第36話 竜の卵
上空から矢継ぎ早に降り注ぐブレス。それを《竜の障壁》で防ぎながら、アルヴィーは周囲を見回した。
(くそ、ここで戦ったら飛竜の営巣地が滅茶苦茶になっちまう。移動しねーと……!)
アルヴィーはブレスが途切れたわずかな隙を突き、地を蹴る。飛竜の巣がある岩棚を次々と飛び移り、崖の上まで移動した。
崖の向こうは急角度で落ち込んでおり、それが数十メイルほども下方まで続く、まさに断崖絶壁といっていい地形だ。アルヴィーが現在立っている崖の上が、幅およそ数メイル。それが、アルヴィーが動ける範囲だ。
「やべ。思ったより狭かった」
『問題なかろう。どの道、奴のブレスは障壁さえ張れば問題にならん。ただ、足場を崩されんように気を付けることだな』
「だよな、っと!」
アルヴィーは右腕を振り抜く。放たれた《竜の咆哮》が虚空を薙ぎ、避けた《下位竜》の尾の先を掠めた。警戒するように、《下位竜》が唸る。
見た目は人間にしか見えないのに、竜のブレス並みの攻撃を放ってくるアルヴィーに、《下位竜》はやや混乱しているようだった。アルマヴルカンはこの《下位竜》の気配を感じていたようなので、もしかしたら《下位竜》の方でも、アルヴィーの中に《上位竜》の気配を感じているのかもしれない。
だがそれは、《下位竜》の中で恐怖ではなく、むしろ戦意を掻き立てたようだった。一つ咆哮し、翼で空を叩くとアルヴィーに向かって突き進んで来る。
「げっ!?」
まさかこの体格差で体当たりなどかまされるとは思わず、アルヴィーは慌てて飛び退いた。そして次の瞬間、その辺りを抉り取るように、《下位竜》の巨体が崖を砕きながら通り過ぎていく。轟音と共に、足下が豪快に揺れた。
「うわっと!――危ねー!」
鼻先を《下位竜》が通り過ぎていき、アルヴィーは身を屈めて思わず息を詰めた。何せ、体表の鱗の輪郭まで見える距離だ。広げられた翼は頭上を掠めて飛び去り、巻き起こった土埃が薄れてくるにつれ、景気良く崩落した崖の惨状があらわとなった。
「げ、飛竜大丈夫かよ」
慌てて覗き込むと、幸い真下に飛竜の巣はなかったようだ。しかし、飛び散った石飛礫などで二次被害がそこそこ出ている。
アルヴィーを捉え損なった《下位竜》は、宙で旋回して再びこちらに狙いを定めた。
「同族に迷惑掛けてんな、っつーの!」
アルヴィーが右腕を打ち振ると、《竜の咆哮》が光の刃となって空を斬り裂く。しかし《下位竜》が咆哮すると、その眼前で《竜の咆哮》は弾かれるように軌道を変えた。《下位竜》も魔法障壁を張れるのだ。
『主殿、飛竜どもはあくまで竜の亜種であって、我らと同族などではないのだが』
「今そこ突っ込むな」
お返しとばかりに放たれたブレスを、こちらも《竜の障壁》で弾きながら、アルマヴルカンの突っ込みに突っ込み返すアルヴィー。
「くっそ、これじゃいつまでも決着付かねーぞ」
舌打ちし、アルヴィーは空中の《下位竜》を見上げる。攻撃力はそう変わらないだろうが、やはり自由に空を飛べる分《下位竜》の方が有利だ。
「何とか地上に引きずり下ろせればな」
『ふむ。――わざわざ引きずり下ろさずとも、主殿が飛べば良い』
「無茶言うな!」
『別に無茶ではないぞ? 何のための翼だと思っている。《魔の大森林》とやらでのことを思い出すが良い』
確かに、あの時アルヴィーの身体を使ったアルマヴルカンは、右肩の翼を使って森の上空に一時滞空していたが。
「あれは、“本来の竜”だからできたんじゃないのか?」
『主殿も使う分には問題ない。ただ、使い方を知らぬだけだ』
「じゃあ教えてくれできれば今すぐ!」
上空から撃ち下ろされたブレスを《竜の障壁》で受け止めながら、アルヴィーはノンブレスでまくし立てる。何度目かの爆音。これが冬場でなくて良かったと、アルヴィーは場違いにもほっとした。こんな高山だと、冬場はこの辺りは豪雪で埋まっていることだろう。足場の悪さもさることながら、戦闘の余波や爆音で雪崩の二つや三つは起こっていても不思議ではない。
『良かろう。――まずは、翼に魔力を集めろ』
「分かった」
アルヴィーは右肩の翼にほんの少し意識をやる。魔力集積器官である翼は、周囲に浮遊する魔力を貪欲に吸い込み、淡い輝きを放ち始めた。やがて朱金の光がほろほろと零れ落ち始める。その様子に警戒したらしい《下位竜》がまたブレスを放ってくるが、アルヴィーは前方に駆け出すことでそれを躱した。目標を失ったブレスが、地面に突き刺さって周辺ごと吹き飛ばす。
『よし――跳べ!』
アルマヴルカンの声に従い、アルヴィーは地を蹴った。
「うお――」
いきなり上空二十メイルほども舞い上がり、さすがに驚きの声をあげるアルヴィー。そこへ、アルマヴルカンからの注釈が入る。
『主殿、自分が宙に浮く様を強く想像しろ。我ら竜ならばいちいち思い描くまでもないが、人間である主殿はそうも行くまいからな』
「宙に浮く、ったって――」
反論しかけたところで、アルヴィーは思い出した。
王都の空で、呪詛を焼き払ったあの夜。風の精霊たちの力を借りたとはいえ、確かにあの時、アルヴィーは空を翔けた。
(あの時の――)
その記憶をできる限り呼び起こす。すると、本来なら重力に引かれ落ちるはずのアルヴィーの身は、その束縛を振り切って空中に留まった。
人の身で空に留まる彼に、《下位竜》は混乱したのか、一瞬動きが止まる。大きく広げられた翼――アルヴィーにとって、絶好の標的だった。
「よしっ――《竜の咆哮》!」
その機を逃さず、アルヴィーは《竜の咆哮》を撃ち放つ。一直線に空を貫いた光芒は、《下位竜》の左の翼を見事撃ち抜いた。
「ギャアアァァァッ!?」
空中でバランスを崩し、《下位竜》が高度を落とす。だがアルヴィーも、空中で大きく体勢を崩していた。
「あああああ! 余計なことまで思い出したあああああ!!」
空中で《竜の咆哮》を撃った際、彼はうっかり思い出してしまったのだ。呪詛を焼き払った直後、風の精霊たちの悪戯で街中へのフリーダイビングを強いられたことを。
(くそっ――!)
墜ちる。その視界に、急傾斜で落ち込む山肌が飛び込んできた。
「こ、のっ!」
一か八か、両足を屈めて山肌に着地――次の瞬間、思いっきりそれを蹴る。弾かれるように再び空中に飛び出したアルヴィーは、自身の翼に魔力を集めた。それが功を奏したか、放物線を描くようにわずかに山なりに高度が落ちたが、それ以上は落ちずに彼はもう一度、宙に身を置くことが許された。
「……はー……やばかった……そうだ、《下位竜》!」
急いでその姿を探すと、アルヴィーとは方向がややずれてはいたが、その巨体もまた重力に引かれて地上へと墜落しようとしていた。だが、もう片方の翼が健在なので、彼のようにフリーダイビングではなく、無事な方の翼に風を孕むようにして落下速度を殺している。やはり空を飛ぶ能力では、《下位竜》に分があるようだ。
と――アルヴィーの脳裏に、ある考えが浮かび上がる。
(そうだ、どうせ落ちるんなら)
アルヴィーは《竜爪》を構え、今度は自ら体勢を崩した。落ちるに身を任せる。ただし真下にではなく、見えない坂を滑り下りるように斜めに。
そしてその先には、《下位竜》の巨体がある。
(この勢いを、使えばっ!)
落ちてくるアルヴィーの姿を見咎めた《下位竜》が顎を開く。放たれたブレスを、アルヴィーは《竜の障壁》で迎え撃った。爆発――それを突き破り、アルヴィーは力を溜めるように右腕を引く。
滑空するアルヴィーと《下位竜》が、宙で一瞬交錯する。
そしてすれ違いざまに振るわれた《竜爪》が、《下位竜》の首筋を深く斬り裂いた。
「ガァァアアアァァ!?」
突如襲った痛みに、《下位竜》は空中で苦悶した。滅茶苦茶に振り回された尾の先が、偶然アルヴィーを掠める。
「ぐっ」
何とか《竜爪》で受けたが、その勢いで弾き飛ばされ、着地のために整えていた体勢が崩れた。
まずい、と腹の底が冷えるような感覚を覚えた、その時。
「――押し流せ、《水渦》!」
詠唱が聞こえた瞬間、アルヴィーは水の渦の中に突っ込んでいた。
「ぶっ!?」
いきなり自分を包んだ大量の水――だがそれをも一瞬で突き破り、アルヴィーは山肌を覆う森の中に墜落した。しかし想像したよりもその速度は落ちている。どうやら寸前にあの水の渦に突っ込んだことで、勢いがかなり殺されたようだ。
それでも木々の梢を片っ端からへし折り、十メイル以上も突っ込んだところで、アルヴィーの身体はようやく止まった。
「……っ、痛ってぇ……」
ぼやきながら身を起こす。見上げると、へし折られて酷い有様になった木々の梢の間から、墜落していく《下位竜》が見えた。
アルヴィーは目をすがめ、《竜爪》を掲げて狙いを付ける。
「――《竜の咆哮》!」
迸った光芒は、《下位竜》の肩から胸の辺りを貫いて大きく抉り飛ばし、遥か上空まで伸びて空に溶けるように消えた。
そして一瞬の後、《下位竜》の巨体は二度と空に舞い上がることなく、地響きを立てて山中に墜落した。
「……やった、か?」
呟いて、アルヴィーは立ち上がる。水に突っ込んだ上に木々でもみくちゃになったので、制服は酷い有様だった。せっかく最初に貰った服だったのに、とちょっと項垂れたが、どの道形あるものはいつか朽ちるものだ。予備は注文してあることだし、乾かして上から外套を羽織れば、王都に帰り着くまでは何とか誤魔化せるだろう。
炎を生み出して制服を乾かすと、アルヴィーは一つ息をついて、急傾斜の山肌を登り始める。翼を使って飛べば話は早いのだが、今のところ降下方法が直滑降だけなので、移動手段にするにはもう少し練習を積まなければなるまい。しばらくはお預けだ。
(それにしても……あの水、誰だ?)
何しろ耳元で唸る風がうるさく、声の主までは判別できなかったのだ。
常人なら転がり落ちるしかないような急斜面を、主に右手の爪を登攀器具代わりによじ登り、アルヴィーはようやく平らな場所に辿り着く。そして目を見張った。
「あれ……ここって」
そこは営巣地前の、騎士団が今朝方使った拠点のすぐ近くだった。どうやら空中戦の間に吹っ飛ばされたりして、いつの間にかここまで流されていたらしい。拠点には騎士たちが勢揃いしていて、アルヴィーが顔を出すと歓声があがった。
「《擬竜騎士》だ!」
「本当に《下位竜》倒しちまったぞ!」
「あ……どうも……」
騎士たちのあまりの興奮ぶりに、アルヴィーはちょっと引いた。まあ、《下位竜》とはいえ立派に竜種。それを一人で倒すような華々しい武勲を目の前で打ち立てられれば、興奮もするのかもしれない。
と、
「ふん、だが最後に気を緩めて吹っ飛ばされたのはいただけんな」
ウィリアムが腕を組みつつ尊大に言ってきた。ちょっとイラッとしたアルヴィーだったが、
「そんなこと言って、あの時《水渦》撃ったのランドグレンだったじゃないか」
「なっ、そ、それはっ」
同じ小隊の騎士にあっさりばらされてあたふたするウィリアムに、何だか微笑ましい気分になる。
「そっか。ぶっちゃけ助かった、ありがとな」
「べ、別に貴様を助けたわけではないっ! ただ貴様が《下位竜》を倒しきらねば、こちらにも害が及ぶからだっ!」
「あーはいはい」
「聞けぇぇぇぇ!!」
真っ赤になって絶叫しているウィリアムを、周囲は生温く見守る。
「――きゅ―――っ!!」
そこへフラムが駆けて来て、恒例の飛び付き。顔面目掛けたジャンプを左手でキャッチして肩に乗せるのも、もはや手慣れたアルヴィーだ。
「いや、それにしても、《下位竜》など滅多にお目に掛かれんぞ。何でここにいたんだろうな」
「まさか飛竜にちょっかい掛けに来たわけでもないだろうし」
騎士たちのそんな会話に、アルヴィーもそういえば、と首を傾げた。
(それもそうだよな。何であの《下位竜》、こんなとこにいたんだ?――そういや、アルマヴルカンはこの山に何かいるって言ってたけど、あれのことか?)
『おそらくな。だが……少々気になることがある。主殿、さっきの《下位竜》、少し調べてみた方が良いかもしれん』
(分かった)
どの道《下位竜》ともなれば、その素材はとてつもない貴重品だ。騎士団の方も、下山ついでに《下位竜》の骸を回収したいという心積もりだったので、少し調べてみたいというアルヴィーの意見も難なく容れられた。そこで、《下位竜》の墜落地点までの道を調べるため、アルヴィーが先行することになる。
飛竜の幼体の運搬は騎士たちに任せ、アルヴィーはフラムをいつものように胸元の運搬袋に入れると、文字通り飛ぶように急な山道を駆け下りて行った。
◇◇◇◇◇
《下位竜》の墜落地点は、未だ鳥たちが騒がしく飛び回り、うっすらと土煙が上がっていたのですぐに分かった。意外と下の方まで落ちている。ただ、道からはやや離れていた。いざとなったら森を少しばかり切り開いて運び出すことになるだろうが、その場合には領主である公爵の許可がいるのだろうかなどと考えながら、アルヴィーは森の中に分け入って《下位竜》の墜落地点に辿り着いた。
《下位竜》はどうやら墜落の衝撃で首が折れたらしく、頭が妙な方向を向いていた。そもそもアルヴィーが致命傷を与えていたのだ。もちろんすでに息はない。
「……どうだ?」
『腹の中に、この《下位竜》とは違う気配をかすかに感じる。主殿、これの腹を掻っ捌け』
「はぁ!?」
いきなりエグい指示を出されてアルヴィーは面食らったが、アルマヴルカンの『嫌な予感がする』という意見に、仕方なく《竜爪》で《下位竜》の腹部をざっくり切り開いた。もう死んでいるので血が飛び散ったりはしなかったが、それでも独特の臭気に顔をしかめる。
「……この中か?」
『そうだ』
やだなあ、と思いつつ上着を脱いで右腕を捲り、《竜爪》だけ引っ込めて腹の中をまさぐると、何か硬いものが指先に触れた。
「……何かある」
引っ張り出してみると、それは直径十セトメルほどの球体だった。魔法式収納庫から水筒を出して血を洗い流すと――もちろんついでに腕も洗った――薄紅色をした滑らかな曲面が現れる。アルヴィーの中のアルマヴルカンが珍しく驚いたような声を出した。
『これは……竜の卵か』
「へ? 竜の卵ってこんななのか? 意外と小さいんだな。もっとでかいかと思ってた。じゃあこいつ、メスだったのか……」
『いや、これは《上位竜》の卵だ。おそらく、巣から盗んで来たのだろう。力を求める《下位竜》が、《上位竜》の卵や幼体を狙うのはままあることだ』
「……狙う、って?」
『端的に言えば、力を得るために喰らう、ということだな』
「……じゃあこの卵がこいつの腹ん中にあったのって」
アルヴィーは何ともいえない顔で、手にした卵を見つめる。
『とはいっても、卵の力が取り込まれるまでには、それなりに時間が掛かるがな。今回は、力を奪い尽くされる前に主殿がこの《下位竜》を倒したゆえ、その卵はまだ生きている。――だが、このままでは遠からず死ぬな。そうなるとまずいぞ』
「まずい、って?」
『《上位竜》は飛竜や他の獣と違い、繁殖期の間隔が長い。個体にもよるが数十年に一度、百年単位のものもザラだ。その上生まれる子供の数も少ない。当然、親竜は子供を非常に大事にする。――卵を盗まれれば、盗んだ者をどこまでも追い続け、もし子が死んでいようものなら、その原因をためらいなくこの世から消し去る程度にはな」
「じゃあこの卵が死んだらやばいじゃねーか!」
頭を抱えたくなるアルヴィー。この場合、卵を盗んだ《下位竜》はもう死んでいるが、親竜がそれで納得してくれるとは限らない。最悪の場合、この辺り一帯ブレス辺りで消し飛ばされる可能性もあるのだ。いや、山だけで済めばまだしも、近隣の人里にまでとばっちりが行ったら洒落にならない。
「あーっくそ、でも親捜して返すにしても、どこにいるかすら分かんねーしっ!」
『いや、おそらくさほど遠くにはいないはずだ。この《下位竜》が飛竜の営巣地近くに身を潜めていたのも、卵の親である《上位竜》から気配を隠すためだろう。亜種とはいえ、気配の似た飛竜があれだけ集まっていれば、幾許かの目晦ましにはなる。隠れ家から出て来たのは、先ほど牽制のために放った威圧を卵の親と勘違いしたのだろうが、あれを親である竜も感じていたならば、手掛かりを求めてここへ向かっていてもおかしくない』
となると、そもそも戦闘になったのはアルヴィー自身がきっかけだったともいえる。何とも複雑な気分になったが、それがなければこの卵は助からず、ひいては親竜が盛大なとばっちりをこの辺り一帯に食らわせていたかもしれないので、その点に関しては運が良かったのだと前向きに考えることにした。
「……で、結局どうするよ、これ。放っといたらまずいんだろ?」
『見たところ、その卵はわたしと同じく火竜の卵だ。主殿の翼を使って周囲の魔力を取り込み、それをその卵に送り込めば良い。翼に取り込んだ時点で、魔力には火の属性が乗る。生まれて間もない卵は親の魔力を糧にするからな、この点に関しては運が良かった。同じ火の属性ならば、拒絶反応も起こるまい。それで最低限の延命は図れるはずだ』
「となると……このまま王都に戻るのはまずいか」
卵を持って王都に戻るということは、それを追う親竜を王都に誘導するのと同義だ。もちろん却下である。
考えるまでもなく、アルヴィーがここで卵の延命措置をしながら、気配を辿って追いかけて来るであろう親竜を待ち受けるのが、一番周囲への被害が少ないだろうと思われた。そうなると、騎士団とも段取りを打ち合わせなければならない。
「……とりあえず、一旦騎士団と落ち合って事情を話すか。どの道、ここの案内しなきゃなんないんだし」
アルヴィーは立ち上がると、右手の中の卵を見る。魔力を送り込むという感覚はいまいちよく分からないが、とりあえず炎を生み出す要領でやってみる。
すると――右手に集めた魔力は、炎に変わることなく吸い込まれるように消えた。
「あれ」
『ふむ、どうやら上手く送り込めたようだ。その要領で続けるがいい、主殿』
「分かった」
右手の卵に魔力を送り込みつつ、アルヴィーは騎士団と合流するべく道の方へ歩き出す。
――再び山道を駆け上がり、騎士団と合流したアルヴィーの話を聞いて、捕獲部隊の隊長は唸った。
「む……確かにそれは、由々しき事態だな」
「ひとまず、俺が残って親が来るのを待ってみるかと思ってるんですけど。でも、最寄りの町とか王都に報告なしってのはまずいし」
「それはもちろんだ。ただちに報告し、場合によっては避難指示もしなければ」
頷き、隊長は部下たちを振り返った。
「全員、聞いての通りだ。すぐに下山し、この件を各所に報告せねばならん。《下位竜》の回収はひとまず据え置きだ。まずは、周囲への被害を食い止めることを第一とする!」
「はっ!」
騎士たちの表情にも、見る間に緊張が漲る。
幸い、イムルーダ山から少し南に行ったところには、北方騎士団本部があるので、そこへ駆け込めばすぐに王都に連絡が付くはずだ。北方騎士団本部までは、補助魔法フル活用で突っ走れば日暮れ前には辿り着ける。
「《擬竜騎士》は……ここに残るとのことだったな」
「俺が魔力送り続けないと、この卵死ぬらしいんで。そうなったら親竜の報復待ったなしって感じだし、卵に魔力送ってる間は王都には戻れないし。王都に《上位竜》なんて誘導できないですから」
「そうか……」
沈痛な面持ちで、隊長はアルヴィーを見やる。任務を共にしたのは今回が初めてだが、戦闘時はともかく、普段はごく普通の気の良い少年だと感じた。そんな少年――それも自分の半分以下の年齢の少年を、《上位竜》が来るかもしれない山に一人置いて行くのは、騎士として忸怩たるものを感じたが、アルヴィーの案が最も周辺への被害を抑えられる可能性が高いのもまた事実だった。
せめてもと心ばかりの余剰物資と激励の言葉を置いて、騎士たちが急いで下山して行くのをしばし見送り、アルヴィーは有難く物資を魔法式収納庫に入れると、さらに上へと足を向ける。山の上層には、先ほどアルヴィーと《下位竜》が戦った時に撒き散らされた魔力の残滓が大量にあるそうで、それを回収して卵への魔力供給の足しにする予定だ。
「……きゅー」
と、胸元からちょこんと顔を出して鳴くフラムに、アルヴィーは苦笑した。
「おまえはあっちでも良かったんだぞ」
「きゅっ!」
アルヴィーをキリッとした顔で見上げるこの小動物は、安全のために下山する騎士たちに預けようとしたアルヴィーの手にしがみ付き、断固下山を拒否したのだ。小動物ながら天晴れな度胸である。単にアルヴィーの傍が一番安全だと思っているのかもしれないが。
「……まあ、頂上に一人じゃ退屈だしな。親がいつ来るかも分かんねーし」
「きゅっ」
そうだろうとでも言うように顔を反らすフラムの頭を左手で撫でてやり、アルヴィーは足を早め――というかもはや駆け上がる勢いで、あっという間に山頂近くまで舞い戻った。
そこは、騎士団が拠点として使っていた場所だ。どれだけの日数留まらなければならないか分からないが、雨風を凌ぐにはそこが一番適している。物資も回して貰ったし、数日程度なら粘れるだろう。願わくば、その間に解決して欲しいものだ。
(卵返して済めば、それが一番いいんだけどな)
いざとなったら、戦わなければならないだろう。周辺の人里を守るためにも。
アルヴィーはその責任の重さに唇を引き結び、いつ親竜が来るとも知れない空を見上げた。
◇◇◇◇◇
捕獲部隊が駆け込んだ北方騎士団本部から王都にもたらされた報告に、騎士団本部は一気に最大警戒レベルに達した。
「現在動きが取れる騎士及び魔法騎士すべてに非常呼集を掛けろ! 王都北縁に防衛線を構築する!」
騎士団長の号令一下、非番の騎士たちまで駆り出される。街中で治安維持に当たる騎士たちも、最低限の人数を残して引っこ抜かれた。一般市民に情報が洩れてパニックになるのを防ぐため、非常呼集は詳しい事情を伏せて掛けられたので、集められた騎士たちは最初は怪訝な顔をしていたが、事情を聞いて青ざめることとなった。
もちろんこの報告は、騎士団長を通して国の中枢にも上げられた。
「――国内に《上位竜》が襲来する可能性があるとは、まことか!?」
「は……飛竜の幼体を捕獲するため、捕獲部隊がイムルーダ山に向かいましたところ、現地で《下位竜》が出現。部隊に随行していた《擬竜騎士》が戦闘の末倒したとのことですが、その際に《下位竜》の骸から《上位竜》の卵を発見したとのことです。《擬竜騎士》によれば、《上位竜》は非常に子供を大切にするため、卵を追った親が追って来ている可能性が高いと……王立魔法技術研究所からも、それを裏付ける報告が上がっております」
「何と……よりにもよってイムルーダ山とは……」
騎士団長の報告に、宰相であるヒューバート・ヴァン・ディルアーグ公爵は呻いた。イムルーダ山はまさに彼の領地の中にある。飛竜が人里離れた山の頂上近くに営巣地を作っていることに関しては、国の利益にも繋がることなので代々黙認してきたが、《上位竜》となると話は別である。何しろ、二十年あまり前に隣国レクレウスに《上位竜》が現れた時は、軍はもちろん民間からも有志を募り、かなりの犠牲を払いながらようやく倒したほどなのだ。それが自身の領地内で再現されるなど、想像したくもない。
「……宰相、騎士団長」
その時玉座から聞こえた澄んだ声に、二人は居住まいを正した。
「陛下、風の精霊たちは何と……?」
「《上位竜》はやはり、この国に向かっているそうよ。現在は《虚無領域》からサングリアム公国の辺りを飛んでいるようだから、そう時間は掛からずこの国に入るわ」
風の下位精霊たちから話を聞いていた女王アレクサンドラは、だが常と変わらず静謐な気配を纏い、落ち着いたペリドットグリーンの瞳を騎士団長に向ける。
「――現地には、《擬竜騎士》が残っているそうね?」
「は、見つかりました《上位竜》の卵は火竜のものと見られるそうで、同じ火竜の力を持つ《擬竜騎士》が卵の延命措置をすると共に、卵を親竜に返して説得を試みると」
「そう……確かにそれが、一番穏便に済むかもしれないわね。成功すると良いのだけれど……」
アレクサンドラは物憂げにそう言い、目を閉じる。そして再び瞼を開いた彼女は、毅然とした表情で騎士団長と宰相に指示を下した。
「ひとまず、《上位竜》は《擬竜騎士》に任せましょう。騎士団長は引き続き、王都の防衛指揮及び、北方騎士団本部との折衝役を。宰相は領内の慰撫に努めて。今回の話をできるだけ領外に出さないように」
「はっ」
「畏まりました」
「わたしも折に触れて精霊たちから話を聞くようにするわ」
それに応えるように、彼女の髪をかすかな風が撫ぜていく。精霊たちが飛び去って行くのを感じながら、アレクサンドラは手にした杖を強く握り締めた。
――その頃、ルシエル率いる第一二一魔法騎士小隊も、非常呼集により本部に召集されていた。そこでイムルーダ山での一件を聞き、ルシエルは周囲の騎士たちとは別の意味で青ざめた。
「アルが……?」
だがそれも無理はない。親友が《下位竜》と戦ったと聞いただけでも冷や汗ものなのに、さらに《上位竜》が来襲するかもしれない山に居残って説得を試みるというのだから。正直、今すぐ現地に飛んで行きたい。例え、自分の力では何の助けにもなれないと分かっていても。
そして傍らでそれを聞いていたシャーロットも、その瞬間に自分の心臓が大きく跳ねるのを感じた。
(え……?)
思いがけず動揺した自分に驚く。確かに、彼との交流は他の騎士たちよりは格段に多く、親交はある方だが、それでもまだただの知己の範囲を出ていない――その、はずだ。
自分の胸に手をやって早くなった鼓動を確かめていると、近くで息を呑む鋭い音が聞こえた。見ると、蒼い髪の同い年くらいの少女が、こわばった顔で凍り付いたように立ち尽くしている。
「どうした、オルコット」
「……いえ……何でもありません」
「そういえば、オルコットは特別教育で従騎士時代の《擬竜騎士》を担当したんだったな。知り合いが気に掛かるのは分かるが、我々の仕事は一刻も早く王都防衛線を構築することだ。良いな?」
「……はい」
だが見るからにショックを受けていた彼女は、それでも気丈に頷いた。
同じ小隊所属らしい騎士たちと共に、足早に歩き去って行く彼女の後ろ姿を見送って、シャーロットは自身の小隊の面々を振り返る。
「わたしたちも動きましょう。――ここで彼を案じているだけでは、何の助けにもなりませんし。せめて、後顧の憂いを無くすくらいのことはしなくては」
「……シャーロットの言う通りだな。僕たちも行こう」
気を取り直したように、ルシエルも頷いた。彼らもまた、王都北縁での防衛線構築を命じられている。王城からは十数ケイルほど離れているので、もうそろそろ出なくてはならない。
慌ただしく準備を整えて出発しながら、シャーロットはふと、遠い北の空を見上げる。
その下で一人待つ彼は、今頃どうしているのだろうかと思いながら。
◇◇◇◇◇
「……眠たい」
火竜の卵を発見し、今日で三日目。アルヴィーは仮眠ともいえない数分のうたた寝を挟んだだけで、ほぼ完徹で卵に魔力を送り続けていた。何しろ、完全に寝落ちてしまえば魔力の供給もストップしてしまうのだ。それで卵が死んでしまっては元も子もないので、隙あらば襲い掛かってくる睡魔と闘いながらの卵の世話である。
「……ぷきゅー……」
膝の上で惰眠を貪るフラムの尻尾を八つ当たり的に弄りながら(それでも起きない辺り、この小動物は完全に野性を忘れきっている)、アルヴィーはどこか据わった目で卵を見つめた。
「……つーか、明らかにでかくなってねーか、この卵……?」
明らかも何も、最初は普通に右手で掴めるサイズだった卵は、今や倍以上の直径に成長し、持つというより抱えるような形になっていた。色も申し訳程度に色付いていた薄紅色から、薔薇のような色合いに変わっている。その代わり、アルヴィーは寝不足と、ほぼぶっ続けで戦闘形態を維持し続けている疲労でヨレヨレになってきているが。
これが世の母親の苦労なのだろうかと、ちょっと遠い目になるアルヴィー。その昔、彼が生まれたばかりの頃は夜泣きのせいで良く眠れなかったと、今は亡き母に愚痴られたことを思い出す。何だかその気持ちが良く分かった気がした。母は偉大だ。
『魔力を取り込んで成長している証だ。まだまだ序の口だぞ』
「これで序の口って、最終的にどんだけ成長すんだよ、この卵……」
『卵の成長は、取り込んだ魔力に比例する。安定して魔力を取り込めれば、それだけ強い力を持つようになるからな。責任重大だぞ、主殿』
「うええ……」
余計にプレッシャーを掛けてくれるアルマヴルカンに、げんなりと呻く。
「……けど、いい加減この卵迎えに来てくれねーと、この辺りももうそろそろ、取り込める魔力がなくなりかけてるよな……」
そもそも、空気中には生物が持つ固有の魔力の他に、一定量の魔力が元から浮遊しており、それを取り込む能力を持っているのは一部の幻獣や魔物くらいのものだという。《擬竜兵》の魔力集積器官は、その能力を人間にも付与することに成功した、画期的なものなのだ。しかしその魔力集積器官をもってしても、周辺の浮遊魔力が底をついてしまえばどうしようもない。卵に送り込むために周囲の浮遊魔力を取り込みまくった結果、この周辺一帯の浮遊魔力は急速に薄まり、供給が厳しくなり始めていた。もちろん、一点の魔力が薄くなれば、均等になろうとする力が働くため、周囲から魔力が流れ込んでくるだろう。だが問題は、卵が魔力を取り込むペースが、周囲の魔力の回復より明らかに早そうなところだった。
「こいつ意外と大食いだよなあ……」
つんつん、と左手で卵をつついてみる。アルマヴルカンの見立てでは、この卵は生まれたても生まれたて、生後数日も経っていないだろうということだったが、食欲(?)は旺盛なようだった。送り込めば送り込んだだけ、魔力を吸い込んでしまう。比喩でなしに、この辺一帯の魔力を吸い尽くしてしまいかねない勢いだ。
(……ま、食欲があるのは元気な証拠と思えばいいか)
丸々二日も付きっきりで世話していれば、それなりに愛着も湧いてこようというもの。まだ中身の想像も付かない卵だが、何となく可愛く思えて、ちょっと表面を撫でてみたり。
卵が死ねば親竜の報復が怖いということで始めた世話だったが、この中に確かに一つの命があるのだと思えば、面倒だとも思わなくなった。それは、アルマヴルカンから聞いた竜の意外な愛情深さに、少々感じるところもあったからだ。
子供を取り戻すためなら、例え世界の果てまでも追いかける、その執念。それは、人の親の愛情にも通じるように思えた。
それがアルヴィーには、少し羨ましい。彼にはもう、両親はいないから。
「やっぱ、親元に返せるに越したことはないよなー……」
そう呟いた時――急に空気が張り詰めた気がして、アルヴィーははっと顔を上げた。
「これって……」
「きゅっ!?」
さすがにこれには異変を感じたのか、寝こけていたフラムも即座に飛び起き、アルヴィーの肩口に駆け上ると、襟元に頭を突っ込む。そんなフラムを運搬袋に詰め込んでいると、アルマヴルカンが呟いた。
『――来たな』
「来たって……親か?」
アルヴィーは立ち上がり、周囲を見回す。すると、遥か遠く、彼の視力でもようやく視認できるかという距離で、豆粒のような影が見えた。
(……あんなとこからこの気配かよ!? さすが《上位竜》、半端ねーな……)
つ、と冷や汗がこめかみを伝うのを感じる。《下位竜》とは、まさに桁が違った。これだけ離れていても、ビリビリと大気が震えるような力が伝わってくる。飛竜の営巣地の方からも、《上位竜》の接近を悟ったらしい飛竜たちの狂騒が聞こえてきた。
『正念場だぞ、主殿。気圧されるな』
アルマヴルカンの声に、アルヴィーは両足を踏みしめ、唇を引き結ぶ。胸元でぷるぷる震えるフラムを宥めるように左手で撫で、近付いて来る《上位竜》を見つめた。
やがて《上位竜》は、拠点の上空で大きく翼を広げ、地上を睥睨するようにゆっくりと降りてきた。逞しい体躯は美しい深紅の鱗に覆われ、力強さが漲るような翼は、朝焼けの空を思い起こさせる。頭部にはわずかに湾曲した一対の角。そしてアルヴィーを見下ろす双眸は、燃え盛る炎のごとく炯々と輝く黄金だった。
『――探したぞ。我が雛』
その圧倒的な存在感とは裏腹に、火竜はほとんど音を立てずに、ふわりと地面に下り立った。鮮やかな金の光を放つ双眸が、アルヴィーの腕に抱かれた卵を見つめる。しばし探るような視線に晒され、アルヴィーはわずかに身じろぎしたが、やがて火竜は満足したように喉を鳴らした。
『……思ったより消耗していないようだ。それに、そこの人間。おまえの中に同族の気配を感じる。何者だ?』
ずい、と巨大な顔を寄せられ、アルヴィーは思わず一歩後ずさりかけたが、何とか堪える。どうやら食ってやろうという気ではないようだ。金の両眼を光らせているのは今のところ、憎悪ではなく興味のようだった。それに安堵しながら、アルヴィーは答える。
「……火竜の肉の欠片を、右腕に移植された。俺の中にいるのは、その竜の魂の欠片だ」
『ほう……竜の血肉を取り込んで、まともに生きている人間がいようとはな。これは、珍しいものを見た……なるほど、我が雛に火の魔力を送り続けていたのはおまえか。この辺りで一時、同族の気配を感じたゆえ、雛の手掛かりを求めて立ち寄ったが……』
火竜は四肢を地面に突き、身を屈めるようにして首を伸ばす。アルヴィーは心得て、卵を掲げるように差し出した。恐ろしげな牙が生え揃った口が、卵を優しくそっとくわえる。それはやはり、この火竜が卵の親なのだと思わせた。
『……賢明だ、人間。あの愚かな《下位竜》のように、雛を我が物とせんとしたならば、骸も残らぬほどに焼き尽くしてやるところだったが。――そういえば、あの愚か者はどうした?』
「倒したよ。自分で倒したかったなら悪かったけど、こっちも襲われた以上、身を守らなきゃいけないし」
『ふん……腹立たしくはあるが、骸を焼いたところで仕方ない。雛を取り戻しただけで良しとしよう』
火竜がさほどこだわる風もなく顔を上げたので、アルヴィーはほっとした。
(良かった……そんなに機嫌は悪くないみたいだ。このまま帰ってくれれば……)
そう思ったのが原因か、否か。
『用は済んだだろう。ならば早々に巣に帰れ』
いきなりアルマヴルカンの声が聞こえて、アルヴィーはぎょっとした。しかも火竜は、その声が聞こえたかのように再びアルヴィーを見下ろす。
『……今の声は』
(ああああ、アルマヴルカンの阿呆ーっ! てか竜には聞こえんのかよ、これ!)
頭を抱えたくなったアルヴィーに構わず、アルマヴルカンはしれっと、
『わたしは親切で言ってやったまでだが? そもそも、雛が生まれたということは、これには番がいるはずだ。その番を置いて単独で雛を探しに来たということは、何か番が動けぬ理由があるということ。ここで道草を食っていて良いのか』
「そういうことはもっと分かりやすく言えよ! 喧嘩売ってるみたいにしか聞こえねーぞ、今の!」
思わず突っ込んだアルヴィーに、火竜が再びずいと顔を寄せる。
『ほう……眠っているのかと思ったら、魂が自我を持ったままおまえの中で“生きて”いるのか。――我が番は巣で別の雛を守っているゆえ、探しに出られなかったまでのこと。言われずとも雛を取り戻した以上、すぐに戻る』
「何だ、無事なのか。てっきり悪い方向に想像しただろ……」
アルマヴルカンの言い様から、もしやその番とやらの身にも何か、と思ってしまったアルヴィーは、やれやれと安堵の息をつく。そんな彼を、火竜は興味深げに覗き込んだ。
『……人の身で我らを案ずるか。それに、我が雛を使って力を得ようとも思わなんだようだ。欲があれば、雛を我が物とする算段を巡らせるか、雛を盾にこちらに対価を求めるものだろうに』
「だってその卵、遠からず死ぬかってとこだったのに、そんなやらしいこと考えてられないよ。親の報復も怖いしさ」
それに、とアルヴィーは言葉を継ぐ。
「――竜だってさ、子供が死んだら悲しいだろ。親が死んだ子供も悲しいけど……子供が死んだ親だって、きっと同じくらい悲しい」
父を、そして母を失うその痛みを、アルヴィーは知っている。猟師として森の獣を狩り、《擬竜兵》として数多の命の上に立ち、自身が命を奪った記憶を確かに抱えて、それでもその思いだけは曲げられない。
それを過たず受け取ったのか、火竜は顔を上げた。
『そうか。――人間、名前を訊こう』
「……へ? 何で?」
『我が雛の命を救い、慈しんでくれた礼だ。雛には、おまえの名から音を貰って名付けよう』
「え……」
『竜なりの謝意の示し方だ。受けるが良い』
アルマヴルカンにも促され、アルヴィーは頷く。
「アルヴィー。アルヴィー・ロイだ」
『覚えておこう。――それと、もう一つ』
火竜の全身から、朱金のきらめきが滲み出る。それは、アルヴィー自身の翼が生み出すものと良く似ていた。
朱金のきらめきは、アルヴィーに纏わり付くように渦を巻き、彼の中に吸い込まれていった。アルヴィーの中のアルマヴルカンが、驚愕を乗せた声音で呟く。
『これは……加護か?』
「え」
『欲に溺れず我が雛を慈しんだ、その心根が気に入った。五百年、おまえとその血を継ぐ者に、我が加護を与えよう。ただし、五百年に満たぬ間におまえの血が絶えればそれまでだ。万が一その前に我が命が絶えれば、この雛に加護を引き継ぐ。火竜エルヴシルフトの名において誓おう』
ばさり、と広げた翼に風を孕み、火竜エルヴシルフトは空に舞い上がっていく。アルヴィーが何か言う暇もあらばこそ、その姿はあっという間に上空高く舞い上がり、遠くの空に消えていった。
しばしぽかんとそれを見送っていたアルヴィーは、怖々とアルマヴルカンに尋ねる。
「なあ……二重に加護貰うって、有りなのか?」
『わたしの場合は、加護というのは少し違うがな。――まあ良かろう、くれるというなら貰っておけ』
「そんな土産物みたいな……」
ため息をついたが、今さら返すわけにもいかない。そもそも加護の返し方など分からないが。
「……でも、そっか。あの卵、両親に兄弟までいるんだな。元気に育つといいけど」
目を細めてエルヴシルフトとその卵が消えた空を見上げたアルヴィーは、胸元からあがった細い声に目を落とした。
「もう大丈夫だぞ」
「きゅーっ!」
途端に運搬袋から飛び出し、首元に抱き付いてくるフラム。そのふかふかの毛並みと程良い体温に、《上位竜》の出現で吹っ飛んでいた眠気が徒党を組んで戻って来たのを感じる。
「……あ、やべ。眠い……」
「きゅーっ!?」
フラムの悲鳴のような声を聞きながら、何とか右腕を通常状態に戻したアルヴィーは、そのままぱたりと背中から倒れた。瞼を閉じて爆睡――かと思いきや、その両目はすぐに開かれる。ただし瞳は常の朱金ではなく、火竜の金色をしていた。
『……やれやれ。まあ、人の身には少々荒行だったか』
アルヴィーの意識は眠っているが、多少動くくらいは造作もない。起き上がったアルマヴルカンは、一目散に逃げ出そうとしたフラムの首根っこをむんずと掴み、ぶら下げたまま火竜が去った方角を見つめた。
『……エルヴシルフトか。あの若造が、子を持つ年になったとはな。――これも巡り合わせというものか』
肩を竦め、アルマヴルカンはくるりと身を翻した。
『それにしても、こんなところで眠るとは。飛竜辺りに食われたら目も当てられんぞ。まったく、世話の焼ける主だ』
アルマヴルカンは寝泊りに使う穴倉へと歩いて行く。その口元にわずかに笑みが浮かんでいるのを、だが見る者は誰もいなかった。




