第38話 英雄が生まれる日
水気を含むひんやりと澄んだ空気に鼻腔を擽られ、アルヴィーはふと目を開けた。
「……朝か」
穴の入口からはすでに光が射し込み、小鳥の囀りの代わりに、遠く飛竜の鳴き声が聞こえてくる。どうやら彼らはこの営巣地を放棄せず、ここに留まって子育てを続けてくれるようだ。
身体を起こして目を覚ましたフラムを地面に下ろし、毛布を丸めて魔法式収納庫に入れる。そして入れ替わりに携帯食料と水を取り出すと、それで簡単に朝食を済ませた。もちろんフラムにも分けてやる。携帯食料を器用に両前足で持ち、カリカリと齧るフラムの姿に心癒されたが、これで食料も底をついたので、今日は下山しなければならない。
外に出てみると、空は晴れていた。清々しい空気を胸一杯に吸い込む。
「――よし、行くか!」
「きゅっ」
駆け寄って来たフラムを掬い上げて運搬袋に詰め、それを首から下げて外套を着込む。襟元を開けてフラムが顔を出せるようにしてやり、準備は完了だ。
アルヴィーは地を蹴ると、走るというより飛ぶような速度で、急傾斜の山道を駆け下り始めた。
起伏に富んだ山肌に拓かれた道を、山肌の隆起や岩などを器用に蹴り、道筋を半ば無視して跳びはねるように下りていく。耳元で風が唸り、まだ暖まりきらず冷たさを多分に残す空気が顔を打った。だがそれさえも、わずかに残る眠気を洗い流してくれるかのようだ。
あっという間に標高の半分ほどを駆け下りたアルヴィーの耳を、その時風に紛れて、複数の足音が掠めた。
「……ん?」
見下ろすと、数百メイルばかり下方を、騎士たちの小隊が登っているのが見えた。
「――おーい!」
声をかけざま、両足に力を込めて一際強く大地を蹴る。数百メイルの距離を十歩足らずで駆け下り、アルヴィーは騎士たちの鼻先に着地した。いきなり空から降って来た彼に、騎士たちはわっと後ずさる。
「……き、貴様、何をやっている! 急に降って来る奴があるか!」
こちらをズビシと指差して、ウィリアムが怒鳴った。
「いや、こっちのが早くてさあ」
「大体、下山するなら下山すると《伝令》なりで連絡をだな――」
「あ、悪い。俺まだ《伝令》使えねーんだよ。今度ルシィに習わないと」
「き、貴様ぁぁぁ!!」
自他共に認めるルシエルの信奉者・ウィリアムは、どうやらルシエルに魔法を習うというのが相当羨ましかったようで、背後に嫉妬の炎を燃やしつつ両手をわななかせた。そんな彼を生温かく眺めつつ、騎士たちはアルヴィーを労ってくれる。
「何はともあれ、良くやったぞ。《上位竜》が来て国土が無傷で済むなんて、そうそうないからな」
「ああ、《上位竜》の卵が出て来たなんて聞いた時には血の気が引いたぜ。王都でも大急ぎで防衛線敷いたって話だし」
一般人の感覚からすれば、竜――それも《上位竜》など天災と大差ない存在だ。人間の力ではどうしようもない。さもありなん、とアルヴィーも思う。自分だって、竜の力など持たない一般人であったなら全力で逃げたい。
だがそれは確かにアルヴィーの裡に宿るものであり、アルヴィーという“成功体”を生み出すために多くの犠牲が払われてもいる。だからアルヴィーは、せめて人を守るためにこの力を使いたいのだ。
改めてそう心に決めたアルヴィーの肩を、騎士の一人が叩いた。
「まあ、《下位竜》も倒したし、王都には凱旋だな」
「え?」
「おいおい、当たり前だろう。《下位竜》とはいえ竜を一人で倒した上に、《上位竜》を説得して帰らせるなんて、大手柄じゃないか」
「あれは俺の手柄っていうより、向こうが話分かる相手で助かったって感じだけどなあ」
火竜というとどうしても荒っぽいイメージが先行するが、あのエルヴシルフトと名乗った竜は、どちらかといえば冷静で理知的な印象を受けた。そういえばアルマヴルカンも、街を襲ったりと逸話は物騒だが、性格自体は思慮深く落ち着いた感じがする。竜は千年や二千年ではきかないほど長い時を生きるというし、やはりそれ相応に落ち着きが備わってくるのだろうか。
(……そういや、あの竜にも加護貰ったんだよなあ。やっぱ、戻ったら報告するべきだよな)
さすがに素知らぬ顔もできないだろう。自分一代ならともかく、向こう五百年の血筋への加護である。もちろん、今までこんな事例は聞いたこともない。
また騒ぎになりそうな予感をひしひしと感じながら、アルヴィーは騎士たちに伴われ歩き出す。
――しばらく急な山道を下っていると、どこからか木々が倒れるような音が聞こえた。
「木を伐ってるのか?」
「例の《下位竜》の搬出用さ。大急ぎで撤退はしたが、一応腐らないように魔法騎士を総動員して魔法で凍らせてある。正直、《上位竜》のブレス辺りで消し飛ばされるんじゃないかと思ってたが、何とか無事に済んだからな。となりゃ、それを放っとく手はないってわけで、急いで宰相閣下にお伺いを立てて、搬出用に森を一部伐採する許可をいただいたんだよ。それで、北方騎士団の方からの人員と近くの町や村の人間も集めて、道を造ってるわけだ」
「へえ……でも、あれだけデカイの運び出すの、一苦労だろうな。あ、適当に解体して要らないとこは置いてきゃいいのか。いずれは森の養分になるだろうし」
猟師思考でそう思い付いたが、それは即座に騎士たちに却下された。
「とんでもない! 《下位竜》で要らない部位なんかあるわけないだろ!」
「血の一滴だってお宝だぞ!」
「貴様は本当にものを知らんな!」
「え……そうなのか」
割と遠慮なく腹を掻っ捌いた覚えのあるアルヴィーはその勢いにちょっと引いたが、まあそれがなければあの卵も見つからなかったわけで、少々の損失は致し方あるまい。第一、空中戦で派手に首を掻っ切ったり、《竜の咆哮》で胴体ぶち抜いたりもしているのだ。今更である。
ともあれ、せっかくなので現場をちょっと覗いて行こうとのことで、《下位竜》の墜落現場に顔を出してみた。そこでは呼び集められた地元(といっても数ケイルは離れた最寄りの町や村)の人々が、《下位竜》の骸に頑丈な縄を括り付けたり、倒木を退けて道を拓いたりしている。騎士たちは作業監督よろしく指示を出したり、要請に応じて魔法で障害物を取り除いていた。そんな中、彼らに混ざって《下位竜》に張り付き、何やら調べている人間がいる。
「……あれ、何? 《下位竜》にへばり付いて何か調べてるの」
「ああ、あれは査定してるんだ。《下位竜》の素材なんて滅多に出ないからな。わざわざ王都から詳しい人間を引っ張って来たんだぜ。――しかし、《下位竜》でこれだけ状態が良いと、一財産だなあ」
騎士が羨ましそうに査定の光景を眺める。アルヴィーとしては結構損傷させたと思っていたので訊いてみると、《下位竜》を仕留めた際の損傷としては、これでもずいぶん少ない方らしい。普通はもっと大人数で攻めたり、大威力の魔動兵装などを使うため、骸は見る影もなくボロボロになり、素材として使える部分も目減りするものなのだそうだ。
「ええー……」
話を聞いて呻くアルヴィー。彼としてはもうお腹一杯です、という気分だった。何しろ王都ではまだ、ワーム素材の処理をして貰っているのだ。それに加えて《下位竜》素材もとなると、正直手に余る気しかしない。
彼が内心頭を抱えていることなど知る由もなく、騎士たちはひとしきり羨むと、アルヴィーを促して現場を離れた。後は北方騎士団本部に顔を出して報告、そして王都への帰還が待っている。
途中、休憩所に立ち寄って馬を手に入れると、彼らは一路北方騎士団本部へと向かった。北方騎士団本部はイムルーダ山のほぼ真南、直線距離で二、三十ケイルほどの位置にある。今から向かえば、休憩を挟んでも日が傾く前には着けるはずだ。
手綱を取って馬を進めながら、アルヴィーは山を振り返る。山頂近くでは、飛竜たちが変わらず飛び回っていた。今回無事だった幼体の内いくらかは、いずれ歳を重ねてあの仲間入りをするのだろう。騎士団に回収された幼体たちは、すでに王都の方に送られているとのことで、もう親元に戻ることはないが、それでも同じ空の下で生きられる。もしかしたらどこかの空で、すれ違うこともあるかもしれない。
まだ遠い将来のことに思いを馳せながら、アルヴィーは前方に向き直り、馬の足を早めさせて騎士たちに続くのだった。
◇◇◇◇◇
その日、レクレウスの王城で行われた軍議で、居並ぶ諸侯は我が耳を疑った。
「侵攻……ですと!?」
「その通りだ。かねてより修復中であった我が軍の魔動巨人も、すでに修復や各種調整は終わっているそうだな。ならば、それをもって再びあの忌々しいファルレアンの騎士どもを蹴散らし、我が国の版図を広げるのだ!」
魔動巨人による再侵攻を主張するライネリオは、テーブルを叩いて力説した。確かに、魔動巨人の戦闘力は大きい。先の旧ギズレ領での戦闘でも、それは明らかだった。ファルレアンの騎士たちは魔動巨人にほとんど歯が立たなかったのだ。
しかしそれは、敵方に寝返った《擬竜兵》が参戦する以前の話である。彼の助力を得た騎士団により魔動巨人は一体喪失、残る二体も中破という損害を被った。《擬竜兵》がファルレアン側に付いた以上、もはや魔動巨人は決戦兵器とはなり得ない。
未だざわめきがおさまらない議場で、グレゴリー三世が口を開いた。
「……皆の懸念は分かる。しかし、我々は一刻も早く、勝利を挙げねばならんのだ」
南の戦線は、ファルレアン側の砦が堅固なこともあって、何度か仕掛けはするものの効果が薄い。海路は船の墓場と悪名高い“霧の海域”のせいで使えず、本命ルートであった街道沿いは攻略に失敗して防備を固められた。一向に戦果を挙げられない割に戦費ばかりが嵩む現状に、貴族たちのみならず庶民の間でも不満の声が高まっている。
そして、ここに来てオルロワナ北方領からの上納金が止まったことも、確実に王国の財政に影響していた。さすがにあんな責任逃れが透けて見えるような答弁では、領主であるユフレイアは納得しなかったようで、経済封鎖は未だに続いている。本来ならば国との取引が止まって困るのは北方領の方であるはずだが、北方領の経済力は国側の予想を超えていたようで、まったく堪えた様子を見せない。内情を探ろうにも、放った密偵は誰一人帰って来ず、情報の一つも入って来ないのだ。
そんな状況に、ついに王太子ライネリオが痺れを切らせ、諌めるグレゴリー三世や宰相ロドヴィック・フラン・オールト公爵を押し切る形で、再度の侵攻を決めたのだった。
(……いくら次期国王となられることが半ば決まっているとはいえ、近頃の殿下のなさりようは目に余る……だが、仕方のない面もあるかもしれぬ。殿下の母君はバルリオス公の娘御だ。バルリオス公爵家は財務を掌握し、他の重要部署にも自分の手駒を置いて上手く押さえておる。陛下もおいそれと公を排除はできまいし、王妃陛下や殿下にも気兼ねしておられるのだろう。それに、陛下は殿下に殊の外目を掛けておられる)
ロドヴィックはその光景を眺めやり、そっとため息をつく。王妃の実家であるバルリオス公爵家は、国内でも最大級の領土を持ち、その権勢は国王であっても無視できないほど強い。王妃の実父に当たる現当主もやり手で、国の中枢の至るところに自身の息の掛かった者を送り込んでいた。
そんなバルリオス公爵は、国内でも指折りの対ファルレアン強硬派でもある。もっとも彼の場合は、ファルレアン憎しというよりは、戦争によって彼の子飼いの商人が潤うために、その利益を維持するための継戦支持の色合いが濃かった。戦争が続く以上、兵士たちの食料や武器を始めとする様々な物資が膨大に必要となり、それを扱う商人には巨額の利益が転がり込む。バルリオス公爵はそういった商家をいくつか子飼いとしており、継戦を唱えて現状を維持することと引き換えに、商人たちから利益供与を受けているのだ。
現在、そのバルリオス公爵もこの軍議の場にいるが、彼は再侵攻を熱く説くライネリオを満足げに眺めている。戦況が動くとなれば、さらに物資が必要となり、ひいては彼の懐に商人たちからの賄賂が入ることになるからだろう。
ロドヴィックは苦々しく、その様子を見やった。
(国の戦争を利用して私腹を肥やすとは……今こうしている間にも、この国が滅びに向かって歩んでいることが分からぬのか)
北方領からの資金や鉱山資源が止まり、国の台所事情は一層苦しくなりつつあるというのに、バルリオス公爵を始めとする強硬派は、戦争によってもたらされる利益をこそ重要視している。目端の利く者は国外に密かに拠点を作り、そこに隠し資産を作っているのだろう。万が一戦争に敗れ、政権が崩壊するようなことになれば、彼らはいち早く国や民を見捨てて逃げ出し、隠し資産を手に自分たちだけ優雅な暮らしを続ける気なのだ。
ロドヴィックはそっと、軍議の席に着くナイジェル・アラド・クィンラム公爵を見やる。彼は内心を悟らせない無表情で、ライネリオや貴族たちを眺めていた。
――“この国”のために最善の方法を――。
以前彼がロドヴィックに向けて放った言葉は、時を経るごとに消えるどころか、次第に強く響くようになっていた。宰相として国の政を最も間近でつぶさに見るがゆえに、それが自分の理想とする、この国をより良い方向へ導くものとは真逆のものばかりのことに、否が応でも気付いてしまうからだ。ロドヴィックが押し留めようにも、王家の権力が強いこの国では、それは微々たる抵抗でしかない。今の宰相という役職は、国の舵取りというよりもむしろ、単なる調整役に成り下がりつつあった。
(このままでは、完全に手遅れになってしまう……そうなれば、我が領地も)
もし戦争に敗れれば、国を主導する立場にあった王族や貴族は、多かれ少なかれ処断されることとなるだろう。そして予想される巨額の賠償金や領土の割譲。場合によっては魔動機器の技術者の身柄も求められるかもしれない。そのような事態に陥れば、この国がますます衰退するのは目に見えていた。無論、ロドヴィックの領地もそれと無関係ではいられまい。それどころか、宰相という役職にある以上、彼が負う戦争責任は多大なものになるはずだ。領地が保たれるかどうかも怪しい。
今の内に何か手を打っておかねば、そんな未来予想が現実のものとなりかねないのだ。
議場を満たすライネリオの声や、声低く議論を交わす諸侯のざわめきを聞きながら、ロドヴィックは目を閉じる。浮かんでくるのはいつか妻と寄り添って眺めた、自らの領地の美しい風景だ。春には野の花が咲き乱れ、夏には新緑が輝き、秋には畑を黄金に染める麦、そして冬の銀世界。それはロドヴィックの父祖が代々受け継ぎ守ってきた宝であり、また子々孫々に渡って残してゆくべきものだ。決して、国の失策で奪われて良いものではなかった。
「……む……」
しかし小さな呻き声に、ロドヴィックは回想から覚め、グレゴリー三世に向き直る。
「陛下、いかがなされました」
「少しな……頭が痛むのだ。だが大したことは……」
かすかに眉をひそめつつ、グレゴリー三世はこめかみを押さえる。熱弁を振るっていたライネリオも、二人が会話を始めるとさすがに演説を中断して振り返った。
「どうされました、陛下」
「なに、大したことではない。続けよ」
「殿下、ご発言中恐縮ではありますが、陛下には大事を取ってご退席いただいた方がよろしいかと。今は大事な局面、陛下の御身を第一に考えませぬと……」
「う、うむ、それはそうだな。そなたの裁量に任せよう」
「は。――では陛下、まずは大事を取ってお休みくださいませ」
「……そうだな。そうしよう」
グレゴリー三世が立ち上がったので、他の貴族たちも残らず起立し、退席する彼を見送った。議場の扉が閉まると、先ほどまでとは意味合いの違う、どこか憚るような低いざわめきが起こる。だがそれを、ライネリオの声が掻き消した。
「では、話を戻そう。つまり……」
――それから半時間ほどもの間、ライネリオの演説は続いた。継戦を唱える強硬派は我が意を得たりとばかりに頷く者も多かったが、そうでない者たちはどこか冷めた目を向けている。だがそれに気付くことなく、ライネリオは満足げに着席すると、ロドヴィックに話を振った。
「では、宰相。早速魔動巨人をもって、南から攻め入るぞ。街道側に再び魔動巨人を送ると噂を流し、その逆を突くのだ。今まではさほどの数を送れなかったがゆえ、砦の防御を突き崩せなかったが、今回は我が軍の持つ魔動巨人をすべて投入するのだからな。いくらファルレアンの砦が堅固であろうと、魔動巨人の魔動砲の一斉砲撃を浴びればひとたまりもあるまい」
「しかし、殿下。魔動巨人を動かせば、それだけで目立ちまするぞ。いかに噂を流そうと、隠しきれるものではありますまい」
「そこを上手くやるのが下の者の務めであろうが!」
ロドヴィックの意見はライネリオの癇癪に封殺され、半ば強引にファルレアンへの再侵攻が決定した。軍務大臣であるヘンリー・バル・ノスティウス侯爵などは、名誉挽回の機会とばかりに意気込んでいるのが目に見える。
その後、大まかな枠組みなどが決められ、軍議は散会となった。議場を退室する貴族たちの中で、ロドヴィックは目当ての顔を見つけて歩み寄った。
「――クィンラム公」
「これは、宰相閣下」
ナイジェルはその顔に薄い笑みを浮かべ、ロドヴィックを出迎えた。そのまま連れ立って議場を出ると、ロドヴィックは周囲には聞こえない程度の低い声で、ナイジェルに囁く。
「……貴殿と話をしたい。――“この国のために”」
その言葉に、ナイジェルは笑みを深めた。
「是非もありません。では、詳しい日程を詰めましょう」
「ああ、そうしてくれるか」
頷き、ロドヴィックはナイジェルと別れて、執務に戻るべく歩き出す。
――この国のために、ひいては自身の領地と、そこに暮らす家族や民のために。ロドヴィックはある決断をしたのだ。
疲れたように足を止め、一つ息をつくと、ロドヴィックはことさらに床を踏み締めて再び歩き始めた。
◇◇◇◇◇
北方騎士団本部に顔を出したアルヴィーは、ひとしきり歓呼の声を浴びせられた後、《下位竜》の解体や運搬についての打ち合わせをすることになった。この間のワームと同じく、あの《下位竜》の骸の所有権はアルヴィーにあるため、形式的にではあるが解体と運搬の許可を求められたのだ。もちろん了承する。
「――何はともあれ、三日も竜の卵の面倒を見ていれば疲れただろう。ひとまず、ここで休んで疲れを取りたまえ」
北方騎士団からの申し出を有難く受け、アルヴィーは早速宛がわれた部屋に向かった。お世辞にも広いとはいえないが、ベッドがあるだけで御の字だ。何しろ、イムルーダ山にはそんなものはなかったので。
部屋にフラムを置いて、裏庭の水場で水浴びをしてざっと身体を清めると、炎を呼び出して水気を飛ばす。持って来た着替えを身に着け、では制服を洗おう――とすると、ここで働いている使用人か何かなのか、アルヴィーより少し年下くらいの少年が飛んで来た。
「あっ、洗濯だったら俺がやりますから!」
「え、いいよ、これくらい自分で」
「とんでもない! 《下位竜》を一人で倒した英雄に、そんな下働きみたいなことさせられませんよ!」
少年の言葉に、アルヴィーは目を瞬く。
「……“英雄”って、俺が?」
「そうですよ! 《下位竜》を倒すには、魔法騎士様でも十個小隊以上の人員が要るって聞いたことがありますよ! それをたった一人で倒すなんて!」
目をきらきらと輝かせ、少年は酔いでもしたかのようにアルヴィーの武勲を語る。それはもう、当のアルヴィーがいたたまれなくなるほどの褒めちぎりっぷりで。
結局、制服の洗濯は少年に任せ、アルヴィーは手持ち無沙汰にそれが終わるのを待つことになる。普段着の替えはあっても制服の替えはないので、洗濯が終われば炎で早々に乾かすつもりだ。
それにしても、とアルヴィーはため息をついた。
(俺が“英雄”、ねえ……)
不似合いにも甚だしいと自分では思うが、《下位竜》を倒した一件は、もはや広まり始めているだろう。“竜”というのはそれほど強大な存在であり、それを単独で倒したという事実は、おそらくアルヴィー本人が思うよりもずっと大きいのだ。
一介の村人でしかなかった自分がまさか英雄呼ばわりされることになるとは思わなかったが、これから先、この力をもって戦えば、そう見られることもあるのかもしれない。アルヴィー自身が望む望まないに関わらず、《擬竜騎士》の名は一人歩きを始めるのだろう。ならばアルヴィーは、その重さに押し潰されないだけの強さを持たなければならない。
力に溺れず、名誉に驕らず、ただ友のための一振りの剣として。
それが、アルヴィーが貫くべきただ一つの信念だ。
「――あの、洗濯終わりました!」
少年の声に、アルヴィーは思考の海から舞い戻った。
「ああ、ありがとう」
「い、いえ! その、これが俺の仕事ですから!」
洗濯物を抱えたまま直立不動になった少年からまずシャツを受け取ると、何度か振って皺を伸ばす。そして呼び出した炎に周囲を一巡りさせれば、それだけでシャツはからりと乾いてしまった。スラックスや上着も同様に乾かし、一纏めに抱える。
「す、すげー……詠唱もなしに魔法使うなんて! 初めて見た!」
またしても感激する少年に洗濯の礼を言って帰し、アルヴィーは部屋に戻った。制服は魔法式収納庫に放り込み、ベッドに横になる。ここ数日で、ベッドの有難みが骨身に沁みた。一晩寝たといっても、その前に二晩完徹で、その上魔力集積器官をフル稼働だ。体力よりもむしろ、魔力を極限まで使った疲労がまだ残っている。
目を閉じた途端、眠気が怒涛の勢いで意識に侵攻してきたので、あえて逆らわずアルヴィーはそのまま眠りに落ちた。
――北方騎士団本部に二日ほど逗留し、アルヴィーたちは今度は王都に向け、北の地を発った。二日留まったのは、《下位竜》の解体が終わり、王都へ輸送するための準備が整うのを待ったからだ。《下位竜》の骸は、査定の専門家と共に王都から送られた専用の道具で解体され(何でも昔、《下位竜》の鱗だか爪だかを鋳込んで作ったらしい)、箱に詰められて荷馬車に積まれていた。この箱は王城内の本部でも使われていた、魔法式収納庫と同じ効果を持つものだ。これのおかげで荷馬車一つで済んでいるが、これ無しだと軽く数倍の量になったことだろう。
聞けば、現場ではそれこそ完徹で解体作業に勤しんでくれたそうで、アルヴィーはとりあえず北の方に感謝と謝罪を捧げておいた。
北方騎士団本部は街道に程近い位置にあるので、すぐに街道に入ると、後は王都まで道なりに進めば良い。きちんと舗装を施された道のおかげで旅程は捗り、一行はつつがなく王都に帰還した。
一行が騎士団本部に帰還すると、騎士たちの間から自然と歓声があがった。
「――帰って来たぞ、《擬竜騎士》だ!」
「後ろのあれが《下位竜》か……」
「大したもんだなあ……」
漏れ聞こえる賛辞に何となく面映い気分を味わいながら、アルヴィーはひとまず報告のため、ジェラルドの執務室に向かった。
「――アルヴィー・ロイ、帰還しました」
「ああ、話は聞いた。今回もまた、派手にやらかしたな」
くく、と笑いつつ、ジェラルドはアルヴィーの報告を受ける。といっても、大まかなところはすでに、飛竜の幼体を連れ先んじて帰還した部隊から聞いているのだが。
「《下位竜》の件は不可抗力だ……ですけど」
「まあ何はともあれ、良くやった。《下位竜》のとばっちりで《上位竜》に睨まれるなんぞ、御免被るからな」
そう言って、ジェラルドは一枚の書面をアルヴィーに突き出した。
「……何これ?」
「召喚状だ。――女王陛下からのな」
「はあ!?」
仰天して内容をよく読むと、確かに女王アレクサンドラの名が記されている。文面は仰々しい言葉で埋め尽くされているが、要約すれば、今回の功績を称え、女王その人への謁見が決まったという内容だった。日時は――。
「――明日ぁ!?」
いきなりにも程がある召喚に、アルヴィーは頭を抱える。心の準備も何もあったものではない。
「せめてあと何日かずらして……」
「女王陛下の方からならともかく、おまえが日時の変更なんてできると思ってるのか」
「だよな!」
アルヴィーはがっくりと項垂れた。
「……でも何で謁見なんか……俺、そんな大それたことしたかなあ」
「《下位竜》を一人で倒した上に、《上位竜》の怒りを鎮めて国土を守ったのよ? 充分な功績だと思うけど」
自覚がないのも甚だしいアルヴィーに、書類を処理していたパトリシアが苦笑混じりに言う。セリオも頷いた。
「吟遊詩人辺りが聞いたら、大喜びで英雄譚でも作るんじゃない? 竜殺しなんて、題材としては映えるからね」
「やめてくれ……」
アルヴィーは呻く。そんなサーガなど作られた日には、穴でも掘って埋まりたくなりそうだ。いたたまれなくて。
「大体、《下位竜》の件はともかく、《上位竜》の方は向こうが話の分かる相手だったから――あ、そうだ」
そこで思い出して、アルヴィーはうっかり爆弾を落とした。
「俺、その《上位竜》に加護貰ったんだけど、こういう場合どうなんの?」
ごとん。
ばさばさばさ。
がちゃぱりーん。
ちょうどペンをインク壺に突っ込んだところだったジェラルドがインク壺を引っ繰り返し、パトリシアが取り落とした書類が床一面に散らばり、セリオが手を滑らせてティーカップを落として割った。
「……おい今何て言った」
「っていうか机! 早く拭けって!」
「机なんざどうでもいい! どういうことだそれは!」
引き起こされた惨状に焦るアルヴィーの頭を、席を立ったジェラルドがガッと掴む。そのままギリギリと締め上げつつ、目が笑っていない笑みを浮かべた。
「今すぐ一切合財洗い浚い喋れ。いいな?」
「……ハイ」
アルヴィーはそう答えるしかなかった。だって怖い。
我に返ったパトリシアとセリオが惨憺たる状態の後始末をしている間、アルヴィーは部屋の隅に連行され、火竜エルヴシルフトから加護を貰った件について本当に洗い浚い喋らされた。話を聞き終え、ジェラルドは頭痛でも堪えるようにこめかみを揉む。
「……話は分かった。――で、何でおまえはそんな大事を忘れるんだ……」
「いや、ついうっかり」
「うっかりで済むか阿呆が!」
「痛ってー!」
ごん、と脳天に拳骨を落とされ、アルヴィーは悶絶した。桁外れの回復力を持つとはいえ、痛覚はそのままなので、痛いものは痛いのだ。
「しかもただの加護ならまだしも、血が続く限り向こう五百年だと? おまえそれがどういうことか分かってるのか。おまえの血筋を取り込めば、五百年間は高位元素魔法士が生まれることがほぼ確定だぞ。貴族の間で争奪戦になるのが目に見えるな」
「……え」
言われてようやくそのことに思い至ったアルヴィーが、こきんと凍り付いた。
「まあ、そうなりますよね。高位元素魔法士ってだけで引く手数多なのに、子々孫々に至るまで加護が確定とか、貴族が目の色変えて欲しがりますよ。――忠告しておくけど、もしその辺の貴族に茶会とか誘われても、絶対に応じちゃ駄目だよ。妙齢のご令嬢でもいようものなら、お茶に一服盛られて寝室に連れ込まれかねないから」
「セリオ?」
「すいません」
パトリシアに睨まれて、セリオは即座に謝ったが、彼の少々いかがわしい危惧ももっともではあった。まあ、アルヴィーにその辺の薬物が効くかどうかはともかくとして。
「……でも確かに、変に言質を取られてもまずいわ。あなたはまだ国内の貴族に詳しくないし」
「まあその辺に関しては、上層部がキッチリ対処するだろ。今回の一件、女王陛下も風精霊の情報網で逐一事態を監視なさってたからな。加護についてご存知でもおかしくはない。むしろ、今回の謁見はそれに対して釘を刺すためかもな」
ため息をついて、ジェラルドはもういいという風に手を振る。
「……とにかく、報告については了解した。明日の謁見、くれぐれも失礼のないようにしろよ」
「うう……俺平民なのに、いきなり陛下に謁見とか、無茶振りだ……」
とはいえ呻いたところで今さらどうしようもないので、アルヴィーは退室すると、一旦宿舎に戻って着替え、頼んでおいた制服を受け取るために街に出た。もちろんこんな事態を予想していたわけではないが、制服を新しく作っておいて本当に良かった。
ラストゥア通りの仕立て屋で出来上がっていた制服を受け取り――仕立て屋の主人にまで《下位竜》の一件が広まっていたのには閉口した――宿舎に舞い戻る。すると、横合いから声がかかった。
「アル」
「――ルシィ!」
久しぶり――といっても一月足らずくらいのものだが――に顔を合わせる親友に、アルヴィーの顔がぱっと輝いた。
「話は聞いたよ。大変だったね」
「まあな。一時はどうなるかと思ったけど。――王都の防衛線、ルシィたちも駆り出されたのか?」
「ああ。ついこの間戻って来たけど」
ルシエルたち第一二一魔法騎士小隊は、非常呼集の解除と防衛線の縮小に伴い、こちらに戻って来ていた。現在はもうすべての騎士が本来の持ち場に戻り、任務に勤しんでいる。ルシエルも隊員たちを率いて任務に当たっており、報告書の提出のために本部に立ち寄ったところだった。そこでアルヴィーが帰還したことを聞き及び、それならば会って行こうと宿舎に足を運んだのだ。
そんな彼の姿を見たアルヴィーは、良い相手を見つけたとばかりに縋る。
「あ、そうだ、ルシィ。――俺、明日女王陛下に謁見することになったみたいなんだけど、何か気を付けなきゃいけないことがあったら教えてくれよ。俺、そういうの全然分かんないからさ」
「えっ!?」
さすがに内容を憚って声を落としたが、それでも爆弾発言には変わりなく、さしものルシエルも絶句する。
「それ、どういう……ああ、でもここで話すようなことでもないね。君の部屋で話そう」
「あ、うん」
宿舎とはいえ、ここは共用の出入口付近だ。普通に人も通る。というわけで、二人はアルヴィーの部屋に向かった。
ルシエルを部屋に通し、アルヴィーは加護の一件と女王アレクサンドラへの謁見が決まったことを話す。相変わらず騒ぎの渦中にいる幼馴染に、ルシエルは頭を抱えたくなったが、それはともかく。
「……まあ加護の件は今さらどうしようもないから置いておくとして……差し当たっては陛下との謁見の方か。でも僕も、陛下に謁見なんて経験がないからね。せいぜい、一般常識程度のことしかアドバイスできないけど」
女王その人に謁見が叶うなど、通常はごくわずかな、身分の高い人間に限られる。文官なら閣僚クラス、騎士団でも大隊長クラスがせいぜいだ。改めて、今回の話がいかに規格外か分かろうというものである。それでも親友が女王の面前で失態を犯すなどという事態は何としてでも避けなければならないので、ルシエルは貴族社会での常識を懇々と説いた。アルヴィーが頭から煙でも噴きそうな顔をしているが、これも彼のためである。
「うう……貴族ってめんどくさい……」
「我慢して。本番で失敗して不敬罪なんて嫌でしょ」
「そりゃそうだけど」
今から及び腰のアルヴィーを説得し、終いには本番を想定した実践練習までやらせる。言葉だけで説明するよりは頭に入るだろう。
何とか形になるところまで持って行き、ルシエルがやっと合格を出すと、アルヴィーは精根尽き果てたようにソファに倒れ込んだ。
「……俺、明日寝込みそう……」
「大丈夫だよ、謁見もそう長くはならないと思う。陛下もお忙しい方だからね」
まだ十代半ばの少女でありながら、アレクサンドラは毎日精力的に執務をこなしている。今回の謁見も、ずいぶん日程を弄ったに違いなかった。つまり、それほどに今回の一件――アルヴィーの件を重要視しているということだ。だがそれを当人に言うのは止めておいた方が良さそうだと、ルシエルはそっと胸に仕舞い込んだ。これ以上プレッシャーを掛けることもあるまい。
と、ソファに轟沈していたアルヴィーがのそのそと起き上がり、背凭れに身を預けて天井を見上げた。
「……なあ、ルシィ」
「何?」
「俺さ、少しはこの国で認められたのかな」
ぽつりと落とされた呟きに、ルシエルはまじまじと親友を見つめた。
「……アル」
「イムルーダ山下りて、北方騎士団の本部に寄った時にさ。言われたんだ。“《下位竜》を倒した英雄”って。――英雄なんて、柄じゃないと思うけどさ。俺は、この国の騎士にはなれたのかな」
人が誰かを“英雄”と呼ぶ時、そこには同胞の偉業を誇る思いがある。敵国からの亡命者のままならば、そうは呼ばれまい。
ならば――アルヴィーは彼らの同胞だと、ファルレアンの騎士だと認められたということだろうか。
天を仰ぐ彼の朱金の瞳は、だがきっと天井を見ているわけではない。彼が見つめているのはおそらく、自らが歩んできた過去の道程。様々なものを失い、人の身にはそぐわない力を与えられ、周囲の思惑に翻弄されて迷い――それでもただひたすらに前を見据えて、一歩ずつ道を切り拓き、足掻きながら進んできたその跡だ。
ルシエルは目を細め、親友に歩み寄るとその眼前で膝を折る。頭を起こしたアルヴィーを、そのアイスブルーの双眸で見上げた。
「君はもう充分過ぎるくらい、この国の騎士だろう? それに少なくとも――ずっと昔から、君は僕の英雄だったよ」
幼い頃、いつも継父の暴力からルシエルを守るために立ちはだかってくれた彼。同い年の、自分と変わらない体格のその背は、だが小さくも頼もしい、ただ一人の英雄のものだった。
辺境の小さな村の、ルシエルの周りの小さな世界。その中でアルヴィーは、常にルシエルの手を引き、導いてくれる存在だった。実父に引き取られ離れ離れになった後も、ルシエルは彼に再び会うことを目的に、文武に励み力を求めてきたのだ。ある意味で、アルヴィーは離れてもなお、ルシエルを導いてくれたといえる。
たとえこの世界の誰が否定しようとも、彼はルシエルの英雄なのだ。
真っ直ぐに自分を見つめる澄んだ泉のような眼差しに、アルヴィーの表情が綻んだ。
「……ありがとな、ルシィ」
立ち上がったアルヴィーは、ルシエルに手を差し出した。その手を掴み、ルシエルも立ち上がる。
まるで、幼かった頃のあの日のように。
そろそろ戻ると言うルシエルを送り出し、アルヴィーは寝室の窓から空を見上げた。遥か西、故郷の村のある方角を。
(……この国の人間だって、認められたら――)
しばし身じろぎもせず空を眺めると、彼は窓を閉め、室内へと踵を返した。明日の謁見に備えて、新しく購入した制服を出しておかなければならない。それに、一着傷めてしまったので、いっそもう何着か注文しておくべきだろうか。
気が重いような胸が沸き立つような、何とも複雑な気分を味わいながら、アルヴィーは先ほどルシエルから習った立ち居振る舞いを、忘れないように今一度思い返し始めるのだった。




