第30話 混迷
カァン、と鐘が鳴る。
やけに半端な時間に王都ソーマに響いたその鐘に、子供たちが空を見上げて首を傾げ、その意味を知る大人たちは顔をしかめて目を逸らした。
それは、罪人の処刑を意味する鐘だった。
レクレウス軍と通じ、ファルレアンの各地を魔物に蹂躙させんとした、ギズレ元辺境伯とその家族。彼らは今日、その命を絶たれた。
元辺境伯は王城の片隅にある処刑場で斬首刑に処されたが、その家族は直接謀には関与していなかったこと、曲がりなりにも由緒ある貴族の一員であった事実を重んじ、毒杯を呷ることとなった。それは大人も子供も関係なく行われ、ギズレ家はこの日をもって断絶した。
――ただ一人、行方を晦ました娘を除いて。
そして、その王都ソーマを見下ろす上空遥か。
天を翔ける異形の騎馬の背に身を預け、ベアトリス・ルーシェ・ギズレはそこにいた。
「お父様、お母様……! みんな……!」
零れる嗚咽と涙が、風に吹き散らされ流れていく。家族を救う力を持たない自分が、惨めで仕方なかった。
脳裏をよぎる、もう戻らない日々。家族に囲まれ、辺境伯家令嬢として何不自由なく暮らしていた、そしていつか幸せな花嫁となることを信じていたあの頃の記憶が、今彼女の胸を深く刺す。
それでも――彼女は今、嘆き悲しみはしても、絶望はしていなかった。
新たに仰ぐべき主を見つけたから。
彼女のために果たすべき使命があるから。
そして――彼女によって与えられた、新たなる力があるから。
「……女王アレクサンドラ。いずれ、家族の仇は討たせていただくわ……!」
憎しみを込めてそう呟き、ベアトリスは王城を燃えるような瞳で見下ろす。その双眸にわずかに残った涙も、上空の強い風が攫い、遥か彼方へと運び去っていった。
振り切るように王城から視線を外すと、彼女は自らが身を預ける騎馬の手綱を握る。それは鷲の頭と前足と翼、そして馬の胴と後足を持つ幻獣・ヒポグリフだ。これは主であるレティーシャから、ベアトリスに与えられた使い魔だった。レティーシャの命で各地へ飛ぶ必要が出て来た彼女に、足として与えられたのだ。
(お父様、お母様、見ていらして。――いずれ必ず、みんなの仇を討ってみせるわ)
最後にもう一度王都を眺めると、ベアトリスは心の中で家族に別れを告げた。ヒポグリフに合図を送る。ヒポグリフは翼を羽ばたかせ、空を翔け始めた。
紅茶色の髪をはためかせ、風に目を細めながら彼女が目指すのは、北。といっても目的地は《薔薇宮》ではない。否、最終的な目的は確かに《薔薇宮》への帰還なのだが、当面の目的地はそこではなかった。
彼女が目指すのは、ソーマと廃都クレメティーラとの間に位置する、《神樹の森》だ。その地へと赴いて主が求めるものを手に入れるのが、ベアトリスに与えられた使命だった。
だが、《薔薇宮》からだと、ファルレアンの王都ソーマよりも《神樹の森》の方が近い。ならばなぜ彼女がソーマ上空にいたのかというと、それはレティーシャから与えられた恩情だった。家族の処刑が近いことを知り、最後に一目会うことすら叶わないことを嘆くベアトリスに、せめてもと同じ王都ソーマで最後の時を共に過ごさせてくれたのだ。見送ることは叶わなかったが、それでも家族が命を絶たれたその瞬間に立ち会い、悲しむことはできた。そして、家族に誓いを立てることも。
(姫様のご恩情に報いるためにも、この任は果たしてみせるわ)
ヒポグリフを駆り、ベアトリスは一路、《神樹の森》へと向かった。
――《神樹の森》は、大陸のほぼ中央部に位置する大森林だ。その広さはファルレアンの《魔の大森林》をも超え、大陸でも最大規模の樹海といわれる。その名の由来は、森の中心部にそびえる大樹にあった。緑の梢の中に、時折見られる金色の葉。それは死者すら蘇らせる奇跡の妙薬の原料になるとも謳われ、その大樹は古の昔にこの世界を去った神が残した遺産として、《神樹》と呼び慣わされているのだ。もっとも、その由来すらも今は忘れ去られ、ただその名だけが伝わっているという。
だが、ベアトリスの今回の目的は、それではない。
「……確か《神樹》の近くにあるという話だったけど」
呟き、彼女はヒポグリフの手綱を引いた。ヒポグリフは緩やかに森へと舞い下りて行く。
地上に下り立つと、ベアトリスは周囲を見回し、懐から一枚の紙を取り出す。それには、主が求めるものの姿形が細かく記されていた。
「白に金色の斑模様が入った花を咲かせた木……難しいわね。この辺りには……あら」
何度か視線を巡らせた先、ちらりと白い色が掠め、ベアトリスは目を凝らす。近寄ってみると、それは紛れもなく、白い花びらの中に金の斑模様が入った花だった。思いがけない幸運に笑みが零れる。
「ここで良い子で待っていてちょうだい」
ヒポグリフにそう言い置いてその背から下りると、ベアトリスはその木のもとに向かう。今まで見たこともなかった、不可思議だが美しいその花をしばし愛で、小さく息をついた。
(つい見入ってしまったけれど、先にお役目を果たさなきゃ)
彼女は左腕の腕輪の宝石部分に手を翳す。繊細な細工が施された美しい装飾品にしか見えないそれは、宝石部分に魔法式収納庫と同じ魔法が刻まれているのだ。彼女はそこから、一振りのナイフを取り出すと、それを渾身の力で木の幹に突き立てた。抉るようにナイフを回し、幹に深い傷を付けると、腕輪から今度は透明な立方体の結晶を取り出し、傷口に押し込む。
「……せっかく綺麗な花を咲かせているのに勿体ないけれど、姫様がご所望ですものね」
すると――まるでその言葉を聞いたかのように、花がはらりと散り始めた。それだけでは終わらず、葉がみるみる萎れ、水気を失った枯れ葉のように落ち始める。そしてついには、木全体が枯れ始めたのだ。それと反比例するように、透明の結晶は薄い緑色に染まっていく。
やがて傷口から結晶がぽろりと零れ落ちた。ベアトリスはそれを拾い上げ、満足げに眺める。
(まずは一本……全部で五本分は必要だということだから、あと四本ね)
その時。
『――森の木を傷付けたのは、おまえかしら?』
女の声と共に、周囲の木々に巻き付いていた蔓が一斉にベアトリスに向かって伸びる。だが、そこへ躍り込んだヒポグリフが鋭い爪でそれらを薙ぎ払った。
「誰!?」
ベアトリスが振り仰いだ先、梢の上からこちらを見下ろすのは、緑の長い髪をした年若い少女だ。だが、その身体は半ば幹と同化し、髪と同じく緑色の瞳は炯々と光っている。
「……ドライアド……」
ベアトリスは呟いた。樹木に宿る精霊である彼女たちは、森の木々を傷付ける者には容赦しないという。
『どういうつもりか知らないけど、わたしのお気に入りの木を枯らすなんて――覚悟はできているんでしょうね、人間の小娘?』
ドライアドが指を鳴らすと、再び蔓が蠢き始める。蔓はベアトリスの逃げ場を奪うように、周囲を取り囲み始めた。
だが――彼女は元々、逃げる気などなかったのだ。
「主の命ですもの。悪いけれど、この木はいただいて行くわ。――あなたこそ、邪魔をする以上、覚悟はできているのよね?」
ベアトリスは腕輪に手を翳し、一本の扇を取り出した。薄蒼の絹に銀糸の刺繍が施され、骨にも彫刻が施された見事なそれは、いかにも上流階級の令嬢が持つのに相応しい。だがこの場面で取り出すには、あまりに不似合いな代物でもあった。
『それはっ――!?』
しかしその扇を見た瞬間、ドライアドの表情が変わる。ベアトリスは扇を広げ、空を斬るように鋭く振り抜いた。
そして一瞬の後、彼女を捉えんと伸びていた蔓たちが、見えざる手で薙ぎ払われたかのごとく吹き飛ぶ。一振りで半分以上の蔓がバラバラに切り刻まれたのを見て、ドライアドが声を震わせた。
『その扇……魔法武器ね? それに、おまえのその胸元……』
「あら……さすがに精霊には分かるのかしら。――そうよ。姫様から賜った魔法武器と魔力集積器官。使うのは初めてだけれど、上手く使えて良かったわ」
ほっと胸を撫で下ろすように、胸元に手を当てるベアトリス。その手の下、胸元の膨らみの少し上に当たる部分には、紅く輝く宝玉のようなものが埋め込まれている。周囲から魔力を取り込むこの魔力集積器官は、使い魔、不可視の刃を飛ばす魔法武器である扇と共に、主たるレティーシャから賜った、ベアトリスの新しい力だ。侍女頭とはいえ、主の代わりに各地へ飛ぶこともある彼女の身を守るため、レティーシャはベアトリスにこれらの力を惜しみなく与えてくれたのである。
彼女は淑女らしく扇で口元を隠すと、クスリと笑った。
「確かドライアドは、宿っている樹木と運命を共にするのよね。――試してみてもよろしくて?」
『ひっ――!』
ドライアドは怯えたような声をあげ、自身が宿る木の中に逃げ込もうとする。それに構わず、ベアトリスは再び扇を打ち振った。放たれた不可視の刃はドライアドの宿る樹木に殺到し、その幹をズタズタに斬り裂いた。
『いやぁぁああああ!!』
ドライアドの悲鳴が響く中、彼女が宿る木は堪えきれずにゆっくりと倒れていく。水も養分も得られない樹木は遠からず枯れ、そこに宿るドライアドもまた、同じ運命を辿ることとなるのだろう。
(思いがけず手間取ってしまったわ……早くあと四本分集めて、姫様にお届けしないと)
もはや不運なドライアドのことなど忘れ、ベアトリスは本来の使命を果たすため、ヒポグリフを促して森の中を歩き始めた。
◇◇◇◇◇
所変わってラース砦。
魔物たちの襲撃もかなり散発的になり、責任者であるデズモンド・ヴァン・クラウザー一級騎士は、大暴走が終息したと結論付けた。
「――え、じゃあもう大暴走、あれで終わり?」
話を聞いたアルヴィーは何となく拍子抜けの感だったが、傍から見ればあれは、《擬竜騎士》の常識外れの戦闘力があったからこそ防衛しきれたのだ。それを抜きにあの規模の襲撃を受ければ、壊滅していない方が不思議な状態だったのだから。それが良く分かるだけに、ルシエルたちは遠い目になる。
「……まあ、そういうことだから。もう僕たちは迎撃任務から抜けて、特別任務の方に入っていいみたいだ」
「そっか。じゃあ準備しないとな」
装備品については、デズモンドが担当者に話を通しておいてくれていたので、揃うのも早かった。携帯食料や方位を測るための器具、魔物避けの結界を張るためのマジックアイテム、その他諸々。ちなみに水は魔法士がいればどうとでもなるので不要だ。
彼らが準備している間、砦は迎撃任務の時とはまた違う意味で賑やかなことになっていた。倒した魔物たちの解体作業が進んでいるのだ。特にベヒモスやサイクロプス、ワームなどの超大物は、動かせないので現地で解体し、魔石や素材などを持ち帰るのだが、それらはいずれも稀少な素材ばかりなので、砦に運び込まれるたびに感嘆の声があがっていた。
「凄いな、見ろよ、あの魔石。とんでもない大きさだぞ」
「あのワームの鱗とか骨、武器の強化に使えそうだな」
そんな声が漏れ聞こえる中、それらは倉庫に一時保管され、すぐに王都に向けて運ばれることになっている。と、一人の騎士がやって来てルシエルに声をかけた。
「第一二一魔法騎士小隊の、クローネル小隊長ですか」
「ああ、そうだが」
「では、第一二一魔法騎士小隊が倒したサイクロプスについて、魔石と素材の分の報奨金が下りますので、こちらの書類にサインをお願いします。王都の方で算定が行われまして、支払も王都に戻ってからとなりますが」
「おーっ! そうか、それがあったな!」
「そういえばあの時は必死で忘れてたけど、サイクロプスだもの、かなり期待できそうね」
カイルが歓声をあげ、ジーンも顔を輝かせた。他の面々も報奨の一言に表情が綻ぶ。だが書類にサインを貰って去って行く騎士を見送りながら、ユフィオがふと気付いたように、
「あ……そういえば、アルヴィーが倒した分はどうなるのかな? 金額的に凄いことになりそうだけど。さっきの人に言わなくて良かったの?」
そう言われて、アルヴィーはこちらに来る前、ジェラルドから伝えられた騎士団の決定を思い出す。
「ああ……俺が倒した分は、レドナの復興資金に回すらしいぜ」
「ええーっ!?」
ユフィオだけでなく、カイルやジーンも叫んだ。
「おま、それ思いっきりぼったくられてねーか!?」
「そう言われても、これ騎士団の決定だし。ってことは国の決定ってことだろ? まあ確かに俺、あそこの結界陣とか建物とか盛大にぶっ壊したしな」
「それにしたって……」
アルヴィーが倒した分の魔石や素材の価格を想像したのだろう、ジーンが絶句する。
「あのねえ、そういうのは“はい分かりました”ってあっさり頷くんじゃなくて、一応交渉くらいはしてみるものよ? 報奨金はまあ諦めるとしても、素材を回して貰うとか……」
「……回して貰ってどうすんだ? ぶっちゃけ、俺そういうの必要ないんだけど」
「ああ……そうか。そうよね……」
ジーンは額を押さえて天を仰いだ。そうだった。彼は右腕に竜の鱗が生え、《竜爪》などという自前武器もあるのだ。武器強化など必要ないし(というかこれ以上強化されたらその方が物騒だ)、魔力は自力チャージできるので魔力タンクとしての魔石も不要。例え超大物の魔物だとしても、竜と比べればランクは数段劣るので、彼的には素材に旨味がまったくない。
「それに金貰ってもなー。そもそも今まで金使うような生活したことがなかったんだけど」
「そういえば僕も、村ではお金なんかほとんど見なかったな」
「だよな」
辺境育ち組がうんうん頷いている横で、都会育ち組が不思議そうな顔になる。
「え、じゃあ買い物とかどうやって?」
「村で買い物なんか、行商人が来た時くらいだぞ。それも物々交換で買うのが珍しくないしな。あと、麦や野菜は自分とこで作るし、肉は森で獲って来て捌く」
アグレッシブな自給自足だ。都会組は慄く。
「さ、さすが元猟師……」
「でも、服とか小物は?」
「村の女は年頃になったら大体布が織れて裁縫もできたし、小物とかも器用な奴が作ったぞ?――って、ジーンは何で落ち込んでんだ?」
「深く訊かないでちょうだい……」
「ああ、そういやジーンって家事全般壊滅――ぐおっ!?」
余計なことを口走りかけたカイルの脇腹に、ジーンの肘鉄が抉り込むようにヒット。悶絶する彼を男性陣は見て見ぬふりをする。誰しも好き好んで地雷を踏みに行きたくはない。
話を逸らすように、ルシエルが締め括る。
「……まあとにかく、辺境部の村じゃ基本的に自給自足だし、そもそも生活が村の中でほとんど完結するから、貨幣経済が入る余地があまりないんだ」
「それに、村で作った作物なんかは村の共有財産だしな。収穫したら持ち寄ってみんなで分けてたぞ。俺たち猟師も、獲物狩って来たら村に持って帰って分けたし」
「あ、なるほど。個人で貯蓄するっていう発想自体がないんですね」
シャーロットが感心したように頷いた。生まれも育ちも王都である彼女にとっては、貨幣を見ることすら珍しいという生活の方が想像が付かないが、辺境部の小さな村だとそれが当たり前なのだろう。
そんな話をしながらも準備を終え、これから森に入ることをデズモンドに報告に行くと、彼から一つ頼み事を追加された。
「――実は、我々から見ても今回の魔物の多さは異常だということになってな。そこで、森での探索任務の際に、そのことについても調べては貰えんか。これだけの異常事態だ、おそらく森には何らかの痕跡が残っているはずだ」
彼曰く、今回の大暴走はこれまでにも例がないほど大規模なものだという。特に、ベヒモスやサイクロプス、ワームまでがあれほど大挙してやって来たのは、このラース砦が建造されて以来初めてのことであり、森で何らかの異変が起こったのではないかと推測しているのだそうだ。
どの道森の奥深くまで分け入らなければならないので、その頼みを引き受け、アルヴィーたちは《魔の大森林》へと足を踏み入れた。
「――鳥が騒いでる。来たよ」
ほぼ同時に、《魔の大森林》で機を窺っていた《黒狼》たちに、《魔物使い》からの知らせがもたらされる。《黒狼》は立ち上がった。もとより、いつでも動けるよう準備はすでに整えてある。
「よし……追うぞ」
「はあ……僕じゃどうにもできないような大物に出くわさないように、せいぜい祈っててよね」
《魔物使い》がため息と共に笛を取り出す。一吹きすると、魔物避けの結界の周囲をうろついていた魔物たちの気配が、潮が引くように遠退いていった。
「何をやった?」
「魔物が嫌う音っていうのがあるから、それを聞かせただけ。でも、そんなに長続きはしないから、今の内にさっさとここを引き払おう」
「なるほど」
拠点はすぐに片付けられ、暗殺者たちもまた、アルヴィーたちを追って森の深奥へと歩みを進め始めた。
「《擬竜兵》が動いた。出番だ」
そして、《黒狼》たちを妨害するべく、ナイジェル・アラド・クィンラムが送り込んだ部隊もまた、動き出す。砦の中に忍び込み情報を持ち帰って来た情報部の隊員の報告で、彼らの拠点もにわかに慌ただしくなり始めた。部隊を指揮するジャン・ダヴィッドは、メインとなるブランとニエラに指示を出す。彼女たちは顔を見合わせ、彼に尋ねた。
「《黒狼》たちはもう動いたの?」
「ああ、奴らは襲撃失敗後も上手く逃げおおせているからな。おそらく《擬竜兵》を追って森に入るはずだ」
「分かった」
「準備する」
彼女たちは頷き、自分たちの人形に駆け寄った。魔力の糸を手足に巻き付け、立ち上がらせる。
「しかし、森の中でそんなものを取り回せるのか」
「大丈夫。この森、意外と木の間隔が広い」
「地面もそこそこ固いし」
その言葉通り、五メイルもある人形が歩いても、木々にぶつかったり足を取られたりということはなかった。おそらく、魔物たちが移動の際に木々を薙ぎ倒すせいで、適度に間伐されたのと似た状態になり、また地面も踏み固められるため下草なども生え難いのだろう。彼女たちにとっては、思ったよりやりやすい状態のようだ。
「そうか、なら良い。――行くぞ」
ジャンの号令に従い、部隊は拠点を撤収。こちらはわざわざ魔物を操るまでもなく、二体の人形が歩くだけで、魔物たちは蜘蛛の子でも散らすようにいなくなった。サイクロプス辺りと勘違いしたのかもしれない。
だがその大きな影も、やがて森の緑の中に消えていった。
戦いの舞台は、森の中に移ろうとしていた。
◇◇◇◇◇
《魔の大森林》の中は、大暴走でかなりの数の魔物が流出したせいか、思ったより静かだった。
アルヴィーはどこか懐かしい気分で、緑したたるといった様相の森を見渡す。気候帯が少し違うためか、見たことのない植物などもあったが、遠く鳥の鳴き声など聞こえる落ち着いた空気は、何となく故郷の森を思い出させた。
大暴走の終息を知って森に戻って来たのか、森の入口近辺に集まっていた鳥たちの騒々しい鳴き声に送られつつ、アルヴィーたちは森の中へと進んで行く。想像していたよりも下草などが少なく、木々の間隔も開いていて意外にも歩きやすかった。
「……何か、ここだけ見ると魔物の巣窟だなんて思えないよね」
「ホント、何だか森林浴してるみたいだわ」
クロリッドがきょろきょろと周囲を見回し、ジーンも呑気な感想を述べた。
「まあ、今は大暴走の直後で、魔物が一番少ない時だろうからな。だが、油断は禁物だ」
「そうですね」
ディラークの言葉に頷き、シャーロットは魔法式収納庫から、いつものバルディッシュではなく少し小振りの戦斧を取り出す。いくら木々の間隔が広いとはいえ、さすがに森の中で柄の長いバルディッシュは取り回しに困ると判断したのだ。それにしても相変わらず物理一辺倒である。
ディラークやカイルもいつもの大物ではなく、やや短めの(それでもそこそこ重量のありそうな)得物に持ち替える。こういった時のために、メイン武器以外も扱えるように訓練しているのだそうだ。あまり立ち回りを演じない魔法士組やユナ、それに普段からごく一般的な長さの剣を使っているルシエルは、武器の換装はない。
「――で、今回の特別任務、《魔の大森林》の探索だそうですが、一体何を探すんですか? 砦では他の騎士の耳を憚って訊けませんでしたが、ここまで来れば気兼ねなく話せるでしょう」
シャーロットの質問に、第一二一魔法騎士小隊の面々も表情を引き締めてアルヴィーを見やる。
「あれ? ルシィたちには話行ってないのか?」
「どうやら、命令書の発行が間に合わなかったみたいで。多分、アルから僕たちにも伝わると踏んでるんだと思うよ、カルヴァート大隊長は」
「ったく、手ェ抜いてんなよな……」
ぼそりと愚痴ったが、まあ今さらな気もする。彼はきっと、使えるものはとことん使い倒す主義だ。ため息をつき、アルヴィーは口を開いた。
「……レドナでの一件、覚えてるだろ? あのギズレって貴族が、魔物召喚させたアレだよ。――あの魔物、ここから召喚されたやつみたいでさ。それに使われた術具がまだこの森にあるから、それ回収して来いってのが今回の任務。何か、クレメンタイン帝国時代の魔法遺産? とかいうやつらしくてさ」
「クレメンタイン帝国の!?」
魔動機器好きらしいクロリッドはもとより、なぜかシャーロットも食い付いてきた。アルヴィーが唖然としていると、彼女ははっと我に返って居住まいを正す。
「……失礼しました。父がクレメンタイン帝国時代の研究をしていますので、つい」
「へー、学者か何かなのか?」
「ええ、クレメンタイン帝国は魔法技術に優れていましたので、その技術の解明が進めば国の役にも立ちますし。その研究資料を提供する条件で、王立魔法技術研究所の方から、父の研究に多少ですが援助もして貰っていますよ。もっとも、研究所と提携してる研究者は父だけではないんですけど」
「クレメンタイン帝国は、魔法技術も凄かったけど魔動機器の分野でも進んでたんだ。例えば、この間の旧ギズレ領の防衛戦の時、レクレウスが魔動巨人や台車を出してきたけど、あれのもっと小型で性能のいいやつが、クレメンタイン帝国時代にはすでにあったっていわれてる。そもそもレクレウスは、百年前の大戦の時、帝国の魔動機器の技術をいくらか持ち帰って、それを徹底的に研究したんだよ。そのおかげで今、魔動機器大国って言われてるんだ」
さすがに魔動機器のことになるとクロリッドは詳しい。
「ふふふ、俄然興味が出てきましたよ! 旧クレメンタイン帝国の魔法遺産なんて、おいそれとお目に掛かれるものじゃありませんからね!」
「早く探そう! どこにあるの、それ!」
すぐさま森の奥に突撃して行きそうな勢いに、アルヴィーは少々引き気味に、
「いや、それが……詳しい場所が分かんねーんだけど」
「何で!?」
「その術具を仕掛けた奴が全員戻って来なかったらしいんだよ。ギズレって奴も術具置いて来いって命令しただけで、どの辺りに仕掛けたかなんて知らなかったっていうし。ただ森の中心に近いとこだろってのしか分かんねーの」
「うへー……ここ下手したら公爵領くらいの広さあんだぜ? しかもその中でさらに、中心部手探りで探せとか……」
「この任務が《擬竜騎士》に振られたのも分かる気がするな……」
小隊員たちの顔も引きつる。だがアルヴィーには、それなりの“当て”があった。
(――アルマヴルカン、それらしい気配とか、分かるか?)
アルヴィーの問いに、彼の裡でアルマヴルカンは思案気に呟く。
『……ほんのかすかにだが、魔力の残滓を感じぬでもない。――おそらく、主殿が魔物を召喚する際の魔力供給源として使われた時のものだろう』
アルヴィーの魔力は、元はといえば竜の血肉を移植したことによって得たものだ。アルマヴルカンにとっては最も馴染み深く、またその名残も追いやすいのだろう。
『あの時、現地の陣と術具を通して、こちらの術具に魔力が供給されていたのだろうが、あれだけの図体の魔物を、それも複数転移させるほどの魔法だ。当然、使われた魔力も膨大なものとなる。それだけの魔力を短時間で一気に供給したがために、周辺にもそれなりに影響を及ぼしたはずだ。それがまだ残っている』
アルマヴルカン曰く、残り香程度のものだそうだが、それがこの森の中にかなり拡散しているという。
『――だが、今のわたしは欠片に過ぎぬ。この状態では、方角までは探れぬな。主殿の身体を一時借り受ければ、それなりの規模の魔法も使えるが』
「え」
『やってみるか?』
問いに、アルヴィーは少し迷ったが、
「……分かった。やってみる」
「アル? どうかした?」
さすがと言おうか、何か感付いたように尋ねるルシエルに、アルヴィーは宥めるように微笑んでみせる。
「アルマヴルカンなら、魔力の気配を追ってどっちに術具があるか分かるみたいでさ。ただ、俺の身体を使わないと駄目らしいけど。ってことでちょっと“代わる”けど、心配しなくていいからな」
「ちょっと、それどういう――」
ルシエルが尋ねるより早く、アルヴィーはユナにフラムを預け、目を閉じる。不意にその身体がぐらりとよろめき、ルシエルは慌てて支えようと手を伸ばした。だがアルヴィーはそれを拒むように、自力で踏み止まる。
『――ふむ。二度目となると、色々勝手も分かってくるか』
そして開かれた彼の双眸は、炯々と輝く黄金。右手を何度か握ったり開いたりしてその感触を確かめていた“アルヴィー”は、気が済んだのか視線を上げ、息を呑む小隊の面々を見渡した。
「……火竜アルマヴルカン、か?」
慎重に尋ねるルシエルに、アルヴィーの姿をしたアルマヴルカンはおかしそうに答える。
『いかにも。――そう身構えるな。別に取って食おうというわけではない。術具とやらの在処を探るのに、主殿の身体を少し借りただけだ。何しろ、今のわたしは本来の魂のほんの一欠片。魔法を行使して周りを探るにしても、媒介になる実体がないのでは話にならん』
「アルに危険や悪影響はないんだな?」
『前にも言ったが、わたしは主殿を気に入っている。害になるようなことはせんさ』
肩を竦め、アルマヴルカンは右腕を戦闘形態に変える。隊員たちはぎょっとしたが、アルマヴルカンは別段、彼らを攻撃しようと思ったわけではない。
『さて……片方だけの翼でどれだけ飛べるかは分からぬが』
そう呟き、アルマヴルカンは両膝を撓める。その右肩に負う翼が、朱金の光を帯びてきらめいた。
そして、地面を蹴る。
ルシエルたちには、その姿が一瞬にして掻き消えたように見えた。次の瞬間、ザアッ、と頭上で梢が揺れる音。
アルマヴルカンはほんの一瞬で、木々の梢すら突き破り、森を足元に見下ろす上空にまで飛翔していたのだ。その高度、およそ二十メイル。常人では落ちれば命はないようなその高みで、アルマヴルカンは泰然と笑う。
その周囲に、突如炎の輪が生まれた。
ぱちん、とアルマヴルカンが指を鳴らす――刹那、炎の輪は一瞬で広がり、森を掠めるようにギリギリの高度を駆け抜けていく。が、ある一点を通り過ぎた際、炎の輪が一部だけ明るく揺らいだ。
『見つけた。あれか』
そこは森の中心からは少し外れているが、充分深奥と呼べる領域だ。仕掛けたのは人だということだったが、人の身でよくもあんな場所にと、いっそ感心してしまうアルマヴルカン。まあ、仕掛けた人間は無事では済んでいまいが。
『主殿、方角は覚えたか』
(う……何とか)
『なら、下に下りても分かるか』
(…………)
『やれやれ……世話の焼ける』
(わ、悪かったなっ!)
がうがうと吠えるアルヴィーに、何だか幼体を見ているような気分になり、アルマヴルカンは微笑ましく思いつつ右腕を振り翳した。
(……おい……何する気だ?)
『何、少し目印を付けておいてやろう』
(ちょっと待て――)
アルヴィーの制止などどこ吹く風で、アルマヴルカンは右腕を振り抜いた。
地上に一条の光線が走り、それを追って炎が炸裂する。突如膨れ上がった炎に、瑞々しさを保つ生木でさえ容易く燃え上がり、炎の道が森を大きく斬り裂いた。そのまま火事に――と思われたところで、アルマヴルカンがその炎を再び“回収”。右肩の魔力集積器官に吸い込ませる。後には、焼け焦げた一筋の無惨な跡だけが残された。
『これだけ分かりやすければ、容易に辿り着けるだろう』
(あれ目印ってレベルじゃねーだろ!?)
アルヴィーのツッコミも余所に、アルマヴルカンは満足して地上に下りる。
『その術具とやらのところまで目印を付けてやった。焼け跡を辿れば辿り着ける。――では、わたしはそろそろ戻るとしよう』
そう言って、アルマヴルカンは目を閉じる。そして次に目を開いた時には、その双眸はアルヴィーの朱金のそれに戻っていた。
「……目印っていうか、軽く環境破壊だろこれ……頭痛ぇわー……」
頭を押さえるアルヴィーに、その時猛ダッシュして来た金茶色の塊が飛び付いた。
「きゅーっ!!」
「ぶふっ」
相変わらず素晴らしいジャンプ力と脚力で、フラムはアルヴィーの身体を瞬く間によじ登り、その顔面にべしりと張り付く。それを引き剥がして肩に乗せると、ユナが羨ましそうにその様子を見ていた。顔面に張り付かれて窒息しそうになることのどこが羨ましいのか、アルヴィーにはさっぱり分からないが。
「うへぁ……さっすが火竜、半端ねーなぁ……」
「確かに方角は一目で分かるが……」
「……だがあちこち彷徨う手間は省けた。行こう」
豪快過ぎるアルマヴルカンの“目印”にドン引く隊員たちの中、気を取り直してルシエルが指示を出す。まあ、隊員たちも魔物の巣窟と悪名高い森の中を延々彷徨いたくはなかったので、その決定に従うことにして歩き出そうとした。
だがその時――アルヴィーの耳をふと、どこかで聞いた音が掠める。アルヴィーははっとした。それは大暴走の最中、かすかに聞いた音によく似ていた。
「――気を付けろ! 来るぞ!」
「え?」
アルヴィーの声に、隊員たちは反射的に身構える。直後、木々の間から湧き出るように、魔物たちがこちらへと向かって来るのが見えた。
「迎撃! 魔法士を中に囲め! ディラークとユナは後方警戒!」
「了解!」
「了解した!」
ルシエルの指示に隊員たちはすぐに従い、クロリッドやジーン、ユフィオを庇うように武器を持つ前衛組が前に出る。ディラークとユナは後方からの奇襲に備えて待機。アルヴィーも再び右腕を戦闘形態に変え、魔物たちを睥睨する。
――そんな彼らを、少し離れた樹上から狙う、いくつもの影。
「まずは仲間を撃て。死なない程度にな。怪我人が増えればそれだけ、《擬竜兵》の足手纏いになる」
「了解……」
《黒狼》の指示に従い、魔動銃の銃口が魔法騎士たちを狙う。《黒狼》本人は、魔動銃の射線に入らないよう気を付けながら、そっとアルヴィーに近付いていた。仲間が撃たれて焦った隙を突き、今度こそ仕留める――それが狙いだ。
(よし――撃て!)
《黒狼》の手振りでの指示と共に、複数の魔動銃が一斉に魔力弾を吐き出す――!
(――殺った!)
《黒狼》は成功を確信し、唇を歪めた。
だが、その瞬間。
ビョウ、と風を切る音と共に、その場に飛び込んできた長さ三メイルは超えようかという長柄武器。魔力弾のいくらかはそれに当たって、まったく見当違いの方へと飛んで行った。
「うおっ!?」
「きゃっ……!?」
残りの魔力弾が魔法騎士たちを襲うが、それは不可視の魔法障壁に阻まれる。アルヴィーの《竜の障壁》だ。
『主殿、来たようだぞ。いつぞやの連中だ』
「しつっこいな! ここまで追っかけて来たのかよ!?――でも、あのデカイ武器、誰だ?」
アルヴィーは突如飛んできた巨大武器を見やる。あの武器が飛んでくる風切り音と、暗殺者たちが放つわずかな殺気を感じたアルマヴルカンが知らせてくれたおかげで、何とか《竜の障壁》が間に合ったが、少しでも遅れていればアルヴィーはともかく、周りがただでは済まなかったはずだ。
「くそ、また邪魔が――」
密かに《黒狼》が舌打ちした時。
「――うわっ!?」
「何……!?」
樹上に潜んでいた暗殺者たちが、次々と体勢を崩して地上に落下してきた。さすがに無様に地面に叩き付けられる者こそいなかったが、通常では考えられない失態だ。だが、それは彼らだけの責ではなかった。
彼らが身を隠していた梢から伸びる、糸。それは木立の向こうへと伸び、そしてそこから“それ”は姿を現す。
「な……何だ、あれは……!?」
立場は違えど、その場にいた者たちは一様に絶句し、迫る魔物たちの存在も忘れて唖然と“それ”を見た。
高さ五メイルはあろうかという、細い手足をした人形――それがまるで人のように手足を動かし、歩いて来るその姿を。
◇◇◇◇◇
《薔薇宮》に帰還したベアトリスは、すぐに侍女の一人に案内させ、レティーシャのもとに向かった。
「――姫様、ご所望のものをお持ちしました」
「お帰りなさい、ベアトリス」
自らの代役として外へ足を伸ばす臣下を手に入れて以来、レティーシャは大抵《薔薇宮》内のどこかにいる。今日は城の中庭を見下ろす塔の一つにいた。跪くベアトリスを労ったレティーシャは、恭しく差し出された立方体の結晶を確かめ、満足気に頷く。
「これだけあれば、必要分には充分に足りるでしょう。初めての遠出でしたが、よくやってくれましたわ、ベアトリス」
「勿体ないお言葉です」
頭を垂れるベアトリスだったが、そっと髪に触れられる感触に戸惑う。そんな彼女に、レティーシャは慈しむような笑みを向けた。
「……無念でしたでしょう、ベアトリス。大切なご家族を、あのような形で奪われて。――ですが、時をお待ちなさい。きっと、仇を討つ機会は巡って参りますわ」
「……っ、はい……!」
ベアトリスの瞳から、涙が零れる。それは家族を失った悲しみの涙であり、またそれについて主が自らのことのように心を痛めてくれることへの、感激の涙でもあった。
「さあ、涙を拭いて。――そうですわ、今回の褒美に、あなたにもこの城の秘密を少し教えて差し上げます。いらっしゃい、ベアトリス」
そう言って、レティーシャはベアトリスを促し、どこかへと歩き出す。涙を拭いて立ち上がったベアトリスは、急いでその後を追った。
「――ここですわ」
やがて辿り着いたのは、宮殿の一角、その地下だった。石造りの階段を下りきったそこには、重厚な扉がある。だがレティーシャが手を翳すと、扉はいとも軽やかに開いた。レティーシャが足を踏み入れ、指を一振りすると、室内の魔法照明が一斉に灯る。
そこに浮かび上がった光景に、ベアトリスは目を見張った。
「こ、これ……!」
その部屋はとんでもなく広かった。幅は十メイルほど、奥行きはおおよそ三十メイルはあろうか。天井、ひいては上階を支えるための柱が何本もそびえてはいたが、室内の様子は見て取れる。
部屋の壁沿いには、まるで棺を思わせる石造りの水槽が並び、備え付けられた奇妙な形の透明の容器から流れ落ちる水が、その中に絶え間なく注ぎ込まれていた。水槽の下にはいずれも魔法陣が敷かれ、淡い輝きがその稼働を知らせている。
「ひ、姫様……これは……?」
「ここはわたくしの研究施設ですわ。あなたに集めて貰ったものは、ここで使うのです」
レティーシャは靴音を響かせて歩き出す。ベアトリスもそれに倣った。途中、水が流れ落ちていない水槽を見つけ、ベアトリスは好奇心に駆られてその中をちらりと覗き込んでみたが、中は空だった。
「姫様、何も入っていない水槽がありますが……?」
「ああ、それは中身が“逃げて”しまいましたの。わたくしがここを不在にしている間、他の侍従や侍女たちに管理を任せざるを得なかったのですが、やはり管理が甘くて。いずれは、ここの管理を手伝ってくれる人材も、見つけなくてはいけませんわね」
「はあ……」
魚でも飼っているのだろうかと思ったベアトリスだったが、レティーシャが足を止めた場所の水槽を覗き、目を見張った。
「……こ、これって……!」
その中に横たわっていたのは、一人の少女だった。まだ幼い――少女というよりも赤ん坊だ。目は閉じられているためその色は分からないが、榛色の柔らかそうな髪が、水の流れにわずかに揺れている。
レティーシャはあの立方体の結晶を取り出すと、水槽に水を流し込んでいる容器の中に沈めた。
「あなたに樹液を集めていただいたあの木は、《クレシーア》といいますの。変わった木で――おそらくは早く子孫を残したいがためでしょうけれど、自身の成長を早める能力を持っています」
「成長を早める……ですか?」
「ええ、若木の間の十年ほど、自らの樹液の中に成長を促進する成分を作り出して、自分をどんどん成長させるのです。若木の内は花の色が白く、成熟すると赤くなりますから、花を見れば若木かどうかはすぐに分かりますわ。成熟した個体はその成分を失い、以降は普通の木となりますけれど、その成長成分は他の生物にも効果がありますの。――ほら、ご覧になって」
レティーシャに指し示され、ベアトリスは透明の容器を見やる。容器と同じく透明だった水は、今や薄緑色に染まっていた。
「分量にさえ気を付ければ、成長促進剤として使えます。これを投与すれば、“彼女”の成長も早まりますわ。いずれ適当な時期に投与を打ち切り、以後は自然な成熟に任せる予定です。――さ、参りましょう」
レティーシャは踵を返し、歩き始める。歩きながら、彼女はベアトリスに問うた。
「……気味が悪いと、思いまして?」
「いえ……その、驚きはしましたけれど」
それでも、今のベアトリスには、レティーシャだけが唯一仰ぐべき主であり、自身に道を指し示してくれる存在なのだ。そんな彼女を拒絶するなど、ベアトリスには考えも付かなかった。
彼女の答えに嘘がないと見て取り、レティーシャはにっこりと笑った。
「やはりあなたを臣下として迎えたのは正解でした。――これからも我がクレメンタイン帝国のため、尽くしてくださいませね」
「はい、喜んで!」
声を弾ませるベアトリスにもう一度笑いかけ、レティーシャは彼女を伴って研究所を後にする。
再び闇に閉ざされた室内では、魔法陣の淡い光の中、流れ落ちる水音だけが響き続けていた。
◇◇◇◇◇
突如現れた巨大な人形に、場が混乱する中、《黒狼》はククリナイフを手に地を蹴った。
(かくなる上は、《擬竜兵》だけでも始末する!)
巧みにアルヴィーの死角を突き、繰り出されたナイフはしかし、赤い剣身を持つ剣によって受け止められる。
「おまえたち、レクレウスの人間か!?」
割って入ったルシエルが、ククリナイフを弾いた。そのまま《黒狼》に斬り掛かる。
「ちぃっ!」
《黒狼》はナイフでその斬撃を受け流す。アルヴィーが叫んだ。
「気を付けろ、ルシィ! そのナイフ、竜の素材が混ざってる!」
「っ、そういうことか……! 本気でアルを殺しに来たってわけだな。――なら、手加減はしない!」
ルシエルは《イグネイア》に魔法を纏わせ、再び猛攻を開始した。矢継ぎ早に繰り出される斬撃を、《黒狼》は次々と捌いていく。
(厄介な……!)
互いに一歩も退かずに斬り結ぶ。だがそこは年季の入った暗殺者、《黒狼》に一日の長があった。そっとずらした爪先で地面を抉り、蹴り上げた土をルシエルの顔目掛けて飛ばす。
「っ!?」
古典的な目潰しだが、効果は大きかった。反射的に顔を庇ったルシエルに、《黒狼》の刃が迫る!
「――ルシィ!」
その間に割り込んだのはアルヴィーだった。《竜爪》でククリナイフを何とか逸らし、《黒狼》に体当たり。二人縺れるように倒れ込むが、その際にククリナイフの切っ先がアルヴィーのこめかみを掠める。
「アル!!」
血相を変えたルシエルが《黒狼》に追撃を掛けるが、その時にはすでに《黒狼》は跳び離れていた。
「くそ……何なんだ、あの人形は!?」
《黒狼》が舌打ちと共に見上げた先、二体の人形の背にはそれぞれ、銀髪の少女の姿がある。
「悪く思わないで」
「今、《擬竜兵》に死なれるとこっちが困る」
彼女たち――ブランとニエラは、薄いベール越しに暗殺者たちを見下ろしながら糸を操る。人形がグレイブを振るい、暗殺者たちの只中に振り下ろした。暗殺者たちは逃げ回りながら魔動銃を乱射するが、人形の体躯と武器に阻まれて少女たちにまでは届かない。
「……彼女たち、確か旧ギズレ領で魔動巨人に乗っていた……どういうつもりでしょう?」
「分からん。が、今はとりあえずこちら側だと思う他なかろう!」
ディラークがいつもよりは短い槍を振るい、次々と湧いて出る魔物たちを突き殺していく。シャーロットもひとまず、魔物への対応を優先させることにした。戦斧が唸り、軌道上にいた魔物たちを豪快に真っ二つにする。第一二一魔法騎士小隊の面々は、押し寄せて来る魔物たちへの対処に手一杯で、暗殺者たちにまで手が回らないのだ。そこを、少女たちが補っている形だった。
だが人形の上で、彼女たちは眉をひそめる。
「――ニエラ、これ、ちょっとおかしい」
「そうだね。魔物の数が多過ぎる。そういえば、情報部からの資料に、魔物を操る暗殺者がいるってあったよ」
「ちょっと炙り出してみる。後よろしく」
「分かった」
ブランはニエラに暗殺者たちの妨害を任せ、人形を駆って森に向き直る。そしてやおらグレイブを振り回し始めた。いくら木々の間隔が広いとはいえ、そんなことをすれば片っ端から木の幹にぶつかることになる。だが彼女は構わずに、その辺り一帯の木の幹を殴り続けた。木々が揺れ、ある一本の梢から「うわ!」と小さな悲鳴が聞こえてくる。
「……見つけた」
ブランは小さく呟き、糸を飛ばす。伸びた糸はあちこちの枝に絡み付き、その内の一本が、梢に隠れて笛で魔物を呼び寄せていた《魔物使い》の足首を捉えた。
「うわああああ!?」
避けようとした拍子に足を滑らせ、落下――かと思いきや、皮肉なことに足首に絡んだ糸が命綱となり、彼は枝から逆さ吊りにされた。
「ちょ、ちょっと! 下ろして――」
「しばらくそうしてて。邪魔」
《魔物使い》の懇願をにべもなく切り捨て、ブランは再び戦線復帰する。思った通り、あの少年が魔物を呼び寄せていたようで、その干渉が途切れた今、騎士たちに蹴散らされた魔物は散り散りに逃げ去ろうとしていた。
「くそ、撤退を――」
仲間の暗殺者たちを見やり、《黒狼》はすでに手遅れだったことを悟った。
「逃がさないよ! 撃ち果たせ、《雷撃瞬波》!」
クロリッドが放った広範囲雷撃魔法で、暗殺者たちは軒並み行動不能にされた。運良く逃れた者も、ジーンやユナの魔法で足を撃たれ、またカイルとディラークによって取り押さえられる。そして《黒狼》の首筋に、ルシエルが剣を突き付けた。
「……ふん、最後の仕事がこんな様とはな。我ながらヤキが回ったものだ」
「そうだな。いずれにせよ、砦の方で色々と喋って貰うぞ」
捨て鉢に吐き捨てた《黒狼》に、ルシエルが冷たくそう告げた時。
「――ルシィ、避けろ!」
アルヴィーの声に、ルシエルはとっさに飛び退く。その眼前に、巨大なグレイブの刃が振り下ろされた。
「……どういうつもりだ!?」
振り仰いだ先、ニエラがルシエルを見下ろしながら糸を操る。
「わたしたちは最初から、あなたたちの味方じゃない。利害が一致したから邪魔しただけ。――で、こいつは使えるかもしれないから回収する」
ニエラの人形が、ギリギリでグレイブに叩き潰されずに済み、唖然としている《黒狼》を掴み上げた。
「おい、待てよ! そもそも何で、おまえらが俺の暗殺を邪魔するんだ!?」
ユフィオにこめかみの傷の手当てを受けていたアルヴィーが、思わず食って掛かる。その問いにも、ニエラは面倒そうに、
「だから利害の一致。今あなたに死なれると、ちょっと都合が悪いから」
「……それは、レクレウス内部の勢力争いか何かに関係するのか」
ルシエルがそう問うと、ニエラは口を噤んだ。そのまま、人形を反転させて木立の間に消えていく。だがルシエルは、その反応に確信を得た。やはり彼女たちは、レクレウス内部での何らかの権力闘争に関連して派遣されたのだろう。彼女が口を噤んだのは、これ以上余計な情報を与えないために違いない。
一方のブランも、木に逆さ吊りにされた《魔物使い》を回収していた。
「……何で、僕たちを助けるのさ……」
しばらく逆さ吊りにされていたせいで頭に血が上ったのか、《魔物使い》が息も絶え絶えの様子で尋ねる。ブランはあっさりと、
「わたしたちの主は、使える人間は多少経歴に問題があっても使う。旦那様が使うならそれでいいし、使わないならそこで改めて始末するから」
「…………」
身も蓋もない返答に、《魔物使い》は絶句する。その沈黙を降伏と受け取り、ブランは彼を掴んだまま、撤退するべく人形を走らせ始めた。
「――いーんすか、隊長。あの子たち見逃して」
「ひとまずはね。彼女たちは多分、レクレウス内部の勢力争いに関係して動いてる。だとしたら、今は泳がせておいた方が良い。その内、何らかの動きがあるだろう」
《イグネイア》を鞘に納め、ルシエルはカイルにそう答えると、残された暗殺者たちを見やった。連れ去られた二人は特に腕利きだったのだろうが、彼らも情報を得るためには連れ帰るべきだろうと思われた。
「ユフィオ、連中を少し眠らせてくれ」
「分かりました。――眠れ、《睡夢幻霧》」
集められた暗殺者たちに向けて、ユフィオが魔法を放つ。医療系の魔法に長けた彼は、こうした人体に干渉する魔法が得意なのだ。わざわざ眠らせたのは、自害をさせないためである。彼らには色々と喋って貰わなければならないのだから。
「せっかくここまで来たけど、一旦戻ろう。この連中を砦に引き渡して、改めて術具の回収に向かう。――道標もあるし、今度は迷わずに行けそうだ」
「そうですね……道標というかもういっそ新しい道のような気もしますが……」
「…………」
遠い目のシャーロットのツッコミは聞こえないふりをして、アルヴィーは眠り込んだ暗殺者の内、手近な二人を適当に担ぎ上げると、砦に向けてそそくさと歩き始めたのだった。




