第41話 再戦の狼煙
第六章開始。
よろしくお願いします。
追記:読み直したらちょっと時系列がおかしいことに気付いて修正入れました。
見直しって大事ですねorz
レクレウス王国の王都・レクレガンからファルレアン王国オルグレン辺境伯領第二都市・レドナに至る街道。大陸環状貿易路の一部でもあるこの街道は、オルタンス街道と呼ばれていた。そもそも大陸環状貿易路というのは、各国の首都や主要都市を結ぶそれぞれの街道を大陸規模で指す際の呼び名であり、それぞれの街道には個別に名前が付いているのだ。かつてはクレメンタイン帝国帝都・クレメティーラにも通じていたが、帝国の滅亡とそれによる領内での魔物の跳梁により、クレメティーラへと続く道は鎖され、代わりにモルニェッツ公国首都・ドミニエから第二都市ルサへ、そしてロワーナ公国首都・ラトラから第二都市トゥエンへと街道が付け替えられた。ルサとトゥエンはいずれも港町であり、その間は旧クレメンタイン帝国領を避けて海路が結ばれている。
オルタンス街道は国の南東部で国内の二大大河の一つ・アズー川と交差していた。旧クレメンタイン領辺境部の《神樹の森》を水源とするこの大河は、大きく蛇行しながら国の東部をほぼ縦断、魔物多発地帯と悪名高いサーズマルラの傍を掠めて、海へと流れ込むのだ。
そのアズー川に掛かる橋を、巨大な台車を伴った隊列が進んでいた。
レクレウス軍であることを示す灰緑色の軍服を纏った兵士たちが粛々と歩みを進め、彼らに守られるようにして数台の台車が大地を踏み締める。台車の荷台にはそれぞれ一体ずつ魔動巨人が載せられていたが、それに付き従うように、人の形をしていない魔動機器を載せたやや小型の台車があった。
魔動巨人よりは幾分サイズが小さい――だが縦横一メイル強、高さも一メイル近くあるそれは、見た目は濃い灰色をした四角い金属の箱だ。しかしその箱はよくよく聞けば、低い唸りのような音を放っていた。それを載せた台車は二台連なってちょうど隊列の真ん中に位置し、兵士たちも列を崩さないように進軍している。
「――良いか! 何があろうと、先走ったり遅れたりするな! 《エレメントジャマー》の効果範囲から少しでも外れれば、その部隊には連帯責任で罰を下すぞ!」
馬に乗った士官が、そう声を張り上げながら列の脇を行き来し、隊列を整えて回る。
台車で運ばれている魔動機器《エレメントジャマー》は、魔法防御や精霊避けの術式陣と同じ効果をもたらす機器だ。主に隣国の女王アレクサンドラの風精霊による情報網を阻害する目的で開発されたものであり、現在実用化されているものは対風精霊に特化している。もちろん、組み込んである術式を変えれば、他の精霊たちにも対応可能だ。この隊列で使用しているものは、効果範囲が十数ケイルに及ぶものだった。かつて情報部によってギズレ(元)辺境伯に供与されたものは、この小型版になる。それでさえ数ケイルの効果範囲を有し、しかも室内に置けるほどサイズが小さいという優れものだ。
しかし今回は、台車という運搬手段があることから、大型でより効果範囲が広いものが使われている。それにより隊列を丸ごと隠し、風精霊の目から逃れるためだ。
隊列は橋を渡りきると、オルタンス街道をさらに東へ。そして数十ケイルほどの地点で、分かれ道に差し掛かった。レドナへと至る直進の道と、南下するために街道から外れる道だ。隊列は予め決められていた通り、二手に分かれた。
《エレメントジャマー》を載せた台車の内一台が、数十名ほどの護衛の兵士と共にそのままレドナへと通じる街道を行く。そして本隊は、南下するための道に進み始めた。
いくら《エレメントジャマー》で誤魔化したところで、不自然に風精霊が立ち入れない領域ができ、しかもそれが移動しているとなれば、レクレウス軍が進軍していることはファルレアン側にも分かる。何しろファルレアン側も、《エレメントジャマー》の存在は知っているのだ。そこで、《エレメントジャマー》を二手に分け、ファルレアン側を混乱させようという作戦だった。レドナと南、どちらが狙いなのか絞りきれなければ、ファルレアンはとりあえず両方の防備を固めなければならないが、動かせる戦力には限りがあるため、一ヶ所に集中した場合より防備が薄くなる――それが狙いだ。
「――しかし、魔動巨人すべてに加えて《エレメントジャマー》の最上位機種まで持ち出しての侵攻とは……中央もいよいよ焦ってきましたね」
「仕方あるまい。これ以上だらだらと睨み合いを続けていても、戦費が嵩むだけだ。貴族はともかく、平民の生活が保つまいよ」
部隊を率いる下士官たちは低い声で囁き合う。
「今回の侵攻、陛下よりむしろ王太子殿下が乗り気だそうだぞ。まあ、そろそろ何か実績がないと、王太子の地位があっても厳しくなるからなあ……」
「厳しく、とは?」
「何だか、最近貴族の間で噂になってるらしいぜ。王家には実は、母親の身分が低いせいで公にはされてないけど、高位元素魔法士の姫がいるらしいって……」
「へえ、そんな噂があるのか……でもそれ、本当なのか?」
「さあな、だが本当であって欲しいよ。もっとも、貴族の家で下っ端の使用人やってる親戚からの又聞きだから、どうだかな」
「けどなあ、俺たちがこうして命懸けて戦ったところで、肥え太るのはどうせ王都でぬくぬくしてる貴族や商人の奴らばかりだろ……武器や食料を押さえてやがるからな、あいつら」
「まったくだ。俺たち兵隊は命を懸けさせられ、国元の家族は高い税金を掛けられ……」
「笑えねえよな、本当に」
戦争への懸念にいつの間にか生活の不満が混ざり、さざ波のように兵士たちの間に広がっていく。
「……そういや、こないだ国境戦で追い返された部隊、まだかなりの数が戻ってないらしいぞ」
「やられたのか?」
「いや、どうせ侵攻に嫌気が差して逃げたんだろ。噂じゃ、ファルレアンにとんでもない魔法士が付いたっていうし」
「おい、嫌なこと言うなよ」
「だけど何とか戻って来た奴の話じゃ、魔法一発で炎の壁ができたっていうぞ。指揮官も逃げたそうだからな」
「まあ国境じゃあ、そのまま逃げた方が利口かもなあ。軍だっていちいち辺境の集落を虱潰しに探すほど暇じゃないし、そういうところに転がり込めばまず見つからないだろ」
「辺境の村で男手は貴重だからな。それに辺境は、領主はほとんど面倒なんか見ないのに税はしっかり取るから、領民には嫌われてるしなあ。脱走兵が転がり込んでも、知らん顔で匿うくらいはやるぜ」
「――おい、何を話している!? 隊列を乱すな!」
士官の怒声に、下士官たちはそそくさと口を噤んで知らぬ顔をした。
そんな一幕はありながらも、隊列は一路、南へと進んで行く。
ファルレアンが誇るファレス砦――“鋼の砦”の異名を取る、難攻不落の砦へと続く道を。
◇◇◇◇◇
ファルレアン王国王都・ソーマは、数日ほど前から祭りの前のような、どこかふわふわとした空気に満ちている。
「……何かあるのか?」
アルヴィーが首を傾げると、ルシエルが教えてくれた。
「ああ、もうすぐ国主催のオークションが始まるんだ」
「あー……そういや前に何か聞いたな。けど、レクレウスが侵攻してくるかもしれないのにオークションなんかやるのか?」
「だからこそ、って側面もあるだろうけど。このオークションには他国の貴族や高名な傭兵団なんかも来るから、ファルレアンがレクレウスの侵攻を跳ね返しながらオークションも問題なく運営して見せれば、これ以上なく効果的に国力の高さを示せるからね」
ルシエルがそう言って紅茶のカップを傾ける。そんなもんか、と思いながら、アルヴィーも茶菓子を口に放り込んだ。ついでに、アルヴィーの肩に陣取り、首を伸ばして鼻をひくつかせるフラムにも欠片を分けてやる。
――現在二人がいるのは、クローネル邸内のルシエルの私室だった。この日ルシエルは非番だったため、かねてから魔法のレパートリーを増やすことを希望していたアルヴィーに魔法を教えるべく、彼を自宅に呼んだのだ。無論、前もって両親に打診した上でのことだが。母のロエナはもちろん、父ジュリアスも鷹揚に許可を出した。もっとも彼にとっては、今や高位貴族の注目の的となった《擬竜騎士》が、自分の息子と親しいことを改めて知らしめる意図もあるのだろうが。
ともあれそういうわけで、アルヴィーはクローネル邸を訪れ、ルシエルの自室でお茶などいただいているわけだった。ちなみにアルヴィーは非番ではないが、魔法の習得のためということでジェラルドに許可を貰っているので問題はない。どうせアルヴィーが出なければならないような事態が起きれば、問答無用で呼び出しが掛かるはずだ。
そして一息入れたところで、いよいよ目的の魔法の授業である。
「――とりあえず、《伝令》は覚えておこうか。そんなに難しい魔法じゃないし、覚えておくと便利だからね」
「おう、先生よろしくー」
「あのね……まあいいけど。――《伝令》は属性なんかの縛りが特にない、補助魔法に当たるんだけど……」
書斎から持って来た本を開き、アルヴィーに説明を始めるルシエル。さっきも言った通り、《伝令》はさほど難しい魔法ではないので、そう時間も掛けず覚えられるだろう。割と手軽な魔法なのに、レクレウスでは習わなかったのかと訊いてみると、レクレウスでは魔動通信機で事足りたから、という答えが返ってきた。なるほど、さすがは魔動機器大国の名をほしいままにするだけはあるということか。
「っていうか、魔法自体そんなに習わなかったぞ。《竜の咆哮》とかは《擬竜兵》になった時点でもう使えてたし。俺は《重力陣》だけ習ったけど、他の奴らは全然だった」
「何で《重力陣》?」
「だって便利じゃん、獲物狩った時に血抜きするのに。普通ならしばらく吊ってなきゃ血抜きできないけど、あれなら一瞬だぞ」
「ああ……猟師の思考だったんだね……」
そういえば彼は猟師の家系だったと、ルシエルは改めて思い出した。
「……まあ、それは今回は置いておくけど。じゃあアルは、使える魔法の種類自体はそう多くないってことかな」
「だな。ぶっちゃけ今までそれで事足りたし」
「だろうね……」
何しろ圧倒的火力である。防御なにそれおいしいの、と言わんばかりに真正面からすべてを吹き飛ばす力技の中の力技、それが《竜の咆哮》だ。それ以外の攻撃魔法など不要と考えてしまうのも、まあ分からなくもない。
そんな話なども交えながら、アルヴィーは《伝令》の練習を始める。
覚えやすい魔法というのは誇張でも何でもなく、一時間ほどでアルヴィーも白い小鳥を象った《伝令》を飛ばせるようになった。
「おおー、確かに便利だなこれ!」
「あまり距離が離れ過ぎていればともかく、街中くらいでなら充分使えるからね」
特に、そう遠くない未来にレクレウスからの再侵攻が予想される現在、アルヴィーが《伝令》を手軽に使えるようになることは大いに意味がある。彼が最前線に出るのはほぼ確実だが、《伝令》を使うことで最前線からでも情報を遅滞なく後方に送ることができるからだ。その情報を使って、作戦を臨機応変に組み変えることも可能となるだろう。
「じゃあ、これからはできるだけ《伝令》を使って連絡を取るようにしよう。練習にもなるしね」
「おう、分かった!」
新しい魔法が使えるようになったのが嬉しいのか、きらきらとした表情で頷くアルヴィー。幼子のようで何だか微笑ましい。
そこでふと、アルヴィーが思い付いたように口を開いた。
「そうだ。――なあ、ルシィ。俺、今剣の方も稽古付けて貰ってんだけどさ。一回相手してくんね?」
「ああ、打ち合いってこと?」
「うん。やっぱ、違う得物使う相手とも手合わせしといた方がいいよな」
「それはそうだね」
現在アルヴィーが習っている剣技は、《パタ》と呼ばれる特殊な剣を使うものであり、一般の剣とはやはり扱い方が違う。だがルシエルも含めて大多数の者は、ごく一般的な長剣を使っているので、そういった使い手と手合わせをして動きを掴んでおくのも有効な鍛錬となるはずだった。
そうと決まれば早速とばかりに、二人は外に出る。ルシエルは非番なので楽な服装だし、アルヴィーも上着を脱いで少しばかり身軽になった。軽く畳んで置いた上に付いて来たフラムを置いて、アルヴィーは右腕を戦闘形態に変える。右肩に広がる深紅の翅で形作られた翼が、日の光を受けて紅玉のように輝いた。
右腕に《竜爪》を伸ばし、アルヴィーの方の準備は整った。一方のルシエルも、鞘から愛用の魔剣《イグネイア》を抜き放つ。その明るい紅の剣身は、かつて《竜爪》としてアルヴィーの右腕にあったものだ。
「……そこそこ色が薄くなったな、それ」
「何回か使ったからね。――さ、やろうか」
特に気負いもなく、ルシエルは《イグネイア》を構える。アルヴィーも構えを取った。
どちらからともなく地を蹴り――二振りの竜鱗の剣がぶつかり合う。玲瓏とした澄んだ音が高く響いた。
アルヴィーとルシエルが以前に剣を交えたのは、戦場と化したレドナの街中だ。あの時は互いに敵対する立場で、二人は互いを親友と知りながら、刃を交わすしかなかった。
だが、今は違う。
数合打ち合い、跳び下がって距離を置く二人。相変わらずルシエルの剣は流麗だったが、対するアルヴィーの進歩も目覚ましかった。力任せに剣を振り回していたせいで無駄な動きや力みも多かった以前とは違い、その剣閃は鋭く、また重くなっている。腕から直接伸びている《竜爪》の特性を利用し、腕や身体全体の回転をそのまま攻撃の重さに変えることができるからだ。そこへ元から強化されている膂力が加われば、ルシエルといえど真正面からその剣を受け止めることは難しい。専ら躱すか受け流すことでやり過ごした。
「――あんまり全力出さないでくれない? 剣が折れそうだ」
「全部躱すか流すかしといて、言ってんなよなあ」
口を尖らせるアルヴィーだが、その眼に躍る光は楽しげだ。
「行っくぜ――」
再び剣を交わすべく、アルヴィーが地を蹴りかけた、その時。
「――待って、アル!」
ルシエルが鋭い声で制し、右手を頭上に差し伸べた。そこに舞い下りたのは、一羽の白い鳥。見紛いようもない。つい先ほどまで練習していた《伝令》だ。
白い鳥は嘴を開く。と、そこからジェラルドの声が流れ出た。
『アルヴィー、すぐに本部に戻れ。レクレウスが動いた』
二人ははっと顔を見合わせ、アルヴィーはすぐに右腕を通常状態に戻すと、フラムと上着を掻っ攫うように拾い上げた。
「悪い、ルシィ! 俺今から戻る!」
「分かった、僕も後から追いかける。どうせ緊急呼集掛かるから」
上着を羽織る間も惜しんで飛び出して行くアルヴィーにそう声をかけ、ルシエルも《イグネイア》を鞘に納めると、身支度を整えるために足早に屋敷へと戻って行った。
◇◇◇◇◇
静かに冷えた空間に、水音が反響する。
高い天井から伸びる幾本もの柱の間を、オルセルはゆっくりと歩いていた。冷ややかな、だが柔らかい光を投げる魔法照明が足元や周囲を照らしてくれているため、歩くのに支障はない。コツン、コツンと音を立てる靴は、今まで履いたこともないような良い品だ。
(……本当に、いいのかな……こんなに良くして貰って)
どこか落ち着かない気分で、オルセルは身に着けた服を軽く引っ張る。この服も靴も、この城の主だという姫君から与えられたものだった。
――オルセルが意識を取り戻してからしばらく後、ミイカも無事に目を覚ました。ひとしきり泣かれはしたものの、オルセルとゼーヴハヤルの姿を目にしたおかげか、彼女が割合すぐに落ち着きを取り戻したのはめでたいことだ。だが、その瞳が時折不安げに揺れることに、オルセルは気付いていた。
生まれ育った村は襲われ、おそらく壊滅状態。村人たちも無残に殺され、あるいは賊に攫われてしまった。自分たちも本来は、あのまま前者の仲間入りをしていたはずだっただろう。
ゼーヴハヤルが、村を訪れていなければ。
そして、偶然様子を見に来たという、この城の主に拾われていなければ。
意識を取り戻した兄妹を待っていたのは、腹ごしらえと身支度、そしてこの城の主との対面だった。対面といっても、一介の村人でしかない彼らが城を統べるような立場の人物を相手に頭を上げていられるはずがなく、ずっと膝をついて下を向きっ放しだったのだが。それでも、玉座に座しこの世の者とも思えないような美貌を優しげな笑みで飾った、銀髪の姫君の姿は二人の目に鮮やかに焼き付いた。
「――オルセル」
不意に響いた声ともう一つの足音に、オルセルは我に返った。慌てて頭を下げる。
「あ、ダンテ様! お帰りなさい」
「そんなに畏まる必要はないよ。我が君が認めた以上、君たち兄妹も僕と同じく、我が君の臣になったんだから」
「そ、そういうわけには……ダンテ様は騎士様なんですから。僕みたいな村人は本来、お側に寄ることさえ恐れ多いんです」
「真面目だなあ。まあ、おいおい慣れて貰えばいいか」
そう柔和な笑みを浮かべる青年は、ダンテ・ケイヒル。城の主レティーシャ・スーラ・クレメンタインに剣を捧げた、彼女の騎士だ。
彼はオルセルを促し、入口の方へと歩き出した。
この広大な地下研究施設の入口付近には、ついこの間まではなかった肘掛け椅子とテーブルが置かれ、簡素ながらも一応人が寛げるような空間になっている。ダンテはそのテーブルの上に、魔法式収納庫から出した本を次々と積み上げた。
「これは……」
「君が教えてくれた、例の廃屋の地下室から持ち出した書籍だよ。あそこはどうやら、過去にこの施設に関わっていた人間の別荘のような場所だったみたいで、関連する書籍が山ほど眠っていた。我が君にもご報告したところ、大層お喜びだったし、お手柄だよ、オルセル」
「それは……良かったです。持つべき人のところに戻ったんですね」
対面の時にオルセルたちは、レティーシャがクレメンタイン帝室の唯一の継承者であることを教えられた。そして、彼女がクレメンタイン帝国時代の物品を収集していることを聞き、オルセルは村近くの廃屋の地下書庫のことを伝えたのだ。どうやらダンテはその書庫の本を回収に行っていたらしい。
「百年前の大戦で、帝都にあった書籍なんかも大部分が失われてしまったから……あの地下室の書籍は、今となっては貴重なものなんだ。元の持ち主が保護の魔法を掛けていたんだろうね、状態も良い。我が君は早速書籍の検分を始められたようだけど、これは君が読むと良いから渡すようにと、我が君から言付かったものだ」
そう言って、ダンテは目を細める。
「我が君はオルセル、君が知識を得ることを求めている。――この研究施設の管理人としてね」
レティーシャの庇護を受け、この城内に住むことを許されるにあたって、オルセルとミイカにはそれぞれ役目が与えられた。ミイカは侍女の見習い、そしてオルセルはこの地下研究施設の管理人だ。管理人といっても、要は見張り役のようなものらしい。時折この研究施設から実験体が逃げ出すことがあるので、それを阻止・報告することが差し当たっての彼の役目とされた。
「今はまだ単なる見張り役だけど、知識を蓄えればゆくゆくは、助手としての役目もいただけるかもしれないよ。僕はそういう方面の知識はさっぱりだけど、君はあの地下室から書籍を持ち出して読むくらい、学ぶことに興味があるんだろう? だったら、それを伸ばせば良い」
「はい、頑張ります」
勢い込むオルセルを微笑ましげに見て、ダンテは地下を後にした。
彼を見送り、オルセルは早速椅子に身を預けると、手に取った本を開く。それはどうやら、魔法生物に関する書物のようだ。中でも、半分近くがとある魔法生物の記述で占められていた。
(――《ホムンクルス》か……)
人造人間。それは、この世界に元から存在した幻獣の一部にいるような魔法生物とは違い、人の手によって人工的に作り上げられた生命体だという。生まれながらにして膨大な知識を持ち、一生をフラスコの中で生きる存在。だがこの書物に載っているのは、どうやら魔法と錬金術を掛け合わせ、より人間に近いホムンクルスを生成するための方法のようだった。もっとも、内容が高度過ぎてオルセルには何が何だか分からなかったが。
(……これは、もっと勉強してから読んだ方が良さそうだな……こっちの方が内容が易しそうだ)
諦めて本を閉じたオルセルは、もっと平易な内容の本を見つけてそちらから読むことにする。おそらく主たちも、段階を踏んで内容への理解を深めていくことを望んでいるはずだ。
もちろん見張り役としての責務も忘れずに、本を読む合間にも施設内に目を走らせる。本のページをめくる音と水が流れ落ちる音だけが、この空間にも時が流れていることを教えてくれた。
――と、そこへ近付いて来るばたばたという足音。
本から顔を上げたオルセルは、椅子から立ち上がって扉を開けた。
「どうしたんだ、ゼル。そんなに急いで」
「よ、オルセル」
オルセルの予想通りだった訪問者は、だがこれまでとはずいぶん違う装いをしていた。黒を基調とした、まるで軍人が着る軍服のような上下に身を包んでいる。左胸には急所を守るためか、金属製の胸当て。そして背中には、彼自身の身の丈ほどもありそうな幅広の大剣を背負っていた。
「ど、どうしたんだ、その格好……」
するとゼーヴハヤルはけろりと、
「ん、ちょっとこれから戦闘に出ることになったんだ。それが俺のここでの仕事らしい」
「戦闘って……戦いに出るってことか!? それが仕事って……危ないじゃないか!」
「何言ってんだ、オルセル。俺が結構強いのは、オルセルも知ってるだろ?」
「それは……そうだけど」
「実はもうそろそろ出なきゃいけないんだ。ミイカにはもう会って来たけど、ここの場所が良く分かんなくてな。大分迷った」
確かに、この城の構造はなかなか厄介だ。しかも地下施設ともなれば、入口を探すだけでも一苦労だろう。実のところオルセル自身、ここには案内を受けて辿り着いたのだ。
「おっと、ほんとにもうそろそろ行かなきゃマズイ。じゃあな、オルセル。ちょっと行って来る」
「ああ……」
オルセルがこの地下研究施設の管理を任されたのと同様に、戦うことがゼーヴハヤルに与えられた役目ならば、オルセルが引き留めることはできない。ゼーヴハヤルが高い戦闘能力を持つことも分かっている。それでも、自分よりも年下の少年が戦いに赴くということに、心を痛めない理由にはならない。
「……無事に、帰って来るんだぞ」
せめてもとそう告げれば、ゼーヴハヤルはなぜか嬉しそうに破顔した。
「どうした?」
「へへ。ミイカもおんなじこと言ってたぞ。“怪我しないで帰って来てね”だってさ。さすが兄妹だな」
「そうか……だけど、僕もミイカも本当に、そう思ってるんだからな」
「分かってる。――じゃ、行って来るな!」
手を振って、ゼーヴハヤルは踵を返し駆けて行った。
「――おっそーい。先に行こうかと思ったわよ」
地上に戻り、集合場所である前庭に走り込んだゼーヴハヤルにそう声を投げたのは、腕組みをして傲然と立つメリエだ。ゼーヴハヤルはしたっと手を上げる。
「悪い。オルセルのとこ行くのにちょっと迷った」
「まあいいけど。――でもあんた、元々はそこで生まれたんじゃないの? 自力で出てっといて、何で迷うのよ」
「むう……実はオルセルとミイカに会うまでの記憶が、みょーに薄くて」
むむむ、と首を捻るゼーヴハヤルに、メリエはため息をつく。
「……ま、いいわ。さっさと行って済ませましょ」
「おう、そうだな」
二人は準備されていた乗騎に跨る。ベアトリスに与えられているものと同じく、ヒポグリフだ。騎乗のために剣を一旦魔法式収納庫に仕舞ったゼーヴハヤルが手綱を握り、メリエがその後ろに座る。
「……でもあんたさ、ほんとに乗れるの? こんなの」
「そこら辺は心配ない。――どうやら俺は、そういう知識は元からあるものらしいぞ?」
ゼーヴハヤルはその言葉の通り、ややぎこちないながらもきちんと手綱を取り、ヒポグリフを空に舞わせた。ふうん、と呟いて、メリエは思い出したように言う。
「そりゃそうか。ホムンクルス、だっけ? あんた」
「正確には“人型合成獣”とかいうやつらしいが。ベースは確かにホムンクルスって言ってたな」
けろりと返して、ゼーヴハヤルはヒポグリフの頭を巡らせ、方向を定めて飛び始める。
「――それで、俺たちはどこに行けばいいんだ?」
「最初はモルニェッツ公国を制圧して来いって、シアは言ってたわ。そうそう、あんたの大事な二人を殺しかけたあの賊も、元はそこの国が捕まえ損ねたせいで、こっちに流れて来た連中だって」
「そっか。――じゃあ、その責任は取って貰わないとな」
ゼーヴハヤルの声が冷え、黄金の瞳は酷薄にぎらりと輝いた。
「そのモルニェッツとやらの連中は、俺がやる」
「そ。ならあたしは、ヴィペルラートの方をやるわ。せっかくモルニェッツを制圧しても、ヴィペルラートに奪られちゃ意味ないもんね」
まるで菓子でも分け合うような会話を交わす二人を乗せて、ヒポグリフは真っ直ぐに空を翔けて行った。
◇◇◇◇◇
アルヴィーが騎士団本部に戻ると、すでにどこか緊迫した雰囲気が薄く漂い始めていた。
そんな空気の中を、真っ直ぐにジェラルドの執務室に向かう。
「――アルヴィー・ロイ、戻りました」
一応相手は上官なので、最低限の礼儀は払う。扉をノックして入室許可を得ると、何やら忙しく書き物をしていたジェラルドが顔を上げた。
「戻ったか」
「レクレウスが動いたって……」
「ああ。進軍を始めたのはこっちも掴んでいたから、一応西方騎士団の方で迎撃の編成はさせていたんだが、今しがた一報が入った。――どうやら連中、こっちの撹乱を狙う気らしい」
「撹乱?」
ジェラルドはああ、と頷き、
「パトリシア」
「はい。――少し、これを見てくれる?」
どうやらジェラルドは、パトリシアに説明を丸投げすることにしたようだ。心得たパトリシアは、大判の地図を出してきて自身の机の上に広げた。アルヴィーがそれを覗き込む。
「現在、ファルレアンとレクレウスが衝突している中で主な戦場は二つあるの。一つはあなたも知っているレドナや旧ギズレ領を含む、所謂“街道沿い”と呼ばれる地域。そしてもう一つが……ここよ」
彼女の細い指先が指し示したのは、二つの国の境目――その中でも海に近い、南部の地域だった。
「ここには昔からファレス砦という砦があって、今回もそこを拠点にレクレウスと睨み合いを続けていたの。今までは、街道沿いの方にレクレウス側の戦力が割かれていたから、こちらもそれに応じる形で、結果としてあちらが主戦場のような形になっていたけど……今回、レクレウスは街道沿いとこの南部、両方に侵攻して来たようなの」
「両方?」
アルヴィーは首を傾げる。
「でもその二地点、結構離れてるよな? ファルレアンはレクレウス領内に侵攻する気ないんだし、レクレウスからすればどっちか片方に戦力集中して、もう片方は防衛できる程度に抑えといた方がいいんじゃ……近けりゃそりゃ、両方に全力投入も有りかもしんないけどさ」
「まあ、こっちもわざわざ向こうに専守防衛宣言なんかはしてないからな。向こうにしてみりゃ、片方に戦力集中したところでもう片方を抜かれる、なんて可能性も考えなきゃならんだろう」
「あ、そっか……」
確かに、現在戦争中の敵国にご丁寧に専守防衛を宣言する国もあるまい。
「……だがまあ、現在のレクレウスの状況を考えれば、二方向に戦力を分散するのはきついはずだ。おそらくは、どっちか一方に絞ってると俺は見るがな。俺が“撹乱”と言ったのもそこだ」
そういえば、とアルヴィーも先ほどの言を思い出す。
「じゃあ何で片方に絞れないんだ?」
「連中が、例の精霊避けの魔動機器を使ってるからだ。おまえはあまり思い出したくないかもしれんが」
「……あれか……」
アルヴィーもそれを思い出し、何とも言えない複雑な思いに駆られる。何しろその魔動機器の稼働実験の結果、アルヴィーの故郷は魔物に蹂躙され、村人の大半ごと地上から消えることになったのだから。
「陛下の風精霊の情報網で“探れない”ポイントが二つあるんだよ。しかもその両方が移動してる。多分どっちかは囮だろうと、僕らは踏んでるんだけどね」
セリオが肩を竦めた。
「僕の使い魔も、さすがにここから国境まで飛ばすのは無理だ。――で、君の出番になるんだけど」
「俺? 何で?」
「今からすぐにレドナ方面に飛んで、その魔動機器を壊せ。そうすれば、風精霊からの情報が陛下に届くようになる。レドナが陽動であればそれで良し、おそらくそう人数はいないだろうから、後はレドナに詰めてる連中に任せてそのまま捨て置いて南に向かえ。だが――」
ひたり、上げられたジェラルドの視線がアルヴィーを射抜く。
「レドナの方が本命なら、その場で攻撃を仕掛けろ。できる限り敵兵力を削れ」
ひゅ、と息が詰まった。
「……それ、って」
「《竜の咆哮》で一掃して来いってことだ。おまえの戦闘力なら軽いだろう。――レドナはまだ、本来の防衛力を回復しきってない。そこへ集中的に攻め込まれちゃまずいからな。確かに人数送り込んで手厚くはしてあるが、レクレウスがそれをどう勘定するか分からん。防備が厚いと見て南部に狙いを絞るか、それとも多少の増員は無視してレドナに再侵攻するか、それは向こうの指揮官次第だ。だからおまえをレドナに先行させるんだよ。おまえの火力なら、レドナ側が陽動だろうが本命だろうが関係ない。真正面から吹き飛ばせるからな」
「…………」
アルヴィーは唇を引き結ぶ。ジェラルドの言うことは筋が通っていた。未だ復興途中のレドナに攻め込まれるわけにはいかない。レクレウスの狙いがレドナならば、何としても防衛しなくてはならないのだ。そして、それが可能な戦力を、ファルレアンは擁している。
もとより、アルヴィーは生体兵器。より多くの敵を斃し、より多くの味方を生かすための存在だ。
――何より、すでに決めている。
英雄の名声も裏切り者の悪名も、すべて受け止めて背負ってやると。
騎士として、親友と肩を並べて立つ、そのために。
「……分かった。やる」
一度何かを堪えるように瞑られ、そして開かれた朱金の瞳は、もう揺れなかった。
その様に、ジェラルドは小さく眉を上げる。
「何だ。肚を括ったか」
「そうしろって言ったのはそっちだ」
「まあ、そりゃそうか」
そう認めて、ジェラルドは一枚の書面をアルヴィーに寄越す。
「命令書だ。速やかに国境方面に向かい、敵兵力の規模を確認しろ。場合によっては交戦も許可する。今飛竜を用意させてるから、十五分で支度して発て」
「……了解しました」
命令書を受け取り仕舞うと、アルヴィーは踵を返した。
執務室を退出すると、すぐに自室に舞い戻って支度を始める。ここからは時間との勝負だ。
「ほら、こっち来い」
「きゅっ」
呼び声に駆け寄って来たフラムを左肩に乗せ、手早く纏めた手荷物は魔法式収納庫へ。そして自室を後に、足早に歩き出す。
レクレウス再侵攻の情報は騎士たちにも伝わっているのだろう、本部内もどこか慌ただしい空気が満ち始めていたが、アルヴィーの姿を見て誰からともなく囁き始めた。
「――《擬竜騎士》だ……」
「あいつが出るのか」
「国境戦線じゃ魔動巨人の魔動砲を止めたっていうからな……味方で良かったよ」
「一人で《下位竜》倒したって奴だろ?」
畏怖めいたものが混ざるざわめきを聞き流しつつ、アルヴィーは飛竜の待機場所へと急ぐ。飛竜とその騎手は、すでに待機していた。アルヴィーの姿を目にした途端、騎手は弾かれたように敬礼する。
「お、お待ちしておりました、《擬竜騎士》! この度、国境までお送りさせていただきます! お目に掛かれて光栄です!」
「……あ、ああ……ありがとう。えーと、レドナまでよろしく」
「はっ!」
ちょっと引き気味のアルヴィーに気付いていないのか、張り切って飛竜に跨る騎手。アルヴィーも搭乗用装備を着け、フラムを胸元に押し込むと、飛竜を怯えさせないよう気を付けながらその背に乗る。
「――では、出発します! しっかり掴まってください!」
騎手の声と共に、飛竜が翼を広げた。その巨躯がふわりと浮き上がり、力強く羽ばたいた飛竜は一路レドナへと針路を取る。
強まる風に目を細め、アルヴィーは真っ直ぐに前を見つめた。
◇◇◇◇◇
時は少し遡り、レクレウス王国王城。
「――そうか。もう進軍を始めたか……」
「は、今のところファルレアン側に気取られた様子もなく、順調とのことです。《エレメントジャマー》の使用により、ファルレアン女王の風精霊に対する対策も講じてございますので」
部下からの報告に、レクレウス国王グレゴリー三世は息をついた。
「ならば良いが……ライネリオは近頃、少々逸り過ぎておるな」
「早く戦争を終わらせたいという御心でございましょう」
「ふむ……まあ、上に立つ者には果断さも必要ではあるか」
何だかんだ言いつつ、彼も人の子、息子には甘い。無意識に息子を擁護しつつ、グレゴリー三世はいつものように執務へと向かう。
だが――その足どりが急に乱れた。
「む……!?」
「ど、どうされました、陛下!?」
よろけたグレゴリー三世に、臣下たちが泡を食って駆け寄る。崩れるようにその場に膝をついたグレゴリー三世は、そのままぐったりと倒れ込んだ。
「陛下! 陛下、お気を確かに!」
「医師を! 宮廷医師を呼んで来い!」
たちまち蜂の巣をつついたような騒ぎになり、医師を呼びに行く者やこの急報を告げに走る者たちがばたばたと走り回る。その様子は人々の耳目を集め、国王が倒れたという情報はあっという間に貴族たちの間にも広まった。
そして宰相ロドヴィック・フラン・オールトは、そうした貴族たちの中でも、最も早くその情報を耳にした一人だった。
「――何と、陛下が……!? して、医師は何と」
「は……一通り診察したところでは、どうやら頭部のご病気であろうと。――脳に影響を与える可能性があるため、治癒魔法やポーションでの治療も難しく、ご容態は芳しくないとのことでございます」
「そうか……」
目を伏せてそう呟くと、ロドヴィックは部下たちに指示を出す。
「陛下が臥せっておられる間は、儂が執務を代行せねばならん。急ぎの案件はこちらに回すようにと、文官たちに申し伝えよ。それと、王宮内の魔法防御の確認を。此度の件、何をおいてもファルレアン側に知られるわけにはいかぬ。万が一にも風精霊が入り込めぬよう、魔法防御を確実にしておかねば。無論、王宮内の使用人や文官たちにも緘口令を敷いておくように」
「はっ、仰せの通りに」
部下たちは慌てて散っていった。ロドヴィックは息をつき、それを見送る。
(当面は儂が代行を務めるとしても……おそらく王太子殿下が嘴を突っ込んでこられることであろうな)
気が重くなるのを感じながら、自らの執務室に向かう――と、
「先触れもなしに失礼致します、宰相閣下」
執務室の前で、部屋の主を差し置いて彼を迎えたのは、ナイジェル・アラド・クィンラム公爵だ。早くも今回の一件を聞き付けたのだろう。騒ぎが起きてから一時間も経っていないというのに、大した情報収集能力である。
「……相変わらず、耳の早いことだ。――入るが良い」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えまして」
幸い――と言うべきか否か、国王が倒れたことで王宮内、特に国政に関わる部署は大騒ぎになっているので、この辺りを大貴族がうろついていても、見咎められる可能性はいつもより低い。だがロドヴィックにしてみれば、ナイジェルとは秘めた結び付きを持つせいもあり、あまり人目に付いて貰いたくはなかった。
執務室に入り、部下たちが至急決済が必要な案件を回収して来るのを待つ間、ナイジェルと今後の計画について話し合うことにする。
「して……どうするつもりじゃ、これから」
「陛下がお倒れになった今、国を動かすのは宰相閣下です。それを利用しない手はない。ここで一気に、計画を進めてしまいましょう。必要な根回しはすでに済ませてあります」
「ふむ、周到なことよ。――王太子殿下についてはどうする」
「殿下には、これから起きることの責を負っていただくことと致しましょう」
まるでこの機を待ち構えていたかのように淀みなく答えるナイジェルに、ロドヴィックは少々鼻白んだが、今さら手を引くわけにもいかない。国を、領地を守るためにはもはや、彼と組んでこの計画を成功させるしかないのだ。
長年仕えてきた王家への後ろめたさを押し殺しながら、ロドヴィックは息をついた。
「……止むを得まい。――して、“あちら”との話は付いておるのか?」
「もう少し、というところでしょうか。ですが、妥結までにそう時間は掛かりますまい」
「左様か……」
頷いて、ロドヴィックは窓辺へと歩み寄る。城のほぼ中心部にあるこの執務室からは、城の外の様子はほとんど見えない。だが、建ち並ぶ塔の間からわずかに見える街に、彼は決意を新たにした。
――そう。
すべては、この国を守るためだ。
たとえ後の世で不忠の汚名を被ろうとも、今この時に祖国を、自身の故郷やそこに生きる民を守れればそれで良い。
「……相分かった。委細は公に任せよう。城の方は儂が引き受ける。いつでも動き出せるように、態勢を整えておいて貰おう」
「もちろんです、閣下」
「うむ。――では、この話はこれまでに致そう。儂も執務があるのでな」
「ええ、お時間をいただきありがとうございました。それでは」
ロドヴィックの執務室を後にしたナイジェルに、目立たないように待っていた従者がスッと付き従う。
「……宰相閣下にも話は通した。動くぞ」
「御意に」
慇懃に答える従者を引き連れ、ナイジェルは城館を出た。待たせていた馬車に乗り込み、薄く笑みを浮かべる。
(王家側の権勢が衰えるまでにもうしばらく時間が掛かるかと思っていたが、予想外に早く好機が巡ってきた。足元も大体固め終えたし、資金面も北方領を押さえた以上、さほど心配は要らない。後は機を見計らって、王家から政治の実権を奪う)
国王は病に倒れ、後継者の王太子ライネリオはあまりに実力不足で視野も狭い。宰相ロドヴィックが事態収拾に動くとはいえ、それも限度があるだろう。そして、もしグレゴリー三世が回復せずライネリオが即位した場合、中央集権志向が強い彼は、自身に権力を集めるため、貴族たちの権限を削りかねない。もちろんそれは、ナイジェルにとっては到底受け入れることのできない未来だ。
「――出せ。屋敷に戻り次第、各所に指示を出す」
「はっ」
謀を巡らせるナイジェルを乗せて、馬車は皮肉にも美しく晴れた空の下、静かに進み始める。
――レクレウス国王グレゴリー三世が昏睡状態に陥り、治療の甲斐なく崩御したのは、その十日後のことだった。
治癒魔法やらポーションやらが幅を利かせてる世界じゃ、脳外科手術なんて発達しませんよね……。
というわけで、この世界では脳・循環器系の病気は結構怖い病気です。




