第42話 鋼の砦
ごうごうと風が唸り、頬を切るように冷たい空気が身を打つ。地上一〇〇〇メイルを超える高度を、アルヴィーを乗せた飛竜は一路西へと真っ直ぐに飛んでいた。
途中の山々も無視できる高度は、当然ながら気温が低い。だがその分空気は澄みきって、これから戦場となるかもしれない場所へ向かうという高揚を程良い具合に冷ましてくれる。
「――もうすぐレドナ上空です!」
騎手を務める騎士がアルヴィーに告げた。こういう環境下での声出しに慣れているのか、吹き荒れる風の隙間を縫うように、不思議とはっきりと聞き取れる。アルヴィーは頷き、右手を伸ばした。肩から深紅の翼が広がり、袖から出ている右手の甲も見る間に鱗に覆われる。骨格も変化し、左手に比べるとごつごつと節くれ立った、人間離れしたものに変わった。もっとも、騎手は前方に集中しなければならないので、その変貌を目にすることがなかったのは幸いかもしれない。
その時、ゆっくりと――と見えるのは高度があるせいで、実際はとんでもない速さのはずだが――後方に流れていく眼下の景色に、一つの街が飛び込んでくる。アルヴィーは目を細めた。
オルグレン辺境伯領カーサス地方、レドナ。かつてアルヴィーたちがレクレウスの兵士として潜入し、炎で蹂躙した街だ。そして、三人の僚友が散った地でもある。
遠目に見るレドナは、それなりに復興が進んでいるように見えた。アルヴィーが盛大に破壊した覚えのある、街を囲む高い壁は、再びその高さを取り戻しつつある。その様子を、アルヴィーは感慨と共に眺めた。
今度は、あの街を守るために戦うのだ。
レドナはあっという間に近付き、そして眼下を通り過ぎていく。
「これよりレクレウス領空……敵影なし!?」
目を凝らし、騎手が叫ぶ。アルヴィーも地上を見渡したが、確かに軍の隊列らしきものは見当たらなかった。
だが、さらに飛んでいると街道の遥か先――かすかに動く影を、アルヴィーの双眸が捉える。
「……いた」
距離にして数ケイルほど。森に沿うように伸びる街道上を、何か大きなものを囲んだ一団が確かにこちらへと進んで来る。だがその規模は、お世辞にも大きいとはいえなかった。侵攻の本隊ならば、隊列がもっと前後に伸びていて然るべきだ。
つまりは――。
「こっちは囮か」
口にして、それでもどこか安堵した自分に、アルヴィーは気付いていた。
(陽動なら魔動機器だけ壊して後は放っとけって、言ってたもんな)
もちろん、必要ならば人をこの手に掛ける覚悟もしてきたし、それが自陣営にもたらす利も分かっている。それでも、人に向けるにはいささかどころではなく強大な力を揮う時が、わずかばかりでも先延ばしされたことに、アルヴィーは安堵したのだ。
「高度落としてくれ! 俺が飛び下りたら一旦離脱!」
「は、はい!」
騎手に指示しつつ、搭乗用装備を外す。まだ騎乗に不慣れなアルヴィーの腕では、高速で飛行する飛竜に乗ったままでは上手く狙えないのだ。単独で地上に降り、魔動機器を《竜の咆哮》で破壊するのが一番確実だった。
飛竜がぐっと高度を下げ、森の木々を掠めるような低空飛行に入る。そこでタイミングを見計らい、アルヴィーは飛竜の背から飛び下りた。
「ご武運を!」
激励の声だけを残し、騎手は再び飛竜を上昇させる。アルヴィーは木々の梢をクッション代わりに盛大にへし折りつつも、その身体強度に物を言わせて無傷で地上に降り立つことに成功した。
「……おいフラム、無事か?」
「きゅ!」
胸元に収まっていたフラムの良い返事に安心し、アルヴィーはすぐさま走り出す。
もちろん、そのダイナミックな着地を敵軍が見逃しているはずもなく、急いで迎撃態勢を整えていた。
「――く、来るぞっ! 総員、防御陣形!」
「障壁を張れ!」
「弾幕だ! 足止めしろ!」
指示が飛び交い、まず魔動小銃の一斉射撃がアルヴィーに襲い掛かる。アルヴィーは足を止め、《竜の障壁》で防御した。まだ兵の一団までは数百メイルほどの距離がある。
「よしっ、足を止めたぞ――」
小さく歓声があがったその時、アルヴィーは障壁を解き、同時に右腕を突き出した。
「――《竜の咆哮》!」
放たれた光芒は、数百メイルの距離をほぼ一瞬で貫き、ついでに何重にも重ねて張られた魔法障壁もあっさりぶち抜いて、その奥に守られていた魔動機器を直撃、貫通した。
ボン、と音を立て、魔動機器が小さく爆発を起こす。周囲の兵士たちは狼狽し、身を投げ出すように地面に伏せた。
「……お、射線開いた」
そしてそれは、アルヴィーにとっては願ってもない状況だ。追加で二発ばかり《竜の咆哮》をぶっ放し、魔動機器と台車を完膚無きまでに破壊した。体積が半分以下になった状態では、多少予備部品を持っていたとしても修理はできまい。
(よし、こっちはこれくらいでいいな)
止めとばかりに兵士たちの眼前の地面を《竜の咆哮》で薙ぎ払って吹っ飛ばす。脅し兼足止めというところだ。
一応レドナの方に報告だけは入れることにして、アルヴィーは空に向けて大きく手を振る。すぐに飛竜が舞い下りてきたので、そちらに駆け寄った。
「魔動機器は破壊したし、足止めもしてある。レドナに報告だけ入れて、このままファレス砦に回ろう」
「了解しました!」
再び搭乗用装備を着けて飛竜に騎乗すると、飛竜は力強く空に舞い上がる。レドナ上空まで戻ると、予め用意してあったのか、騎手が金属製の筒のようなものを投げ落とした。筒は途中で落下傘を開き、街中に吸い込まれるように落ちていく。訊いてみるとそれは通信筒といい、その中に通信文を入れて投げ落とすためのものだそうだ。飛竜乗りには必須のアイテムらしい。
報告も済ませ、飛竜は大きく旋回すると、遠く南の空へと消えていった。
◇◇◇◇◇
「――ほう。街道側は囮だったか」
「は。現地からの情報によると、王都から派遣された《擬竜騎士》が、レドナに向けて行軍中の敵部隊と交戦。敵部隊が所持していた魔動機器の破壊に成功したそうです。確認のために出撃したレドナ駐留部隊によると、敵部隊は数十名程度と見られ、駐留部隊とは交戦することなく撤退して行ったと」
「ふん、まあそうだろうな。たかだか数十人では戦いになるまい……それにしても《擬竜騎士》、か」
どこか苦々しげに、男は最後の一言を吐き出した。
赤みを帯びた茶色の髪を短く刈り上げ、鋼を思わせる銀灰色の双眸は鋭い光を湛えている。逞しくも均整の取れた、野生の肉食獣のような体躯と精悍な容貌は、彼を四十代前半という実年齢よりずいぶん若く見せた。
「レドナを派手に食い荒らした相手を叙任するとは、中央もなかなか思い切ったことをする」
「ですが、確かに戦闘力は大したものです」
「戦闘力は、な。だがまだ二十歳にもならん子供だ。おまけに元敵国の兵士。――そんな輩などに、このファレス砦の防衛の一端を任せねばならんとはな」
獰猛に唸る獣のような声音で、彼はそう吐き捨てた。
「このファレス砦の守人の任は、代々我らムーアグロート家が受け継いできた役目。中央にとて、それを侮られる謂れはないぞ」
「仰せの通りです。しかし、敵が魔動巨人を出して来る可能性が高い以上、《擬竜騎士》はそれなりに役に立ちましょう」
「ふん……力に驕るような愚か者であれば、ここでせいぜい揉んでやろうではないか。――これまでは街道側が主戦場であったがゆえ、このファレス砦では小競り合い程度の戦闘しか起こらなかったが、今回は違う。ここが“鋼の砦”と呼ばれる所以を、レクレウスの犬どもに知らしめてやるとしよう」
唇を歪め、彼は踵を返して歩き出す。マントを翻し肩で風を切って歩く主に、部下も無言で付き従った。
イライアス・ヴァン・ムーアグロート辺境伯。国の南西部に位置するムーアグロート辺境伯領の主にして、このファレス砦の司令官でもある。ムーアグロート辺境伯家は国内でも武断派として名高いが、そんな家の血を十二分に受け継いだ彼が、この度の戦争においておとなしく領主などやっているわけもなかった。領地を息子に任せ――丸投げともいう――自身はこのファレス砦で陣頭指揮を執っている。
大陸環状貿易路から枝分かれした南部街道、その途上にそびえるのがファレス砦だ。その風貌は、他の砦とは一線を画していた。通常、砦というのは《魔の大森林》のラース砦のように独立した建造物であることが多いが、このファレス砦は山肌と融合したかのような特異な姿をしている。山から切り出した石材で組まれた城壁が何層にも連なり、それらは多数の階段や通路で結ばれていた。その合間に山の木々の緑が映え、意外なまでの調和を生み出している。イライアスが先ほどまで立っていたのも、そうした城壁の一つだった。山を利用して造られた砦だけあって、ここは見晴らしが抜群に良い。
そしてこのファレス砦の前方三ケイルと五ケイルの地点には、地系統魔法によって塹壕が築かれ、敵兵力の歩みを食い止める。攻城兵器の類は間違いなくここで足止めを食らい、よしんばそこを越えられたとしても、その向こうでは砦に備え付けられた魔動兵装の弾幕が待っているという寸法だ。
レクレウス軍が魔動巨人を持ち出してもこの砦を落とせない理由はそこにあった。魔動巨人の鈍重さでは幅広く掘られた塹壕を越えられず、そもそも魔動砲が届くところまで近寄れないのだ。それでもレクレウス側は何とか塹壕を突破して魔動巨人の進路を拓こうとし、砦に立てこもるファルレアン側はそれを妨害するべく、魔法士を中心とした小隊規模の部隊を複数編成して奇襲を仕掛け塹壕を修復するという、いたちごっこのような小競り合いを繰り広げていた。
(しかし、魔動巨人をこれ以上出して来られては、さすがに厳しいな……応援が来るまではしばらく掛かるであろうし、魔動兵装の稼働数を増やすか……)
思案しながら、イライアスは砦内部に戻った。城壁の中も通路となっており、山体内部に掘られた通路や部屋を結んでいる。ここはかつて鉱山だったという過去があり、その当時の坑道がそのまま利用されている形だ。間違っても落盤などしないよう内壁も魔法で強化してあるので、堅牢さという点では群を抜いていた。
通路を迷いなく進み、自身の執務室に戻る。地下壕という特性上窓はないが、天井を高く取ってあるのと外から植物を持ち込んであることで、圧迫感を和らげていた。
彼の執務室には、砦全体に指示を伝えるための設備がある。彼はそれを起動させ、口を開いた。
「……諸君。たった今、レドナから連絡が届いた。あちらの部隊は陽動であり、レクレウスの侵攻目標はこのファレス砦である可能性が高い。レクレウス側も戦力を集中させてくるだろう。――だが、このファレス砦は崩れん! “鋼の砦”の堅牢さ、レクレウス軍に存分に知らしめてやれ!」
一瞬の後、砦の各所で巻き起こった鬨の声が、山を揺るがさんばかりに響いた。
厚い土壁をものともせず、執務室にまで漏れ聞こえるその響きに、イライアスはわずかに満足気な頷きを見せる。このファレス砦は、王都からの人員が多い《魔の大森林》のラース砦などと違い、ムーアグロート辺境伯領出身者を始めとした、いわば土着の家の騎士たちが多く詰めていた。その分連帯も強く、ついでにイライアスの薫陶を受けたせいか好戦的だ。ファレス砦を“鋼の砦”たらしめているその堅牢な守りは、地理的条件だけでなく、そこに詰める騎士たちのそういった性分にも支えられている。
代わって具体的な部隊の割り振りや、応援部隊の到着予定時期などを発表し始めた部下の声を聞きながら、イライアスは湧き上がる高揚を抑えるように唇を歪める。それはまるで、狩りに赴く直前の狼を思い起こさせるような獰猛なものだった。
◇◇◇◇◇
国境へと無事に部隊を送り出し、再侵攻の第一段階をクリアしたのも束の間。国王グレゴリー三世崩御の報に、レクレウス王城は揺れた。
「そんな、まさか……! 陛下が……」
「お悪いなどとは聞いたこともなかったというのに」
「しかしよりによって、こんな時に……」
訃報を聞いた貴族たちの顔は、君主を喪ったということを差し引いても暗い。何しろ、タイミングがあまりにも悪かった。さあこれからファルレアンに再侵攻しようという矢先の訃報だ。これが国民や兵士たちに知れれば、士気が落ちること甚だしいだろう。今回の侵攻も大きく出鼻を挫かれることとなる。
そう考えた王太子ライネリオは、国王崩御の発表を遅らせることを強く望んだ。
「――今、陛下崩御の事実が知れれば、こちらの士気が落ちるのはもとより、ファルレアンも好機とばかりに攻めてくるだろう。ゆえに、陛下が崩御なされたことは今しばらく伏せておくべきだ!」
ライネリオの主張には、継戦派の貴族たちも同調していた。彼らにしてみれば、ここで侵攻を止めてしまうと物資などの需要が発生せず、それらを扱う商人たちからの賄賂が入らなくなるため、まだまだ戦争を続けて貰わなければ困るのだ。
「……では、此度の戦争の指揮は、これまで通り陛下の御名のもと、王太子殿下が実権を引き継がれるということでよろしいのでしょうか」
挙手してそう述べたナイジェル・アラド・クィンラム公爵に、ライネリオは得たりとばかりに頷いた。
「うむ、それが最も相応しかろう」
「ですが、このまま玉座を空けておくわけにもいきますまい。そこで表向きは陛下の崩御ではなく、譲位という形で殿下が新国王として即位なされてはいかがかと」
ナイジェルの提案に、ライネリオが興味を引かれたように眉を上げ、貴族たちがざわめいた。
「ほう?」
「クィンラム公、それは……」
「陛下の崩御を伏せたところで、他国との外交もございます。いつまでも陛下のお姿が見えなければ怪しまれましょう。ですから、体調不良を理由に王太子殿下に譲位され、陛下ご自身は病気療養に専念されているという形にするのです。王位を退かれての病気療養であれば、陛下がお姿を見せずとも怪しまれることはありますまい」
「ふむ……確かに」
「政務についてはしばらく、宰相閣下にお任せすればよろしいかと」
ナイジェルが話を振ると、宰相ロドヴィックも頷く。
「承りましょうぞ」
「陛下の崩御に伴う即位となると、どうしても混乱しているという印象を国民や他国に与えてしまいます。ですが譲位ならば、ある程度の余裕を持って代替わりしたという印象を与えることができる。ファルレアンも警戒して、すぐに攻め込むようなことはしますまい。とにかく、他国に付け込まれるような隙を作ってはなりません」
ナイジェルの補足に、貴族たちも納得の声をあげる。
「確かに……」
「それならば、前もって準備していたような印象を与えられるな」
「クィンラム公の仰ることももっともだ」
貴族たちとしても、自分たちの損になるわけでもないこの案は、賛同しやすいものであった。もとより大陸の国々の歴史を紐解けば、戦時中に崩御した国王の死を戦後まで隠し通した例など片手に余るほどあるのだ。
少なくとも道理は通っているナイジェルの提案に、ライネリオも頷いた。
「公の言ももっともである。宰相、早速そのように準備を進めよ」
「は、仰せの通りに」
「我がクィンラム家も情報操作にてお役に立ちましょう。此度の一件、外に漏れることはないとお約束致します」
「うむ、任せよう」
ナイジェルの進言に満足げに頷き、ライネリオはその双眸を野望にぎらつかせた。
(ついにこの時がやってきた。わたしが国王となるからには、是が非でも今回の作戦を成功させねば)
彼が国王に即位し、ファルレアンへの侵攻も成功したならば、新王ライネリオの権勢は揺るぎないものとなるだろう。そのために、ライネリオは今回の侵攻を何が何でも成功させる必要があった。必要とあらば、国庫からの支出増大も惜しまないつもりだ。何しろ国王となるのだから、財源の使い道とて好きに決められる。少なくともライネリオは、そう考えていた。
そしてふと思い付き、彼は傍らのロドヴィックに顔を向ける。
「……そういえば、国王として即位するならば王妃を娶らねばならぬな。国王だけで玉座に座るのも格好が付かぬ」
「左様でございますな」
王族の常として、ライネリオにはすでに婚約者がいた。継戦派の公爵家の娘で、確かに王太子の横に並べても見劣りしない美しい令嬢である。ただ、ロドヴィックから見ればお世辞にも賢いとは言いかねる令嬢でもあったが、もとより王妃に必要以上の教養など求めていない。下手に頭が切れる令嬢を迎えて、政治に口を出される方が面倒だからだ。
「わたしの即位と同時に婚礼も行おうと思うが、どうだ」
「は……よろしいかと存じます。ですが、式典は此度の作戦後になさった方がよろしいかと。戦時中に華燭の典では、姫も良い気は致しますまい。此度の戦争に勝利した後に式を執り行えば、それが何よりの平和の象徴となりましょう」
「ふむ……それもそうか」
納得した風情のライネリオに、ロドヴィックは内心胸を撫で下ろす。ただでさえ侵攻に際して莫大な戦費が必要だというのに、この上婚礼ともなれば、国庫の中身が急速に流れ出ていくのが目に見えていた。ひとまずその危機は避けられたという安堵だ。
会議が散会となり、各々が本来の職務へと戻って行く中、ナイジェルもその流れに乗って議場を後にする。その際、彼が宰相ロドヴィックとかすかに目配せをし合ったことに、気付いた者はいなかった。
ナイジェルはそのまま馬車で王城を後にし、従者を通じて御者に指示を出した。
「さて、客人をあまり待たせるわけにもいかない。――別邸の方へ」
「はい、畏まりました」
馬車はクィンラム公爵家の屋敷へと向かう道を逸れ、まったく別の方向へと進み始める。しばらく進むと、周囲にも屋敷が少なくなり、人の姿もなくなってきた。
この辺りは貴族たちの別邸が多く建ち並ぶ区画で、ナイジェルもここに一軒別宅を持っている。貴族たちが後ろ暗い会合や密会――所謂、表沙汰にできない愛人との逢瀬など――に使うことが多く、互いに詮索し合わないことが暗黙の了解となっているこの界隈では、どこが誰の屋敷なのかすら話題には上らない。そういった面がナイジェルにとっても都合が良く、ここに別宅を構えたのだ。
ナイジェルの別宅は、緑に囲まれた閑静な一画にあった。馬車が門に近付くと、門扉は小さな軋みをあげながらゆっくりと開いた。再び進み始めた馬車を呑み込み、門扉が再び閉ざされる。と、ほぼ同時にかすかに空気を震わせる羽音が聞こえてきた。
見る間に数を増したその音の正体は、蜂だ。しかしその大きさが尋常ではなかった。人の掌ほどもありそうな巨大な蜂が、上空から数十匹も舞い下りてきたのである。蜂たちは地上から三メイルばかりの高度に陣取り、屋敷の上空に広がって滞空を始める。それはまるで、侵入者を待ち受ける門番のようだった。
――敷地内に入った馬車は正面玄関の馬車寄せに停まり、乗客たちを降ろす。すると待ち受けていたかのように扉が開き、二つの影が一礼した。
「お帰りなさい、旦那様」
「こっちは何も変わりありませんでした」
顔を上げたのは相変わらず目元にベールを垂らした二人の銀髪の少女。ナイジェルの手駒たる《人形遣い》、ブランとニエラだ。
「そうか。周囲の警戒も怠っていないな?」
「大丈夫です。一通り“糸”を張ってますから、誰か入って来たら分かります」
「外はイグナシオが見回って、密偵っぽいのを何人か仕留めてました。あと、敷地の中もクリフの魔物が警戒してます」
「そうか、それなら良い。――客人は?」
「応接間です」
「分かった。行こう」
ナイジェルは頷き、広間を抜けて応接間へと向かった。機密保持の関係上、この屋敷には必要最低限の人間しか置いていないため、邸内は静かなものだ。ナイジェルと二人の少女の足音だけが響く。
程なく到着した応接間のドアを、ブランが叩いた。
「――失礼します。旦那様がお戻りになりました」
するとドアが開き、執事服を纏った初老の執事が一礼した。
「お帰りなさいませ」
「ああ、ご苦労だった。客人に新しい飲み物を。その後はしばらく下がっていてくれ」
「承知致しました」
執事は丁重に一礼し、室内の客人の方にも一礼して退室して行った。ブランとニエラもぺこりとお辞儀をしてドアを閉め、応接間にはナイジェルと客人だけが残される。もっとも、必要とあらばすぐに飛び込めるよう、彼女たちは出入口のすぐ傍に控えているはずだ。
そしてナイジェルは、にこやかに客人へと話しかけた。
「お待たせして申し訳ない。少々会議が長引きましてね」
「無理もありません、このような情勢では」
ソファから立ち上がり、同じく薄い微笑みを浮かべてそう答えたのは、ナイジェルより数歳ばかり若いと思われる青年だった。緑がかった黒髪を一部の隙もなく整え、切れ長の緑灰色の双眸が印象的な、やや彫りが浅くはあるがなかなか端麗な容貌の青年だ。シンプルだが見るからに仕立ての良い服装に身を包み、優雅な仕草で礼を取る。
「申し遅れました。わたしはヨシュア・ヴァン・ラファティーと申します。お目に掛かれて光栄です、クィンラム公爵閣下」
そう言って一礼する彼に、ナイジェルは着席を勧める。
「どうぞ、お掛けください。堅苦しい挨拶はここまでとしましょう」
「お気遣い、感謝致します」
双方ソファに腰を下ろす。そこへノックがあり、執事が紅茶を運んで来た。静かにカップを配り終えた執事が一礼して退室すると、ナイジェルは早速紅茶で喉を潤す。そしてカップを置き、ヨシュアと名乗った青年を見つめた。
「――さて、それでは早速、話を始めさせていただきましょう」
「ええ、こちらとしても望ましいところです」
ヨシュアはその顔に浮かべた笑みを消さないまま、膝に置いた両手を緩く組み合わせる。
「では、始めましょうか。この戦争を終わらせるための話を」
◇◇◇◇◇
レクレウス軍の侵攻部隊は、予定通りファレス砦至近の前線基地に到着すると、現地の部隊と合流し、早々に砦への進撃を開始した。
「――魔動巨人、起こせ!」
合図と共にゆっくりと台車の荷台から起き上がる巨体。総勢八体もの魔動巨人が次々と起き上がって動き出すその姿の迫力に、周囲の兵士たちは息を呑む。
「凄えな……あんなでかいもんが動くのか」
「おっかねえな……」
やや腰が引けている兵士たちを余所に、魔動巨人は重々しい足音を立てて進み始める。その鼻先には、幅十メイル近くある、対魔動巨人用の塹壕があった。
しかしファルレアン側も、もちろんそれを黙って見ているわけがなく、塹壕に設置された魔動兵装による砲撃が飛んで来る。光や炎、雷光が戦場の空気を斬り裂き、着弾の際の爆音が兵士たちの耳を乱打した。
しかし――魔動巨人の内二体が、それらの砲撃をものともせずに前に出た。他の魔動巨人とは違い、肩の部分の意匠に変化が見られるその魔動巨人たちは、他の魔動巨人や兵士たちを庇うように立つ。と、その両肩の部分に複雑な魔法陣が鮮やかに浮かび上がった。
そして、次の瞬間。
「――おおっ……!」
レクレウス兵たちの間から歓声があがった。ファルレアン陣からこれでもかと叩き込まれた砲撃――だがそれらは、二体の魔動巨人の眼前で見えない障壁に阻まれたかのように、次々と弾けて爆発を引き起こしたのだ。ひとしきり閃光と爆音が連鎖し、そしてそれが止んだ時、二体の魔動巨人は掠り傷すら受けずにそこに在った。
「こ、これは……」
「国境での会戦で損傷した魔動巨人を修復する際、使い物にならなくなった魔動砲を取り払った代わりに、魔法障壁の発生装置を搭載したのだ。魔動巨人の魔動砲の連発を喰らってもびくともせんほどの強度だ、ファルレアンの魔動兵装など、ものの数ではない。――ただ、そちらへ魔力を大分持って行かれるせいで、攻撃用の兵装は積めなかったがな。完全に防御特化の魔動巨人だ」
魔動巨人部隊の指揮官が、それでもやや誇らしげに説明する。そして部隊に向けて発令した。
「よし、防御型魔動巨人を押し立ててファルレアン陣内に突入するぞ!」
「魔法士隊、続け!」
魔法障壁を展開したまま、二体の防御型魔動巨人が歩き出す。焦ったファルレアン側の攻撃がより一層激しくなるが、いずれも空しく防御障壁に弾き散らされた。防御型魔動巨人の障壁の範囲と強度は凄まじく、その背後に隠れた形のレクレウス軍に何の痛痒も与えられていない。
そして――レクレウス軍がついに、反撃に転じる。
「障壁解除!」
「魔動砲起動。照準、ファルレアン軍塹壕」
魔動巨人の一体が、その肩に負う長大な砲身を塹壕に向ける。塹壕で指揮を執っていた騎士は、それを見て取るとすぐさま指示を出した。
「総員撤退! 装備に構うな、全力で逃げろ!!」
その指示に、塹壕に篭もっていた騎士たちは即座に脱出を開始する。しかしそれが終わりきらない内に、魔動巨人の魔動砲が火を噴いた。
――轟音。
太い光芒が塹壕に突き刺さり、さらに薙ぎ払うかのように塹壕を舐めていく。爆発が連鎖し、着弾した辺りを中心に周囲の地面を派手に吹き飛ばしていった。それに巻き込まれる形で、逃げ遅れた騎士たちが爆炎の中に消えていく。断末魔の悲鳴が響いた。
「よし、そのまま塹壕を崩せ! もう一発だ!」
指揮官の命令に、今度は別の魔動巨人が魔動砲を起動させる。放たれた光芒は、塹壕の別の箇所に突き刺さり、小爆発を起こしてその一帯を突き崩した。
「魔法士隊、地系統魔法を起動! 崩れた箇所を固めろ! 魔動巨人の足場にする!」
「了解、総員《土盾》を起動!」
魔動巨人の後ろに隠れる形で前進して来ていた魔法士隊が、唱和詠唱で《土盾》を発動。塹壕が突き崩された辺りを中心に、周囲の土が集められて固められ、見る間に幅十メイルほどの土の道が出来上がった。
「くそっ、こっち側に渡らせてたまるかよ……!」
騎士たちもわずかに残った魔動兵装や魔法で応戦するが、レクレウス側は防御型魔動巨人を先頭に立て、それらの攻撃を防ぎながら渡って来る。その後ろからは運搬用だろう、台車も渡り始めていた。
「第二防衛線に連絡を取れ! 向こうの魔動兵装も使うんだ!」
「できるだけ足止めしろ!」
騎士たちの間で指示が飛び交い、魔動巨人の操作術者を狙って矢継ぎ早に攻撃魔法が放たれる。だが、それらの魔法は魔動巨人の魔法障壁で、あるいはそれすら使われることなく、ただ魔動巨人の腕の一振りだけで容易く弾き散らされた。
「……やむを得ん! 第二防衛線まで撤退する!」
ついに指揮官が判断を下し、ファルレアン側は防衛ラインを大きく下げることとなった。第二防衛線は砦から三ケイル地点の塹壕だ。魔動砲の射程ギリギリの距離だった。
――前線での戦況は、もちろん砦で指揮を執るイライアスのもとにも随時届いていた。
「ふん、やはり魔動巨人をこちらに集中させて来たか……! しかし防御にも長けるとは、厄介な」
「砦の魔動兵装を使いますか」
「まだ距離が遠い。――だが、第一防衛線を抜かれたのなら、あと一ケイルも進めばここの魔動兵装の射程に入るな。いつでも使えるようにしておけ」
「はっ」
「まずはその障壁を張る魔動巨人とやらを黙らせたい。攻撃を集中させろ。魔動巨人本体を沈めることはできずとも、操作術者を排除できればそれだけで、魔動巨人はただの置物だ。とにかく撃ち込め。魔法障壁では、音や光までは遮れんからな。術者には充分堪えるはずだ」
「は、了解致しました」
魔動兵装の担当部署に命令を伝えるため、部下が離れて行く。イライアスは別の部下に尋ねた。
「……《擬竜騎士》は、レドナで敵陽動部隊を撃破した後、こちらに向かっているとのことだったな?」
「はい、飛竜で向かっているとのことでしたので、もうそろそろこちらに到着する頃かと」
「《擬竜騎士》は魔動巨人に当たらせる。奴も自分の役目はわきまえているだろう。《擬竜騎士》が到着したら、前線の騎士は下がらせろ」
「はっ」
部下が恭しく一礼した時。
「――も、申し上げます! 北方より飛竜が一騎接近! 《擬竜騎士》と思われます! 現在、この砦より北に五ケイルほどの位置を飛行中!」
その報告に、場がざわめいた。
「来たか。《伝令》を放て! 《擬竜騎士》に即時魔動巨人と交戦に入るよう伝達せよ! 前線の騎士は退避だ!」
「はっ!」
「さあ……これで潮目が変わるか?」
イライアスはそうひとりごち、自らも戦況をその目で確かめるため、マントをはためかせながら足早に執務室を後にした。
◇◇◇◇◇
風の唸りをも貫き、遠く聞こえる爆音に、アルヴィーは眉を寄せた。
「もう始まってるか……」
「仕方ありません、レドナからここまででも、かなり距離がありますし……あっ」
騎手が、何かを見つけて小さく声をあげる。
「何だ?」
「《伝令》です」
魔法により形作られた白い小鳥は、飛竜を恐れることもなくその速度に追従し、アルヴィーの肩に留まると声を吐き出した。曰く、砦に顔を出す必要はないので、そのまま戦場に直行して魔動巨人を相手取れということだ。基本的に、現地では砦の司令官の指示に従えと言われているので、これは一種の命令でもあった。
「【《擬竜騎士》了解。これより魔動巨人との交戦に入ります】――伝えよ、《伝令》!」
自身も覚えたての《伝令》を砦に向けて飛ばすと、アルヴィーは騎手に指示を出す。
「このままドンパチやってる上空まで飛んでくれ。着陸する必要はない。ある程度高度を下げてくれれば適当に飛び下りる。――あ、それとこいつよろしく。砦で部屋貰えると思うから、そこに放り込んどいて」
落ち着く先があるのなら、そこへ置いておいて貰えた方が良いので、フラムを運搬袋ごと騎手に渡す。もちろんきゅーきゅーと鳴いて嫌がったが、先ほどの魔動機器を壊すだけだった交戦とはわけが違うのだ。安全地帯にいるに越したことはない。
そして、砦の騎士たちとレクレウス軍が交戦している上空へと差し掛かると、アルヴィーは搭乗用装備を外し、右腕を戦闘形態に変えた。飛竜が高度を下げる。レクレウス側もさすがに気付いたらしく、迎撃の攻撃魔法を見舞われたが、《竜の障壁》で難なく防ぎ切った。
「――じゃあ、先に砦に行っといてくれ。俺はここを片付けてくから」
そう言って、アルヴィーは飛竜の背からひょいと飛び下りた。同時に、右肩の翼で周囲の魔力を集める。ほろほろと朱金の輝きを零しながら、彼は数メイルほど落下してその場に滞空することに成功した。
そして、先頭に立つ魔動巨人に狙いを定める。
「――《竜の咆哮》!!」
一閃。
戦場の空気を一条の閃光が貫き、魔動巨人に突き刺さる!
……だが。
爆炎が晴れたそこには、魔動巨人が変わらぬ姿で立ちはだかっていた。
「……あれ。威力足んなかったかな」
『それもあるかもしれんが、どうやらあれは魔法障壁を張っていたぞ』
アルマヴルカンの補足に納得する。自分とて魔動巨人の魔動砲を真正面から受け止められる魔法障壁を張れるのだから、魔動巨人に似たような機能が搭載されていても不思議ではなかった。そもそもアルヴィーを生み出したのはレクレウスの技術だ。アルヴィーがファルレアンに寝返った後、対応策を練られていてもおかしくはない。
とはいえ――。
「とりあえず撃ちまくる、ってのもアリだよな!」
アルヴィーの右肩、その翼が光を放ち始める。魔動巨人の攻撃で生み出されたのであろう炎、戦場のあちこちで燃え上がるそれが地面から引き剥がされ、アルヴィーの周囲で渦を巻きながら、右肩の魔力集積器官に吸い込まれていった。
「い、いかん! 撃て、撃ち落とせ!!」
唖然としていたレクレウス側の指揮官がはっと気付き、声を張り上げる。だがその時にはすでに、アルヴィーの方の準備は終わっていた。
――《竜の咆哮》!
朱金に輝く翼を背負い、アルヴィーは《竜の咆哮》を撃ち放つ。しかも一発では終わらない。二発、三発。一発だけでも魔動巨人の魔動砲に劣らない威力を秘めた光芒が、次々に魔動巨人の魔法障壁に突き刺さる。
果たして――アルヴィーの作戦は図に当たった。
「……見ろ! 魔動巨人が!」
「――馬鹿な……っ!」
敵味方、双方ともが呆然と見つめる中、魔動巨人の魔法障壁がついに突き破られ、《竜の咆哮》が魔動巨人の胸部を直撃した。炎が膨れ上がり、爆発。操作術者が吹き飛ばされ、魔動巨人の巨体が大きく揺らぐ。
アルヴィーは滞空を止め、地上へと滑るように舞い下りていく。その彼を狙って、別の魔動巨人の魔動砲が火を噴いた。
「《竜の障壁》!」
それを魔法障壁で受け止め、爆炎を突き破って地上に下り立つ。右腕の《竜爪》を伸ばし、魔動巨人に向かって地を蹴った。
先ほど障壁を貫きはしたが、魔動巨人自体はまだ生きている。止めを刺さなければならない。
「――う、撃てェ! 近付けさせるな!!」
悲鳴のような魔動巨人部隊指揮官の指示。だが、迎撃のため撃ち出された魔法は、アルヴィーの速度に追い付けず、彼が駆け抜けた直後の地面を吹き飛ばすだけに終わる。
「《竜の咆哮》!」
牽制のため、レクレウスの部隊の眼前の地面を《竜の咆哮》で薙ぎ払った。巻き起こる炎に、魔法士たちが慌てて下がる。
その隙を見逃さず、跳んだ。
高さ約七メイル――だが、一時的とはいえ空に留まる術を手に入れたアルヴィーにとって、その程度の高さはもはや障害にはならない。右手の《竜爪》が赤熱していくのを感じながら、彼は空を駆け、そして振りかぶった刃を振り下ろす!
――ズドン、と。
重々しい音と共に、肩口から焼き斬られた魔動巨人の右腕が、地面に落ちて転がった。
「……ば……化物か……っ!」
震える声で誰かが呟く。周囲の畏怖と恐怖の眼差しを浴びながら、魔動巨人の腕を斬り落としたアルヴィーは着地。未だ赤く熱を持つ《竜爪》を虚空に振るう。撃ち出された《竜の咆哮》が、魔動巨人の両足を薙いだ。関節部に直撃、魔動巨人が体勢を崩す。
素早く飛び退いたアルヴィーの眼前、魔動巨人が轟音と共に倒れ込んだ。
「まずは一体……と」
呟き、アルヴィーは倒れた魔動巨人の頭部を《竜の咆哮》で吹き飛ばした。
「う……うわああああ!!」
「退避だ! 逃げろ!」
「ま、待て! 逃げるな……!」
アルヴィーが見せた桁外れの戦闘力に、生物としての原始的な恐怖――死への恐怖が湧き起こったのだろう、魔法士や兵士たちが我先に逃げ出す。それを押し留めようとした指揮官に、アルヴィーは肉薄した。
――例え、裏切り者と呼ばれようとも。
その名を背負う覚悟はもうできた。
もとよりこの手は、すでに血に染まっているのだから――。
炎熱を纏う刃を、振るう。
一瞬の後、紅く輝く《竜爪》が、指揮官の胴体を腰から肩口まで斬り裂いた。
「…………!」
荒い息をつきながら、アルヴィーはほぼ両断された男の遺体を見やる。だがそれも一瞬、すぐに視線を上げた。戦場で自分を見失うことは、すなわち死に繋がることだから。
しかしその姿は、レクレウス軍から見れば次の獲物を探すように見えたらしい。悲鳴があがり、遁走する者がさらに増えた。逃亡を諌める指揮官が戦死したこともあり、恐慌は見る間に広まっていく。
四方八方から突き刺さる、恐怖に染まった視線を感じながら、アルヴィーは拳を握り締めた。
(……今は余計なこと考えるな。レクレウス軍を追い返すことだけ考えればいい……!)
この国を守るために。そして、親友の剣であるために。
アルヴィーは胸の中に蟠る澱みを吐息で押し流し、戦場へと一歩を踏み出した。




