第23話 父と娘
王都ソーマのほぼ中心部、貴族の邸宅が集まる一画に、イリアルテ邸は存在する。
かの館の特色は、何といっても本館の三分の一もの大きさを誇る書庫だ。もはや図書館と呼んでも良い、堂々たる大きさのこの書庫は、中央部が吹き抜けとなりその周囲を囲む回廊の壁、そして一階のほぼ全面に書架が立ち並び、イリアルテ家自慢の蔵書がずらりと背表紙を並べている。しかし、他家の人間が見れば驚くほどのこの蔵書、領地の居城にあるものからすればほんの一部であるというから恐ろしい。“書の番人”の面目躍如である。
シルヴィオはその一隅に置かれた長椅子に横になり、本を胸に置いた形で眠っていた。本を読んでいる内にそのまま寝落ちしてしまったパターンだ。彼が書庫で寝落ちることはもう日常茶飯事だったので、夕食や入浴を済ませていないというのでない限り、今や使用人でさえ捜索には来ないという有様だったりする。
だがこの日に限っては、いつもとは違っていた。
「――若様、若様ってばー! 例の本、今届きましたよー!」
小隊の部下であり、従者的存在でもあるカシム・タヴァルが、扉を開けてずんずんと踏み込みながら大声で報告してくる。シルヴィオの意識がゆっくりと浮上し、わずかに顔をしかめたかと思うと、その切れ長の目を開いた。
「……ああ、来たか」
「相変わらず本の虫っすねー、若様。――ま、それはともかく。ご領地から例の本、届いてますよ」
カシムが抱えていた分厚い本を差し出す。ズシリと重いそれを受け取り、シルヴィオはぱらぱらとページをめくった。古文書そのものではなく、シルヴィオが生まれる少し前くらいに書かれたという写本だが、内容はきちんとそのまま写しているはずだ。
一通り内容を確認すると、シルヴィオは本を持って自室へと戻る。身支度を整え、朝食を済ませると、カシムを伴い騎士団本部へと向かった。
勝手知ったる本部の廊下を、迷うことなくずんずんと歩き、《第二大隊長執務室》の表示がある部屋の前で足を止める。別に面会予約など取っているわけではないが、自分が提供する情報の価値を考えれば、門前払いということはないだろう。軽くノックし、入室の許可を求めた。
「第一三八魔法騎士小隊、シルヴィオ・ヴァン・イリアルテ及びカシム・タヴァルです。カルヴァート大隊長はご在室ですか」
「――どうぞ」
カチャリ、とドアが開き、開けたパトリシアは道を譲るように一歩下がる。会釈して、シルヴィオはカシムを引き連れ入室した。
「どうした、イリアルテ。休暇はまだ明けてないだろう」
「大隊長こそ、レドナから旧ギズレ領まで転戦されたのに、その上まだお仕事ですか」
「どうにもやることが多くてな。この一件が片付いたら誰が何と言おうと休んでやるつもりだが」
肩を竦めたジェラルドは、そこで探るようにシルヴィオを見やる。
「……で? わざわざそんなことを言いに、休暇中に仕事場に来たわけじゃないだろう」
「ええ。――実は、大隊長が昨日仰っていた件なんですが。うちの領地の方の書庫に、それ関連の古文書があったのを思い出しまして、閲覧用の写本を寄越して貰いました。これです」
シルヴィオが机の上に置いた分厚い本に、ジェラルドの目の色が変わった。
「古文書?」
「ええ、どの時代にも変わり者というのはいたみたいで。何の酔狂かは分かりませんが、ほとんど一生を捧げる勢いで呪詛の研究に没頭した学者がいたんですよ。これはその学者が編纂した研究資料に、後世のご同輩たちが注釈や新事実を書き加えていった代物です。ベースの資料の編纂がこの国の建国とどっこいなので、便宜上古文書扱いになってますが、情報としては四、五十年くらい前までのものが反映されています。多分、国内にも実家の原本とこの写本しか存在しない書物だと思いますよ」
「ははっ……さすがは“書の番人”ってとこか。――にしても、そんな手間を掛けてまでなぜ、この件に関わろうとする?」
「一応同じ派閥に所属する家同士の誼……というのもありますが。まあ、大隊長に恩を売っておいて損することはなさそうなので」
しゃあしゃあと言ってのけるシルヴィオに、ジェラルドも苦笑するしかない。
「は、ずいぶんと高く買われたもんだぜ。――ならまあ、遠慮なく見せて貰うとするか」
ジェラルドは本を開き、ページをめくり始める。パトリシアとセリオも、興味があるのかちらちらと視線を走らせていた。しばらく読み進めていたジェラルドだったが、ある名前を見つけ手を止める。
「……ブライウォード侯爵領?」
その呟きに、シルヴィオもそのページを覗き込み、そして得心が行ったというように頷いた。
「ああ……それは、主立った呪詛の継承者たちがどの領地に居住しているか、その分布の調査ですね。俺も付け焼刃程度の知識しかないですが、呪詛っていうのも結構古くからある術系統ですから、この国が建国して諸侯の領地の境界線が確定する前から、その土地に根を下ろしてたっていうのも珍しくなくて。で、ブライウォード侯爵領の中にも呪詛の継承者たちの集落みたいなものができてしまってたわけです」
「なるほどな……ダウェル地方、か」
ジェラルドはその地名を指でなぞる。聞き覚えはなかったが、何しろ侯爵領ともなると広い。地元ならまだしも、余所の領地の有名どころでもない地名までいちいち覚えてなどいられないのだ。
「しかし、ブライウォード侯爵家がここで出て来るとはな。てっきり、名前を使われただけかと思ってたんだが。先代はやり手だったが、今の当主になってからは毒にも薬にもならない家になったし、その先代も確か二年くらい前から病でほとんど寝たきりだって聞いたぞ。万一裏で糸を引くにしても、役者がいねえだろ」
流し読みながら最後までページを繰ったが、今回の件で名前が挙がった他の貴族の名は、その書物には登場しなかった。それを確認し、小さく唸るジェラルド。
「……結局、呪詛の継承者と関わりがありそうなのはブライウォード侯爵家が筆頭ってことか」
「ですが、近年の書籍にはブライウォード侯爵領に呪詛の継承者が居住しているという記述など、見当たりませんでしたが……」
「そういえば、ダウェル地方って僕、そこの本のどれかで見た気がします」
セリオがいきなり、机の上に積まれていた図書室の書籍を引っ繰り返し始める。何冊か流し読みしたところで、目的の情報を見つけてそのページを広げてみせた。国内貴族の概略や領地の主な出来事などを纏めた書籍だ。
「これです。――“ブライウォード侯爵領ダウェル地方で疫病発生。結果、村が一つ消滅”……今から二十年くらい前のことですね」
「おいおい、そりゃまたなかなかきな臭い話だな」
「もしかしてその消えた村が、呪詛の継承者たちの村だった、と?」
その時。
「――外に誰かいる!」
カシムが小さく鋭い声で警告を発した。ジェラルドたちが話し込んでいる間、カシムは一歩引いて室内の調度などを眺めていたのだが、その持ち前の超人的な聴力が、部屋の外の何者かの立てたわずかな物音を捉えたのだ。室内に緊張が走り、カシムが素早くドアに駆け寄って一気に開け放つ!
「……ちっ、逃げた」
しかしそこにはすでに誰の姿もなく、カシムは小さく舌打ちした。
「どっちへ逃げたか分かるか?」
シルヴィオの問いに、耳を澄ませていた彼は、
「向こうの方に走って行く足音はかすかに聞こえたんすけど、すぐ他の足音に紛れちまって……すんません」
「そうか」
もとより追跡が難しいのは承知の上だ。責めることもなく、シルヴィオは頷く。
「気のせいや聞き間違い……ということはないのよね?」
「俺、耳だけはいいんすよ。確かに誰かがすぐ外にいました。多分あれ、服の衣擦れの音だと思うんすけど」
パトリシアが念のため確認を取り、カシムははっきりと断言した。
「――なるほどな、これで合点が行った。騎士団関係者に呪詛使い、あるいはその縁者がいる。そう考えれば、街でアルヴィーを襲えたことにも説明が付くしな」
ジェラルドの言葉に、パトリシアは得心が行ったように呟く。
「そういえば、彼がいつ街へ出るかは、騎士団内部の人間でもないと分かりませんね……」
「多分この部屋の外で聞き耳でも立ててたんだろう。この辺りは人もそんなに通らん。短時間の盗み聞き程度なら、見咎められる可能性もそう高くはないだろうな。こっちの動きを探るために盗み聞いてたら、たまたまアルヴィーの外出の予定を聞き込んだってところか。まったく……今度上層部に防音設備の申請でもするべきかね」
「……って、呪詛使いって何すか!? 俺らひょっとして厄介事に巻き込まれかけてる!?」
今さら気付いて、カシムが頭を抱える。シルヴィオの方は薄々勘付いていたので、やれやれというように嘆息するに留めた。
「例の《擬竜兵》絡みですか」
「俺の従騎士はなかなか人気者らしくてな。熱烈にアプローチしてくる奴がいるんだよ」
「その急先鋒がその呪詛使いということですか」
「そういうことだ。――とりあえず、本部に出入りしてる人間の身元を当たるぞ。王城からの派遣文官もだ」
ジェラルドの指示に、パトリシアが短く了解の返事を返し、足早に部屋を出て行く。本部で働いている人間の名簿や身上書を借りに行ったのだ。セリオは黙々と机の上を片付けて場所を開けている。
「手伝いましょうか」
そう申し出たシルヴィオに、ジェラルドは意外そうな顔になった。
「ずいぶん協力的だな。正直、この本だけでも俺に恩を売るには充分だと思うが?」
「ええ、まあ。ですが、アルヴィー・ロイにはちょっとした借りというか、恩がありますので」
「恩?」
「ええ、鏃の一件で」
「ああ……なるほどな」
得心が行って、ジェラルドは頷く。旧ギズレ領攻防戦の際、アルヴィーは自身の《竜爪》の欠片をシルヴィオに譲った。彼はそれを鏃に仕立て、その矢を使って魔動巨人を倒すという華々しい武勲を挙げたのだ。騎士団の中でも、特殊例のアルヴィーを除けば一、二を争う大手柄である。シルヴィオがアルヴィーに対して好意的なのも頷けた。
やがて、パトリシアが名簿や身上書の綴りを借りて戻って来た。その分厚さに、一同はちょっと顔を引きつらせたりしたのだが、まあそれは余談である。
「あの、俺そういう分厚い本とか見ると反射的に頭痛するんすけど、抜けていいっすか……?」
「ああ、カシムにはその辺期待してないから。身上書の綴りを一旦バラすから、チェック終わった分を元の順番通りに纏めてくれ。それなら頭痛もしないだろ?」
「……それ気遣われてんすか、それとも馬鹿にされてんすか!? 喜べばいいのか怒ればいいのか分かんねー!」
主従のそんなやり取りを聞き流しつつ、彼らは手分けしてその分厚い綴りに立ち向かっていった。
◇◇◇◇◇
久しぶりに親友との休日を楽しんだアルヴィーは、夕方の鐘が鳴る頃、王城の前でルシエルと別れた。
「ルシィはまだしばらく休みなんだろ?」
「うん、あと何日かは。――でもアル、身の周りには気を付けて。できれば王城の外で単独行動はしない方がいい」
「わーかってるって! ルシィこそ気を付けろよ?」
「僕は大丈夫。《イグネイア》も戻って来たしね」
ルシエルは腰に帯びた愛剣を軽く叩く。調整が終わった《イグネイア》は、鍔元がよりしっかりと加工され、魔力経路も引き直して貰ったそうだ。とりあえず剣の方を急がせたので、鞘の方はまだ武具店の方で誂えている最中であり、今の鞘は間に合わせのものらしい。それでも剣の方が圧倒的に強度が上なので、剣が傷むことはないそうだが。
街中に戻って行くルシエルを見送り、アルヴィーは何となく、暮れなずむ空を見上げた。
「明日からまた講義かあ……」
「きゅ……」
慨嘆するアルヴィーに、まるで同意するように、首から下げた小袋から顔と前足だけ出して小さく鳴くフラム。講義が始まればまた魔法技術研究所にフラムを預けることになるのだが、まさかそれが分かっているのだろうか。
ともかく、騎士団本部に戻るべく城門を潜ろうとすると、
「あら。久しぶりね」
「あ……リーネ、さん?」
「覚えててくれたのね、嬉しいわ」
声をかけられそちらを見ると、文官のお仕着せ姿の若い女性。初めてソーマの街中に出た際、案内を買って出てくれたリーネ・エルダだ。
「今日は出掛けていたの?」
「休講日だったんで。王都に幼馴染がいて、家に呼ばれてたんだ」
さすがにその幼馴染が伯爵家の息子だというのは口を噤んでおいた。上層部の人間なら黙ったところで知っているのだろうが、彼女はその中には入るまい。ならば無用に詮索されそうなことは言わない方が無難だ。
「あら、そうなの。友達がいるんなら、王都を色々案内して貰うといいわよ」
「うん、料理の美味い店とかは教えて貰ったけど」
そんなことを話し、帰宅するというリーネと別れる。改めて、城門を潜ろうとした時だった。
「――きゃああ!!」
悲鳴に、はっと振り返る。今しがた別れたばかりのリーネが、フード付きの黒っぽいローブを纏った人間に腕を掴まれ、連れ去られるところだった。
「待て!」
思わずそれを追って駆け出す。ローブの人物はリーネの腕を掴んだままだというのに、人の間を縫って身軽に走って行った。一方のアルヴィーは、混雑に慣れていないせいもあり、なかなか追い付けない。
「くそっ……!」
毒づきながらも、とにかく人の間にちらつくローブの後ろ姿を見失わないように追い縋る。と、二人は急に角を折れ、脇道へと入って行った。
急いでアルヴィーもそれを追ったが、角を曲がった先にはすでに二人の姿はなかった。何しろ全身をローブに包んだ不審人物とお仕着せ姿の若い女性である。目立つこと甚だしいはずの二人組なのだが、見渡せる範囲にその姿は見当たらない。
「どこ行ったんだ……?」
きょろきょろと周囲を見回しながら、足早に進んでいると、いきなりすぐ目の前で扉が開き、中から出て来た二人連れに危うくぶつかりそうになった。
「うわっと!」
「おい、どこ見て歩いて――お?」
アルヴィーを怒鳴り付けかけた男が、ふと言葉を切って目を瞬いた。
「何だ、《擬竜兵》のガキンチョじゃねえか」
「あんた講義で一緒の――」
ぶつかりかけた男は、特別教育でアルヴィーと共に講義を受けている、傭兵上がりのヒューゴ・エルガーだ。その後ろにはなぜか、講義初日にいきなり(刃引き剣だが)斬り掛かってきた危険人物、ルーファス・ディロンの姿もある。年齢が離れていることや初日の一件もあって、アルヴィーはあまり彼らと交流は持たなかったが、彼らは意外と仲が良いのだろうか。
「え、何であんたら一緒なんだよ」
「あ? そこの酒場でたまたま鉢合わせてな。まあ知らねえ顔じゃねえし、コイツ意外とイケる口でよ。つーかおまえこそ何してやがる。この辺りはガキにゃまだ早えぞ」
「あ、そうだ、この辺りで黒っぽいローブ着てフードで顔隠した、怪しげな奴見てねーか? そいつ、本部の文官の人攫って逃げてんだよ!」
「何?」
勢い込んで問うアルヴィーに、顔を見合わせる男二人。
「少なくとも酒場にそんな客は来なかったが……おい、そんな大事なら、まず騎士団に報告した方がいいんじゃねえのか」
「あ」
言われてみればもっともだ。反射的に追いかけてしまったが、仮にも本部で働く城からの派遣文官が連れ去られたのだから、これは騎士団が動くべき案件だろう。
どうしたものかと迷っていると、我関せずといった様子だったルーファスが、ある一点を指差した。
「……それはああいう風体の奴か?」
「え?」
つられて見やった先、ひらりと翻る黒っぽい布の端。駆け寄ると、さらに裏路地へ入って遥か遠くを走り去る、黒いローブの後ろ姿がちらりと見えた。
「待て!」
猟犬か何かのように猛然と追いかけるアルヴィー。夕日がどんどんと沈みつつある中、ともすれば建物の作り出す影に紛れてしまいそうなローブの後ろ姿も、《擬竜兵》の視力は逃さず捉える。
だがしばらく追ったところで、アルヴィーは足を止めた。
大通り近くの整然とした区画割が嘘のように、好き勝手に建物が建てられた風情のその一画は、道の両側を建物、行く手を建材の山に阻まれ、行き止まりになっていた。幅は五メイルほど、アルヴィーが立つ場所から建材の山までは二十メイルほど。辺りはますます明るさを失っていたが、それでもそのぽかりと空いた場所に誰の姿もないのは、常人離れした視力がしっかりと見て取っていた。
「――何だ、行き止まりじゃねえか。どっかで道間違ったか?」
「その辺の建物に逃げ込んだのかもしれんがな」
そこへ、ヒューゴとルーファスが追いついて来る。少々息を弾ませてはいるが、アルヴィーの全力疾走に何とか追い縋ったのだから大したものだ。
「とりあえず、騎士団への通報は店のねーちゃんに頼んで来たぜ」
「あ、ありがとう」
意外と気が利くヒューゴに礼を言いつつ、アルヴィーは周囲に目を走らせる。
(いない……人を一人連れて、そんなに素早く隠れられるはずないのに)
とりあえず、建物の中に隠れている可能性を考え、中を検めることにする。建物には居住者もいないのか、明かりもなくしんと静かだ。手近な建物のドアを開けようとした、その時。
「――上だ!」
闇を貫く声。そして澄んだ金属音。
「……え」
「なるほど、こいつが下に来るのを狙っていたか。――だが、軽いな」
建物の二階の窓から飛び降り、頭上からアルヴィーに斬り掛かろうとした人影を、横合いから滑り込んで来たルーファスが迎撃、抜剣の勢いのまま弾き返したのだ。
弾き飛ばされた人影は、しかし猫のような身軽さで地上に下り立つと、剣を構える。細い剣身の刃が、建物の隙間からわずかに降り注ぐ夕日にきらりと光を零した。
(あの剣……)
その細いシルエット、そしてローブの人物の体格。アルヴィーの脳裏を、不吉な予感が掠める。
だが彼がそれを口に出す前に、ルーファスが動いていた。するりと滑るような、さりげない踏み込み。空を裂いて奔った剣先が人影を襲い、躱そうとした人影のフードを引っ掛けた。どうやら講義の場でなければ自前の剣を帯びているようで、ルーファスの剣もちゃんと刃が付いているのだろう、引っ掛けられたフードはすぱりと切れ、もはや用を為さない。
「なっ……どういうこった、こりゃあ」
その下から現れた顔に、ヒューゴが驚愕する。
左右一房だけ長い蒼い髪、碧の瞳。
フードの下にあったその顔は、講師助手であるニーナ・オルコット四級騎士に間違いなかった。
「……はぁぁあああっ!!」
鋭い気合の声をあげ、ニーナは再びアルヴィー目掛けて斬り掛かろうとする。その前に立ちはだかり彼女の剣を受けたルーファスは、だが別にアルヴィーを庇おうというつもりではないようで、口の端に薄い笑みなど浮かべていた。
「ははっ、威力は軽いがなかなか速いな。ふむ、これはこれで悪くない」
どうやら、ただ単に剣を合わせてみたいだけらしい。突き技に切り替えたニーナの攻撃をいなしながら、どこか楽しげですらある。そういえば自分に斬り掛かってきた時も彼は嬉々としていたと、遠い目で思い出すアルヴィー。と、ヒューゴが、
「あー……そっちは任せといて大丈夫そうだな。俺はそこの建物調べて来るぜ。攫われた文官ってのがいるかもしれねーしな」
確かにその通りだ。そちらは彼に任せることにして、アルヴィーはニーナを取り押さえる隙を窺う。
(……でも、何かピンと来ねーんだよな)
ニーナと呪詛使い。その二者が、どうにも上手く重ならない。
拭いきれない違和感に、アルヴィーが小さく唸った時、彼の中のアルマヴルカンが告げてきた。
『主殿。あれは本体ではない』
(どういうことだ?)
『あれは呪詛によって操られている、人形に過ぎん。本体は別にいる』
その言葉に、甲高い金属音が重なる。見ると、ニーナの突きをルーファスの剣が危なげなく受け止めたところだった。ルーファスはそのまま、剣先を絡め取るようにしてニーナの剣を弾き飛ばす。
「あっ……!」
短い悲鳴。ニーナの手から剣が離れた瞬間、アルヴィーは駆け出していた。彼女が自分の剣に飛び付くより早く、羽交い締めにするように取り押さえる。
「離……せぇぇっ!!」
華奢な体躯のどこにそんな力があるのか、ニーナは凄まじい勢いで暴れるが、それでもアルヴィーの腕を振り払うには不足だった。
「きゅー!!」
「悪ぃフラム、ちょい我慢してくれ!」
「きゅーっ」
危うく二人の間で押し潰されかけたフラムが悲鳴をあげ、袋から脱出してアルヴィーの肩によじ登った。それでもアルヴィーは暴れるニーナを怪我のないよう取り押さえるのに手一杯で、フラムはともすれば振り落とされそうなところを自力で肩にしがみ付くしかない。それでも健気に返事をして必死にしがみ付く、お利口なフラムだった。
そこへ、
「――おい、いたぞ!」
ヒューゴの声。見ると、ヒューゴがリーネを抱きかかえ、建物から出て来るところだった。ニーナが飛び下りてきた建物だ。
「ここの二階に倒れてたぜ。多分そこから飛び下りて、斬り掛かったんだろうな」
と、リーネが小さく呻いた。気付いたヒューゴが声をかける。
「お、気が付いたか。おいあんた、大丈夫か?」
「……ここは……」
「あんた、彼女にここまで連れて来られたんだ。覚えてるか?」
「……ええ……覚えてます」
軽く頭を振り、リーネはヒューゴの腕から下りて地面に立つ。体調に問題はないようで、ふらつくこともなかった。
「さて……この状況どーすっか、だな」
ヒューゴが嘆息する。ルーファスは我関せずというように剣を鞘に納めた。そんな彼に、ニーナを羽交い絞めにしたままアルヴィーは尋ねる。どうしても気になることがあるのだ。
「なあ、あんたどこで剣習ったんだ? 技とか、妙に見覚えあるんだけど……」
するとルーファスは訝しげに、
「剣は親から仕込まれたものだが? 祖母だか曾祖母だかがサイフォス家の出だとかで、その流れを汲んではいるらしいが」
「へえ! 《剣聖》の縁者かよ」
ヒューゴが感嘆の声をあげ、アルヴィーは疑問が氷解して思わず大声をあげてしまった。
「あー! そっか、フィランの剣に似てんだ!」
最初に斬り掛かられた時から妙に覚えのある剣技だと思っていたのだが、あの自然過ぎるほどにさりげない踏み込みや、剣先を絡め取るような技など、フィランが対《紅の烙印》戦で見せたものにそっくりなのだ。おそらく、サイフォス家で代々伝えられてきた技なのだろう。
「本家の人間に会ったのか?」
「あ、うん。えっと、本人が《剣聖》って言ってたけど。代替わりしたばっかだって」
途端にルーファスの目が鋭く輝き、アルヴィーに詰め寄って来た。
「どこでだ」
「レドナからこっち来るまでの子爵家領地群で……っていうか、本人はもうレクレウスの方行っちまったんだけど! 何で俺に詰め寄って来んだよ!」
「そうか。一度手合わせしてみたかったんだが。当代の《剣聖》ともなれば、さぞかし戦い甲斐があったろうに、残念だ」
……あ、こいつあれだ。戦闘狂とかいうやつだ。
アルヴィーは心から納得し、そしてそっと距離を取り始めた。といっても、未だにもがくニーナを抱えていたので、微々たるものだったが。物理的距離はともかく、心の距離はそれなりに遠ざかった気がする。物騒な交友は、やりたい人間だけで心ゆくまでやっていただきたい。
「……あー、とりあえず、騎士団もそう時間掛からず来るだろうし、後はそっちに任せようや」
頭を掻きつつ、ヒューゴ。妥当なところだ。ニーナがアルヴィーに斬り掛かってきたのは、まあ分からなくもないが、なぜ派遣文官であるリーネを連れ去ろうとしたのかなど、不明な点は多い。それに、ニーナが呪詛で操られているというアルマヴルカンの指摘が事実なら、早々に処置が必要だ。自分に掛けられたものならともかく、他人に掛けられた呪詛の解呪などアルヴィーには無理だし、まだしも詳しいであろう魔法技術研究所辺りに任せるしかない。
ともかくそれまでニーナを押さえておこうと、アルヴィーは羽交い絞めにした腕に少し力を入れる。少し離れたところでは、リーネがヒューゴに礼を言っていた。
「助けてくださって、ありがとうございました」
「ああ、いや。たまたま行き会っただけさ、ははは」
若い女性に礼を言われて悪い気はしないのか、ヒューゴも機嫌が良い。そんな彼に、リーネはにっこりと笑い、
「ですが――もう少しだけ、お付き合いくださいね」
「は……?」
瞬間、リーネの周囲に黒い靄のようなものが勢い良く渦巻いた。
『呪詛だ!』
アルマヴルカンの声が脳裏に響く。だがアルヴィーがそれを伝える前に、黒い靄がヒューゴを包み込んだ。
「うおっ……! 何だ、こりゃあ……!」
反射的に振り払おうとしたヒューゴだったが、すぐに足の力が抜け、崩れるようにその場に倒れ込む。そんな彼を見下ろし、リーネは困ったように少し首を傾げて、
「ごめんなさいね? 今、騎士団に引き渡されるわけにはいかないんです。しばらく動けないはずですから、後で詳しい人に解呪して貰ってくださいね。それほど難しい術式じゃありませんし」
そんな彼女に、ルーファスが剣を突き付ける。
「今、何をした」
「駄目だ、離れろ!」
アルヴィーが叫ぶが、遅かった。ルーファスの足下から、今度は黒と紫が混ざり合ったような色合いの靄が、意思でも持っているかのように這い登る。彼が気付いた時には、すでに上半身にまで達していた。
「くそっ、何だこれは――!」
相手が剣士ならば嬉々として立ち向かっていく彼も、呪詛相手では勝手が違う。払い除けようにも呪詛には実体がないのだ。
「ちっ――!」
アルヴィーは右腕を伸ばし、その手に炎を生み出した。《擬竜兵》の炎なら、呪詛そのものを焼き尽くせる。だが、渦を巻いた炎が届くより先に、ルーファスの両目から光が消えた。
「おい、大丈夫か――」
声をかけたアルヴィーに彼は向き直り――次の瞬間、地面を蹴りアルヴィーに肉薄、その手にした剣を何のためらいもなく横薙ぎに振り抜く!
「うわっ!?」
「きゅーっ!?」
ニーナを突き飛ばすように離し、アルヴィーはすんでのところで身を屈めてその一撃を避ける。そして逆にルーファスに突撃、胴に組み付くと、洒落にならない怪我はしない程度に思い切ってぶん投げた。その拍子についにフラムが振り落とされたが、生憎そちらに構っている余裕はない。
「おい、何だよいきなり!」
『無駄だ、主殿。あれもすでに操り人形だ。先ほどの娘と同じようにな』
「じゃあまさか、リーネさんは攫われたんじゃなくて、わざと――」
はっと振り返った先、リーネは何事もなかったように薄く微笑んでいる。
「あんたが……呪詛使いだったのかよ!?」
「そうよ。呪詛の力は母から継いだ。――ずっと、この日を待っていた」
そう言って彼女が浮かべた笑みは、だがどこか歪なものだった。
「里が滅ぼされ、道具のように呪詛を使わされ続けた挙句に母が死に。――わたしからたくさんのものを奪ってきたあの男に、今日こそ復讐してやれる」
謳うようなその声こそ、その“誰か”に向けられた呪いなのだろう。そう思ってしまうほどに冷たく、憎しみに満ちた声。
それに意識を奪われたアルヴィーは、ゆえに一瞬忘れていた。
ついさっき、ルーファスの攻撃を躱すために、ニーナを解放したことも。
そして、その二人がまだ、呪詛に掛かったままだったことも。
『――主殿、剣を出せ!』
アルマヴルカンの声に、アルヴィーははっと我に返る。先ほど放り投げたルーファスが、戦線復帰して再び剣を振るってきた。持ち前の動体視力で何とかそれを躱し、アルヴィーはついに右腕を戦闘形態にする。右腕全体がさっと鱗で覆われ、右手がさらに節くれ立って鋭い爪を持つ異形のものとなり、そして右肩と袖の継ぎ目を突き破って形作られる、深紅の翅を持つ魔力集積器官。伸ばした右腕の手首の辺りからは、氷が爆ぜるような音を立てて《竜爪》が形を成していく。
三度剣を繰り出すルーファス――だが今度はアルヴィーも、《竜爪》で迎え撃った。ギィン、と鋭い音を立てて二振りの刃がぶつかり合う。
「……おいアルマヴルカン、これ俺の火でどうにかできねーのかよ!?」
『主殿は炎に対する耐性が飛び抜けて高いゆえどうにでもなるが、ただの人間ではな。我が炎では勢い余って身体の方まで焼き尽くしてしまいかねん。術者やそれに等しい力量の者が解呪するか、掛けられた者が自分で呪詛を跳ね除けでもしない限りは、手出しのしようがない。いくら竜とはいえ、できることとできんことはある。ましてや、こんな欠片の状態ではな』
「くそ、それじゃ駄目ってことじゃねーか!」
ぎりぎりと刃を噛み合わせながら、アルヴィーは吠える。その時、アルマヴルカンの鋭い声が聞こえた。
『――いかん! 主殿、後ろだ!』
「っ、え――」
力を込めてルーファスを突き離し、振り返りかける。瞬間。
――とす、と小さな音。
次いで、一瞬遅れて湧き起こった焼け付くような痛み。
ゆっくりと見下ろせば、左脇腹を後ろから突き通したと思しき、血に染まった細い剣身。
振り返った背後に見えたのは、ニーナの昏く澱んだ碧眼。
そして彼女がしっかりと握り締めアルヴィーの背に突き立てた、彼女の細剣だった。
◇◇◇◇◇
胸の奥で、黒い炎が燃え上がる。
父との思い出が残る丘で立つ内に、ニーナの中で突然に、《擬竜兵》への憎しみが強く燃え上がった。自分でも心のどこかで戸惑ってしまうほど、唐突に。だが深く考えようとするとなぜか思考がぼやけ、強まった憎しみに呑み込まれる。そのまま流されてしまえば良いと、誰かが囁いたかのようだった。
そして家に戻ると、テーブルの上に黒っぽいローブが置かれていた。ニーナに覚えなどなく、つまりは別の誰かが置いて行ったものだろう。常の彼女ならば当然怪しんだはずのそれを、だがその時のニーナは取り上げて纏った。そうするのが当たり前だと考えたのだ。
夕暮れ間近に、ニーナは家を出た。なぜか呼ばれたような気がして、ふらふらと王城に向かって歩いて行く。そしてその門前で、彼女は見たのだ。
憎むべき《擬竜兵》が、文官のお仕着せを着た若い女性と親しげに話しているのを。
女性はすぐに《擬竜兵》と別れ、歩き出す。するとふと、彼女がニーナを見たのだ。
――連れて行きなさい。
そうすれば、《擬竜兵》に復讐する機会をあげる――。
彼女は確かに、ニーナにそう囁いた。
それに操られるように、差し伸べられた腕を掴み、ニーナは駆け出していた。大通りから外れた脇道などほとんど通ったこともなかったが、分かれ道や曲がり角のたびに囁くような声がニーナを導く。それは、先ほど聞いた囁き声に似ていた。
そうして辿り着いた、建物に囲まれた袋小路。今までニーナに腕を引かれていた女性が、今度はニーナの手を引いて建物の一つに入って行った。階段を上り、二階へ。部屋の一つに入ると、彼女はニーナに言い聞かせた。
もうすぐここに、自分たちを追って《擬竜兵》が来る。
そうすれば、後は自由に復讐を果たせば良いと。
その言葉は、乾いた土が水を吸うように、ニーナの中に染み入った。彼女の言葉の通りに、ニーナはそこで機を窺い、《擬竜兵》が建物に入ろうとしたその瞬間を狙って、窓から斬り掛かったのだ。
何も疑問など浮かばなかった。そうすることこそが正しいのだと、ごく自然に思い込んでいた。
他のことを考える必要などない。
ただこの胸を焼く憎しみのままに、《擬竜兵》を、父の仇を、この手で――。
……だが、一方でこの心の奥、か細く囁く自分がいる。
それは本当に、自分が、そして父が望むことなのか。
自分が為すべきこと、目指すものは、もっと他にあるのではないか――と。
しかしその声はあまりに小さく細く、ニーナの中の憎しみに掻き消され。
気付いた時には、この手に愛用の剣を握り締め、身体ごとぶつかるようにして《擬竜兵》の背中に突き立てていた。
「……あ」
両手に伝わる手応え。眼前で《擬竜兵》の脇腹にじわりと広がる黒ずんだ紅、鼻腔に届く血臭。振り返った彼の朱金の瞳が、確かにニーナを捉えた。
――わたしは今、何をした?
思考がわずかにクリアになり、自問する。その時、両肩に手を置かれた。
「……良くやったね。――でももう少しだけ、役に立って貰う」
その声と同時に、肩に置かれた両肩から、“何か”が自分の中に流れ込んでくるのを感じた。
「あ……っ!」
胸を焼く憎しみよりももっと昏い黒い、“何か”。身震いするほどにおぞましく、今にも足が崩れそうに重い“それ”が、ニーナの中を通り過ぎ、手にした剣を通して目の前の《擬竜兵》に向けて流れて行くのを、彼女は奇妙にはっきりと感じた。
「……な、に……」
「正攻法じゃ、どんな呪詛も彼の炎に焼き尽くされてしまう。でも、あなたを介して体内に直接呪詛を送り込めば……思った通り、これなら返せないみたい。今呪詛を跳ね返せば、呪詛はわたしより先にあなたに返るから。これだけの呪詛が跳ね返れば、あなたはただじゃ済まない」
耳元で囁かれた声に、ニーナは息を呑んだ。
(……わたしの、ため?)
剣の柄を固く握り締めた両手から、力が抜ける。それでも自分の裡、未だ燃える憎しみの炎が叫ぶ。迷うなと、父の仇を討てと。
その時――眼前の《擬竜兵》が左手で剥き出しの剣身を掴んだ。握り締めたその掌が切れ、血が滲むのも構わず、彼はそのまま剣身を脇腹から引き抜く。ほんの一瞬鮮血が溢れ出すが、その勢いはすぐに弱まり、やがて傷そのものが完全に塞がった。その一部始終を、ニーナは息を詰めて見つめる。
そんな彼女の剣を握る手を、身体ごと振り返った《擬竜兵》の右手が掴む。人間のものからはかけ離れた異形のその手は、だが人のそれと同じ温度を持っていた。そのことが、ニーナの心に驚愕をもたらす。
呪詛の影響か、その顔を苦痛に歪めながらも、炎を閉じ込めたような朱金の双眸が、真正面から彼女を射抜いた。
「――憎しみとか恨みは、杖みたいなもんだって……一時縋るにはいいけど、縋り続ければ自分の足が弱って歩けなくなるって……イズデイル三級騎士が、そう言ってた」
彼が紡いだ名前に、ニーナは目を見開く。
ダニエラ・イズデイル。ニーナの上司であり、騎士として目指す先にいる先達だ。
そして、かつてはニーナの父に指導を受けたという彼女は、ニーナにとって父の記憶を共有できる相手でもあった。
「あんたは、立ち上がるためにその力を借りることはあっても……それに縋り続けるほど弱い娘じゃないって。――信じてるって……あの人はそう言ってたぞ……!」
「――――!」
言葉を失い立ち尽くすニーナに、朱金の瞳が、その燃える炎のような光が突き刺さる。それに圧されるように、胸の中で荒れ狂っていた暗い炎が、勢いを失い小さくなっていく。
知らずわずかに後ずさったニーナを真っ直ぐに見据えて、《擬竜兵》は――アルヴィー・ロイは言葉を継ぐ。
「俺を刺してそれで気が済むなら……それでもいい。――けど、それで終わらせるな。自分の足でちゃんと立って、立ち上がってみせろよ……! あんたはファルレアンの騎士だろうが、ニーナ・オルコット四級騎士!!」
掠れたその叫びに、今の今までニーナの思考を遮っていた薄い霧のようなものが、一気に晴れた気がした。
――そうだ。自分は騎士として国に剣を捧げ、国の剣として盾として歩むと決めた。
その先にいる、父の背中を目指して。
「……あ……」
胸の中で燃える炎が、その色を変えていく。
自身の中に流れ込んでくる呪詛の奔流が、ふと弱まった気がした。
「――しまった! 呪詛が……!」
焦った声と共に、肩を掴む手の感触が消える。だがニーナはもう、それすら気にしていられなかった。行き場をなくした呪詛が、彼女の中で荒れ狂う。それに負けないように、押し潰されてしまわないように、ニーナは自らを奮い立たせて両足を踏みしめる。
「――わたし、から……出て行けええぇぇっ!!」
咆哮。
その瞬間、本当に自分の中から“何か”が飛び出していくような感覚を、ニーナは感じた。
そして――夕日よりもずっと眩しい朱金の炎が、自分の周囲を巡るように渦巻く。視界を埋め尽くすその炎の美しさに、なぜか泣きたくなるほどの安堵を覚えながら、ニーナは意識を手放した。
◇◇◇◇◇
「……やった、か……」
荒い息をつきながら、アルヴィーはニーナの様子を確かめる。意識を失ったのは、今まで呪詛で操られていた消耗と、それを跳ね返した際の反動のようなものだろう。だが呼吸は落ち着いているし、苦しげな様子もない。それに安堵して、そして足の力が抜ける。
「ぐっ……!」
崩れるように片膝をつき、胸元を押さえる。ニーナを通して、かなり強い呪詛を体内に送り込まれた。跳ね返したり焼き尽くしたりすれば、反動は術者のリーネではなく、媒介とされているニーナをまず襲う。アルマヴルカンにそう忠告されたアルヴィーは、呪詛を受け入れることを選んだ。
だがその状態で、ニーナが弾き出した呪詛を焼き尽くしたのだ。それは予想以上にアルヴィーに消耗と苦痛を強いた。
コツン、と足音。のろのろと見上げると、もうほとんど夕日の光を失った残照の中、リーネがこちらを見下ろしている。
「大したものね。あれだけ呪詛を送り込んだのに、まだ他人の面倒を見る余裕があったの?」
「……余裕どころじゃ、ねーよ……ただ、俺の方が頑丈だからな……」
「ふふ、男の子ねえ。嫌いじゃないわよ、そういう意地っ張りなの」
場違いなほどに明るくクスクスと笑うと、リーネはニーナに歩み寄る。はっとしたアルヴィーだったが、リーネはもう彼女に手を出す気はないようだった。ただ、屈み込んでニーナが羽織っていたローブを脱がせると、それを手に立ち上がる。
「――さ、それじゃ行かないと」
リーネが促すように手を振ると、ルーファスがふらりと歩み寄って来た。だが彼は、まだリーネの呪詛の支配下にあるらしい。灰色の瞳には光がなく、先ほどまでのニーナのように昏く澱んでいる。
「あなたにはもう少し、付き合って貰わないと。――彼を運んで。逃がさないようにね」
ルーファスはかすかに頷くと、剣を抜いた。そしてやおら、その柄頭でアルヴィーの側頭部を打つ。
「…………!」
視界がぶれ、ぐるりと回る。《擬竜兵》である以上、こうした打撃にも常人よりは強いが、あくまでも身体の構造は人間のそれなのだ。強く頭部を揺さぶられ、脳震盪を起こすのは避けられなかった。しかも今は、呪詛で相当に消耗を強いられている最中だ。
倒れ込むアルヴィーをルーファスの腕が支える。その頭から、リーネが先ほど取り戻したローブを被せた。そのままルーファスがアルヴィーの身体を肩に担ぎ上げる。まだ意識までは失っておらず、アルヴィーは小さく呻いたが、目が回って脱出はおろか、まともに立つことすらできないだろう。
「さ……行きましょう」
リーネが歩き始めると、ルーファスもそれに続く。彼らは大通りを避け、細い裏通りや脇道を選んで貴族の邸宅が建ち並ぶ区画を目指した。どうやら騎士団も動き始めたらしく、大通りの方は騒がしくなりつつある。それを横目に、二人は人目を避けるようにして住宅街に入ると、とある邸宅の裏口に回った。裏口にも使用人がいて目を光らせていたが、リーネが一声かけると扉を開け、二人を中に招き入れる。
……だが、二人を通した使用人が、念のために外を覗いて人目がないことを確かめた際、その足元をすり抜けて中に入った小動物の存在に、彼は気付かないままに扉を閉めた。
中に入ると、リーネはまず館の端の、使われていない部屋にルーファスを伴った。中には小さなベッドが一つ。そこにアルヴィーを寝かせるようルーファスに指示し、リーネは使用人を呼ぶ。老齢の、この館の先代当主に仕える使用人は、心得たように頷くと、自分の部下を何人か呼び集めた。それを確かめ、リーネはルーファスに掛けた呪詛を解呪する。
途端に糸が切れたように倒れ込んだ彼を、使用人が二人掛かりで抱えて部屋から連れ出す。残りの使用人にアルヴィーの見張りを言い付けると、リーネは部屋を出て歩き出した。もう何度となく歩いた廊下を、足早に進む。目指すはこの館の先代当主の寝室だ。
目当ての部屋に辿り着き、豪奢な扉をノックすると、待ちかねたように返事がある。リーネは扉を開け、室内に足を踏み入れた。
室内は変わり映えもなく、贅を凝らした調度品に囲まれ、天蓋付きのベッドが一つ。そこにはこの館の先代当主、そして彼女に《擬竜兵》を手に入れるよう命じた主が横たわっている。
リーネはベッドに歩み寄り、口を開いた。
「長らくお待たせして申し訳ありません。――ようやく、《擬竜兵》の身柄を手に入れました」
それを聞いた瞬間、ベッドの主は目を見開き、そして顔を歪めた。笑顔のつもりなのだろう。
「おお……! ついに、ついに手に入れたか……! こ、これでようやく、《擬竜兵》の血と力が儂のものに……!」
爛々と双眸を光らせ、男はリーネを見た。
「良くやったぞ……! さすがは儂の――」
そこまで言いかけ、男は激しく咳き込む。ややあって荒い息をつきながら、男はわずかに身を起こした。リーネがそれを助ける。
「……これで我が家も……このブライウォード侯爵家も、かつての威光を取り戻す……! この儂がもう一度、この国を動かすのだ……!」
欲望に満ちたその言葉を、リーネは冷ややかな笑顔で聞き流す。
彼女の表情には気付かず、男は常にない優しげな声でリーネに告げた。
「良くやった……おまえには何か褒美をやらねばな。何が望みだ?」
リーネは先ほどの冷ややかな表情を隠し、微笑む。しかしその双眸は、やはり氷のように冷たかったが。
(わたしの望みなど、前から一つだけ……それも、もうすぐ叶う。――今の内にせいぜい、夢を見ているといい)
内心でそう嘲りながら、彼女は口を開いた。
「そうですね……少し考えさせていただきます。構いませんでしょう?――ねえ、“お父様”?」




