第39話 人ならざるものたち
小さな軋みと共に、荘厳なまでに見事な彫刻が施された両開きの扉が、近衛騎士たちの手によってゆっくりと開かれていく。途端に空気が張り詰めた気がして、アルヴィーはそっと唾を飲み込んだ。
――ここは《雪華城》城館内部、謁見の間である。女王アレクサンドラの召喚に応じる形で登城したアルヴィーは、今まさに彼女への謁見に臨もうとしているところだった。
魔法で意識体だけを飛ばしてきたアレクサンドラには二度ほど会っているが、生身で顔を合わせるのはこれが初めてだ。しかも今日は、国を動かす高位貴族が居並ぶ中での謁見。緊張の度合いが違う。
(うう……帰りたい……)
この場に比べれば、砲火飛び交う戦場の方がまだマシな気がする。戦場とはまた違う意味で恐ろしいフィールドが、今目の前に広がっていた。
近衛騎士に身振りで促され、アルヴィーは内心おっかなびっくりで、謁見の間に足を踏み入れる。白の外壁と同じく白亜の柱が等間隔に並び、壁から床、天井に至るまで白で統一されたその空間は、要所を彫刻と金で装飾されたのみで、決して派手ではないがそれゆえに身が引き締まるような厳かな空気を漂わせていた。よく見ると微妙に色合いが違う白の石材を組み合わせ、幾何学的な紋様を描いてある床には、金の縁取りが施された淡いグリーンの絨毯が歪み一つなく真っ直ぐに敷かれている。それが伸びる先、床が数段分上げられ、同じく淡いグリーンの絨毯で覆われたその上に、玉座が鎮座していた。背後には王家の紋章を刺繍した幕が掲げられ、頭上では宝玉を連ねたようなシャンデリアがきらめく。
そして、背後に護衛の近衛騎士を従えて玉座に座すのは、この国を統べる若き女王アレクサンドラ・エマイユ・ヴァン・ファルレアン、その人だ。金糸の刺繍を施したアイボリーホワイトのドレスに身を包み、長杖を片手に、そのペリドットグリーンの双眸でアルヴィーを見つめている。
玉座近くには絨毯の道を挟む形で、すでに国の重鎮たる高位貴族たちが揃っていた。その中にはルシエルの父・ジュリアスの姿もあるが、生憎アルヴィーは彼とは一度話した程度で、とても親しいとはいえない間柄だ。緊張を和らげる役には立ってくれなかった。
「――《擬竜騎士》、前へ」
宰相の呼び声に、アルヴィーは絨毯を踏み締め歩き出す。玉座を戴く壇の前まで辿り着くと、ややぎこちないながらも何とかボロは出さずに、その場に跪き顔を伏せた。
「《擬竜騎士》、参りましてございます」
進行役を担う宰相の言葉に、アレクサンドラはかすかに頷く。
「始めましょう。――発言を許します」
この場では進行役の宰相を除き、彼女の許可がなければ挨拶のために口を開くことも許されないのだ。ルシエルから聞いた手順を思い返しながら、アルヴィーは口の中が乾くのを自覚しつつ口を開く。
「女王陛下におかれましては、ご機嫌麗しく存じます。《擬竜騎士》、アルヴィー・ロイ。お召しに従い、罷り越しました」
「よく参りました。まずは先日の任務、大儀でした」
「恐れ入ります」
正直、この程度の会話でもう胃がキリキリしそうだ。人を超えた身体能力や体力も、精神的緊張にはさして役には立たないようだった。
わずかな沈黙。堪りかねて思わず声を漏らしそうになったまさにその寸前、アレクサンドラの方が口を開く。
「……さほど時間もないことだし、手短に訊くわ。面を上げなさい。――騎士団の方から報告があったけれど、イムルーダ山で火竜より加護を受けたという話は、事実かしら」
「――はい」
アルヴィーの返事に、貴族たちがどよめく。何しろアルヴィーが帰還して騎士団に報告を上げたのがつい昨日のことだったので、まだ彼らには情報が行っていなかったのだろう。ジュリアスにはルシエルから話が行ったかもしれないが、まさかここできょろきょろ周りを見回すわけにもいかないので、その様子を確かめる術がない。
貴族たちの驚愕に構わず、アレクサンドラはさらに切り込む。
「そう。では、それがあなたの血筋が途切れない限り、五百年続くものであるということも?」
「……はい」
その言葉に、どよめきが大きくなった。貴族たちの方から刺すような視線をいくつも感じ、つい身じろぎしてしまう。
アレクサンドラは再び頷いた。
「今回のようなことは、この国……いえ、大陸中でも例がないことなの。わたしも含め、加護は受けたその本人一代のみ。子孫にまで及ぶ加護というのは、今回が初めての事例よ。そのことも含め、一度あなたと話をしておきたかったの。――“彼女”もね」
彼女はそう言って、長杖の石突きで床を叩いた。
「シルフィア」
瞬間――その眼前に風が渦巻いた。
「――うわっ!?」
いきなりの旋風に、アルヴィーは思わず頭を庇うように右腕を翳す。居並ぶ貴族たちも、その風に煽られたようにわずかに後ずさった。
「こ、これは……!」
「皆、下がれ!」
謁見の間が一気に混乱に陥る中、アレクサンドラだけは髪とドレスのスカートを派手にたなびかせながら、眼前で渦巻いているであろう風を見据えていた。
「あなたの目から見て、どうかしら」
すると。
『――そうねえ、なかなか面白い子だと思うわよ?』
風が収束し、その場に滲み出るように一人のうら若い女性が姿を現した。薄緑と金が絶妙に混じり合った長い髪がひらひらと踊り、耳の部分は鳥のそれに似た蜂蜜色の羽が伸びている。身に纏うのは輝石と羽で飾られた若草色の薄布のドレス。その裾や髪の末端は空に溶けたように薄れて透け、足先は床から明らかに浮いていた。
彼女はその美貌に笑みを乗せ、翠玉の双眸をにんまりと細める。細い頤に指を当て、少し首を傾げてアルヴィーを覗き込んだ。
『竜の細胞を取り込んだ人間なんて、わたしもさすがに初めて見たわ。右腕はもう、ほとんど竜のそれに変質しているわね。――しかも“古き竜”だなんて』
「“古き竜”?」
きょとんとするアルヴィーに、彼女――シルフィアはおかしそうにくすくすと笑った。
『あら、当のあなたが知らないの? この世界から神々が去る前、神代から存在した《上位竜》のことよ』
「あなたたち精霊と違って、人間はもう神代のことはほとんど知らないわ。貴族ならまだ歴史を学ぶけれど、彼は平民だからその機会もなかったはずよ」
『あらそう。人間は本当に、歴史を忘れるのが早いわね』
アレクサンドラが注釈を挟み、シルフィアは人間臭くため息をついたが、
『まあそれなら仕方ないわね。――かつてこの世界には、様々な力を司る神々がいたわ。だけど創世から長い時を経て、世界の運営に飽いた神々は、力や事象の管理をわたしたち精霊や妖精族、《上位竜》を始めとする高位幻獣種に託してこの世界を離れることにしたのよ。それが今から大体千年くらい前のことね。その頃から生きていた竜を特に“古き竜”と呼ぶの』
「千年……」
アルヴィーは唖然として呟いた。人間にしてみれば遥かな昔だ。だが、それまで神々が実際に存在していたのだと考えると、神代というのは意外と近かったのかもしれない。もっともアルヴィーは、今の今までそんな時代が存在したこと自体知らなかったが。
シルフィアは謡うように歴史を語りながら、空中でくるくるとステップを踏む。
『その頃にはすでに人間も存在していたけれど、今のような文明はまだ持っていなかったわ。もちろん魔法も然り。だから神々は、人間に知識や技術を伝えるため、自分たちの代理人のような存在を遣わしたのよ。わたしたちは《黒白の魔女》と呼んでいるわ』
「《黒白の魔女》?」
『そう。黒い髪、白い衣に身を包み、白の善良な性と黒の悪逆の性を併せ持つ魔女よ。神々から力を与えられた彼女は、時に人間たちに知識を与えて繁栄させ、時に国同士を争わせて滅亡を引き起こしたわ。でも、彼女もいつしか人間たちの中に紛れて姿を消してしまったの。今もどこかで人の世を眺めているのかもしれないし、もう役目を終えてこの世を去ったのかもしれないわね』
その存在については、高位貴族たちも知らなかったらしい。ざわめく声が聞こえる。
(……アルマヴルカンは知ってたのか? その《黒白の魔女》っての)
自身の中のアルマヴルカンに語りかけると、ややあって、
『……風の噂程度には。だが、わたしは人の世にはさほど興味もなかったのでな。詳しくは知らぬ』
(あー、そんな感じだよな……)
そんなことではないかと思っていたが、やはりアルマヴルカンは清々しいほどに人間の世界には興味がなかったらしい。本当になぜ街を襲ったりしたのかと、思わず突っ込もうとした時。
『あら!』
シルフィアが目を輝かせ、アルヴィーの目の前にぴょこんとしゃがみ込んだ。
『竜の意識があなたの中で生きているのね? 珍しい。片方がもう片方を取り込んで存在を保つのはよく聞くけど、両方が一つの身体の中で共存するなんて』
「最初に喰われかけたけどな……」
あまり思い出したくない記憶に、アルヴィーはげんなりと呻く。アルマヴルカンの声は基本的に他の人間には聞こえないが、さすがにシルフィアは精霊だけあって普通に聞き取れるようだ。ただ、彼女の声は周囲に聞こえているため、竜の意識云々の辺りでまた周囲の貴族たちが騒がしくなったが、もう気にしないことにした。
『ふぅん……だとすると、これ以上変に弄らない方が良さそうね。面白そうな子だから、エマほどじゃなくても少しだけなら加護をあげてもいいかと思ったけど。《上位竜》の意識に加護まで抱えているなら、下手に弄るとあなたの身体が保たないわ。風は炎を煽ってしまうものね』
シルフィアはそう囁いてふわりと宙に浮かび上がると、アレクサンドラの傍らに回り込んで肩越しに手を伸ばし、彼女を抱きかかえる。
『可愛いエマにも会えたし、火竜の欠片についてもそこそこ見極めたから、わたしはもう帰るわ。何か面白そうなことがあったら、また呼んでちょうだいね、わたしのエマ』
「ええ、あなたが望むなら」
『ふふ、きっとよ』
楽しげにそう笑って、シルフィアはそのまま姿を薄れさせると、一陣の風となって空に溶けた。
「……へ、陛下。今の女性は、まさか……」
大臣の一人が恐る恐る問う。アレクサンドラはあっさり、
「風の大精霊シルフィアよ。彼女も下位精霊や加護による縁のあるわたしを通して、我が国の《擬竜騎士》や今回の一件についてはある程度知っているわ。ただ、彼と直に顔を合わせてみたいと彼女が望んだから、こうしてここに呼んだの」
「なんと!」
滅多に――どころか普通ならまずお目に掛かれない存在に、貴族たちは大騒ぎになったが、アルヴィーはむしろそうなのか、程度の感覚だった。まあ、自分の中に《上位竜》を宿す上、ついこの間《上位竜》と遭遇したばかりだ。少々麻痺しているのかもしれない。
貴族たちの興奮もまだ冷めやらない内に、アレクサンドラは再びアルヴィーに向き直る。
「わたしの目的としてはこれで達したわけだけれど……今回のあなたの功績は大きいから、何らかの褒美を出さなくてはね。何か望みはあるかしら?」
「え……」
アルヴィーとしては任務のついで程度(それにしては大事になったが)のつもりだったが、国にしてみれば《下位竜》を倒し《上位竜》の怒りを鎮めたという今回の彼の功績は、無視するわけにはいかないのだ。何しろ、騎士団本部に出入りする文官などの口から、《下位竜》討伐の一件はすでに外に漏れている。さすがに《上位竜》の件の方は市民の動揺を避けるため伏せているが、《下位竜》討伐だけでも目覚ましい武勲といえた。となれば、それに相応しい褒賞を与えるのもまた、上層部の務めだ。こういった信賞必罰の姿勢は、地味に騎士たちの士気にも影響するのだから。
貴族たちもその辺りのことは理解しているので、異を唱える者はいなかった。ただ、アルヴィーが何を望むのかは気になるようで、息詰まるような沈黙が謁見の間を支配する。
ややあって、アルヴィーは口を開いた。
「それなら……俺の故郷に一度様子を見に行くことを、許してください」
その言葉に小さくざわめきが起き、アレクサンドラが目をすがめる。
「あなたの故郷は、もう廃村になったのではなくて?」
「……多分。とても暮らせるような状態じゃなかったし、戻ったところで誰もいないと思います。でも、せめて両親の墓にくらいは、ちゃんと報告をしておきたくて。――それにあの村は、レクレウス軍に前線基地として使われてたみたいだから、もし荒らされでもしてたらと思うと……」
故郷の村の件は、アルヴィーの心にずっと引っ掛かっていたことだった。特に、両親の墓に満足に挨拶もできずファルレアンに渡ったことには、心残りもあったのだ。もちろん、当時の状況を考えれば、それが土台無理な話なのは分かっていたが、それでも。
(だけど、ファルレアンの国民だってきちんと認められて、騎士団でも手柄を立てたら)
それは、ルシエルから聞いたことだった。元レクレウスの兵士であったアルヴィーには、しばらく風当たりも強いだろうし、故郷、つまり辺境とはいえレクレウス領内に立ち入ることなど許されないだろう。ただ、ファルレアン国民として認められ、誰もが納得する手柄を立てれば、もしかしたら――と。
さすがに両親の墓に参りたいという願いを批判するわけにもいかず、貴族たちも低く囁き交わしながらも表立って非難することはなかった。無論胸中では、何か裏でもあるのかと警戒しているには違いないが。
アレクサンドラは小さく息をつき、
「……分かったわ。認めましょう。――ただし、あまり長い期間はあげられないし、動きはできうる限り伏せて貰うことになるけれど」
そう言って、彼女は表情を厳しくする。
「レクレウスも、このまま動かずにいるということはまずあり得ない。近い内に、再度侵攻を企てることでしょう。今のレクレウスに複数の戦線で同時侵攻を掛ける余裕はないはずだから、街道沿いか南、どちらかにルートを絞ってくる可能性が高いわ。そしてあちらはおそらく、魔動巨人を前面に押し立てて来るでしょう。あなたには、それを迎え撃って貰わなければならない。だから、できる限り即応できる状態にいて貰わなければならないの」
彼女の言葉に、誰もが息を呑む。
「もちろん、向こうもわたしが風精霊たちから情報を得る可能性を考えて、妨害措置を取ってくるはずよ。例えば、ギズレ元辺境伯の一件で使われた、あの魔動機器のような」
「では、レクレウスに対する諜報活動を強化させましょう」
「ええ、頼みます」
騎士団長の進言に、アレクサンドラは鷹揚に頷く。そしてアルヴィーに視線を戻した。
「向こうが魔動巨人を前面に押し立てて来るように、わたしたちは《擬竜騎士》を矢面に立たせなければならないわ。たとえ祖国に弓を引かせることになるとしても。――理解はして貰えるわね?」
「……はい」
アルヴィーは少し、目を伏せる。もとより、それが彼の存在理由。彼は騎士であると同時に、生体兵器でもあるのだから。
そして、アレクサンドラの言わんとすることも分かる。アルヴィーがファルレアンの騎士として戦い、武勲を挙げるということは、すなわちレクレウスに損害を与えるということ。彼がレクレウスの出であることを知る者からは、裏切り者と忌まれることとなるだろう。
だが、それでも。
「――守れるものがあるんなら……名声だろうが悪名だろうが、俺は背負ってみせますよ」
英雄の名も、裏切り者の汚名も、甘んじて受ける。守りたいものが守れるのなら。
それは自分を英雄と呼んでくれた友であり、彼が剣を捧げた国だ。
顔を上げ自身を見据える朱金の瞳を、アレクサンドラは正面から見返す。自分と同じく、人ならざる存在の加護を受け、人を外れた力を得た者。決して烈しくはない、だが揺るぎなく静かに燃える炎のような光を湛えるその双眸は、守るべきものを背負い戦うことを決めた、覚悟ある者の眼だ。
アレクサンドラは頷いた。
「その言葉、信じましょう。あなたの武運を祈ります。――宰相」
「は。――これにて謁見を終了する。女王陛下、ご退出」
その言葉に、貴族たちが一斉に居住まいを正して頭を垂れたので、アルヴィーも急いでそれに倣った。すると、席を立つ気配と衣擦れの音。複数の足音が遠ざかって行く。アレクサンドラが近衛騎士たちのエスコートを受けて退出して行ったのだ。やがてその足音も聞こえなくなると、誰からともなく息をついて空気が緩んだ。
「……各々方、ご苦労であった。退出し、職務に戻られよ。――さて、《擬竜騎士》よ」
宰相ヒューバート・ヴァン・ディルアーグは、立ち上がりかけたアルヴィーに声をかける。立ち上がるタイミングがまずかったかと慌てるアルヴィーに、そうではないと軽く手を振った。
「そなたには感謝せねばな。おかげで我が領地が守られた。《上位竜》はもとより、《下位竜》もそなたが倒さなければ、山を離れて領内の集落を襲っていたやもしれんからな」
実際、もしあの《下位竜》が《上位竜》の追跡を逃れ得たとしても、ほとぼりが冷めてなお山に篭もっていたとは限らない。糧を求めて近くの町や村を襲っていた可能性も充分にあったのだ。そうなる前にアルヴィーがイムルーダ山を訪れたのは、まさしく僥倖といえた。
国内でもほぼ頂点に近い地位の大貴族に謝意を述べられ、アルヴィーはまたしても緊張に固まる。そんな彼を救ったのは、聞き覚えのある声だった。
「失礼致します、閣下」
「おお、クローネル伯か」
「お話し中割り込みまして申し訳ありませんが、彼といくつか話しておきたいことがありまして。よろしいですか」
「うむ、儂もそろそろ職務に戻らねばならぬのでな。――では、《擬竜騎士》。これからも良き働きを期待しておるぞ」
そう言い置き、ヒューバートは去って行く。大きく息をつき、アルヴィーはジュリアスを見た。
「……どうも、ありがとうございます」
「何、話があるのは本当のことだ。例の《下位竜》の素材の件など含めてな。――だが、まずは場所を変えよう」
確かに、謁見の間に長々と居座るわけにもいかない。アルヴィーはジュリアスに促されるまま、謁見の間を後にするべく歩き始めた。
◇◇◇◇◇
『――おい、大丈夫か?』
背中越しにかけられた、声。
きっとあの時から、彼女は彼に恋をしていた。
「んもう……このお城、分かり難いなあ」
メリエ・グランは、《薔薇宮》の外回廊を歩いていた。つい先日目覚めたばかりの彼女は、宮殿内に一室を与えられ、身体機能や戦闘力の回復に取り組んでいるのだ。
彼女の身を包むのは、どこか軍服を思わせる意匠の衣服。ただ、かなり斬新なアレンジがなされている。裾の長い深紅の上着は、魔力集積器官の発動の邪魔にならないよう、肩の部分を大きく切ってあるし、前身頃に至っては腰上辺りまでしかなく、前が大きく開いたデザインだ。その下にはショートパンツと膝上まであるロングブーツを合わせてあった。
ブーツの踵が立てるコツコツという音を聞きながら、メリエは立ち並ぶ柱越しに外の景色を眺める。今まで見たこともなかったような、広大な城だった。風化し一部は崩落しているものの、それらは不思議と見苦しい印象はなく、むしろこの城の上に降り積もった時の流れを感じさせる。いずれにせよ、本来メリエのような平民の娘が足を踏み入れることなど、あり得ないような場所であるのは確かだった。
(レクレウスにいた頃は、こんなお城なんて縁がなかったもんね)
メリエとて好奇心旺盛な年頃の少女、この広大な宮殿を散策してみたいと思わないわけではない。だが今は差し当たり、向かうべき場所があった。二つに結った長い榛色の髪をなびかせ、メリエは足を早める。
やがて彼女が辿り着いたのは、宮殿の中庭を見下ろす場所だ。眼下には瀟洒な猫足のテーブルと椅子が設えられ、銀髪の美女が侍女の給仕を受けながら、ティータイムを楽しんでいるところだった。それを見つけるや否や、メリエはためらうことなく宙に身を躍らせる。
「――来たわよ、シア。それで、何か用なの?」
十メイル近くある高さから猫のように身軽に飛び下り、メリエはブーツを鳴らしてテーブルに歩み寄る。その遠慮のない態度に、侍女――ベアトリスが眦を吊り上げた。
「あなた、姫様に何て口の利き方――」
「構いませんわ、ベアトリス。彼女はわたくしの娘のようなものですもの」
「……姫様がそう仰るなら」
不承不承ながら、ベアトリスは矛を収め、楚々とした身のこなしで主たるレティーシャの後ろに控えた。その様子ににっこりと微笑み、レティーシャはメリエに視線を向ける。
「あなたも、そろそろこの宮殿内だけでは退屈でしょう。それにここでは、全力での戦闘訓練はできませんものね」
「そうね。ここでできるのは剣の訓練くらいだもの」
メリエは戦闘訓練として、ダンテから剣の手解きを受けていた。だが、彼女たち《擬竜兵》の真価は、何といってもその膨大な魔力に裏打ちされた、圧倒的なまでの火力だ。しかし宮殿内で《竜の咆哮》など撃つわけにもいかず、魔法についてはほとんど訓練できていないのが現状だった。
「でも、この近辺に全力で戦えるような相手なんていないじゃない。宮殿の周りうろついてるアンデッドも弱いし、むしろ臭いが酷いから近寄りたくないわ。それともあれ、焼き払っていいの?」
メリエが弱いとばっさり切って捨てた宮殿周辺のアンデッドは、人間であれば熟練の傭兵が一個小隊ほどの人員で掛かって何とか倒せるか、というレベルである。それが百体単位でうろうろしているのが、現在の宮殿周辺の状況だった。なまじの腕ではこの宮殿に近付くこともできまい。
つまらなさそうに口を尖らせるメリエに、レティーシャはころころと笑う。
「さすがにそれは、ラドヴァンが嫌がりますから止めてくださいな。――実は、このクレメティーラ周辺に、近頃性質の良くない賊の集団が住み付いたようですの。あなたには、それを討伐して貰いたいのですわ」
「賊?」
「ええ、どうやらモルニェッツ公国の方から流れて来た者たちのようですわ。このクレメンタイン帝国領は本来わたくしの領土ですが、あの大戦後、大陸の国家間では“国の存在しない空白域”という認識ですから、秩序を嫌った無頼の者たちが流れ込んで来ますの。――ですが、先ほども申しました通り、ここはわたくしの領土。そのような者はこの地に必要ありません」
カチャン、と小さな音を立て、カップがソーサーに置かれる。レティーシャの表情は相変わらず穏やかな笑みを湛え、声も柔らかいものだったが、それを聞いた少女たちの背中に、一瞬冷たいものを走らせた。
「……それで、その連中をあたしに退治して欲しいっていうわけね」
だが一瞬とはいえ気圧されたことを恥じるように、メリエは殊更に尊大に腕を組む。もっとも、レティーシャは変わらずにこやかな表情を崩さなかったが。
「ええ、その通りですわ。いずれは、このクレメンタイン領内に暮らす民たちも、わたくしの民となるのですもの。その安寧を守るのは、君主たる者の務めではなくて?」
「ふうん……シアは女王様にでもなる気なの?」
「なる気の有る無しに関わらず、いずれわたくしはこの国の皇帝となるのです。もはやクレメンタイン帝室の血を受け継ぐ者がわたくししかいない以上、それは確定事項ですわ。ですから将来傍に置くための人材を、今から集めておりますのよ?」
ふふ、と小さく笑い、レティーシャは目を細めてメリエを見やった。
「……もちろんその中には、アルヴィーも含まれておりましてよ、メリエ?」
「本当ね?」
「ええ。――ですが彼にはもう少し、あの国で色々学んで欲しいとも思っておりますの。現在彼は騎士となり、あの国の貴族階級と関わりを持ちつつありますわ。その経験はわたくしの臣となっても活きるはずです。ベアトリスもそうですが、貴族社会を知る人間は国の中枢において有用な人材となり得ますもの」
「……それ、あたしはそうじゃないって風に聞こえるけど」
「あなたには国の剣としての役目がありますわ。圧倒的な武力で周囲の国に睨みを利かせる、重要な役割でしてよ」
「……そういうことにしておくわ」
肩を竦め、メリエはテーブルに手を突くと、レティーシャを見下ろす形で視線を合わせる。
「でも、できるだけ早くアルヴィーを連れ戻して欲しいわね。――あたしは、アルヴィーに会えるっていうから戻って来たのよ」
「ええ、もちろん」
レティーシャの微笑みは崩れる気配すらなく、メリエはしばしそれを睨み据えた後、小さくため息をついてテーブルから離れた。
「いいわ、やってあげる。――それで、場所はどこなの?」
「賊の調査はベアトリスにやって貰いましたから、彼女が知っておりますわ。そうですわね?」
「は、はい。賊の本拠地はクレメティーラから南東へ約五十ケイル。大戦時の砦跡を根城にしていると思われます」
急に話を振られ、ベアトリスは面食らいながらも、調査した結果を即座に口にする。元々この一件は、レティーシャの用事であちこちへ出掛けていたベアトリスが、その途上で賊らしき一団を見掛けたことが発端なのだ。彼女は即座にそれを主に奏上し、レティーシャはそれを受けて、ベアトリスに調査をさせた。その結果、賊の本拠地を突き止めることに成功したのである。
レティーシャはにっこり笑って、次の瞬間爆弾を落とした。
「では、ベアトリス。そこまでメリエを送ってあげてくださいな」
「……は」
主に忠実たろうと日々努力するベアトリスであったが、その彼女をして唖然とさせる主の一言に、思わず間の抜けた声をあげてしまった。
「え!? この娘と!? 何でわざわざ」
メリエも顔をしかめる。主に遠慮のないメリエをベアトリスが良く思わないのと同じく、自分とはまったく違う育ちの、どこか隔意を感じさせるベアトリスの態度を、メリエの方も鼻につくものと感じていた。所謂“お高く止まったお嬢様”と感じるのだ。
相性が良いか悪いかと問われれば、どう考えてもマイナスの方に針が振れる間柄の二人だが、レティーシャはそんなことはお構いなしに笑顔で返答を待っている。主への忠誠を誓うベアトリスが、否やを唱えられるはずもなかった。
「……畏まりました。少しお側を離れさせていただきます」
「ええ、お願いしますわ」
「えーっ!? 何でよ!?」
「あら、では走って向かいますの? クレメティーラの外は大戦後、整備もされずそのままですのよ。少し走れば埃まみれになってしまいますわね」
「……分かったわよ」
レティーシャの言葉に、メリエも不満を引っ込めざるを得なかった。彼女はこの服を気に入っているのだ。
――主の側に侍る役目をダンテに引き継ぎ、ベアトリスはメリエを連れて建物の一つに向かった。
「どこ行くのよ? 宮殿出るなら向こう側よ?」
「いいから黙って付いていらっしゃい」
目的地に着くと、ベアトリスはそこ――石造りの立派な厩舎に足を踏み入れる。ややあって彼女が連れて来たのは、一頭のヒポグリフだった。彼女の乗騎として与えられた使い魔だ。
「何それ」
「姫様から賜った使い魔よ。これで向かうわ」
馬具はすでに装着している。この宮殿にはベアトリスたち以外にも使用人がいるのだ。もっとも、ベアトリスやダンテ、メリエ、それにラドヴァンといった限られた者を除き、どこか感情に乏しい、無機質な印象を与える者ばかりだが。仕事も与えられたものをただ無感動にこなすだけだ。だがそれでも、馬具を着けられる厩番がいるだけで大分楽だった。何しろ、ベアトリスはその手のことにはさっぱり疎いので。
侍女服の裾を捌き、ベアトリスが鞍に腰掛けて手綱を握る。メリエもその後ろに乗った。竜の気配が漂うのか、ヒポグリフが少し怯えたが、ベアトリスが宥めて落ち着かせる。
「……行くわよ」
ベアトリスが合図を送ると、ヒポグリフは地を駆け始めた。その足はすぐに大地を離れ、大きく広げられた翼が風を孕む。眼下に広がる光景に、メリエも少女らしく目を輝かせた。
「うわあ……!」
古色蒼然といった趣ではあるが、それでも《薔薇宮》の壮麗さは未だ失われていない。広大な敷地内には緑が点在し、建物の白と混じり合って互いを鮮やかに引き立てる。その合間を小川のごとく流れる水路が、陽光を受けてきらきらと輝いていた。
だが宮殿は見る間に背後に遠ざかり、郊外に行くにつれて荒れ地が目立ち始める。かつては整然とした街並みを誇ったのであろう場所は、今や瓦礫が散らばる荒涼とした更地と化しており、無秩序に広がった木々やわずかに残った廃墟の合間を、ラドヴァンの創り出したアンデッドの魔物がうろついていた。そしてさらに中心部から離れるとその姿すら見えなくなる。
しばし空を駆け、不意にベアトリスが前方を指差した。
「……見えたわ。あれよ」
それは《薔薇宮》同様、半ば崩れかけた廃墟だった。宮殿のような壮麗さには欠けるが、その代わり往時はいかにも重厚な佇まいだったろうと思わせる、無骨な印象を与える石造り。しかしそれも戦乱と時の流れには勝てず、今や朽ちるのを待つのみのはずだったのだ。
だがそこは現在、賊どもの本拠地と化している。本来ならば主のものである場所で何たる狼藉――とベアトリスが顔をしかめた時。
「――じゃ、さっさと済ませちゃうか」
ヒポグリフが砦の上空に差し掛かったと見るや、メリエはひょいとその背から下りる。まるで馬の背から地面に下りるような気軽さで、だがそこは高度二十メイルはあろうかという空の上なのだ。
「なっ――!」
ベアトリスが思わず声をあげた、その瞬間。
「いっけえっ、《竜の咆哮》ぅっ!」
落下するメリエが突き出した左手、そこから迸った閃光が砦の建物に突き刺さり、一瞬の後爆発を起こす!
「きゃっ――!」
噴き上げる熱風に、ヒポグリフが翼を翻し、ベアトリスは慌てて手綱を掴み直した。砦は上層部が見事に吹き飛び、中の物資か何かに引火したのか火の手が上がっている。そんな中、メリエはいとも平然と立っていた。左腕はヒポグリフから飛び下りる時に、すでに戦闘形態に変形し、鱗に覆われた異形のものと変わり果てている。そして左肩には五本の突起。暗く濁った紅い色のそれは、竜の翼の骨格を思わせた。
「ひっ、ひぃっ――!」
「て、てめえ何者だ、小娘ッ……!」
危うく難を逃れたか、賊たちが何人か、砦から駆け出して来る。彼らは一様に、平然と炎の中に立ち異形の左腕を持つ少女を、怯えた目で見やった。
だが――彼らはメリエに構わず、一目散に逃げ出すべきだったのだ。そうしなかったことが、彼らの運命を決めた。
「うるさいなあ。《竜の咆哮》」
メリエが面倒そうに左腕を一振り。それで終わった。賊たちを両断するように放たれた《竜の咆哮》で、彼らは自らの死を理解する暇すらなく、半ば蒸発する形でこの世から消えたのだ。
止めとばかりに、メリエは外の地面に飛び下りざま、砦に向けて数発《竜の咆哮》を撃ち込む。ただでさえ朽ちかけていた砦は、あっという間に崩れ落ち、炎の海に消えていった。
「呆気ないなぁ……ん?」
ほんの数分で終わってしまった、戦いとも呼べない作業に、メリエは退屈を隠しもせずにぼやき――そして気付いた。
「……何だ。まだ生き残りいるじゃない」
「ひっ、や、止め……勘弁してくれ……!」
近くの岩陰に隠れ、ぶるぶると震えて縮こまっている男を、彼女は目敏く見つけたのだ。メリエはあっという間にその男に近寄ると、左手でその首を掴み、彼が隠れていた岩に縫い止めるように押し付ける。
「な、な……何なんだおまえ! モ、モルニェッツの騎士か――!」
「全然関係ないけどね。ただあんたたちを討伐しろって言われたから。じゃ、バイバイ」
「ま、待ってくれ! ならまだ生き残りがいる! こっから南に行ったとこの村に、食い物や女を調達しに……!」
「ええ、まだいるの?」
メリエはげんなりした顔になった。だがそれに構わず、生き残りの男は縋るようにメリエに訴えた。
「だ、だから俺より先に、そいつらを探した方が――」
おそらく男は、仲間を売ってその情報を対価に逃れようとしたのだろう。だが、メリエはそんな目論見をあっさり無視した。
「そ。じゃあね」
ごぎん。
左手に少し力を込めただけで、男の首の骨が折れた。だらりと舌を垂れ、目を見開いたままの男の首が、あり得ない角度までがくりと項垂れる。骸となった男を放り捨て、メリエは念のためもう一度砦や辺りを一通り《竜の咆哮》で爆撃しておくと、炎上する一帯を離れて上空のベアトリスを呼んだ。
「――何なの、これ……」
あっという間に惨憺たる状態になった一帯に、ベアトリスは呆然と呟く。そんな彼女に、メリエは面倒そうな顔を隠そうともせず、
「何かまだ、南の方に行った連中がいるらしいわよ。どうする?」
「それは――決まっているわ。姫様の仰った通り、討伐しないと」
「やっぱりかぁ」
メリエはため息をつくと、
「じゃ、さっさと行って済ませましょ」
と、ヒポグリフの背に乗り込む。その左腕と肩の魔力集積器官、何よりこれだけの惨劇を引き起こしておいて平気な顔をしているメリエ自身に慄然としながら、ベアトリスは懸命に自らを叱咤し、手綱を取って再びヒポグリフを空に舞わせるのだった。
◇◇◇◇◇
――何だか、嫌な予感がする。
ゼーヴハヤルは何となく落ち着かず、塒としている廃墟の地下室をぐるぐると歩き回っていた。
(何だ、この感じ……胸の辺りがチリチリする)
胸を擦ってみるが、その感覚は一向に収まらず、むしろ強くなるばかりだった。オルセルとミイカが来れば、彼らとの楽しい時間によってこの感覚も忘れられるかもしれないが、彼らもまだ姿を現さない。
(オルセルとミイカの家、ここから近いって言ってたな……“ヨソモノ”は嫌われるって、言ってたけど)
彼らがゼーヴハヤルを村に連れて行かず、この地下室で匿っているのも、それが原因だった。彼らが住む村は小さく排他的だ。どう見ても余所者であるゼーヴハヤルが歓迎されるとは思えなかったので、二人は自分たちが食料を隠し持って、ゼーヴハヤルのもとに通うことにしたのである。
自分のもう一つの顔を知ってなお、変わらず世話を焼いてくれる二人は、今やゼーヴハヤルの世界の中心だった。彼らが言うことなら、それは聞いておいた方がためになるのだ。そう思って、ゼーヴハヤルは極力、村があるという方には近付かないようにしていた――のだが。
しかし今、どうにも言葉にし難い強い不安を、彼は感じていた。何だか――このままここにいると、ずっと後悔しそうな、そんな不安を。
「……ちょっとだけ。ちょっとだけだ」
やがてその不安に負け、ゼーヴハヤルは自分に言い聞かせるようにそう呟くと、急ぎ足で地下室を出て行った。
……その日オルセルは、いつものようにゼーヴハヤルのもとに向かうべく、食料を取りに行こうとしていた。そんな時、村の子供の一人が家の間を走り回りながら大声で叫んでいるのが聞こえた。
「――盗賊だ! 盗賊が来た!」
その声に、村は騒然となった。
この《虚無領域》に点在する集落は、国への納税などの義務を負わない代わりに、その庇護も受けられない。だが、国の法が届かないこの地は、盗賊などの無頼漢にはそれなりの魅力があり、そういった連中に集落が襲われることも少なくなかった。ゆえに村人たちは、見張りを立てたりして自発的に自分たちの身を守る手段を講じるのが普通だった。この村も例外ではなく、村人たちは一人一人が働きながら油断なく周辺に注意を払っていたのだ。
襲撃を触れ回る子供の声に重なるように、村人たちの怒号めいた声が飛び交う。魔物除けの柵の間に設けられた出入口は閉ざされ、男たちは農具や棍棒を武器として握り締めた。女たちは、体格の良い者は男たち同様農具を持ち出し、そうでない者は子供たちを連れて、村の奥にある倉庫に逃げ込む。
「……お、お兄ちゃん! どうしよう……!」
オルセルを捜していたのだろう、ミイカが駆け寄って来た。その肩を安心させるように軽く叩くと、オルセルは妹に告げる。
「奥の倉庫に逃げるんだ。みんなと一緒に。早く!」
「う、うん……」
ミイカを押しやると、オルセルも自宅から鍬を取って来る。腕っ節には欠片ほどの自信もないが、村長の息子として逃げることは許されないのだ。
「何組かに分かれて、出入口を固めるぞ! 急げ!」
一際体格の良い村の男が音頭を取り、武器を手にした村人たちは分かれてそれぞれの出入口に向かう。
……だがそれは、盗賊たちの前には何の意味も持たなかった。
「――良し、てめぇら! 食い物と女、残らず掻っ攫え! 男は子供以外殺せ! 子供はものによっちゃ売れるからな!」
馬に跨り押し寄せて来た賊たちは、農具など比較にならないほどの武器を持っていた。頑丈な槌で出入口はあっという間に壊され、剣や斧が振るわれるたびに村人たちが血を噴いて倒れる。
「う、うわあっ――!」
それは、村人たちの戦意を打ち砕くには充分な光景だった。生き残った村人たちは、手にした武器を打ち捨てて逃げ惑う。そして、騎乗した賊たちが振るう武器によって、草でも刈るように薙ぎ倒されていった。
そんな惨劇の中を、オルセルは必死に駆け抜けていた。
(村はもう駄目だ……せめて、倉庫に隠れてるみんなを森に……!)
森の中でなら馬は使えない。逃げ切れる確率も高くなるだろう。その代わり森には魔物や獣がいるのだが、この際それには目を瞑ることにした。まずは眼前の災禍を逃れなければ始まらないのだ。
手にした鍬は重いので早々に捨て、代わりに落ちていた片手で持てる程度の鎌を握り締め、オルセルは倉庫に向かった。そこには非戦闘員である女性や老人、そしてミイカを含む子供たちがいるのだ。
だが――そこで彼を待っていたのは、絶望的な光景だった。
「――いやあああ!!」
村にはすでに、賊たちが入り込んでいたのだ。倉庫の扉は破られ、女性たちが引きずり出されている。その中には、オルセルや兄弟の母の姿もあった。そして。
「いや、離して! やだあ!!」
賊の一人が、ミイカの細い腕を鷲掴みにし、外に引きずり出して来た。必死にもがく彼女の顎を掴み、賊は好色そうな目を向ける。
「へえ、まだ子供だが悪くねえな……」
「いやああ……!!」
その光景を見た瞬間、オルセルは頭が沸騰するような怒りの命じるままに、鎌を振りかぶり飛び出していた。
「――うわぁぁあああ!!」
悲鳴とも雄叫びともつかない声をあげながら、ミイカの腕を掴む男の背に鎌を振り下ろす。刃物が肉に食い込む鈍い手応えと共に、血飛沫が飛びオルセルの頬を濡らした。血の臭いが鼻を突く。
「があああ!?」
それなりに深く刺さったのか、賊はミイカを放り出すように手放し、地面に倒れてもがいた。尻餅をついたミイカが顔を輝かせる。
「お兄ちゃん……!」
だがその顔は、瞬く間に驚愕と恐怖に染まった。
瞬間、激痛。
「……え……?」
見下ろした脇腹から、噴き出すように溢れる血潮。視界がぐらりと傾ぐ。
倒れたオルセルの視界に、血が滴る剣を持った別の男が飛び込んできた。ああこいつに斬られたのかと、妙に冷静な頭で思う。
「――お兄ちゃん、お兄ちゃん!! やだあああ!!」
泣き喚くミイカが賊の腕に捕まり、そしてその小柄な身体が持ち上げられる。だが必死に暴れるその手が、偶然その男の顔に当たり、爪で引っ掻かれた頬に傷が走った。
「このっ――ガキがぁっ!」
激昂した男はミイカを放り出し、怒りのままに、彼女の小さな背中を剣で斬り払った。
「…………!」
悲鳴もあげられずに、ミイカは地面に倒れ込む。傷は深く、溢れ出た血が彼女の身体を濡らし、地面にも広がっていった。目の前で起きた惨劇に女たちは悲鳴をあげ、抵抗の意思をなくしてへたり込む。そんな彼女たちを、賊は引きずるように連れ去って行った。
「――あーあ、おい。女は連れて来いって、頭の命令だろ」
「こんな痩せっぽちのガキなんかどうでもいいだろ! くそ、俺の顔に傷なんか付けやがって――」
年端も行かない少女を斬ったにも関わらず、まだ腹の虫がおさまらないのか、賊の男はこともあろうに、ミイカの小さな身体を足蹴にしようと、右足を振り上げる。
「この、ガキがぁっ……!」
そして――その背後に影が動いたと思った瞬間、男の首が胴から飛んでいた。
「……は?」
一瞬自分の見たものが信じられず、もう一人はぽかんと呟く。首を失った男の胴体がゆっくりと倒れ、そして男はその向こうに、小さな影を見つけた。
「……オルセル。――ミイカ」
黄金色の瞳を見開き、ゼーヴハヤルは呆然とその名を呼ぶ。血の海に沈む、彼の世界の中心。
むせ返るような血の臭いに、頭の芯が痺れたように気が遠くなる。
「てめえ、何――」
我に返った賊の男が、剣を振りかぶりその頭上に振り下ろそうとして――。
一閃。
ゼーヴハヤルの爪が、剣よりなお鋭く速く、男の首筋を掻き切った。
「……おまえらが……」
ビキリ、と音を立てさらに太く鋭く伸びる爪。唸るような声を漏らした口元からは、牙のごとく犬歯が覗く。黄金の双眸はぎらぎらと、憎しみを湛えて輝いた。
「ひっ、ば、化物――」
その変貌をまともに目撃した賊たちが、身を翻して逃げ出す。そこへ、ゼーヴハヤルは襲い掛かった。
「――アア゛ア゛ァァァアア!!」
獣の咆哮に似た絶叫と共に、その爪が肉を裂き、抉る。飛び散る血飛沫が顔や青銀の髪を斑に汚したが、そんなことは些事とばかりに、ゼーヴハヤルは動くものを手当たり次第に引き裂き、千切り捨てた。引き千切られた腕が宙を飛び、恐怖に彩られた顔面が片手で掴まれて、そのまま後頭部から地面に叩き付けられる。鈍い音と共に動かなくなった賊は打ち捨て、それでもゼーヴハヤルの怒りは鎮まる気配もない。
――どうして。
どうして二人が、自分にとって何よりも大切な存在が、こんな目に遭わなければならない――!?
身の裡で荒れ狂う激情の命じるまま、ゼーヴハヤルは逃げる賊を追う。だが逃げ遅れた者は置き去りに、本隊はすでに村を後にしようとしていた。
「……何だあの化物は!? おい、早く逃げ――」
そう言いながら馬に鞭を入れようとした、その瞬間。
「――《竜の咆哮》っ!」
天から、一条の閃光。
そして男たちを呑み込み、爆炎が巻き起こった。
「言っとくけど、根城に戻ったってもうなーんにも残ってないわよ……って、あれ。もう死んじゃった?」
惨状にそぐわない明るい声と共に、一人の少女が地面に着地する。彼女は腰に手を当て、呆然とするゼーヴハヤルをまじまじと見やった。
「すっごい格好……っていうか、あんた賊じゃないわよね? むしろあいつら殺そうとしてたし。何なの?」
「……あいつら、オルセルとミイカを……おれ、おれのこと、オルセルとミイカは助けてくれたのに……っ!」
ぼろぼろと溢れる涙が、頬の血を洗い流して地面に落ちる。残った賊が爆炎の中に消え、どう見ても賊ではない少女しか目の前にいない今、ゼーヴハヤルの中で荒れ狂った怒りはどこかに吸い込まれるように消えていき、残ったのは途方もない悲しみ。
血に汚れたこの手を、ためらいなく握ってくれたあの二人は――。
「――あら。逃げ出したと思ったら、こんなところにいましたのね」
村の方から聞こえた声に、ゼーヴハヤルはのろのろと振り返る。少女が目を見張った。
「シア? 何でここに?」
「ベアトリスから連絡がありましたの。賊に襲われた村で生存者がいるとのことでしたので、様子を見に来たのですわ。――ですが、まさかここで逃げ出した実験体が見つかるとは思いませんでした」
「実験体?」
訝しげに問う少女には答えず、声の主――長い銀の髪とオルセルに似た群青の瞳をした女は、その瞳を細めてゼーヴハヤルに囁く。
「生き残っていたのはあなたと同じくらいの年の女の子と、その傍にいた少し年上の少年ですわ。どちらも黒髪の。心当たりはおありかしら」
その意味を数秒経ってから理解し、ゼーヴハヤルは顔を跳ね上げる。
「オルセル、ミイカ!」
その双眸と頬に残る涙の痕に、女は笑みを深めた。
「あまりに自我が育たないので、失敗かと思っていましたけれど……もう少し研究の余地がありそうですわね。――わたくしのところに戻っていらっしゃい、ゼーヴハヤル。あなたの大切なお二人も、歓迎致しますわ」
「……オルセルとミイカも?」
「ええ」
にっこりと頷く女を、ゼーヴハヤルは見つめる。と、その眼前に白い手が差し出された。
「さあ」
促され、おずおずとその手を取る。確かな温度を持つその手は、ゼーヴハヤルの血で汚れた手をしっかりと握り返した。
「良い子ですわね。さあ、参りましょう」
手を引かれ、ゼーヴハヤルは今や動くもののなくなった村へと戻って行く。
村の中に消えた彼らの姿は、二度と現れることはなかった。




