅させた犯人で間違いないと思うよ。俺は水を介しての《虚像》を使ってたけど、それでも俺と互角に戦り合った。高位元素魔法士クラスなのは確実」
ユーリの言葉に、ロドルフは眉を寄せる。
「高位元素魔法士か……属性は炎ということだったが」
「詠唱なしに炎を使ってたし、光線みたいなのを撃ってきたけど、あれも多分炎を圧縮したんだと思う。ただ、左腕が変だった。人間っていうより、竜か何かみたいで」
「竜、か……」
「直に会ったら、“どれくらい”人間じゃないのか分かったんだけど」
「いや、おまえに何かあったら一大事だ。それに、現地まで行く時間も馬鹿にならん。その報告だけでも十二分に貴重な情報だ。良くやってくれた」
「そう、ならいい。俺、もう戻るから」
「いや、待て」
踵を返しかけていたユーリは、訝しげに振り向く。腰に巻いた銀鎖が、しゃらりと音を立てた。
「何」
「今度ファルレアンで、大規模なオークションがある。何でも、大暴走とやらで手に入った魔物の素材が、多数放出されるそうだ」
「行っちゃダメだからね」
「ぐっ」
「仮にも一国の皇帝でしょ。それがふらふら出てってどうするの。俺と会った頃とは違うんだよ」
「……だが、興味が湧いてこないか」
「ない。口添えもしないよ。素材は欲しいかもしれないけど、それは外交の人間にでも頼むことでしょ。それが仕事なんだから」
ばっさりと正論で切り捨てられ、ロドルフは呻く。彼は元々、玉座からは程遠い皇子であった。だが生来風来坊な性質であった彼にはそれはむしろ都合が良く、十代半ばを過ぎた頃には宮殿を後にし、各地を放浪する旅に出たほどだ。
そしてその途上で、彼はユーリと出会った。養い親の精霊の意向で世の中を見ることを欲していたユーリは、目的に合致するということでロドルフの誘いに乗り、共に旅を始めた。
だが、彼らの旅と並行し、宮殿では当時の皇帝の健康問題に端を発した継承争いが激化していた。上位の継承権を持つ年嵩の皇子たちは軒並み潰し合い、気付けば帝国を背負うにはまだ心許ない、幼い皇子皇女ばかりが残ることとなったのだ。加えて、帝都に圧し掛かる水の問題。頭を抱えた帝国上層部が、曲がりなりにも直系男子かつ相応の年齢に達しているはずの、各地をふらついている皇子の存在を思い出したのは、そんな時である。直ちに草の根分けての大捜索が行われたのは言うまでもない。
そうした事情でロドルフの気ままな旅は終わりを告げ、彼はユーリと共に帝都ヴィンペルンに帰ることを余儀なくされた。折悪しく皇帝の容体は悪化の一途を辿り、帝都の水問題を解決した水の高位元素魔法士を連れ帰った功績と、各地を巡ることで培った見識を買われたロドルフは、重臣たちに乞われる形で皇帝の座に就いた。
情勢が落ち着き、幼い皇子たちが成長するまでの繋ぎだ――そう明言して帝位を継いだ彼だったが、皮肉にもかつて各地を旅した経験が役立ち、その治世はなかなか安定している。国民からの支持も高く、引退希望をほのめかしても宰相を始め重臣たちにはさらりと話を逸らされる始末だった。まだしばらくはこの窮屈な玉座に座らなければならないらしいと、最近は諦めの境地に至ってきたロドルフである。
それでも、こうして面白そうな話を聞けば、つい昔の風来坊の虫が疼いてしまうのだ。
「しかしだな、ファルレアンにもつい最近認定された、炎の高位元素魔法士がいるという話を聞いた。国境守備部隊を壊滅させた犯人と、何か繋がりが――」
「あってもなくても、そういうの調べるのは陛下じゃなくてもできるよね?」
あっさりばっさりと、最後の足掻きも切り捨てられた。
「そもそも、今って陛下が余所にうろうろ出掛けられる状況じゃないんだけど。分かってる? これって、この国に喧嘩売られたってことだよ」
「分かっているさ。ここまで堂々と喧嘩を売られたのも久々だ。――事と次第によっては、おまえにも出て貰わねばならん。そのつもりでいてくれ」
「分かった」
こくりと頷き、ユーリは今度こそ玉座の間を後にする。高位元素魔法士は往々にして、国家の重要戦力となり得る存在だ。そういった意味でも、風と炎、二人の高位元素魔法士を擁することとなったファルレアンについては、どうにかして接触を持っておきたいのだが……。
(……まあ、臣下にやらせろと言われるんだろうな、やはり)
ため息をついて、ロドルフは遠出を――今のところは――諦めた。気ままに旅をしていた昔が、無性に懐かしい。
天井を仰ぎ、ぼやいた。
「ああ、まったく……皇帝など、なるものじゃないな」
◇◇◇◇◇
レクレガンの王宮、その一室ではこのところ、連日のように軍議が行われていた。
だが、そこで国王ライネリオ一世と共に軍議を主導すべき、軍務大臣ヘンリー・バル・ノスティウスの姿はこの場にない。このところ体調不良を理由に出仕すら滞りがちだった彼は、ファルレアン女王アレクサンドラによる非公式の降伏勧告があった日を境に、軍務大臣の座と領地を返上する旨の書き置きを残し、家族と共に姿を消したのだ。同時に侯爵家の資産も大半が消えており、彼はそれらの資産を持って逃亡したものと思われた。
彼の出奔後、軍事関係の情報改竄が発覚し、首脳部は大いに揺れたが、時すでに遅し。ライネリオは激怒し、ヘンリーの爵位を剥奪した上で一家を国家反逆罪で告発したものの、国外に出てしまえばそれもさほど関係あるまい。
もっとも唯一、ナイジェルだけはこの事態を予測していたが、自身の計画にはさほど影響がないと踏んで捨て置くことにした。これだけのことをしでかした以上、ヘンリーがこの国に戻って来ることはもう不可能だろう。おそらく自らの地位を守るためであっただろう情報改竄で、結局地位どころか貴族の身分まで失い国内では犯罪者とされたヘンリーだったが、少なくとも資産を手に国を捨てた辺り、他の貴族たちよりまだしも目端は利くのかもしれないと思う。
(……もっとも、この国が生まれ変わっても、もはや足を踏み入れることはできまいがな。何よりそれまで、あの御仁と家族が生きていられるかどうか)
重税に喘ぐ地方の領地では、負担に耐えかねて賊に片足を突っ込んだ農民などもいると聞く。そして国外脱出を図るとなれば、どうしてもそれらの地方領地を通らざるを得ない。果たして、資産を抱えた元貴族などという丸々と肥った獲物が、飢えた狼の縄張りを生きて抜けられるのか。
まあそれはもはや自分には関係ないことと、ナイジェルは頭の中から彼らのことを放り出す。
さすがにこの非常時に軍務大臣が空席なのはまずかろうと、急遽それなりに高位の貴族を任命してはいるが、敗色濃厚な現在の状況の中、できる限り目立たないよう椅子に縮こまるようにして座っている。
軍議は事実上、国王の独壇場だった。
「――とにかく! わたしは降伏など認めぬぞ、絶対にだ!」
机を叩き、ライネリオは喚き立てる。すかさず追従するのは、今回の戦争で利益を得ている貴族たちだ。
「仰る通りでございます、陛下」
「我々にはまだ、戦う力が残っております!」
(そんなもの、とうの昔に底をついているというのに)
継戦を主張する強硬派貴族たちの白々しい追従を聞きながら、ナイジェルは呆れのため息を漏らす。実際、明らかにライネリオの側に立っている貴族は強硬派の者たちだけで、残りはいざとなれば逃げ出せるよう及び腰の者たち、そして。
「しかし……ファレス砦への侵攻作戦も失敗した今、こちらの残存兵力はとても、ファルレアンには及びませぬぞ」
「恃みの魔動巨人も全滅、新たに建造するとしても相応の時間と費用は掛かりましょう。それを捻出できる余裕が、今の我が国にございましょうか」
「う、うぬ……」
ここに来て一気に発言力を増したのは、停戦を唱える穏健派だった。そもそも、継戦強硬派が唱える徹底抗戦は、言ってみればただの感情論に過ぎない。現在の国の経済力や残存兵力を把握しきれず、ただファルレアン憎しで継戦を主張するライネリオと、その尻馬に乗って少しでも利益を掻き集め私腹を肥やしたい貴族たちの、現実の見えていない戯言でしかないのだ。
だが、その戯言を喚き立てる急先鋒が国王その人であることが、事態をややこしくしていた。
「そなたら、栄光ある我がレクレウス王国が、ファルレアンなぞに降っても良いと申すのか!? この非国民どもが!」
「そ、それは……! ですが、これ以上戦争を続けるような経済的、何より人的な余力が、もはや我が国にはございませぬ!」
「黙れ! 兵なぞ国内からいくらでも掻き集められるであろう!――そうだ、貴様たちの領地から十五歳以上の領民の男たちを一定人数差し出すが良い。そうすれば兵の補充などすぐだ!」
「そ、それはいくら何でもご無体でございます! 男手が極端に減れば、領内の産業が立ち行かなく――」
「ええい、わたしがやれといえばやるのだ! 領地の維持など後回しだ、国家の存亡の危機なのだぞ!? 地方の領地なぞいくら潰れようと構わぬ、まずはこの王都一帯、ひいてはこの国を守りきることが第一だ! 反対する者は国家反逆罪に処する!」
ライネリオの暴言に、貴族たちは絶句する。もしライネリオの言を実行すれば、それこそ国の滅亡を早めるようなものだ。ここに至って、継戦派の貴族たちにも次第に分かり始めた。ライネリオの言う“国”とはレクレウス王国全域ではない。彼が知る王都周辺のごく限られた地域がライネリオにとって守るべき“国”であり、その外側は王都周辺を守るための“盾”に過ぎないのだと。
ライネリオは地方を、辺境を知らない。豊かな王都の中でもさらに恵まれた、王城内での絢爛豪華な生活しか経験していない彼は、それらを支えるために様々な物資が必要であること、それを生み出すのが彼にとっては取るに足らない地方の領地であること――それすらも知らずに育ってしまったのだ。
しかし、そんな彼が今は国内で最も強い権力を握り、国を自由に動かすことができる立場にいる。そのことに、彼を支持してきた大貴族たちも遅まきながら気付き始めたのだった。
強硬派の貴族たちも、困惑したように目を見交わす。彼らは別にライネリオと考えを同じくするわけではなく、ただ自分たちが利益を得たいだけだ。戦争に必要な物資を特定の商人に扱わせることで彼らに利潤をもたらし、見返りとして賄賂を受け取る。戦争の裏でそうして甘い汁を貪って来た貴族たちは、だが自分たちの領地にも影響が及ぶとなった途端、逃げ腰になり始めた。
「ですが陛下、やはり兵を増やしただけでは限界が……せめて魔動巨人を何体か作り直してからでも」
「ふむ、ならば税を上げるか。そうすれば建造費用も出るだろう」
「そ、それは……」
今でさえ戦費の捻出のために税は上がり続け、領地での不満の声は日増しに強まっていた。このまま野放図に税を搾り取り続けていれば、やがては破綻し、民たちは蜂起もしくは逃散するだろう。そうなれば自分たちの生活も立ち行かなくなる。それを想像し、貴族たちの顔が青ざめた。
と――。
「……これまででございますな」
落とされた声に、座がしんと静まり返る。
「……どういうことだ、クィンラム公」
宰相バルリオス公爵の言葉に、ナイジェルは怯むこともなく起立すると、ライネリオを見据えて言い放った。
「此度の降伏勧告、受け入れるべきであるとわたしは考えます」
途端、議場が揺れるようなどよめきが起こった。
「し――正気か、クィンラム公!」
悲鳴のような詰問に、だがナイジェルは眉すら動かさない。
「至って正気でございますが? むしろ、この状況で逆転できると考えることこそ正気を疑います。たかだか数体、魔動巨人を新規建造したところで、向こうにはそれをまとめて叩き潰せる存在がいることを、まさかお忘れではありますまい?」
「ぐ……!」
ライネリオが唸る。現に魔動巨人部隊はたった一人により壊滅させられているのだ。
「むしろあちらが“勧告”してきている時だからこそ、受けるだけの意味はあるのです。幸いファルレアン側は“国民を苦しめぬために”降伏を勧告してきている。ならばそれに乗れば良い。少なくとも国民を慮ったという姿勢を見せることで、国内の団結は高まりましょう」
「しかし……今の段階で降伏など。通知された条件は、決して易くはありませんぞ」
「むしろ、この段階でファルレアン側の要望を容れることで、こちら側が有利な部分も出てくるのです。この上でさらに戦争を続けても、戦力を目減りさせることにしかなりません。その状態になってから降伏を申し入れたところで、今以上に軽く扱われるのは目に見えています。ならば少しでも戦力を残した状態で勧告に応じ、交渉に持ち込んで条件の譲歩を引き出した方が傷は浅い」
「な、なるほど……」
「だが、この状況で交渉など……」
「幸いわたしには、これまでの情報収集の段階で、ファルレアン側にも幾許かの伝手はございます。それを恃みに、できるだけのことは致しましょう」
「おお……さすがはクィンラム公」
「うむ、国を守るためにはそれも致し方ないか……」
淀みなく応えるナイジェルの説明に、穏健派の貴族たちが頷く。彼らには予め根回しをしておいたのだ。それにつられたように、中立の貴族たちからも小さく賛同の声が上がり始める。
「な……ならぬ! ならぬぞ!!」
しかしライネリオはそう喚き散らし、頑なに拒んだ。双眸をぎらぎらと不気味に光らせながら、ナイジェルを睨み付ける。
「貴様……誇り高いレクレウス貴族、それも代々王家に仕えし公爵家当主ともあろう者が、よくもそのような戯言を!」
「恐れながら、戯言とは心外でございます。わたしはただ、この国と国民のため、より良い方法をと――」
「黙れ! 国民などどうでもよい、今多少減ったところで、どうせ雑草のごとく増えるものだ! それよりも我が国の名誉の方が重要であろう! このわたしの治世のもとで降伏など、絶対にあってはならんのだ!!」
狂ったように喚き立てるライネリオを眺め、ナイジェルは内心ほくそ笑んだ。
(しばらく喚かせておこうか。いかに国民を軽んじ、自分の体面ばかり守ろうとしているのかを、存分に知らしめて貰おう)
ライネリオの呪詛のような喚き声に、やがて自身の思うようにいかない現在の状況や、この場の貴族たちへの不満も混ざり始める。平民はおろか、下級貴族すら雑草か家畜のように罵り始めるその姿に、近衛兵や記録のために控えた文官たちの表情がこわばり始めたのが見えた。彼らの中にも、下級貴族出身者はいるのだ。
そしてナイジェルはこの軍議の様子を、自身の手駒たちにも盗み聞きさせている。彼らによってこの軍議の内容は城下にさり気なく伝わり、国王が平民を雑草程度にしか思っていないことが広まるだろう。
ひとしきり喚き立て、ライネリオが息を整え始めたのを見計らい、ナイジェルは最後の仕上げに掛かることにした。
「なるほど。陛下の仰りたいことはよく分かりました。――要するに、陛下の御代にファルレアンに屈することはまかりならぬというわけですね?」
「当然だ! わたしが玉座にある限り、降伏などという腑抜けた真似は許さんぞ!」
もはや狂気すら滲む表情で、ライネリオが凄む。だがナイジェルは動じなかった。言質は取った、とでも言いたげに。
「では――陛下にはご退位いただきましょう」
一瞬の空白。
そして悲鳴のようなどよめきが湧き起こった。
「な……何を言っておるのだ、クィンラム公!」
「言うに事欠いて、陛下にご退位を迫るなど……気でも狂われたか!」
「ではこのまま、陛下の命のもとに戦争を続けられると? そのための対価として支払われるのは、他ならぬあなた方の富であり、領民であるのですが」
ナイジェルの言葉は、貴族たちに容赦なく突き刺さった。領民はともかく、確かにこのまま戦費として国へと税を吸い取られ続ければ、それだけ自分たちの懐に残る分は目減りする。しかもそれは、かなりの確率で無駄金となるのだ。
さっきまで継戦を主張していた貴族たちでさえ、口を閉ざし窺うように周囲を見る。その様子に、衝撃のあまり口すら開けていなかったライネリオが、やっと我に返って絶叫した。
「お、おのれ……貴様たちまでもが、そのような世迷言に惑わされてわたしを裏切る気か! もういい、貴様たちは皆、裏切り者だ! 国に仇為す反逆者だ! 近衛兵! こやつらを国家反逆罪で捕らえよ! 処刑だ!!」
「お、お待ちくださいませ陛下、我らは決してそのようなことは――」
「うるさい、黙れ! この反逆者どもめが! 貴様らの家族も同罪だ!」
「…………!!」
ライネリオはもはや、猜疑心の塊となっていた。自身の祖父に当たる宰相にすら、手負いの獣のようなぎらぎらとした眼光を向ける。おそらくもう、自身が何を喚いているかも分かっていないだろう。ただ自分に不都合なものは反逆者の汚名を着せて葬ってしまえば、問題事そのものすらも消えると思い込みたいのかもしれない。
だが、汚名を着せられる方は堪ったものではなかった。始末の悪いことに、彼は国王だ。自身の権力で、それを強行できてしまうのである。
それを止めるには――。
貴族たち――特に穏健派に属する者たちはそっと目を見交わし、立ち上がった。
「陛下におかれましては、どうやらご乱心なされているご様子」
「これではご政務も危ぶまれますな」
「な、何をするつもりだ、貴様ら! おい、誰か――」
うろたえるライネリオ。だが貴族たちは誰もが、視線すら合わせないように目を逸らし、彫像のように動かなかった。
「さ、陛下。どうぞ後は我らに任せ、心安らかにお休みくださいませ」
「離せ、わたしは乱心などしておらぬ! おのれ、示し合わせていたのか、貴様ら!!」
ライネリオの叫びは議場に空しく響くばかりで、誰も彼を助けようとはしなかった。議場の扉が開かれ、ライネリオが連れ出される。議場の前室に控えていた文官や近衛兵たちはぎょっと目を見張ったが、そこへ席を立ち歩み出たナイジェルが朗々と声を張り上げた。
「陛下は戦況にお心を痛められ、ご乱心なされた! 人を呼び、速やかにご寝所までお連れせよ!」
「ふざけるな、わたしは――!」
掴み掛かろうとしたその様子が、いかにも常軌を逸したものであったため、周囲の人々はナイジェルの言い分を信じた。暴れるライネリオを、文官たちがおっかなびっくりといった様子で抑えに掛かる。その中に自身の手駒が紛れ込んでいることを確認し、ナイジェルはわずかに笑みを浮かべて扉を閉めた。
「陛下、お気を確かに――」
ナイジェルの部下である文官が、さり気なくライネリオの肩口に手をやる。そのまま首筋を押さえると、ライネリオの身体が急にぐったりと崩れた。気を失っているだけなので、傍目には興奮し過ぎて失神したようにしか見えないだろう。一部始終は巧みに周囲の人間の陰に隠れる形で行われたため、近衛兵にも怪しまれていまい。
「ああっ、陛下!」
「急いでご寝所へ!」
気を失ったライネリオは、抱え上げられて寝所へと運ばれて行く。それを見送り、ナイジェルの部下は人に紛れるようにしてその場を後にした。
「――さて、皆様方」
一方、議場に戻ったナイジェルは、居並ぶ貴族たちを見渡す。
ひとまず一番の山は越えた。後は宰相を始めとする強硬派の貴族たちを抑え込み、貴族議会を作らねばならない。新国王はライネリオの弟辺りを適当に擁立し、議会の決定を追認させる形にすれば良いだろう。王太子であったライネリオに比べ、弟王子たちはそれほど本格的に政治を学んではいないので、お飾りの王にするのは容易い。
「陛下はご乱心なされ、もはやご政務に戻られることはありますまい。このまま戦争を続けてすべてを失うか、降伏勧告を受け入れて多少なりとも実を取るか……どちらをお望みですかな?」
――もちろん、答えは決まっていた。
◇◇◇◇◇
森の中の道は、早くも消えかけていた。
――合流翌日にロウェルを発ち、旧ギズレ領領都・ディルに向かったアルヴィーとルシエルは、そこで諸々の準備を整えた後、レクレウス辺境部へと伸びる生活道の一つを選んで故郷の村へと向かうことにした。戦争が始まった後も、辺境の村人たちは密かに越境して、作物や手慰みに作った工芸品などをファルレアン側で売り、食べ物などを手に入れたりしていたのだ。そういった道の一つを、アルヴィーも猟師として暮らしていた頃、何度か使って覚えていた。
しかしその道は、もう使われていないのか、草木に覆われもはや森の一部と化そうとしていた。仕方なく草木を斬り払いながら、二人は故郷を目指す。
「あーやっぱこうなってたか……」
「まあ舗装もされてない道なんて、しばらく放っておけばこんなものだよ。――アル、この辺りは真っ直ぐでいい?」
「ああ、そうだな。確か、向こうのちょっと目立つ大きい木の辺りまではほぼ真っ直ぐ」
「了解。斬り裂け、《風刃》」
ルシエルは愛剣《イグネイア》を抜き放ち励起すると、魔法を纏わせて振り抜く。明るい赤色に輝く剣身から放たれた《風刃》は、鋭い切れ味と熱で生い茂る草木を一直線に斬り飛ばし、瞬く間に道を切り拓いた。
「魔法って楽だなー」
「この剣だからっていうのもあるけどね」
元はアルヴィーの《竜爪》である現在の《イグネイア》から放たれる《風刃》の威力は、従来のものより高い。その上火竜の力を帯びた剣身を介することで、放つ魔法には例外なく炎の属性が乗るのだ。剣身に火竜の力が残っている間だけの期間限定とはいえ、これはルシエルにとって強力なアドバンテージだった。
「よっ、と」
一方のアルヴィーもその膂力を活用し、道を塞いでいた倒木をひょいと担いで脇に放り投げる。といっても直径およそ三十セトメル、長さに至っては十メイル以上あるような倒木なので、本来なら動かすには十人近い人手が必要な代物だが。
馬鹿力と魔法を駆使し、順調に道を切り拓くこと三時間ほど。ついに二人は、かつて村があった場所へと辿り着いた。
「これ……もしかして、昔よく遊んでたあの丘かな」
「ああ。――でも、天辺の木は切られちまったな」
見覚えのある小さな丘。そこは周囲を見張るのに都合が良かったのか、天辺にそびえていたはずの大木は切り倒され、切り株だけがわずかに当時の面影を留めている。周辺の木々も伐採され、村だった場所はアルヴィーの記憶よりもずいぶん広がっていた。そしてあちこちに乱雑に放られた、天幕の残骸などの野営の跡。それでも家の土台や井戸の跡などは残っているため、それを手掛かりに記憶を辿る。
「――ここだ。俺の家。ルシィん家は……あっちだな」
壊され朽ちた、家の跡。あの頃、自分たちが暮らしていた場所は、こんなにも小さかっただろうか。
アルヴィーの家だった場所の前で、二人はしばし黙って佇んだ。思い出すのは同じ、幼かったあの日々のこと。
ずっと二人肩を並べて、この村で暮らしていくのだと思っていた――。
「……あんま時間もないな。墓の様子も見て来よう。こっちだ」
感傷を振り切るように、アルヴィーがそう言って歩き出す。ルシエルもそれを追った。
村の墓地は、二人の遊び場だった丘とは別の方角にあった。村外れ、集落のある場所からそれなりの距離が置かれているのは、疫病などが村に伝染するのを防ぐためだろう。さすがにここにまでは、レクレウス軍も手出しはしていないようだった。アルヴィーが村を後にした時の姿をほぼ保っている。ただ、時の経過を示すように、一帯は草に覆われて墓標も半ば埋もれてしまっていた。
さすがにここは魔法で草刈りというわけにもいかず、地道に草を斬り払う。粗方刈ってしまうと、アルヴィーは二つ並んだ墓標の前に立った。
ここを離れた時は、まさか再び戻って来るまでに、こんなに時間が掛かるとは思わなかった。
村を離れ、真実を求めてさまよう中で、右腕は異形となり、火竜の力と魂を受け入れて。かつての敵国は守るべき国となり、祖国の兵を手に掛けて血と泥に塗れたこの身は、かつてここで暮らしていた自分からはどんどんかけ離れていった。
それでも、こうしてここに立つ間だけは、ここを離れる前の、ただの子供であった自分に戻れる気がする。
「……親父、お袋。遅くなってごめん。――ただいま」
黒ずんだ古い墓標と、幾分新しい墓標が一つずつ。それぞれを愛おしむようにそっと撫で、アルヴィーはしばし瞑目した。ルシエルもその隣に立ち、目を伏せる。
「小父さん、小母さん。ご無沙汰しています」
――そしてごめんなさい、と心の中で呟く。
間に合わなかった。
アルヴィーの母の命がある内に、二人を迎えに来たかった。
そうしていれば、アルヴィーがあのおぞましい《擬竜兵計画》の被験者となることもなく、戦争などに身を投じる必要もなかったのに。
(だからせめてファルレアンでは、僕がアルを守ります)
貴族たちの政争の具になどさせない。
道具のごとくその力だけを利用するような真似もさせない。
たとえあの幼い日々からどれだけ遠ざかろうと、幾多の戦場を踏み締めようと、こうして二人、ただ隣に立つために。
静かな誓いを終え、ルシエルは顔を上げると、魔法式収納庫に手を掛ける。
「アル」
促すと、アルヴィーも目を開き、頷いて同じく魔法式収納庫を開けた。中から取り出したのは小振りだが色鮮やかな花束。ここに眠る村人たちに捧げるために、ディルで買い求めておいたものだ。魔法式収納庫に入れておいたおかげでまだ生き生きとしたそれを、両親の墓を筆頭にすべての墓にそっと置いていく。いくつ用意すれば良いかは、アルヴィーの脳裏に刻まれていた。あの災禍の後、彼も含め、生き残った村人たちはこの墓地に入り浸るようにして、協力し合い家族や友人の墓標を立てていったのだ。その間に墓標の数も覚えてしまった。
刻まれた名を見ていくと、十歳になる前にこの村を離れたルシエルには、馴染みのないものもある。つまりは、その後に生まれた子供だったということだろう。
(まだ小さかったんだろうに……)
せめて安らかな眠りであるよう願いながら、ルシエルはそこにも花を捧げた。
すべての墓に花を捧げると、二人は再びアルヴィーの両親の墓の前に並び立つ。
「――じゃあ……俺、もう行くよ。ファルレアンに、戻らないと」
アルヴィーの“戻る”場所は、もはやこの村ではない。確かにここで生まれ育ちはしたが、ここにはもう帰りを待つ者も、守りたい大切な者もいないから。
森の獣がやがて独り立ちし、親の縄張りを離れて自身の縄張りを持つように。アルヴィーが生きる場所は、すでにファルレアンに移っているのだ。
ほんの少し目を伏せ、そして顔を上げたアルヴィーは、振り切るように身を翻し、両親の墓に背を向けた。
「……戻ろう、ルシィ」
「うん」
二人の墓に黙礼し、ルシエルもアルヴィーを追って墓地を後にした。
通る者もなくなって久しい道を辿りながら、アルヴィーは変わり果てた故郷を脳裏に刻み付けるように眺める。シルヴィオやジェラルドの忠告通りなら、この先はまた、ここを訪れるような暇も当分なくなるのだろうから。
レクレウス軍が切り拓いたとはいえ、元々さして大きくもなかった村の跡を、二人は程なく通り抜けた。村外れの小さな丘を、眩しいものを見るような眼差しで一度だけ見上げ、二人はそのまま、ディルへと続く道を歩き始める。
振り返ることは、なかった。




