第2話 戦火の中で
第2話投稿します。
この辺りからだんだんエグい描写が出てきたりしますので、苦手な方はご注意ください。
抜けるような蒼い空の下。レドナは今日も、高い壁と結界陣に守られて、二国間の戦線間近とは思えない平和を享受していた。
街は三重構造になっており、まず中心市街を高い壁が取り囲み、その外側を一般街区が取り巻いて、また壁に囲まれる形となる。そしてさらにその外側を囲むのが、流れ者や貧しい者たちが住み付くいわゆるスラムだった。スラムも一応囲いのようなものは作っているが、大部分が廃材などで作られた木柵であり、中の二層を囲む壁とは比べ物にならない粗末なものだ。レドナの防壁は、そこに住む人々の身分の隔たりを如実に表している。
そんな堅固な防壁の上、スラムを見下ろす形で、アルヴィーは立っていた。
羽織ったアイボリーのマントが風に翻り、目深に被ったフードも揺れる。炎を透かした琥珀のようなその双眸は、スラムで蠢く人々を注視していた。
――あの日。研究所に連れて行かれた候補生の中で、生きてあの部屋を出られたのはアルヴィーただ一人だった。他の候補生は皆、植え付けられた竜の細胞の侵食とそれに対する拒絶反応に耐え切れず、いずれも凄惨な死を迎えたのだ。
そして、唯一竜の細胞に適合し“成功体”となったアルヴィーは、容体が落ち着くと、研究所内の別のエリアに移され、そこでこの右腕に宿った新たな力を使いこなすための訓練を課せられるようになった。
《擬竜兵》。アルヴィーはあの日、そう呼ばれるものに生まれ変わった。
二十二年前、レクレウス王国軍が多大な犠牲を払いながら倒した《上位竜》。その骸から採取した《竜玉》と肉片を有効利用すべく、軍は密かに研究を続けていたという。そして動き出したのが、《擬竜兵計画》だった。
竜の細胞を人間に移植し、その膨大な魔力や回復力を獲得させ、極大規模の魔法を操る生きた戦略兵器を作り上げるという、常軌を逸した計画。だが軍の研究者たちは、実に十年以上に渡って密かに人体実験を重ね、データを蓄積していた。移植する肉片の量、人体と竜の細胞を馴染ませる術式、適合者たる条件。それらを加味して計画は幾度も修正を重ねながら、次第に実現へと近付いていった。発足当初は周辺諸国にその力を見せ付け、国際的発言力を増すためのものだった《擬竜兵計画》は、ファルレアン王国と開戦し戦況が敵国側に傾くにつれ、逆転を期した乾坤一擲の計画としてさらに重要性を増していく。
そしてあの日――アルヴィーという初の“成功体”が誕生したことで、計画は一気に加速した。
《擬竜兵》としての訓練と並行して、アルヴィーはうんざりするほどの回数の検査を受けさせられ、身体組織や血液を採取され、精神状態を調査された。それらの情報は精査され、データ化されて、第二第三の《擬竜兵》誕生のために使われた。
訓練生のみならず、すでに各部隊に配属された者からも密かに被験者が集められ、最終的に現在までに《擬竜兵》として生まれ変わったのは、アルヴィーを含め四名。そして、適合できずに死んだ者はその百倍以上にも達する。彼らは書類上、配属先の部隊で戦死したと記載され、遺体すらも研究のために供されて、最後まで使い潰された。もちろん軍にとっても数百名もの兵の損失は決して軽微ではないが、王国の全兵力は約十五万人。そして文字通り一騎当千の生きた戦略兵器が手に入るのならば、数百程度の損失はやむなし、数が減れば民間から徴兵すれば良い――というのが国と軍上層部の方針らしい。
数多の命の上に生まれた、生きた戦略兵器――彼らは今日、この街で最後の稼働試験を兼ねた初陣を飾る。
ここレドナは、戦線における重要拠点の一つだ。ここレドナから伸びる街道は最終的に王都まで通じており、ここを抜けば進軍は遥かに容易になるが、街区を隔てる二重の壁がそのまま砦となっており、しかも壁の数ヶ所に設置された魔法陣を基点に結界まで構築されて、レクレウス軍をしても容易には攻め落とせない。そしてこのレドナはカーサス地方有数の都市でもあり、ファルレアン側の近隣集落をも影響下に置いていて、ある程度の自給自足が可能だった。ここを陥落させれば、それがそのままレクレウス軍の補給地になる。
そのため、ファルレアン王国側もこのレドナに、騎士団の部隊を駐留させていた。ファルレアン王国の騎士団は、レクレウス王国の軍に相当する組織であり、その総数は約十三万人といわれている。その内の三割から四割ほどが、魔法士でもある魔法騎士団であり、騎士団の中でも王族直属の近衛騎士団に次ぐエリートだ。レドナには、その魔法騎士団も駐留しているという。
だが――その魔法騎士団でさえ、《擬竜兵》にとってはものの数ではないと、研究者たちは自信満々だった。何しろ、《上位竜》の細胞を取り込み、その力を我が物とした存在なのだ。理論上、実力を最大限に発揮したその戦闘力は《下位竜》に匹敵すると推測されており、実際にベヒモスやサイクロプスといった軍が出動するレベルの大型の魔物を、彼らは単独で容易く屠れる。
とはいえアルヴィーは別段、研究者たちのぶち上げる理論に興味などなかった。彼が欲するものはただ一つ。
生きること。
あの時――ルシエルの手を離した時の約束を守る、そのために。
(だから……レクレウスに負けて貰っちゃ困る)
レクレウス王国が敗北すれば、その軍部に所属し、しかも極秘計画の成功体であるアルヴィーは、どういう扱いをされるか分からない。研究所では、捕虜にされるならまだいい方で、下手をすれば扱いきれないと看做されて、情報を搾り取られた挙句処刑される可能性もあると言われた。ゆえに、アルヴィーにとっては、レクレウス王国側の勝利で戦争が終わることが、まずは絶対条件だった。
――死にたくない。
あの壮絶な体験と、それに打ち勝てずに凄絶な死を迎えた数多の同期生の姿、そして親友との約束――それらが入り混じって、アルヴィーに死への強烈な恐れを抱かせる。
奥歯を噛み締め、唇を引き結ぶ。眼下には、アルヴィーのような力など持たない、だが何の翳りもなく生を謳歌するスラムの人々が、何も知らずに平凡な生活を営んでいる。
その光景は、彼が生まれ育った小さな村を思い起こさせた。
何もない、辺境の小村。だがそこには、決して平穏ではなかったものの、家族や家族同然の幼馴染と過ごした輝くような記憶が確かにあった――。
(……けどそれを踏み躙ったのも、この国の貴族なんだ)
軍に入り、普通の人間ですらなくなって、アルヴィーは様々なものを失った。だがそれと引き換えに、手にしたものもある。人を超えた強大な力、そして生まれ育った村を魔物たちが襲った、あの事件の真相だ。
あの魔物たちは、元を辿ればファルレアン王国の辺境で発生したものだった。しかしその一帯を領地として治めるギズレ辺境伯は、その魔物を討伐することなく、国境方面へと誘導するだけに留めたという。そして魔物たちは国境を越え、進路上にあった村を瞬く間に蹂躙したのだ。その後、魔物たちはレクレウス軍によって討伐されたが、それまでに百名以上の死者を出した。そのほとんどが、アルヴィーの母を含む、故郷の村の人間たちだった。
当時レクレウス国内には、長引く戦争とその影響による生活水準の低下から、そこはかとない厭戦ムードが漂い始めていたが、この一件はそんな空気を吹き飛ばして余りある衝撃を国中に与え、一気に戦意を高揚させた。軍と国上層部の間では、この件でファルレアン王国を弾劾すべきか否かという議論が巻き起こったそうだが、これがファルレアン側の意図した攻撃ならば、それが成功したことを敵国に知らせるべきではないという軍部の主張が通り、国内には箝口令が敷かれた。そもそも非難したところで、相手は現在進行形で戦争状態の敵国である。謝罪などあろうはずもなく、それどころかファルレアン国内にはその事件そのものが伏せられている――それが、レクレウス軍情報部から得た、あの事件の一部始終の情報だった。《擬竜兵》となったアルヴィーには、軍も特別な便宜を図り、一般兵では知り得なかったそれらの情報を、彼は知ることができたのだ。
そして、情報の中にはギズレ辺境伯の家族構成もあった。その中にルシエルらしき名がなかったことに、アルヴィーは心から安堵した。
彼を、憎まずに済むのだと。
だがこれからアルヴィーは、彼が属する国に攻撃を仕掛ける。
敵に、なる。
(それでも……俺は死にたくないんだ、ルシィ。少なくとも、もう一度ルシィに会うまでは)
その時、左耳に装着した小型の魔動通信機が、指揮官からの着信を知らせた。
『ドラグーン1、応答せよ』
「……こちらドラグーン1」
『各員、配置に着いた。予定通り一四〇〇時より、作戦を開始する。ドラグーン1はレドナの結界陣を破壊後、中心市街へ向かえ』
「了解」
通信を終えると、アルヴィーはスラムから市街地の方に向き直り、左手で懐中時計を取り出す。事前に完璧に時間を合わせたその針は、現時刻が作戦開始三分前であることを示していた。
それを確認し、彼は右腕を伸ばす。マントの下から現れた右腕は、もはや見慣れた異形のもの。アルヴィーに移植された《上位竜》の肉片は、その凄まじいまでの復元性能によってアルヴィーの肉体と深く癒着し、もはや一体化していた。そしてアルヴィーは、それがもたらしたあの凄惨な体験を耐え抜いたことで、竜種が持つ桁外れの回復力、膂力、人間ならば一発撃つのも覚束ないような極大規模の魔法を息をするように放てる膨大な魔力など、様々な力を己のものとしたのだ。
そしてアルヴィーが伸ばした腕は、さらに異形のものに変化を始めた。
バキバキと、人体が発するにはあまりに不穏な音と共に、右腕のシルエットが硬質さを増していく。赤黒い痣が蠢き、幾何学的な幾本かの線となると、腕の表皮も盛り上がり尖り始めて、やがて鱗のように変化した。指も鱗のようなものに覆われ、さらに爪が太く鋭く伸びる。だが最も顕著な変化は右肩だ。不自然に盛り上がり、数本の突起が伸びて、人間にはない器官を形作り始める。周囲の空間から魔力を集めるための魔力集積器官――それは、竜の翼の骨格を模したように見えた。
もはや邪魔にしかならないマントを脱ぎ捨てると、深紅を基調とした軍服があらわになった。その右袖が肩口から大胆にカットされているのは、言うまでもなく右腕の変形に邪魔にならないためである。
懐中時計の針が二周し、作戦開始まで残り一分と迫る。アルヴィーは市街に向けて、異形の右腕を差し伸べた。彼が今立っている壁の内側には、等間隔で魔法陣が刻み込まれ、市街地上空を守る結界が構築されている。人の力でこれを破壊しようと思えば壁ごと壊すしかないが、壁そのものも魔法で強化されており、人力では為す術がないだろう。
だが――ここにいるのは《擬竜兵》。人を超えた力を持つ者だ。
時計の針が、作戦開始時刻を指した。
(――ごめんな、ルシィ)
この国のどこかにいる親友に、心の中で詫びながら。
アルヴィーは右腕から竜のブレスと見紛うような強烈な光芒を放ち――それはレドナの結界を容易く貫いて、市街地上空に爆炎と轟音を撒き散らした。
◇◇◇◇◇
何の変哲もなかったはずの、ある日の昼下がり。突如上空を覆った爆炎と轟音に、市民は一気にパニックに突き落とされた。
「きゃあっ」
「な、何があったんだ!?」
「見ろ! 結界が……!」
一人が上空を指差す。その声に周囲の市民たちは空を振り仰いだ。その目に映ったのは、常に自分たちの頭上にあり、レクレウス軍の攻撃魔法さえ跳ね返すといわれた結界が、光の粒となって消えていく光景だった。結界を維持していた魔法陣も、破壊のあおりを受けてひび割れ、もう一度結界を張るには大規模な修繕が必要となるだろう。
すなわち――自分たちを守るものはもうないという事実。
「そ、そんな……!」
市民たちの間から、絶望の悲鳴があがった。
彼らがこんな前線基地のような街で安心して暮らせていたのは、ひとえに城壁と街を守る結界があったからだ。近くの森には魔物が出没し、最近ではレクレウス軍の散発的な攻撃もあったものの、街を守る騎士団の活躍もあり、市民が差し迫った危険を感じるようなことはこれまでさほどなかった。
だが今は、はっきりと目に見える形で、明確な危機が迫っている。
「にっ……逃げろぉーっ!!」
誰かの叫びをきっかけに、市民たちが雪崩を打って逃げ出す――それを追い立てるように、突如天から奔った光が突き刺さり、不運にもその周辺にいた人間たちを容赦なく吹き飛ばした。新たな悲鳴があがる中、それを掻き消すような狂笑が響き渡る。
「あっはははは! 逃げろ逃げろォ! じゃねえと全員吹っ飛ばすぞォ!!」
市民たちが見上げた建物の屋根に、いつの間にか一人の少年が立っていた。年の頃は十七、八。深紅を基調とした軍服を崩し気味に纏い、くすんだ緑の瞳を爛々と輝かせて、異形の右腕を市民たちに向けている。
その右腕から再び光が迸り、群衆の鼻先の地面を貫いて小爆発を起こした。
「――貴様ァッ!! レクレウス軍かっ!?」
駆け付けて来た騎士団が、抜剣して頭上の少年を睥睨する。少年――マクセル・ヒューレはニィ、と嗤い、右腕を騎士団に向けた。
「……っ、散開ッ!」
リーダー格の騎士が指示するが早いか、騎士団はその場を飛び離れる。一瞬の後、光が地面に突き刺さり、爆発を起こして礫を撒き散らした。
「銃士隊!」
「はっ!」
後方に控えていた、魔動銃を携えた騎士たちに指示が飛び、すでに準備を整えていた彼らはすぐさま引鉄を引き絞った。内蔵の魔石から魔力が絞り出され、銃口から撃ち出された魔力の弾丸が屋根の上のマクセルに殺到する。
だが命中するかと思われたその直前、その姿が掻き消えた。弾丸は空しく虚空を貫き、そして返礼と言わんばかりに、頭上から降り注いだ光が第二射を放とうとした騎士たちを撫でる。
――炎上。
「なッ……!」
愕然とその光景を見つめる騎士たちの真ん中に、異形の腕を持つ少年は猫のように身軽に降り立つ。そしてその腕を振りかぶった。
「――《竜の咆哮》!」
一閃。
薙ぎ払われた右腕から放たれた光は、刃となって騎士たちを薙ぎ、その半身を蒸発させる。そればかりか、その背後の建物すら貫き、轟音と共に爆砕させた。
「ひゃはッ――すっげぇなっ、これ! もっと試してえっ……!」
マクセルは酔ったように笑い声を撒き散らし、辺り構わず破壊しながら市街地の中へと足を向ける。
……だがそれは、ここだけで起きた悲劇ではなかった。
レクレウス軍がレドナに投入した《擬竜兵》は、現時点で擁する四名全員。その内、より竜の細胞との適合率が高く完成度の高い二名を、さらに防御が堅いと思われる中心市街区の攻略に充て、残る二名を一般市街区に配置、双方共に駐留している騎士団を優先的に倒し、重要施設を制圧する。それが、今回の作戦の基本方針だった。しかし一般市街区を担当する二名は、程度の差こそあれ、次第に自身の力に酔い始め、騎士団も一般市民も構わず攻撃を開始していたのだ。
レドナにとっては、最悪の状況だった。何しろ、《擬竜兵》の戦闘力は《下位竜》に匹敵する。つまり今の状況は、《下位竜》が徒党を組んで街を攻撃しているのに等しい。ちなみに、《下位竜》を一頭倒すには、装備を完全に整えた精鋭の魔法騎士でも、数個から十個の小隊規模が必要だというのが、ファルレアン国内での常識だった。一般の騎士に換算するとさらに多くの人数が必要になるだろう。
一般市街区の市民たちは、逃げ惑いながらも外側のスラムを目指し、あるいはさらに厳重に守られた中心市街区に最後の望みを託して向かう。だが中心市街区もまた、残る《擬竜兵》によって混乱に叩き落とされていることを、彼らは知らなかった。
「――行っけぇー! 《竜の咆哮》ぅっ!」
甲高い少女の声と共に、致死の光が奔り、人も建物も構わず貫いて焼き尽くす。
《擬竜兵》唯一の女性である少女もまた、自らの力に酔い、箍が外れ始めていた。
「あっはぁ……楽しーい!」
二つに結った髪を熱風になびかせながら、メリエ・グランは狂気に彩られた笑みを浮かべる。彼女は左腕が異形と化し、左肩からやはり翼を思わせる突起が突き出していた。少女の姿にそれはあまりにグロテスクで、その姿を目にした騎士たちは息を呑んだ。
そんな彼らの頭上で、再び轟く爆音。壁に刻まれた結界陣が破壊され、建物に設置された魔動機器による武装もことごとく光の矢に貫かれる。その様子を見たメリエは、不満げに口を尖らせた。
「もぉー……アルヴィーってば甘いんだからぁ」
「――甘いんじゃねえ! 何やってんだメリエ! 命令は騎士団の優先排除と重要施設の制圧だろうが! 一般市民まで進んで巻き込むのは軍規違反だぞ!」
頭上から別の声。壁、建物の屋根を経由し、常人ならば転落死必至の高さから飛び下りてきた、やはり異形の右腕を持つ少年は、メリエの傍らに軽やかに下り立った。
「だって、しょうがないじゃん! 騎士団も一般人も、混じってひとかたまりになってるんだもん!」
「だったら攻撃自体控えろ!――見境なしじゃ、俺たちも魔物と変わんねえぞ!!」
アルヴィーにとってそれは、譲れない一線だった。軍人や、それに準ずる人間ならば、手に掛けるのも致し方ない。経緯はどうであれ、彼らは自らの意思で、戦う道を選んだ者たちなのだから。だがそうでない者たちまで見境もなく手に掛けてしまえば、それは故郷を蹂躙したあの魔物たちと変わらないではないか。
だからアルヴィーは、作戦開始から今まで、結界陣や武装の破壊を優先していた。しかし地上に下りたことで、周囲を騎士団やレドナの市民たちに囲まれてしまっている。騎士団はこちらと戦うつもりらしく、武器、あるいは防御用であろう魔動機器を構えていた。
アルヴィーはわずかに顔を歪めた。
(……人を、殺さなきゃいけないんだな)
もとより軍人である以上、それは避けて通れない道ではあった。単純な理屈だ。ここは戦場。自分が死なないためには、相手を殺すしかない。
例えそれが、親友と同じ国に属する者であろうとも。
――だが、それでも。踏み越えてはならない一線がある。
アルヴィーは唇を噛み締め、顔を上げた。
「……騎士団! 十秒だけ待つ。民間人をここから逃がせ!」
その言葉に、騎士たちはざわついた。だが、“逃げる”という選択肢を提示された市民たちは、矢も盾もたまらずこちらに背を向けて逃げ始める。
「ちょっと、何言ってんの、アルヴィー! 勝手にそんなこと――」
「勝手はそっちだ! 今の状況は、軍規どころか国際法にも違反してる!――いい加減にしろ、メリエ。今のおまえ、ちょっとおかしいぞ!」
彼女だけではない。上から見た限り、他の《擬竜兵》たちも、問答無用で市街地を攻撃しているようだった。明らかに常軌を逸している。
(……まさか、戦場の空気に酔うか何かで、暴走してんのか?)
そう思い至って慄然とした時、メリエが騎士団と、その背後の退去しようとしている一般市民に左腕を向ける。とっさに、その腕を自らの右腕で弾いた。ほぼ同時に放たれた光芒は、だが弾かれたせいで射線が逸れ、明後日の方向の防壁に大穴を開ける。騎士たちがまたしてもざわめいた。
「何すんのよ! もう十秒経ってたじゃない!」
「だからって、逃げてる民間人を背中から撃つな!」
「何甘っちょろいこと言ってんの!? 大体、あたしたちは同格なのよ! 命令される謂れなんてないんだから!」
そう言い捨て、メリエは今や見紛いようもなく狂気にぎらつく目を眼前の騎士団に向け、《竜の咆哮》で彼らを薙ぎ払った。
「…………っ!」
防御用魔動機器などものの役にも立たず、武器を構えた姿のまま騎士たちは松明のように燃え上がり、その場に崩れ落ちる。
「あはははははは!!」
メリエの哄笑が響き渡り、アルヴィーはせり上がって来る吐き気を何とか堪えた。おかしい。何もかもがおかしい。確かに自分たちは戦略兵器だ。だが――これではそれこそ、村を蹂躙したあの魔物たちと変わらない!
(何でだ……今までだって、俺たちは魔物を討伐するのにこの力を使ってきた。その時は何ともなかったのに――今になってどうして!)
唇を噛み締めた時――その声は聞こえた。
「――うわぁぁん、お母さぁん……!」
見ると、逃げ遅れたのか、小さな子供が瓦礫の前で座り込んでいる。そしてその傍には、瓦礫に下半身を埋めて身動きが取れない、子供の母親らしい若い女性の姿。
(建物の崩落に巻き込まれたのか!)
「駄目……逃げなさい!」
母親は子供だけでも逃がそうと、必死に子供を押しやっていた。だが子供は母親から離れまいと、泣き喚きながらその腕に取り縋る。
それを見た瞬間、アルヴィーはそちらへと駆け出していた。
「あっははははははは!」
遠く聞こえる悲鳴、爆発音。それらに気分が高揚したのか、メリエは再び哄笑と共に左腕を打ち振る。迸る光芒。周囲の建物がさらに爆砕・崩落し、瓦礫となって崩れ落ちる轟音が耳を打つ。
それは地響きとなって周囲の建物をも揺らし、脆くなっていたそれらの建物まで連鎖的に崩壊させた。
「――ひぃっ!」
自分たちに降り注ごうとする瓦礫に、母親は絶望の悲鳴をあげる。自分はもちろん、子供がそんなものの直撃を受ければ、どうなるかなど想像に容易かった。だが子供の足では、もはや逃れられまい。せめて子供だけでも守ろうと、彼女は上半身だけで必死に子供を抱え込み、その腕に力を込める――!
「――《竜の障壁》!」
瞬間、声が聞こえた。
だがそれも一瞬のことで、彼女は襲い来る瓦礫を覚悟して固く目を瞑った。――しかし、一向にそれらしい衝撃や痛みが来ない。恐る恐る目を開けた彼女は、そこで眼前に立つ紅い影に気付いた。
立っていたのは、深紅の軍服を纏った少年だ。彼は人間のものとは思えない異形の右腕を天に掲げていた。その鼻先で、降り注ぐ大量の瓦礫は見えない壁に弾かれたように跳ね返り、周囲に逸れて落下する。
「……出られるか?」
声に、彼女ははっと我に返った。彼が、いきなり街や市民を攻撃し始めた少女と同じ軍服を着ていることは分かったが、あの少女と違って彼にはまだ、話が通じる余地がある。そう思って、彼女は縋る思いで我が子を託す。
「足が瓦礫に挟まれて――出られないの。わたしはもう駄目だわ。だからせめてお願い、この子を……」
必死に差し出した我が子の身体を、だが少年は受け取ってくれなかった。やはり敵国の兵士か、と絶望しかけた時、
「……子供をしっかり抱いてろ」
そう言うと、少年は屈み込み、彼女の身体に左腕を回すように抱え込んだ。そして異形の右腕で、彼女の下半身に圧し掛かる瓦礫を力一杯殴り付ける!
――ドゴォン!!
轟音と共に圧迫が軽くなり、そして次の瞬間、凄まじい勢いで身体を瓦礫から引き抜かれる。何が何だか分からずに、彼女は必死で我が子を抱き締めて目を瞑っていた。
……気が付くと、彼女は散らばった瓦礫の間に子供を抱えて座り込んでいた。目の前には、さっきまで自分が挟まっていた瓦礫のあった辺りが、さらに上から降ってきた瓦礫に潰されている。何が起こったのかとっさに理解できず呆然としていると、頭上から声が降ってきた。
「立てるか?」
「え……」
見上げると、あの少年が自分たちを見下ろしている。
「あのままあんたを引き抜くのは無理だったから、瓦礫を殴り飛ばして引き抜いた。足は動くか?」
「え、ええ……」
何だかあり得ないことを聞いた気がするが、あまりのことにかえって落ち着き、彼女はよろけながら立ち上がる。瓦礫から出られなかったのは、奇跡的に支え合う形となった大きな瓦礫の隙間に細かい瓦礫が詰まり、身動きするスペースを奪われていたためらしい。そのせいでスカートなどズタズタだったが、瓦礫自体の重量はさほど掛かっていなかったらしく、足は少し痛むながらも問題なく動いた。
「動く……わ」
「なら子供を連れてさっさと逃げろ」
「逃げろって……でも」
彼女は焦燥と共に周囲を見回す。辺りは瓦礫が散乱し、さらにその中の木材に引火して、火の海と化していた。逃げるためには、それを越えて行かなければならない。彼女の顔から血の気が引く。
「無理だわ……これじゃ」
「《竜の咆哮》」
彼女が呻いた瞬間、少年が右手を突き出した。そこから迸った光芒が地面を抉り、燃え盛る瓦礫ごと吹き飛ばして道を作り出す。
「長くは持たない。さっさと逃げろ」
「あ……ありがとう。でも、どうして……?」
少年にとって彼女は、敵国の一市民に過ぎない。なぜここまでして助けてくれるのか――純粋に疑問に思ってそう尋ねると、彼はどこか哀しげな目で、彼女と腕の中の子供を見やった。
「俺が言えた義理じゃないけど……子供の前で死ぬんなら、できれば天寿を全うした老衰にしてくれ。――でなきゃ、子供は一生後悔するぞ」
そう言って、彼は瓦礫と炎をものともせずに、その向こうに消えていく。吹き付ける熱風に、彼女はたじろぎ、少年が作ってくれた道に逃げ込んだ。振り返った先で、炎が渦巻く。
(……どうしてあんな子まで、戦争なんかしなきゃいけないの……)
炎を透かした琥珀のような、あの瞳を思い起こしながら、彼女は必死に子供を抱えて、炎の中にできた一筋の道を懸命に駆け抜けて行った。
◇◇◇◇◇
巻き起こる熱風に炎が巻き込まれ、灼熱地獄と化した周囲には黒く焼け焦げた骸が倒れ伏す。まさしくこの世の終わりのような光景に、アルヴィーは奥歯を噛み締めた。
「あっははははははは!!」
メリエは相変わらず哄笑しながら、周囲に光と灼熱をばら撒く。炎に囲まれながらも、彼女はしかし火傷一つなかった。アルヴィー自身もそうだ。それどころか、常人ならばとうに高熱に肺を焼かれていておかしくないこの熱風も、彼らにとっては微風に過ぎない。
(そういえば、俺たちに移植された《上位竜》の肉片は、火竜のものだって聞いた気がする……)
自分たちの炎に対する異常なまでの耐性も、そうしてもたらされたものだろう。改めて自分たちが“ヒト”からはかけ離れたものになったことを突き付けられた気がして、アルヴィーは固く拳を握り締める。
「――メリエ!!」
鋭い声に、メリエは狂ったようにあげていた哄笑をぴたりと止め、こちらを振り返った。
「アルヴィー。何してたの?」
「……メリエ、ここはもういい。――街の占領を、急ごう……」
「何で? まだまだ、残ってる建物は一杯あるじゃない!」
「建物は――占領してからレクレウス軍が使うんだ。だから先に、重要施設を制圧してしまわないと……」
「あ、それもそっかあ!」
メリエは周囲の凄惨さには不似合いなほど明るく笑うと、アルヴィーに駆け寄って来てその左腕に自分の腕を絡める。
「アルヴィーがそう言うなら、いいわよ。行きましょ」
先ほどまでの狂気さえ感じた激情は、すでにない。ごく普通の少女のように、メリエはアルヴィーと腕を組んだまま、歩き出した。無邪気にすら思える、瞳を輝かせた少女らしい表情。
――それが、今は恐ろしい。
(さっきまでのメリエは、何かの箍が外れたみたいだった。――どうして……)
注意深く彼女の様子を窺いながら、アルヴィーは道を塞ぐ瓦礫を《竜の咆哮》で吹き飛ばす。莫大な量の炎を極限まで収束した灼熱の光線、それがこの《竜の咆哮》だ。物体に触れれば爆発を引き起こし、超高温で問答無用に焼き尽くす。通常威力で放っても、生物ならば骨も残らないだろう。威力を絞って放った一撃でさえ、こうして瓦礫を吹き飛ばしてしまうのだから。
「ねえアルヴィー、まずどこを制圧すればいいと思う?」
「……そうだな。市庁舎、騎士団の駐屯地。それから――」
アルヴィーがそう言った時。
「――いたぞっ!」
「二人だ! 気を付けろ!」
市民たちの避難誘導に駆け回っていたらしい騎士団の一隊が、二人と鉢合わせてしまったのだ。一気に緊張が走り、騎士たちが二人を取り囲む。
「レクレウス軍だな!――総員、油断するな! 捕らえようなどとは思うな、殺す気で掛かれ!」
「はっ!」
隊長と思しき騎士の指示に、隊員たちが唱和する。と、
「……ふふ」
笑い声が、聞こえた。
「殺す気で掛かる? あたしたちを?――ただの人間が、あたしたち《擬竜兵》に敵うわけないでしょ?」
メリエが腕を解き、嗤う。先ほどと同じ、狂気の貌だった。
「あはははははっ――消し飛べぇっ! 《竜の咆哮》っ!」
彼女の左手から光芒が放たれ、腕が打ち振られるのに合わせて刃のように、周囲の建物をその前にいた騎士ごと切り裂いていく。爆発――炎上。騎士たちの身は一瞬で燃え尽き、建物が炎を噴きながら崩れ落ちた。
「この――化け物がぁっ!」
仲間の最期を目の当たりにした騎士たちが、憤怒の表情で剣を振りかぶり向かって来る。
「あははははっ! あたしたちが化け物なら、あんたたちはゴミ虫ねぇっ!」
メリエが再び左手から《竜の咆哮》を放ち、さらに数人の騎士が防御用魔動機器ごとその光芒の餌食になる。残る騎士たちの前にはアルヴィーが躍り出て、その右腕で騎士たちの剣を受け止めた。
「そこを退け! まだ死にたくねーだろ!」
「そういうわけには――いかん!」
右腕一本で騎士数人の剣を受け止めたアルヴィーに、驚きの表情を浮かべながらも、隊長が怒鳴り返した。アルヴィーは舌打ちして、彼らを剣ごと弾き返す。
「くそ、何て怪力だ……!」
「しかも、あの腕……まるで竜の鱗じゃないか」
「怯むな! 何としてもこの先に通してはならんぞ!」
隊長に鼓舞され、騎士たちは再び剣を構える。メリエが不快げに顔を歪めた。
「いっちいち……うるさいのよ! おとなしく焼け死ねぇぇぇっ!!」
彼女が三度左腕を打ち振る――その寸前、アルヴィーの詠唱が完成した。
「圧し潰せ――《重力陣》っ!」
瞬間、騎士たちを通常の数倍の高重力が襲う。身に着けていた鎧などの装備、そして自分自身の身体が一気に重量を増し、騎士たちは思わず剣を取り落としてその場に這いつくばる羽目になった。
「くっ」
「これ、はっ――!?」
だが次の瞬間、メリエの《竜の咆哮》が放たれ、騎士たちの頭上を掠めて遥か後方の建物に着弾する。
「あっは、惜しいっ! もうちょっとだったのに!」
「もういい、メリエ! ここは終わりだ、次に行くぞ!」
「何で? こいつらまだ生きてるじゃない、ぜーんぶ消し飛ばしてからじゃないと!」
「もう戦闘不能だ! これ以上の戦闘は意味がない!」
高重力に曝された騎士たちは、自身の体重や装備の重量で筋肉や内臓に相当の負荷が掛かっており、中には骨折した者もいる。また、メリエの《竜の咆哮》の餌食となった騎士の中にも、重傷ながら生存者が存在した。直接食らったのではなく、その余波を受ける形だったため、即死は免れたのだ。とはいえ、依然命が危うい状態に変わりはないが。
だが、メリエの狂気は止まらない。
「あはははは! アルヴィーはやっぱり甘いわね! 敵は全部殺し尽くさなきゃ! 騎士だって民間人だって関係ないわ――全部燃やしてやるんだから!」
「駄目だ、っつってんだろ!? それじゃ魔物と一緒だ! 俺たちは魔物じゃない!」
「人間でもないわ! もうあんなゴミみたいに弱い生き物じゃないのよ、あたしたちは! 全部焼き尽くしてやるのよ、あっははははは!!」
灼熱の光芒を今にも放とうと満たし、メリエの左腕が振り下ろされる。アルヴィーの右手が、それを受け止めた。およそ人間の腕同士の接触とは思えない硬質の音が響き、その弾みで放たれた光の刃が明後日の方向に飛んで建物の角部分を爆砕する。
「あははははははっ――!」
響く甲高い哄笑。狂気に呑まれた戦友を前に、アルヴィーは何もできない。
(くそ……何とか元に戻せないのかよ……!)
しかしその時、狂ったように笑うメリエの様子が一変した。
「あははは……あうっ!?」
先ほどまで笑顔だった顔は一瞬で歪み、左腕を庇うように抱え込む。
「どうした!?」
「あ、ひ、左腕が、おかしい……! やだ、何これ、止まんない……!」
見ると彼女の左腕が不自然に蠕動し、形を崩し始めていた。未知の現象に、アルヴィーは息を呑む。
「やだ……いやあああああ!!」
「メリエ、しっかりしろ……!」
救いを求めるように周囲を見回した時――ちょうどメリエの肩越しに、別の騎士団が駆け付けて来るのが見えた。しかも装備からしてあれは、魔法騎士団だ。遠距離攻撃の手段を持ち、通常の騎士団よりも手強い。
「くそ――!」
メリエはおそらく戦闘不能、周囲には倒れ伏す騎士たち。とても戦える状況ではない。アルヴィーはメリエを抱え、大きく後方へと飛びすさった。騎士団と距離を取り、メリエを下ろして揺さぶる。
「――メリエ! しっかりしろ、撤退するぞ!」
「いや、あああ゛あ゛ああぁぁぁっ!!」
だが彼女にはアルヴィーの声ももはや届かず、ただ左腕を抱えてうずくまるだけだ。これでは撤退すら不可能だろう。今の彼女に迎撃や防御は無理だと判断して、アルヴィーは覚悟を決めた。右腕を差し伸べ、向かって来る騎士団を標的と定めて《竜の咆哮》を放とうとする。
瞬間。
彼の、やはり常人を大きく逸脱して強化された視力は、確かに捉えた。
淡い金髪にアイスブルーの双眸、そして何より、忘れもしない親友の面影を色濃く留める、騎士団の先頭に立つ少年を――。
(――ルシィ!!)
光芒が、放たれた。
「……あ……」
呆然と、アルヴィーは自らが放った光芒の行方を見つめる。
光は――魔法騎士団の傍らを掠め、彼らの斜め後方に建つ建物を貫いた。建物は爆砕されたが、魔法騎士団には防御魔法が得意な者がいるらしく、魔法障壁で防いで事なきを得る。
そして、魔法騎士たちはその場で足を止め、武器や杖を構えて臨戦態勢を取った。
(……間に合っ……た……)
とっさに射線を逸らしたのが、どうにか間に合ったのだ。
そして、中央に布陣していた少年が、剣を手にしたまま近付いて来た。彼は硬い表情のまま、互いの顔が視認ができる距離まで近付くと、足を止める。その剣の切っ先が、ピタリとアルヴィーを指し示した。
少年の白皙の美貌が、歪んだ。
「アル……アルヴィー。――本当に、君なのか?」
放たれた言葉に、アルヴィーはただ呻く。
「……ルシィ……何で、戦場なんかに……!」
――絶対、会いに行くから。
幼き日の約束は、考え得る最悪の形で叶い。
かつて兄弟のように育った少年たちは、戦場の只中で、互いの敵として相見えた。
やっとルシエルが出て来ました……。
彼は次回から本格参戦の予定です。




