第21話 夕闇の中で
またしても遅くなって申し訳ありません。第21話、何とか投稿です。
あと、ブクマが増えててうはうはです。小説情報あんまり確認してなかったから気付かなかった……orz
ブクマ入れて下さった方、どうもありがとうございます。
日が落ちる頃、アルヴィーとルシエルは街に繰り出すべく、クローネル邸を後にした。
貴族の館での食事というのは、例え家族だけの内輪のものであっても、そこそこ改まった服装で食堂に勢揃いして、執事や従僕たちの給仕を受けながらのものとなる。もちろんテーブルマナーは基礎中の基礎。アルヴィーにはあまりにも気詰まりだし、そもそも平民である彼は、いくらルシエルが招いた客といえども、その席に同席するのは難しい。ならばと、王都の店を案内するのも兼ねて、ルシエルの気に入りの店で外食しようということになったのである。ちなみにフラムは、すっかりメイドたちの人気者と化していたので、ちょうどいいとばかりに置いて――もとい、彼女たちに任せて来た。今頃は、夕食のお零れを頂戴していることだろう。
「――すっげーな、もう日が落ちたのにまだ明るい」
王都ソーマの夕景に、アルヴィーは感嘆の声をあげる。日没後の街は、日中とはまた違った顔を見せ始めていた。通りの両側には一定間隔で、建物の二階ほどの高さの支柱にランタンが掲げられ、軒を連ねる店の軒先にもランプが灯されて、遠目から見るとまるでオレンジ色の星が地上に降り注いだかのようだ。
「レクレガンでは見なかったの? こういうの」
「あー、訓練で一杯一杯だったしなあ。夕方なんてもう、飯食ってベッドにぶっ倒れてたぞ」
正直、レクレウスの王都・レクレガンを歩いた記憶はほとんどない。というか、練兵学校時代はおいそれと外出もできなかったのだ。ゆえにアルヴィーは、こういった光景を見るのは初めてといっても良かった。
「あの明かりってどうなってるんだ?」
「あれは専用の固形燃料があるんだよ。それに火を点けて、日付が変わる頃まで灯しておくんだ。街灯の場合はちゃんと火を管理する人がいて、その人が燃料の交換なんかもしてるよ。大体、一人か二人で通り一つを管理してる。さすがに、大通りにしか街灯はないけどね」
「へえ……」
幻想的な光景にも、相応の労力が払われているらしい。
ともかくも、二人はルシエルがよく立ち寄るという店に向かった。それほど堅苦しい店ではないということで、二人ともそれなりにラフな装いだ。もちろん見苦しく着崩しているというわけではないが。ルシエルはそれに加え、細身の装飾剣も腰に帯びている。とはいっても、文字通りの飾りというわけではなく、最低限の戦闘はこなせる程度の剣だ。
「――ここだよ」
ルシエルが足を止めて指し示したのは、一軒の料理店だった。といっても腰が引けるほど高級な店構えというわけでもなく、主な客層はやや懐に余裕のある平民といった感じらしい。聞けば、任務などの帰りにふらりと寄ることもあるため、これくらいの店の方が気楽なのだそうだ。何よりここは料理と酒が美味いと評判で、ルシエル以外にも身分を伏せてひっそり利用する貴族出身者がちらほらいるらしい。
扉を開けて中に入ると、店内には明るい喧騒が満ちていた。だが奥に入ると、その喧騒もあまり気にならなくなる。奥まったテーブルを確保すると、早速注文を聞きに来た給仕に軽い飲み物と肉料理、サラダなどを注文した。アルヴィーは勝手が分からないので、ルシエルにお任せだ。
こういった店すら経験のないアルヴィーは、物珍しく周囲を見回す。木で骨組みを組み、その間に白っぽい土(おそらく混ぜ物をしているはずだが)で壁を造った建物の中は、一階がほぼぶち抜きで店舗となっていた。床は土間だが、二階を支える柱の周囲を除き、割った石を埋め込んで石畳のようにしている。柱にはランプが取り付けられ、店内に適度な明るさをもたらしていた。店舗の面積の三分の一ほどは厨房。残るスペースにはテーブルと椅子が置かれ、給仕の男女がその合間を魚のように器用に動き回っている。店内には食欲をそそる料理の匂いが漂い、大きく開けられた窓から外へと漂い出して、それがまた客を引き寄せていた。
しばらく待っていると、まずは飲み物が運ばれて来た。大陸でも割とお馴染みの、レムルという果実の搾り汁に蜂蜜を加え、湯で割ったものだ。飲んでみると甘酸っぱく爽やかな風味が喉を通り過ぎていったが、少し酒精も入っているらしく、腹の底がほわりと温かくなる。食前酒代わりというところか。
「あ、美味い」
「ちょっとお酒入ってるけど、これくらいなら大丈夫だよね?」
「ああ、もっときついの飲んだこともあるしな」
この程度なら、村で年に一度行われていた村祭りで振る舞われる酒や、消毒・気付けのために狩りの際持ち歩いていた酒に比べれば、酒とも呼べないレベルだ。
飲み物片手に話していると、やがてメインの肉料理とサラダがやってくる。肉料理は兎の肉に根菜とハーブを詰めて蒸し焼きにし、塩と少しの香辛料で味を調えたものだ。まず肉料理を切り分けて口に入れると、柔らかい歯応えと共にじゅわりと肉汁が染み出し、調味料のピリッとした辛さや根菜のほのかな甘みと混ざり合って、舌を楽しませてくれる。中でもアルヴィーが感心したのは、肉の処理をきちんとしていることだった。動物の肉というのは、早めに血や内臓を取り除いてしっかり処理をしないと、どうしても生臭さが残ってしまう。ましてアルヴィーは元が猟師なので、特にその辺りに目が行ってしまうのだ。
「これ美味いな!」
「僕もここの料理は気に入ってるんだ。店の雰囲気もいいしね」
確かに、客層のせいか堅苦しくもなく、さりとて下品な騒がしさもない絶妙な賑わいで、居心地の良い店だ。
続いてサラダを口に運ぶ。瑞々しい新鮮な野菜はシャキシャキと良い歯応えで、染み出した水分が掛かったソースを程良く薄めてちょうど良い味わいとなる。また、こちらにもレムルの実の細切りが入っており、その酸味が味に変化を付けるアクセントとなっていた。
料理と店の雰囲気を楽しみながら談笑していると、
「――あら?」
ふと、聞き覚えのある声が聞こえた。
「ん?」
そちらを見ると、栗色の髪の小柄な少女の姿。
「あ、確かルシィのとこの」
「シャーロット。君も食事に?」
「はい。家族と一緒に」
ルシエルの問いに笑顔で頷くシャーロット。確かに、彼女の傍には両親らしき男女と、弟なのか十二、三歳くらいの少年がいる。と、その少年がシャーロットの背後でこっそり口を開いた。
「……つーか姉ちゃん、せっかくだから今日は自分が晩飯作るって言って失敗、」
それをぶち切るように、笑顔のままのシャーロットの踵が少年の脛に綺麗に入る。少年は悲鳴をあげて飛び上がり、両親は何やら遠い目をしていた。ついでにルシエルも、何か思い当たるところがあるのか明後日の方に視線を飛ばしている。アルヴィーとしては非常に気になるところだったが、にっこりいい笑顔のままのシャーロットを前にそれを問う勇気はなかった。
「隊長の前で失礼でしょう、レオナルド」
「……まあ、久しぶりのご家族との食事だろう。楽しむといいよ」
「はい、ありがとうございます」
「娘がいつもお世話になりまして」
彼女の両親も、ルシエルに対して丁重に挨拶した。何しろ、騎士団で隊長と呼ばれるというのはすなわち貴族の出と同義だ。ルシエルもそういった対応には慣れているのか、鷹揚に頷く。
「こちらこそ、彼女には良く補佐して貰っている。――それはそうと、早く席を決めた方がいいよ、シャーロット。そろそろ混み出す頃だ」
「そうですね。では、お言葉に甘えて失礼します」
一礼し、シャーロットは家族と共にテーブルを離れた。
「……なあルシィ、さっきのあれ、何だ?」
「いや……とりあえず僕の口からはちょっと……」
ルシエルに尋ねると思いっきり目を逸らされた。余計に気になるが、こうなっては彼は口を割るまい。ひとまず諦めることにした。
ちょっとした謎は残ったが、食事自体は満足の内に終わる。そろそろクローネル邸に戻ろうかと席を立つ――まさにその時、少し離れたテーブルで怒声が巻き起こった。
「何だ?」
アルヴィーはそちらを見、そしてはっとした。
「ルシィ、あれ――」
彼が指差した先、流れの傭兵か何かか、お世辞にも上品とはいえない風体の三人組の男たちが、あるテーブルを囲んでいる。そこにはさっき別れたばかりのシャーロットとその家族が席に着いており、その傍に給仕の女性が怯えた様子で立っていた。どうやら、シャーロットたちのテーブルに注文を聞きに来た給仕の女性に、たまたま行き合わせた酔っ払いの男たちが絡んだらしい。
「――だぁから、仕事なんか放っといて俺らと遊ぼうぜって言ってんだろ?」
「そうそう、いい思いさせてやるぜぇ?」
男たちの体格の良さと下卑た物言いに、給仕の女性は半分泣きそうだ。と、
「いい加減にしてください。せっかくの食事が台無しになります」
シャーロットが立ち上がり、女性を庇うように進み出る。男たちはニヤつきながら、彼女を見下ろした。ただでさえ大柄な男たちと小柄なシャーロットでは、二回りではきかないほどの体格差がある。そのため、男たちも彼女を華奢な少女と高を括っているのだ。
「何だ? お嬢ちゃんも相手して欲しいってか?」
「いや、でもよ……」
一人がしげしげとシャーロットを――正確にはその、ややスレンダーな胸の辺りを見やり、そして言い放った。
「胸がこれじゃなあ。全然そそらねえぜ」
……ぶっちーん、と。
何かがぶっちぎれるような音を、アルヴィーとルシエルは確かに聞いた気がした。
「……ふ、ふふふ」
シャーロットが肩を震わせる。握り締められた拳がみしり、と音を立てたのは気のせいだと思いたい。
「確かにわたしは、同年代の子たちに比べればちょっと、ほんのちょっと胸が慎ましやかかもしれませんが」
口元は確かに笑みを形作っているのに、彼女の双眸は欠片ほども笑っていなかった。むしろ人の一人や二人殺っちゃっていそうな目つきである。辺りは気分的に氷点下だ。
「人間未満の猿もどきどもに馬鹿にされる筋合いはありませんよええまったく毛筋ほども。乙女の胸を視姦した挙句に馬鹿にするなど万死に値する蛮行です。いいでしょう表に出なさいその喧嘩言い値で買って差し上げます」
一文ごとにノンブレスでまくし立てたかと思うと、シャーロットは一番手近な男のベルトをむんずと掴み、右手一本で冗談のように軽々と持ち上げた。何しろ彼女は外見に似合わず、バルディッシュを軽々振り回し小隊前衛を担うパワーファイターなのだ。そんな彼女にとって、筋骨隆々の男といえど人を一人持ち上げる程度、軽いものである。――まあ、ベルトを掴んだのは身長差があるため胸倉掴んで吊り下げるのが難しかったからだが、その辺りは臨機応変だ。
「え、は、おおっ!?」
自分の半分ほどしか体重がなさそうな小柄な少女に持ち上げられ、男はとっさに事態が理解できず間の抜けた声をあげた。周囲の客たちも目を剥いたが、シャーロットはどこ吹く風で男を“持った”まま店の入口へと歩き始める。
「……ま、待ちやがれ小娘ェ!」
残る二人もあまりの光景にぽかんと突っ立っていたが、はっと我に返って二人してシャーロットを追いかけようとした。
そこへ、
「――せーの!」
「あらよっ!」
右がルシエル、左がアルヴィー。二人はさすが幼馴染と言いたくなるほど息もぴったりに、男たちの足下を掬うように足を引っ掛ける。
「うおっ!?」
見事引っ掛かってすっ転ぶ男たち。その胴体に、屈み込んだアルヴィーが腕を回すと、
「よっ」
と一声、ひょいと持ち上げたのである。一人頭八十グラントは下らないであろう体重の成人男性を、二人いっぺんに。
「んなっ!?」
「お、おい、何だよこいつ――!」
シャーロットほどでないとはいえ、アルヴィーも傭兵の男たちに比べれば格段に細身だ。そんな彼が、小麦の袋でも担ぐように大の大人二人を両肩に軽々担ぎ上げると、二人が暴れるのも意に介さず、危なげなど微塵もない足どりで歩き出したのだから、周囲の客たちはさっきのシャーロットの時以上に目を引ん剥いた。
「こいつら外に放り出しゃいいんだろ? 手伝うぜ」
「ああ、どうも。助かります」
だが当のシャーロットはアルヴィーの常人離れした膂力を知っているので、彼の申し出にニッコリ笑って出入口の扉を開ける。二人して店の前の石畳に男たちを放り出すと、シャーロットがイイ笑顔でぼきり、と指を鳴らした。
「さあ……どうしてくれましょうか」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
「悪かった、謝るからよ!」
さすがに酔いも吹っ飛んだか、男たちはへたり込んだまま尻で後退る。酒精に浸かった頭でも、自分たちを軽々と持ち上げた相手――しかも素面――とやり合うのは無謀だということくらいは理解できたのだろう。
と――アルヴィーの耳に、彼にしか聞こえない竜の声が響いた。
『主殿、上だ』
「え?」
反射的に見上げた頭上の屋根、夕闇の空を背景に、わずかに周囲とは違う“黒”。それが黒いローブを纏った人影だと悟った瞬間、アルヴィーはシャーロットの腕を引き、自分の背後に庇っていた。
「あいつ……! こないだの呪詛使いか!?」
「え、ちょっと、何ですか――」
とっさに事態が呑み込めず、シャーロットが声をあげる。だがそれに答えるより先に、その人影は身を翻し、屋根の上を駆け出した。
「この――待ちやがれっ!」
アルヴィーも弾かれたように駆け出す。そしてそれを助走に踏み切り、手近にあるランタンを設置した支柱の天辺に飛び上がると、さらにそこから屋根の上に飛び乗った。猫のような身軽さと身体能力に、さしものシャーロットも追い付けない。
「――シャーロット、アルは?」
そこへルシエルが店から出て来た。アルヴィーとシャーロットがいるなら酔っ払った傭兵くらいどうとでもなるだろうと、そちらは二人に任せて会計を済ませていたのだが、いざ店を出ると当のアルヴィーが見当たらない。不審に思ってシャーロットに尋ねたが、次の瞬間仰天することになる。
「それが、屋根の上にいた不審人物を追って行ってしまって……呪詛使いと、彼は言っていましたが」
「何だって!?」
「あちらへ向かいました」
「分かった、僕はアルを追う。シャーロットはここでそこの連中の確保と事情聴取を。おそらく呪詛使いに関係はないが、一応形だけでも聴取が要るだろう。頼む」
「はい、承知しました」
シャーロットにその場を引き継ぎ、ルシエルは彼女が指し示した方へと駆け出す。内心で舌打ちしながら。
(しまった、《イグネイア》があれば……今の剣じゃ多分、呪詛には通用しない。万一の場合は、魔法でアルの援護に徹するしかないか)
タイミングの悪さを悔やみつつも、彼もまた身体強化魔法を起動し、手近な支柱を足掛かりに屋根の上へと飛び上がるのだった。
――人影を追って屋根に飛び上がったアルヴィーは、深まりつつある夕闇に目を凝らす。《擬竜兵》の視力は、そんな中でも翻る黒いローブを捉えた。
「待ちやがれっ!」
屋根を蹴り――もちろん踏み抜かない程度には力をセーブしたが――そちらへと駆け出すアルヴィー。だが相手も身体強化の魔法でも使っているのか、屋根から屋根へと飛び移って逃走を続ける。とはいえ元の地力の違いはやはり大きく、アルヴィーが確実に距離を詰めていった。
と、人影が足を止め、こちらに向かって何かを投げた。反射的に《竜の障壁》で防御する。
それは、小さな壺だった。《竜の障壁》に跳ね返り、屋根に落ちると小さな音を立てて割れ――次の瞬間、その中から黒い靄のようなものが噴き出す!
「何だこれ!?」
『ふむ、あれも呪詛の一種のようだ。ごく弱いもののようだが、人間にとっては毒を撒いたようなものだな』
「げっ! それまずいだろ!?」
『慌てずとも、この間のように焼き払ってしまえば良い』
「あ、そっか、そうだな」
アルヴィーは右手に炎を生み出す。それは見る間に渦を巻き、壺から噴き出す黒い靄を呑み込んでいった。時折ぱちぱちと小さな火花が散るのは、ある意味魔法のぶつかり合いのようなものだからか。だが両者の力の差は圧倒的で、炎は広がりつつあった靄全体にあっという間に燃え広がり、一瞬で焼き尽くしてしまった。
「……どうだ? まだ残ってるか?」
『いや、それらしき気配はない。すべて焼き払ったと見て良かろう』
「そっか……」
ほっと息をつき、アルヴィーは人影があった辺りを見やる。当然のことながら、そこにはもう人っ子一人いなかった。
が。
「……ん?」
ふと何か白いものが視界を掠めた気がして、アルヴィーは目を凝らす。そこへ行ってみると、屋根の上に落ちていたのは白っぽいハンカチだ。しかもその隅には、何やら紋章のようなものが縫い取られていた。獅子の横顔に重なるように槍が斜めに配され、背後に横線が描かれたデザインだ。もっとも、紋章の知識などないも同然の彼に、それがどの貴族を表すのかなど分かるわけがない。
(……後でルシィに見て貰うか)
即座に丸投げを決定し、アルヴィーはそれを拾い上げた。
「――アル!」
と、そこへタイミング良く、ルシエルが駆け付けて来る。
「大丈夫!? さっきこっちで何か燃えてるみたいだったけど、一体何が――」
「あ、それは大丈夫だけどさ、これ……」
アルヴィーは先ほどの一部始終をルシエルに話し、ハンカチを見せる。隅の縫い取りを見たルシエルは、眉を寄せて記憶を探っているようだったが、
「……多分、ブライウォード侯爵家の紋章だと思う。僕もそう詳しいわけじゃないけど、翼のない獅子を紋章に使えるのは侯爵家だからね。カルヴァート家は鷲に剣と杖の交差だし、他の侯爵家もそれぞれ違う図案を使ってたはずだ。辺境伯以下は家の数が多いから、紋章の図案が多少被ることもあるけど、侯爵家以上は数が少ないから被りはほぼないと思っていい」
「へー……あ、でもそういやそんな紋章だっけ」
従騎士の短剣の柄の紋章を思い出し、アルヴィーも納得した。そういえば確かに、短剣の紋章には鳥が描かれていた気がする。ちなみにルシエルの説明によると、剣や槍などの武器は武勇を、杖は魔法士の血筋であることを示すらしい。
「とにかくこれは、カルヴァート大隊長に報告しないと。そこの壺の破片も、研究所辺りで調べて貰えば、何か分かるかもしれない」
ルシエルがそう言うので、屋根に散乱した壺の破片もできる限り拾い集めた。一応靄はすべて焼き払ったといっても、万が一破片に残滓が残っていたらまずいので、拾って持ち歩くのはアルヴィーが買って出る。もちろんルシエルは渋ったが、呪詛への耐性は圧倒的にアルヴィーの方が高いのは彼も分かっていたので、仕方なく折れた。
「……もうそろそろ行こう。さっきの火、下の通行人にも見られてた。騒ぎになる前に下りないと」
ルシエルにそう言われて下を見ると、確かに人が集まり始めている。変に騒がれるのは真っ平だったので、二人は可及的速やかに移動し、目立たなさそうなところから地上に下りた。
「アル、悪いけど今から騎士団の本部に行こう。さっきの件、報告は早い方がいい。今、家から馬車を呼ぶから」
ルシエルは自宅に向けて《伝令》を飛ばした。ここはクローネル邸からもそれほど遠くはない。そう長く待つ必要はないだろう。
「え……馬車って、んな大層なもん俺乗らなくていいって。つーか俺だったら走った方が多分早い――」
「アル?」
にーっこり。
護送の馬車ならともかく、貴族の家紋入りの馬車など乗れないと腰が引けかけた小市民なアルヴィーだったが、ルシエルの微笑に口を噤む。これはアレだ。逆らってはいけない笑顔というやつだ。
こうして十数分後、アルヴィーは人生で初めて、家紋入りの馬車に乗り込む羽目になるのだった。
◇◇◇◇◇
王城の一角には、膨大な蔵書を誇る図書室がある。大広間といっても良い広大な空間に、書架が森の木々のごとくずらりと並び、壁面も本棚と背表紙で埋め尽くされた光景は、いっそ壮観だ。本を探す身には難易度無限大の迷宮のようなものだが。
本日のジェラルドも、そんな本の迷宮に挑まんとする一人だった。
「相変わらず無駄に本が多いな、ここは……」
図書室という概念そのものに喧嘩を売るような愚痴を零しつつ、ジェラルドは手にしたランプを掲げる。とはいっても、可燃物しかないようなこの場に火を使うランプなど持ち込めるはずもなく、これは魔力で明かりを灯すタイプのものだ。
もう日も落ちて久しいこんな時間に彼が図書室に来たのは、サミュエルから仕入れた情報の裏付けのためだった。彼の言うネズミこと、研究所に侵入を試み侵入防止機構の餌食となった不審者たちを尋問した結果、いくつかの貴族の名が出てきたという。そこで、それらの貴族について調べると共に、呪詛使いとの接点がどこかにないか調べるため、呪詛関連の書物も探すつもりだった。時間が時間だけに司書には渋い顔をされたが、カルヴァート家の名の威力か、司書は最低限の注意事項を述べただけでジェラルドを通した。
しかしこの図書室は、聞きしに勝る規模である。早くも意欲が減退してくるのを感じ、ジェラルドはげんなりと書架の森を見やった。
と――その一角にちらりと、明かりのようなものを見た気がして、彼は少し眉をひそめる。そして、ずかずかとそちらへ向かって歩いて行った。
「――誰かいるのか?」
そう問うと、答えはすぐに返った。
「ああ、カルヴァート大隊長。こんな時間に調べ物ですか?」
書架の間に置かれた肘掛け椅子に座り、傍の小さなテーブルにランプを置いて本を読んでいたのは、一人の青年だ。さらりと揺れる黒髪に、灰色の瞳。旧ギズレ領攻防戦でも活躍した、シルヴィオ・ヴァン・イリアルテだった。
「イリアルテか。国境組は休暇のはずだろう?」
「本に囲まれてた方が落ち着くもので。ここは実家の書庫と似ていますし。王都の別邸にもそれなりの書庫はありますが、やはり領地と比べると見劣りしますからね」
「ああ……そういえばイリアルテ家の蔵書は王家にも劣らないって噂だな」
シルヴィオの実家・イリアルテ伯爵家が治めるイリアルテ伯爵領は、国を南北に横切る大河ルルナ川の中流域に位置する。領都ケリュケイオンは川に近い立地を利用した水運交易の要所だが、そこはもう一つ、王都と対をなす学問の都としても名高かった。領主であるイリアルテ伯爵家は先祖代々本の虫として知られ、その館には他に類を見ない規模の書庫――というかもはや図書館といって良い広さらしい――があり、膨大な数の書物を所有しているという。その中にはここ王城の図書室にすらない稀覯本も多数存在し、それを目当てにケリュケイオンを訪れる学者も珍しくない。そんなイリアルテ伯爵家は、その本の虫ぶりから“書の番人”と称されることもあった。
「お付きはどうした」
「カシムのことですか? あいつは長時間本に囲まれてると頭痛がするとかで、どこか余所で羽を伸ばしてると思いますよ」
ぱらり、とページをめくり、切りの良いところまで行ったのか、シルヴィオは栞を挟んで本を閉じると、ランプを手に立ち上がった。
「――それで、カルヴァート大隊長はどんな本をお探しですか? この図書室には多少詳しいですし、良ければお手伝いしますよ」
せっかくのシルヴィオの申し出なので、彼も巻き込んでしまうことにする。探すのは貴族関連の書籍や呪詛についての資料だ。それを聞いたシルヴィオは、思い当たったように頷いた。
「それなら確か、こっちの方にありましたよ」
「よく覚えてるもんだな、これだけ本があるってのに」
「ここの本はちゃんと分類されてますからね」
分類されていても門外漢にはやはり迷宮でしかないのだが、シルヴィオにはその分類だけで充分な道標となるらしい。すいすいと書架の間を抜けて行き、一つの書架の前で立ち止まった。
「国内貴族の名鑑や歴史書なんかはこの辺りですね。取り潰された貴族に関する書籍なんかは向こうの、閉鎖書架にあるそうです」
「いや、そっちはひとまず関係ないはずだ。――しかしここだけでも、大した分量だな」
そそり立つ壁のような書架と、そこにびっちり詰め込まれた背表紙に、ジェラルドはうんざりした顔になる。
「まあ、この辺りのほとんどは歴史書ですよ。それに、貴族名鑑や関連書籍も十年ごとに更新されてますから、最新版だけを読めば事足りるかと」
「なるほどな。幾分気が楽になったぜ……」
それでも十冊ではきかない数だが、この辺り一帯を虱潰しに読み漁るよりは格段にマシだ。ジェラルドは早速、いくつかの本を抜き出すと近くの肘掛け椅子に陣取り、ぱらぱらと斜め読みを始める。その間にシルヴィオはふらりと消え、戻って来た時には数冊の本を抱えていた。
「こっちが呪詛関連の書物や研究書籍ですね。呪詛についてはまだ未知の部分も多い術系統で、研究もそんなに進んでませんから、それ関係の本もそれほど数がないですし。一応ざっと読んで、それなりに内容のあるものだけを持って来ました」
「すまん、助かる。――だが、この短時間でそれだけの本を読んだのか?」
「斜め読みみたいなものですが。昔から本を読むのは早いんですよ」
さすがに、本の虫と名高いイリアルテ伯爵家の御曹司というところか。
シルヴィオの助力もあり、三十分ほどで十数冊の本を選び出すと、ジェラルドはそれらを借り出すため司書を探しに向かった。入口近くのスペースで机に向かっていた司書と交渉し、何とか借り出しに成功すると、本はそのまま魔法式収納庫へ。いくら何でも、十数冊もの本(しかも一冊が結構な厚みと重量)を抱えて騎士団本部までは練り歩けない。
「――職務にどうしても必要ということで今回は特別にお貸し出し致しますが、期日までには必ずお返しください。特に呪詛関連の本は、本来なら貸し出しはできない重要図書ですので」
「ああ、職務への協力に感謝する」
司書に釘を刺されつつも、ジェラルドは軽く手を上げそれを受け流すと、ランプを手に図書室を後にした。
……その後ろ姿を見送り、シルヴィオは記憶を辿る。
(貴族関連の書籍に呪詛関連か……呪詛の方は、確か実家に珍しい古文書があったな。閲覧用の写本もあったはずだ。手紙を送って、そっちを寄越して貰ってもいいかもしれない)
イリアルテ伯爵家も、それほど積極的ではないが一応《女王派》に名を連ねており、カルヴァート侯爵家との関係も決して悪くはない――特筆して親しいというわけでもないが。しかもジェラルドは、今でさえ魔法騎士団第二大隊長の地位にある上、真の実力は特級騎士クラス、いわば騎将レベルに等しいといわれる実力者だ。派閥争いに参加する気はなくとも、誼を結んでおいて損はない相手だった。
ケリュケイオンは王都ソーマから北に百ケイル近く離れているが、訓練した飛行型魔物に運ばせれば、今から手紙を書いても二時間もあれば充分に着く。魔物は鳥と違って夜目も利くので夜でも飛ばせるし、写本も急ぎ探させれば、遅くとも明日には受け取れるだろう。
そうと決まれば早い方が良い。シルヴィオは読んでいた本を書架に戻すと、急ぎ足で図書室を出て行った。
――執務室に戻ったジェラルドは、早速借りて来た本を机の上に積み上げる。パトリシアとセリオも手分けし、三人で該当する貴族の名前が出てくる箇所を拾い上げていった。
「……不審人物への尋問で名前が挙がったのはフォーブズ伯爵家、エヴァット辺境伯家、クロウライト伯爵家、グライウェッジ侯爵家……しかしやはり、決め手に欠けますね」
「それに、《擬竜兵》は竜の細胞を取り込んで不老長寿を得たのではないかという話が、一部で出回っているそうです。名前が挙がった貴族家も、その真偽を確かめるために手の者を放った可能性もあるかと」
「まあ、実際の主家の名前を言わずに、わざと余所の家の名前を喋った可能性もあるしな。それに、そいつらが呪詛使いと繋がってる確信もない。だが、呪詛ってのは魔法に比べりゃ圧倒的に継承者の数が少ないし、そっちから辿るのも不可能じゃないはずだ。呪詛関連の方にその貴族家との関連でも浮かんでくれば、一気に可能性は上がる」
例えば、呪詛の使い手や研究者がどの地方に住んでいるのか、その地方の領主は誰か。ジェラルドが調べようとしているのはそれだ。もちろん気が遠くなるような作業だが、《擬竜兵》が呪詛で何らかの干渉を受け、利用されるなどという事態にでもなれば一大事である。それを未然に防ぐためにも、これは必要な苦労だった。加えて、《擬竜兵》の主として問題への対応能力も示さねばならないため、こうして内輪での作業である。クローネル伯爵を筆頭に、アルヴィーに影響力を持ちたい貴族は少なくないのだ。そういった貴族たちに付け入られる隙を与えるわけにはいかなかった。
「……やっぱり、もう少し情報が欲しいですね」
ぱたん、と読み終えた本を閉じながらセリオがぼやく。そんな彼に、ジェラルドはふと尋ねた。
「そういえばセリオ、使い魔はまだアルヴィーの方に付けてるのか?」
「彼というか、彼の使い魔にですが。まだこれといった接触はないですね。――ただ、彼と使い魔は今、一緒にはいないみたいです」
「何?」
ジェラルドが鋭く目を細める。
「じゃああいつはどこに行った」
「街へ外食にでも出たのではないでしょうか。クローネル家は伯爵家、しかも現当主は財務副大臣です。いくら古くからの友人とはいえ、平民の少年が伯爵家の晩餐に同席はできないでしょう」
「ああ、なるほどな」
自身も上級貴族の出であるジェラルドは、パトリシアの意見に納得する。だとすると今、彼は街に出ていることになるのか。
「……呪詛使いにとっては、チャンスってことか」
「《スニーク》を呼び戻して、彼に付けますか」
「いや、よっぽど強力な呪詛でなければ、アルヴィーをどうこうはできんだろう。何しろ竜の守りがあるからな。そもそも今からじゃ、使い魔を飛ばしても間に合わない可能性の方が――」
そう言いかけた時。
「――カルヴァート大隊長、ご在室でしょうか。第一二一魔法騎士小隊長、クローネル二級魔法騎士が至急、お目通りをと……」
ドアがノックされると共に、そんな声がかけられる。ジェラルドはニヤリとした。
「ひょっとするとひょっとするぞ、これは」
急ぎ彼を通すよう指示を出し、ジェラルドは本を閉じる。程なく入室して来たルシエルと、彼に付いて来たアルヴィーが、街での呪詛使いとの遭遇の件を報告したのは、その数分後のことだった。
◇◇◇◇◇
夕闇から夜の帳へと移り変わった暗さが、人気のない通りを包んでいる。
その端を歩きながら、黒いローブに身を包んだその人物は、ローブの内側から取り出したランプに明かりを灯した。滑るように通りを横切り、貴族の館が連なる住宅地へと入って行く。その途中、懐に手を入れたその人物は、ふとその口元に笑みを浮かべた。
(……ここまでは計画通りに進んでいる。《擬竜兵》を通して、騎士団は必ずあの紋章に興味を持つはず……)
紋章入りのハンカチをあの場に落として来たのはわざとだ。むしろ、あの紋章からそれを掲げる家に目を向けて貰うため、わざわざ《擬竜兵》の前に姿を見せ、追って来させるように仕向けたのだから。
あの場では、《擬竜兵》に呪詛を掛ける気はなかった。壺に仕込んだ呪詛もごく弱いものだ。壺を投げてすぐに撤退したので、顛末を最後まで確認することは叶わなかったが、おそらく跡形もなく焼き払われたことだろう。万一跳ね返されてもこちらに反動が来ないよう、予め対策も講じてある。
そもそも生半可な呪詛では、最初の時のように呪詛ごと焼き尽くされるのが落ちだ。彼に呪詛を仕掛けるには、正攻法ではまず不可能だろう。
そう――“呪詛と分かっていても受け入れざるを得ない”状態に追い込みでもしなければ。
(案はある……そのためにも、騎士団の目をこちらから逸らしておかないと)
あのハンカチに縫い取られた紋章から、騎士団は当然、ブライウォード侯爵家に疑いの目を向けるだろう。だがブライウォード侯爵家は、国内でも八家しかない侯爵家の一角であり、《女王派》《保守派》の二大派閥のどちらからも一定の距離を置いている、いわば中立派だった。二大派閥といっても、国内貴族のすべてがどちらかに属しているわけではなく、両方から付かず離れずの距離を保っている貴族も一定数存在する。ブライウォード侯爵家はその中でも、かなり高位に位置する貴族だ。下手につつくと派閥争いにも影響を及ぼしかねないくらいの力は持っているので、騎士団もおいそれと手出しはできまい。
そしてそれこそが、この人物の狙いだった。
ブライウォード侯爵家に騎士団の注意を引き付け、その裏で《擬竜兵》への干渉を行う。そのための仕込みも、これから行うつもりだ。侯爵家にはせいぜい、騎士団に怪しまれて貰おう。表で侯爵家が疑惑を持たれれば持たれるほど、こちらは動きやすくなるのだから。
そうほくそ笑んだ時、前方に明かりを見つける。どうせならもう少しブライウォード侯爵家への疑いを強めておこうと、そちらへと歩みを進めた。
近付くと、明かりを持っているのは貴族に仕える使用人のようだ。その後ろにいるのが主だろう。彼らとすれ違いざま、よろけたふりをして危うくぶつかりかける。
「――な、何だ、どうした!?」
「ご無礼を致しました。どうぞご容赦を……」
低くそう呟き、捕まらない内に駆け出す。向かうはブライウォード侯爵家の館のある方角だ。
「待て! 若様に無礼を働いたまま逃げるなど――!」
「構うな、ぶつかられそうになっただけだろう……」
そんな声を背後に聞きながら、黒いローブの人物はしてやったりと薄い笑みを浮かべながら、夜の闇に消えていった。
「――よろしいのですか、若様。あの無礼者を捕らえずとも……」
「捨て置け。そもそも僕は魔法騎士だぞ。ぶつかられかけたくらいでいちいち目くじらなど立てていられるか。戦場では命のやり取りも珍しくないんだ。もっと気を大きく持たねばな」
「何と……さすがでございます、若様!」
「それより、早く戻るぞ。日が落ちるまでには戻ると言っておいたが、ずいぶん時間を食った。これでは久々に父上や母上と晩餐をご一緒する約束を破ってしまう」
「は、仰せの通りに」
ランタンを掲げて足を早める使用人に続きながら、ウィリアム・ヴァン・ランドグレンはそれにしても、と少しだけ振り返る。
(あの方角は伯爵家よりも家格が上の貴族が居を構える辺りだ。貴族に仕える者か、もしかしたらお忍びの貴族の誰かか……? あれだけ人目を忍んでいれば、それもあり得なくはないかもしれんが)
だが、下手に格上の貴族の裏事情などに探りを入れれば、どんな報復が来るかも分からない。それは是非ともご遠慮したいところだったので、ウィリアムはさっきのちょっとした一件を胸に仕舞い、帰宅の足を早めるのだった。
――彼がこの一件を再び思い出すのは、もう少し後のことになる。




