第18話 講義初日
特別教育の講義開始当日。アルヴィーは準備に勤しんでいた。
「えーと、教本に筆記用具、それから短剣も良し、と」
ベッドの上に必要な品を広げて確認、短剣と剣帯以外を持ち運ぶための背負い袋に仕舞う。略装は制服代わりに着て行くし、足りないものはないだろう。
彼が現在寝起きしているのは、本部内の宿舎の一室である。宿舎には従騎士用に用意されている一角があり、アルヴィーもそこを使っているのだ。お世辞にも広いとはいえないが、一人部屋で気兼ねもない。正直、村にいた頃は狩りで数日森に入り、獣に襲われないよう木の上で寝ていたこともあるのだ。それに比べれば天地の差である。
質素なベッドに寝転がり、アルヴィーはぼんやりと天井を見上げた。
(……何か、遠くまで来ちまったなあ)
あの故郷の村から、遥か遠く。もう戻る術もない故郷に思いを馳せる。
領主でさえ存在を覚えているかどうか怪しい、ちっぽけな村。村人たちのほとんどが肩を寄せ合い、額に汗して働くお世辞にも裕福とはいえない暮らし。それでも、不幸だと思ったことはなかった。
春は土に塗れながら畑に種を蒔き、夏は川辺で涼を楽しみ、秋には大地の実りに喜び、冬は家族で寄り添い合って再びの春を待つ。ずっとそうやって暮らしてきたし、これからもそれが続いていくと思っていたのだ。
――だが、もうそれはどれだけ望んでも取り戻せない。これからの自分は、《擬竜兵》としての力を揮い、戦いの中に生きることになるのだろう。
それでも、ルシエルがいるから。
唯一無二の親友。そして、今の自分が目指すべき背中。その隣に立ち彼を守るためならば、自身に宿る竜の力をいくらだって揮ってみせる。
自身の剣は、彼に捧げたのだ。
「――うっし、やるか!」
気合を入れて、アルヴィーはベッドから跳ね起きた。
「きゅっ」
すると、どこかへ出掛けると勘付いたのか、フラムが駆け寄って来て一気にアルヴィーの肩までよじ登る。
「こら、これから行くとこはおまえ連れてけねーの。おまえは留守番。ここで寝てろ」
「きゅーっ!」
せっかく枕元に籠と布で専用の寝床を作ってやったというのに、当のフラムはアルヴィーの肩の上がすっかり定位置だ。別にさほど広くも柔らかくもないのにどこが気に入ったのだろう。今もアルヴィーの肩にしがみ付いて離れない。
だがまさか講義にフラムを連れて行くわけにもいかないので、アルヴィーはその小さな身体を鷲掴みにしてもぎ離すと、小袋に詰めて口を閉めた。
「きゅー、きゅーっ!」
袋の中でじたばたもがくフラムには可哀想だが、事あるごとに肩にしがみ付かれては準備もできないので、しばし我慢して貰うことにする。フラムが出て来ない内に着替えてしまおうと、アルヴィーは従騎士用の略装を取り上げた。
ウォームグレイを基調に、縁と肩、袖口にダークグレイのアクセントが入った詰襟のジャケットと、ダークグレイ一色のスラックス。それに白のシャツの三点セットが、従騎士用の略装ということだった。温暖な気候のためか、生地は薄めだ。そして足元は脹脛辺りまでのショートブーツ。
「おっと、いけね」
が、ジャケットを着る前に気付いて、アルヴィーはシャツの右袖を捲り、長手袋をはめる。どうせすぐに素性はばれるだろうが、街中で右手を晒さないだけでも大分違うだろう。袖を戻してジャケットを羽織り、ボタンを留めれば着替えは終了。仕上げに剣帯を着けて短剣を左腰に佩く。
「……ん、こんなもんか」
身支度を終え、アルヴィーは満足して頷いた。
「……きゅうぅ……」
その時、袋の中でおとなしくなったフラムが、拗ねたように鳴く。さすがに可哀想になって袋から出してやると、とぼとぼ歩いて寝床に行き、布の間に潜り込んで不貞寝を始めた。ちょっと罪悪感を感じて指先で頭を撫でてやるアルヴィーだった。
そこへ、鐘の音が鳴り響く。それは時刻を告げるもので、朝のこの鐘が鳴れば宿舎の食堂が開くのだ。
「あ、メシ行って来よ。――おまえにも何か持って来てやるから、おとなしく待ってろよ」
フラムは元々森に住む幻獣なせいか、草食性で量もあまり食べない。サラダか何かの野菜を少し持って帰って来れば充分だろう。
アルヴィーが部屋を出て行くと、フラムは潜り込んだ布からもそりと顔を出した。ベッドの上には、教本や筆記用具の入ったワンショルダーの背負い袋。だがその口は、完全には閉め切られておらず少し隙間ができている。
「……きゅっ」
フラムの緑色の瞳が、きらりと光った。
「――おーい、おまえもメシだぞ……って、あれ?」
しばらくして戻って来たアルヴィーは、寝床にフラムの姿がないのを見て首を傾げた。今度はベッドにでも潜り込んでいるのかと毛布をめくったりもしてみたが、見当たらない。
(おっかしーなあ……どこ行ったんだ、あいつ。部屋の外には出てないはずだけど……でも捜す暇もねーしな。もうそろそろ出ねーと)
初日から遅刻もまずいので、持って来た少量の野菜はフラムの寝床に置いておくことにした。どうせベッドの下かそこらにでもいるのだろうから、置いておけば食べるはずだ。
「じゃあな、メシ置いとくからちゃんと食えよ」
そう言い置いて、アルヴィーは背負い袋を取り上げて左肩から掛けると、足早に部屋を出て行った。
……その背負い袋がほんの少し重くなっていたことに、彼は気付かなかった。
◇◇◇◇◇
特別教育の講義が行われるのは、本部から少し離れた建物だ。騎士団の本部も王城内では外郭に近い場所にあるのだが、講義棟はさらにその外側、ほとんど外郭に接している。素行に問題がある騎士の再教育や、平民出身の従騎士も参加する特別教育ということで、外郭に近い方が都合が良いというわけだ。
「うわー……ここもデカイなー」
さすがに騎士団の本部ほどではないが、そこそこ大きな建物が一つ。それを見上げ、アルヴィーはぽかんと呟いた。
「……っと、ぼさっと眺めてる場合じゃねーや。確か二〇六号講義室って言ってたよな……」
ジェラルドから聞いた受講場所は、どうやらここの二階にある講義室の一つらしい。入口の案内板でそれを確認し、階段を上る。
「二〇六、二〇六と……お、あった。ここか」
目当ての部屋を見つけ、出入口の戸をがらりと引き開けた。
「……あれ?」
そして首を傾げる。
室内はそこそこ広く、少なく見積もっても五十人ほどは入れそうだ。だが今室内にいるのは、アルヴィーを入れてもたったの三人。後の二人は、アルヴィーよりも年上の男性だった。どちらも私服姿で、明らかに一般人ではない雰囲気を漂わせている。
(ええー……)
何となく近寄り難いものを感じつつ、とりあえず彼らからは少し離れた席に座る。そして荷物を隣の椅子に置き、
「きゅっ」
……荷物の中から聞き覚えのあり過ぎる声が聞こえた気がして、アルヴィーはその場でフリーズした。
(今……何か小動物みたいな鳴き声が俺の鞄から……)
そろり、と口を開けて中を覗いてみる。
「きゅー」
袋の中で緑の瞳を輝かせる小動物に、アルヴィーは音速で袋の口を閉めた。
(こ、こいつ、いつの間に……っ!)
いないと思ったら、こっそり荷物の中に忍び込んでいたらしい。一体どこでそんな真似を覚えてきたのか。
しかし知らない内に忍び込まれていたとはいえ、講義に小動物を連れて来てしまったのはよろしくない。アルヴィーはとにかく、フラムが袋の中で騒ぎ出さないように祈るしかなかった。
「――諸君、揃っているな。結構」
その時がらりと戸が開き、二人の女性騎士が入室して来る。三十に届こうかという年頃の女性と、アルヴィーと同年代ほどの少女。その内の年嵩の方、淡い栗色の髪をベリーショートにし、騎士団の制服を一分の隙もなく着こなした女性は、教壇に立つと銀にも見える薄蒼色の鋭い瞳でぎらりと受講生たちを見渡した。
「わたしが諸君らの講師を務めるダニエラ・イズデイル三級騎士だ。諸君らはいずれも他国出身で我が国の歴史・文化には疎いと思われるため、一般教養に加えてそれらの科目の講義も行う。なお、彼女は講義助手のニーナ・オルコット四級騎士だ。歴史・文化教養の講義は彼女が担当する。わたしもそう毎日身体が空くわけではないのでな」
紹介された少女騎士は、感情の窺えない碧の瞳で受講生たちを眺めた。蒼い髪を左右一房だけ伸ばして後は肩口で切り揃え、こちらも騎士団の制服をきっちりと身に纏っている。
と――アルヴィーと目が合った瞬間、彼女の目がわずかにすがめられた。刺すような視線。それにアルヴィーは覚えがある。旧ギズレ領攻防戦に参加していた時に、陣地を歩いていると時折騎士たちから感じたもの。そしてレドナで、敵として見えた騎士たちから感じたものだ。それは間違いなく、アルヴィーに対する強烈な敵意だった。
だが交錯は一瞬で、彼女はふいとアルヴィーから視線を逸らす。思わず小さく息をついてしまった。
(……しょうがないよな。レドナのことはもう知れてるだろうし。俺を嫌う相手がいても不思議じゃない……か)
もとよりそれは覚悟の上だ。その程度で折れていては、ルシエルの隣になど立てないのだから。
「では、まずは自己紹介でもして貰おうか。わたしたちは諸君らの素性を知っているが、諸君らはおそらく今日初めて顔を合わせたばかりだ。曲がりなりにも“同期生”となる以上、互いの名前も知らないのでは始まるまい」
その言葉に、特に二人の男性の内一人がいかにも嫌そうな顔になった。ダークブラウンの髪を短く刈り上げ、左頬に傷のある野性的な雰囲気の三十代半ばほどの男性だ。彼は髪と同系色のダークブラウンの瞳をげんなりした色に染めたが、嫌なことはさっさと済ませようとでもいうのか、軽く手を挙げて口を開く。
「……ヒューゴ・エルガーだ。元は傭兵だったが、所属してた傭兵団がちょうど解散したのと、俺もそろそろ足を洗ってもいい年になったんでな。誘いもあったことだしこの国に腰を据えることにした。まあ、騎士として召し抱えてくれりゃ生活も安泰だし、聞こえも良いから第二の人生としちゃ上等だろう」
なるほど、どこか野性的な雰囲気はかつての職歴のせいもあるらしい。傭兵という言葉に少しばかり嫌な思い出のあるアルヴィーは、わずかに顔をしかめたが、ほんのわずかだったため気付いた者はいないだろう。
「俺はルーファス・ディロン。流れの剣士だ。別に騎士に興味はなかったが、偶然魔物から助けた貴族が推挙してくれたのと、騎士になれば魔物の巣窟の《魔の大森林》にも入れるということで、その話を受けた」
もう一人の青年は、ほとんど表情を変えることもなくそう告げる。灰緑色の長い髪と灰色の瞳をしており、二十代後半ほど。確かにそう言われてみれば、彼は左腰に剣を帯びていた。
残るはアルヴィーのみだ。観念して口を開こうとすると、それに先んじてダニエラが口火を切る。
「いや、彼については少々込み入った事情があるのでな、わたしから話そう。彼は元々レクレウスの出身だったが、我が国に亡命を求めて受理され、それに伴ってカルヴァート一級魔法騎士の従騎士となった。――そうだな、《擬竜兵》?」
瞬間――空気がピリ、と音でも立てそうなほどの緊張を孕む。
「へえ……あいつがねえ」
「興味深い」
ヒューゴのみならず、ルーファスも先ほどの無表情が嘘のように爛々と光る目をアルヴィーに向ける。その手が実にさり気なく動いたのを見咎めたアルヴィーは、次の瞬間反射的に右手を突き上げていた。
「――っ!」
チッ、とわずかな音と共に抜かれた刃が、アルヴィーの突き出した右手に阻まれる。一拍置いて、ルーファスが蹴立てた椅子がガタン、と音を立てて倒れた。ためらいもなく振るわれた剣は、防御していなければ脳天をかち割っていたコースである。
「……な、何をやっているの!?」
はっと我に返ったように、ニーナが叫んだ。アルヴィーも同感だ。
「まったくだよ! 何なんだいきなり……!」
「ふむ、さすがに良い反応だ。良いな。こうでなくては」
いきなり剣を抜いて人に斬り掛かるという、迷惑かつ突拍子もないことをやっておきながら、ルーファスはむしろ楽しげに呟くと、さらに剣を突き込んでくる。その様はまるで、剣先が生きて踊っているかのようだった。
(あれ……この感じ、どっかで……)
奇妙な既視感に眉をひそめるも、とりあえず今はこの傍迷惑な剣士から身を守る方が先である。《擬竜兵》の身体能力をフル活用して目を凝らすと、眉間を狙って突き込まれた剣を右手で掴み、
「っ……らぁっ!」
掛け声と共に、立ち上がりざま引っこ抜くように投げ飛ばした。剣を握ったルーファスごと。
「何っ……!」
さすがに自分もろともぶん投げられるのは想定外だったのか、彼は小さく呻いたが、それでも空中で猫のように身を捻り、数メイルほど離れたところにあった机の上に下り立った。
「な、何なんだあんた、いきなり剣なんか――」
言いかけて、アルヴィーは気付いた。
「それ……もしかしてナマクラか?」
先ほど剣身を握り締めた右手は、何も異常はない。――何も、だ。はめた手袋さえ破れていなかった。抜き身の刃を受け止めたり握ったりしたのだ、右手そのものはともかく手袋は耐えきれなかったはずだろう。それが無事だったということは、剣そのものに“刃がなかった”ということだ。
ルーファスは床に下りると肩を竦め、剣を鞘に納めた。
「刃引きと言って欲しいものだがな。――さすがに、講義に本身のこんな長物を持ち込ませるわけにはいかんと言われて、仕方なく誂えたものだ。俺は剣を腰に提げておかんと落ち着かんのでな」
「まあなあ、一応王城の一角に本身の刃物持たせて入らせるわけにゃいかんよなあ。俺たちまだ騎士じゃねえし」
同意するように、ヒューゴが声を投げてきた。
と、
「あなたたち……じゃれ合いは終わったかしら?」
静かな声と、チャキ、という音。
見ると、教壇から下りたニーナが、腰に帯びた細剣を抜きかけていた。ルーファスのものとは違い、正規の騎士である彼女が持つこちらは、もちろんきちんと刃の付いた剣であるはずだ。そして何より、彼女の醸し出す雰囲気がいっそ魔界か何かのようにおどろおどろしい。下手に口答えでもしようものなら、即座にその剣先が突き込まれそうだ。
「真面目に講義を受ける気があるなら、今すぐ席に戻りなさい。さもなくば――」
ヒュ、と空を切る音。そして次の瞬間、アルヴィーの眉間すれすれに、その剣先が突き付けられていた。
「……っ、ちょっ!?」
「額に向こう傷が増えることになるわよ?――もっとも、《擬竜兵》には意味がないでしょうけど」
剣を引いて鞘に納め、彼女は身を翻して教壇に戻る。アルヴィーはすとんと椅子に腰を落とし、大きく息をついた。
(……び、びびったあ……いきなり人に剣先向けるかあ!?)
とはいえ、レドナでは剣を向けられるどころか首筋掻っ斬られたりしたのだが、まあそれはともかく。
ゴタゴタはあったが、ルーファスも席に戻り、やっと講義が始まる。ちなみに先ほどの一件は不問に付すということらしい。先に騒ぎを引き起こしたのはルーファスだが、ニーナも実剣を人に突き付けたりしたのでどっちもどっちということだろう。両方の被害を一身に受けたアルヴィーとしては一言物申したいところだったが、従騎士の身でいざこざを起こすのもまずいと思って控えた。それでも思わずじとりと教壇のダニエラを見たが、彼女はニヤリと面白そうに笑うのみである。諦めた。
「――では、歴史及び文化教養の講義を始めるわ。教本を開きなさい」
そのダニエラは教壇の端に退き、代わって教壇に立ったニーナが告げる。どうやら初回はダニエラが監督し、問題ないと判断すれば、次回からはニーナが一人で講義を持つことになるのだろう。
受講生たちは各々荷物から教本を取り出し、アルヴィーもそれに倣おうとした。
……だが、あのゴタゴタがあったせいで、彼は忘れていたのだ。
自分の荷物の中に、本来講義に持ち込むべきではない生物がいることを。
「――きゅー!」
教本を取り出そうと袋の口を開けた瞬間、ソレはダッシュで飛び出し、アルヴィーの腕を駆け上がってその顔面に張り付いた。もふもふふにふにしたフラムの腹が、アルヴィーの顔面にべしりとヒット。
「ぶっ!」
「ぶっほぉ!」
アルヴィーが呻き、ヒューゴが噴いた。飼い主の顔面に張り付く小動物という微笑ましい絵面がツボに入ったのか、顔を覆ってくっくっと笑っている。
「きゅー、きゅーっ!」
やっと袋から出られてご満悦なフラムを何とか引っ剥がし、アルヴィーはそろりと前を見た。
「……“ソレ”は一体何かしら?」
思った通り黒いオーラを撒き散らしながら尋ねてくるニーナに、アルヴィーはもうどうにでもなれと投げやりな気分でため息をついた。
◇◇◇◇◇
最初にアクシデントがありつつも、ニーナは一時間ほどの講義をつつがなく終えた。
休憩時間となり、一旦講義室を後にしながら、講義を監督していたダニエラに尋ねる。
「……あの、いかがでしたか、わたしの講義は……」
「ああ、特段問題はない。次回からは一人でも大丈夫だろう」
「そうですか……!」
ほっとしたように表情を綻ばせるニーナだったが、次の言葉にその表情は再び曇ることとなる。
「とはいえ……あの《擬竜兵》に特に当たりが強く思えたのは、やはりお父上のことがあるからか?」
「…………!」
ニーナは息を呑み、身体をこわばらせる。だが、諦めたように息をついた。
「……申し訳ありません。任務に私情を挟みました……」
「まあ感心はできないが、無理からぬことではあるな。――聞いた限りでも、レドナの状況は酷いものだったそうだ」
「……父の所属していた小隊は、全滅したそうです」
ぎゅ、と細い指が抱えた教本を握り締める。
「遺体も損傷が酷くて……その上数が多いので、身元確認も難航していると……王都にまで帰って来るのは、しばらく先になると聞きました」
「わたしも話だけは聞いている。残念だった。君の父上には、わたしも若い頃世話になったのだが。すまないな、大したこともしてやれず」
「いえ……こうしてご指導いただくだけでも、充分有難いことです」
ゆるりとかぶりを振り、ニーナは気を取り直すように息をついた。
「……とにかく、今はこの特別教育の講師役を精一杯務めます。任務ですから」
「その意気だ」
頷き、ダニエラはニーナから視線を外す。その隣を歩きながら、ニーナは暗く沈んだ瞳で前を見やった。
――今度、西の応援に行くことになった。なあに、心配ない。レドナには結界陣があるんだ。レクレウス軍だって破れやしないさ――。
そう言って笑って旅立って行った父。それが最後の別れとなった。
堅固だったはずの結界陣はあっさりと破られ、たった四人の《擬竜兵》によって、街は煉獄と化したという。そして、ニーナの父もその業火に呑まれたのだ。
数年前に母を病で亡くして以来、父はニーナにとってたった一人の家族だった。その父の命を呑んだ炎、そしてそれを生み出した《擬竜兵》を、彼女は強く憎んだ。
だがその《擬竜兵》は四人中三人がレドナで散り、最後の一人はファルレアンに亡命、それは受理されたという。彼は正式に、ニーナと同じファルレアンの民となったのだ。それは、いつか戦場で相見え父の仇を討つという彼女の最後の望みさえ、完膚なきまでに打ち壊すものだった。
虚脱したような無力感の後、彼女を襲ったのは激しい憤怒。自分一人しかいなくなった家で、ニーナは怒りのあまり溢れ出す涙を拭いもせず立ち尽くした。
(……いけない。思い出してしまった)
ツンと痛くなった鼻を悟られないよう小さく啜り、ニーナは足を早める。先輩であり上司でもあるダニエラの前で、泣くわけにはいかなかった。
「わたしはお手洗いに寄ってから、控室で次の講義の準備をします」
「ああ、そうすると良い」
「はい、失礼します」
ダニエラに一礼し、講師のために用意された控室の方に向かう。その途中にある手洗いに入ると、ニーナは今度こそ遠慮なく涙を零した。ダニエラはおそらく気付いていただろう。だから彼女の心遣いを無にしないためにも、ここで涙を出し切って、早くいつもの自分に戻らなければならない。
顔を覆い、ニーナは唇を噛み締めて静かに泣いた。
◇◇◇◇◇
「……つっかれた……」
初日の講義を終え、《擬竜兵》だというのに疲労感すら感じながら、アルヴィーは講義棟を後にした。その肩には、いつものごとくフラムがへばり付いてご満悦だ。
引き離そうとするときゅーきゅー喚いてうるさいと、根負けした講師側がフラム付きの受講を認めたため、以降はずっとアルヴィーの肩か頭の上にしがみ付いていたフラムである。その図がよほどツボに入ったか、ヒューゴは目にするたびににやにや笑っていた。
気疲れした原因ではあるが現在の癒しでもあるフラムをむにむにしながら、アルヴィーはとりあえず騎士団本部への道を辿る。従騎士である以上、講義が終わればジェラルドの傍に控えなければならないだろうし。
本部に戻ってジェラルドの執務室に入室し、そしてアルヴィーは目を瞬かせた。
「……あ」
「あら」
室内にいたのはジェラルドと、もう一人。
「ええと……確か」
「パトリシア・ヴァン・セイラーよ。隊長の副官……まあ、秘書役というところかしら。あなたが騎士に叙任されるまでは、しばらく一緒に仕事をすることになるわね。よろしく」
どうやらこちらに戻って来たばかりらしい彼女は、早速自分の執務机で書類を作成していた。報告書か何かだろう。すらすらとペンを走らせ、シャッと小気味良い音と共に最後のサインを記して立ち上がった。書類を纏めながら、
「では、こちらは提出しておきます」
「ああ、頼む」
ジェラルドがひらりと手を振ると、パトリシアは書類を手に執務室を出て行こうとする。とっさに、彼女を呼び止めた。
「あ、あの! ルシィは……」
レドナから帰還して来た彼女がここにいるということは、ルシエルたちの帰還ももうそろそろのはずだ。パトリシアも言わんとするところに気付いたのだろう、一つ頷いて、
「そうね、彼らの帰還はあと十日ほど後になると思うわ。ディルからだと、街道へ出る分余計に手間が掛かるから。でも、レクレウス軍の方もひとまずは鳴りを潜めているようだし、帰還の行程は順調のはずよ」
「あ……ありがとう」
「いえ。それでは」
彼女が行ってしまうと、アルヴィーはほっと息をついた。
「そっかあ……あと十日か」
「まあ妥当なところだろうな。あいつらもあの後すぐにディルを発ったはずだ。それに、王都に帰還すれば、しばらくは余所に駆り出されることもないだろう」
「そっかー! 良かった……」
胸を撫で下ろし、そしてふと気付く。
「あれ? そういや、もう一人の部下の人……」
「ああ、セリオか。あいつは研究所の方へ使いに出した。あの、《紅の烙印》の頭領が持ってたポーションの分析依頼にな」
「ポーション?」
「あの女、尋常じゃない身体能力だっただろう。もちろん元々の素養もあっただろうが、それにしたって図抜け過ぎだ。俺たちとやり合う直前にポーション飲んでたから、おそらくその効能もあったはずだしな。というわけで、あの女が飲んだ残りを、研究所で分析して貰う。人体に害がないものなら、こっちでも製造してゆくゆくは騎士団の装備に加えたい。何しろ、ポーションの製造技術は大半がサングリアム公国に押さえられてるからな。だがそっちで新しいポーションが開発されたって話はとんと聞かんし、もし独自の製法や材料が使われてれば貴重な情報だ」
「へー……」
さすがに、魔法騎士団大隊長ともなると、色々と考えているものらしい。アルヴィーは素直に感心した。
「それに、研究所にはあいつの知り合いもいるからな。実のところ、研究所じゃ俺よりあいつの方が顔が利く」
「へー! 何かすげーな」
感心していると、噂をすれば何とやらというやつか、
「――隊長、戻りました」
ノックの音。一拍置いて、当のセリオが入室して来る。
「早かったな」
「師匠が割とすぐに捕まりましたから。効能について話したら目を爛々と輝かせてましたし、すぐに分析してくれると思います。あれでも薬学関係は専門ですしね」
「それはいいが、キルドナ女史はおまえの育ての親みたいなもんでもあるだろう。こう、積もる話とかないのか」
「離れてたのは国境絡みで、普段は僕も王都勤めですよ。積もる話も何もありません」
ジェラルドの軽口を躱し、セリオはアルヴィーに目を向けた。
「隊長の従騎士になったんだって? 頑張りなよ。人使い荒いけど」
「おい、聞こえてるぞ」
半眼になったジェラルドが突っ込むが、セリオは涼しい顔だ。思い当たるところもあり、アルヴィーは頷く。
「ああ……そんな感じはしてた」
「おまえらなあ」
酷い言われようだが、まあ元々は捕虜として捕らえた《擬竜兵》を、従騎士に仕立てた挙句に最前線に放り込んだりしたのだから、反論の余地はない気もする。
上司の人使いの荒さについて意気投合した二人だったが、セリオがふと、アルヴィーの肩口に目を留めた。
「……それ、カーバンクル?」
「ああ、何か旧ギズレ領の戦闘の時に懐かれて。それ以来俺にくっついて離れなくてさ」
「ふうん……」
じ、とフラムの緑の双眸を凝視するセリオ。フラムがきゅ? と小首を傾げる。
「……まあ、いいんじゃないか? カーバンクルは幸運を呼ぶ幻獣だとかいわれてるし」
「へー……けどこの頃、厄介事にばっか遭ってる気がするけどなー、俺……」
“幸運を呼ぶ幻獣”とやらの首根っこを掴んで真正面からじとりと見据えてやるが、当のフラムはまたしても、きゅ? と小首を傾げるのみである。つぶらな瞳はうるうるきらきら。
……まあいいか、可愛いから。
あっさり絆されたアルヴィーは、フラムを元通り肩に乗っける。可愛いは正義だ。
「――ち、インクが切れたか」
と、書き物をしていたジェラルドが、インク壺にインクを補充しようとして顔をしかめる。そして空になったインクの瓶に蓋をし、懐から財布を出して幾許かの銀貨を取り出すと、インク瓶と一緒に小袋に入れてアルヴィーに投げて寄越した。
「わっ!?」
「それと同じものを買って来い。騎士団に文具を卸してる文具店で扱ってる」
「あ、こないだのとこか」
リーネが立ち寄った文具店のことだろう。あの店なら、アルヴィーも道を覚えていた。不安要素といえば店自体が小ぢんまりしているので見落としかねないことだが、注意していれば大丈夫なはずだ。
「まあそれも従騎士の仕事の内だからね。息抜きだと思って行って来ると良い」
セリオにもそう言われ、アルヴィーもそういうものかと納得した。レクレウスには騎士という階級そのものがなかったので、どうもその辺りの感覚がまだ掴めないのだが、貴族に仕える従者辺りが近いだろうか。そもそもジェラルドも貴族であるので、あながち間違ってはいない気もする。
(しっかし……インクに銀貨とか、やっぱ貴族って半端ねえ……)
村人だった頃には銀貨どころか、銅貨すらそうそう見たことのなかったアルヴィーだ(辺境の農村では貨幣を必要とすること自体がさほどなかった)。インクに銀貨をポンと出すジェラルドの金銭感覚に少々慄きつつも、彼は使いをこなすため執務室を後にした。もちろんフラムもすっかり定位置となった肩の上で長い尻尾をゆらゆらと揺らしている。
そんな後ろ姿を見送っていると、退室するアルヴィーと入れ違いのように、書類を提出したパトリシアが戻って来た。ドアがパタリと閉まると、セリオはジェラルドに目を向ける。
「……あの小動物、どういう経緯で拾って来たんですか」
「旧ギズレ領で魔動巨人と当たらせた時、ひょっこり現れてそのまま懐いたそうだ。とにかくあいつと片時も離れたがらない。――だが、あれがどうかしたか?」
ジェラルドが尋ねると、セリオはその金の双眸を細めた。
「いえ……何となくあのカーバンクルから、僕の《スニーク》と似た気配を感じたもので」
「というと……あれが使い魔だってことか?」
「だとしたら、騎士団本部に入れるのは問題があるわね」
ジェラルドとパトリシアの表情がわずかに厳しくなる。もしフラムが“誰か”の差し向けた使い魔だとしたら、フラムを通して騎士団の内情を探られることも考えられるのだ。
だが、セリオは確信が持てないとかぶりを振った。
「あくまで僕の感覚というか、勘に過ぎません。――それに、騎士団の内情を探るためなら、アルヴィーにべったりの必要はありませんし。むしろ離れて騎士団本部をうろつく方が、多くの情報を得られると思います」
「それもそうか。となると……」
「ええ、もしあのカーバンクルが誰かの使い魔だとしたら、目的はアルヴィー・ロイの監視の可能性が高いかと。それなら、彼の傍を離れたがらない説明も付きます」
「しかし、問題はどこの陣営かってことだろ」
「そうですね。そもそも、僕の考え過ぎという可能性もありますし」
「いや、ことあいつに関しては、用心し過ぎるってことはない。《擬竜兵》のデータや身柄を欲しがる連中も、少なくはないはずだからな」
ジェラルドの脳裏を、サミュエルの忠告が掠める。
(王都でも……いや、むしろ王都だからこそ油断は禁物、ってことか)
そう心に留め置いて、部下に告げる。
「とにかく、おまえの方でもあのカーバンクルには注意を払ってくれ。何しろ俺は使い魔なんぞ使えんからな。その辺りの感覚がどうも分からん。そっちはおまえの方が専門家だ」
「了解しました」
セリオが頷く。使い魔を扱うにも適性というものがあり、いくら魔法に秀でていても使い魔はまったく使役できない、というのも決して珍しい話ではないのだ。
「……ひとまず、《スニーク》で追ってみます」
「王都はかなり人が多いけど……追えるの?」
「元々、偵察や諜報向きの使い魔ですから。それに《スニーク》は何度か彼を追跡してますし、魔力の大きさで判別も付くはずです」
セリオは執務室の窓を――もちろんジェラルドに一言断って――開けると、胸元から取り出した呼び笛を吹く。程なく飛んで来た蒼い三つ目の小鳥に、アルヴィーと彼が連れている小動物を追い、そしてもし彼らから別の魔力を感知したらそれを辿るよう命じて飛び立たせた。
「《スニーク》は魔力を見られますから、もしあのカーバンクルが誰かの使い魔なら分かります。それに、使い魔と主の間には、例外なく魔力的な繋がりが形成されますから、それを追えば主が分かるかもしれません」
「よし、そっちは任せる」
フラムの件は完全にセリオに丸投げすることにして、ジェラルドは書類仕事に戻る。何しろ魔法騎士大隊の一隊を預かる身の上だ。処理すべき書類は雑草か何かのように次々と増殖するのである。
一方、片眼鏡型魔動端末を装着したセリオは、《スニーク》からの情報を基にアルヴィーを追った。彼のことは何度も追跡しているので、もう慣れたものだ。やがて《スニーク》はアルヴィーを発見し、そっと距離を詰めていく。
そして――その肩の上のフラムからかすかに伸びる魔力のラインを、《スニーク》の目は確かに捉えたのだ。その情報はすぐさま、セリオにも伝わった。
(やっぱり使い魔か……相手が追えればいいんだけど)
セリオに指示された通り、《スニーク》は魔力のラインを追って飛んで行く。だが――しばらく飛んだところで、セリオは小さく舌打ちした。
「……ち、駄目か」
「どうしたの?」
「僕と《スニーク》のラインの限界です。これ以上離れたら、僕も《スニーク》を追えなくなる」
《スニーク》もそれを感じ取り、追跡を中断した。それでも最後のデータから、セリオは魔力のラインが伸びていたおおよその方向を割り出すことに成功する。
「……大体ルルナ川沿いに伸びてますね。公爵領を越えて北西のダンヴァース侯爵領……いや、もっと北かもしれない」
地図を広げて指で辿りながら、セリオは一つ一つ地名を確かめていく。パトリシアが感嘆の声をあげた。
「そこまで追えたの? 凄いわね」
「でもさすがに、ダンヴァース領の入口が限界です。それよりさらに遠くから使い魔を送り込むなんて、一体何者なんだ……?」
「……それはそんなに大層なもんなのか?」
「使い魔と主の繋がりの限界距離は、主の魔力量にほぼ比例します」
セリオの返答に、ジェラルドとパトリシアは目を見張った。セリオ自身、魔法騎士団の中でもかなり上位に位置する魔力量だ。その彼が追えないほどの遠方から使い魔を送り込めるということは、彼を上回る魔力量の持ち主ということに他ならない。
「……つまり、あの毛玉には要注意、ってことか」
コツ、と机を指で叩き、ジェラルドは結論を出した。
「しばらくあの毛玉を、研究所の方で預かって貰おう。あっちは魔法技術の専門家だ。使い魔を封じる手段もあるだろう。アルヴィーにも話をしておく」
「分かりました」
「確かに、それが無難かもしれませんね」
部下二人も頷き、話はそれで手打ちとなる。
やがて《スニーク》が戻って来たので、セリオは思わぬ長距離飛行となった使い魔を充分に労わってやる。魔法式収納庫に常備している餌と水をやり、ひとしきりその労をねぎらうと、また窓から外へと放った。《スニーク》は近くの木の枝へと飛んで行く。使い魔といえど、普段はこうして普通の鳥と同じく過ごしているのだ。
それを見送り、セリオは空を見上げた。
(……北、か)
胸中でそう呟き、彼はぱたんと窓を閉めた。
◇◇◇◇◇
何とか見落とすこともなく目当ての文具店を見つけ、インクの購入を済ませて、アルヴィーは店を出て通りを歩き始めた。
相変わらず人通りが多いが、これがこの辺りでは普通なのだろう。とりあえず、インクと残金が入った小袋はしっかり懐に仕舞い込み、その辺りをフラムを抱き抱えた腕で押さえるようにして、掏りを警戒しながら本部への道を辿る。
「きゅ?」
「こら、あんま動くな。下りたら蹴飛ばされるぞ、じっとしとけ」
「きゅ」
大勢の人間が物珍しいのか、きょろきょろと落ち着かないフラムに話しかけたりしながら歩いていると、すぐ傍を荷車が走り抜ける。思わず身を躱したところ、ちょうど傍を歩いていた通行人に突き当たってしまった。
「あ、ごめん!」
「失礼。――おまえはっ!?」
「え?」
よくよく見ると、それは覚えのある人物だった。
「あ、えーと、《竜爪》の欠片拾ってくれてた――」
「ウィリアム・ヴァン・ランドグレンだっ! 人の名前ぐらい覚えておけっ!!」
「あーそうそう、それ! でも貴族の名前って長いんだよな。何で?」
「知るかああああ!!」
肩を怒らせて喚いたのは、途中までアルヴィーの護送に付いていた少年騎士・ウィリアムだった。そういえば彼も帰還部隊にいたのだから、パトリシアやセリオが戻っているのなら当然、彼も王都に帰還していたことになる。
「貴様がなぜここに! それにその従騎士の略装は何だ!」
「何って、従騎士に任命されたから」
「何だと? 主は――って、その短剣の紋章はっ!?」
腰に佩く短剣の柄の紋章に目敏く気付き、ウィリアムは目を見張った。
「カ、カルヴァート家だとっ!? そ、そうか、カルヴァート大隊長かっ……!」
「おー、すげーな。紋章見ただけでどの家とか分かるのか」
「貴族の常識だ、たわけっ!!」
そんなことを言われても、現在勉強中なのだから仕方ない。そもそもアルヴィーは貴族でも何でもないのだし。
「いいか、紋章にもランクがあってだな、爵位によって使える図案とそうでない図案がある。例えば竜や薔薇は王家しか使えない図案で――って、違あああう!!」
説明モードから自身へのツッコミへと流れるように至り、ウィリアムはアルヴィーの襟首を掴むと「来い!」と一声、すぐ傍の人通りの少ない路地に引きずって行く。そして適当なところで手を放すと、びしりとアルヴィーに指を突き付けた。
「そもそも、なぜ貴様が従騎士に任命されるんだ! しかもカルヴァート大隊長にだと!?」
「あー、何か色々言ってたなあ。一般人戦場に連れてくのはまずいとか。実際、従騎士に任命されてすぐディルとか連れてかれて、最前線に放り込まれたし」
「な……まさか、もう武勲を立てたのか!?」
「武勲?」
アルヴィーは首を傾げる。
「何だ、それ?」
「従騎士のくせに武勲の何たるかも知らんのかっ! 味方の勝利に大きく貢献する戦果を挙げることだ!」
意気込むウィリアムに、アルヴィーはますます首を傾げる。だって、それは。
「っていうかさ……《擬竜兵》って、それが当たり前なんだけど」
「……何?」
「や、だからさ。要するに自分とこの陣営を勝たせるための生体兵器が俺ら《擬竜兵》なわけだし。武勲とかって特別視したことなんかなかったなー。だってそれが《擬竜兵》の存在意義じゃん」
自軍に勝利をもたらす絶対的な兵器。それが《擬竜兵》だ。彼らにとって戦局を左右するほどの戦果を挙げることは“当然の義務”でしかない。それを突き付けられ、ウィリアムは言葉に詰まった。
(……こいつは)
他の人間とは、基準からして違うのだ。
彼は自分自身の存在を、“人”でありながら“兵器”であることを、すでに割り切っている。
そう理解した途端に、頭に上った血がすっと落ちた気がした。
「っていうか、もういいか? 俺、本部に戻んなきゃいけないからさ」
急に黙ったウィリアムに訝しげにしながらも、アルヴィーはそう言い置くとその場を後にする。
(何なんだかなあ……やっぱ、他の人が武勲とかって目指してるとこが当たり前だなんて言ったら、引かれんのかなー)
これからは気を付けようと思っていると、
「――アルヴィー・ロイ殿」
不意に呼び止められて、アルヴィーは「ん?」と周囲を見回した。
「誰だ?」
「こちらです」
物陰からスッと姿を現したのは、ローブを纏い目深にフードを被った人物だった。声もやけにくぐもっていて、見た目も声も男女の区別が付き難い。いかにも怪しげな風貌に、アルヴィーの眉が寄ったのも致し方なかろう。
「……何だ、あんた」
「突然申し訳ありません。わたしはさる貴族の方にお仕えする者。この度は、我が主が是非、あなたにお会いしたいと――」
「悪いけど興味ねーから」
相手がこの上なく怪しい上に、そもそも今は使いの途中である。皆まで言わせず、アルヴィーはさっさと歩き去ろうとした。
と、
「まあ、そう仰らずに」
ローブの人物は音もなく歩み寄り、アルヴィーの左腕を掴む。
「放せ――」
瞬間、ぱっと炎が散った。
「うわっ!?」
「きゅ!?」
「ひっ――!」
ローブの人物が掴んだ、ちょうどその辺りから小さくも強い炎が弾けるように散ったのだ。アルヴィーは驚き、フラムも飛び上がって肩の上に避難したが、ローブの人物の反応はさらに顕著だった。まるで獣が炎に怯えるように、素早く飛び退る。そしてそのまま身を翻し、路地からさらに伸びる細い道へと消えていった。
「……何だ、さっきの?」
アルヴィーがぽかんと呟くと、その裡でアルマヴルカンが告げた。
『呪詛だ』
(? 何だそれ?)
『先ほどの者、主殿に呪詛を掛けようとしていた。もっとも、少々力が足らなんだようだがな。呪詛を返してやろうと思ったら、我が炎で呪詛そのものを焼き尽くしてしまった』
「え……じゃあさっきの火って」
『その時のものだ。――ともあれ、早めに戻った方が良かろう』
「あ、ああ。ありがとな」
これはジェラルドにも報告しなければなるまい。アルヴィーは急いで路地を抜け、本部への帰路を辿った。
◇◇◇◇◇
(――失敗した。まさかあれでも足りなかったとは)
《擬竜兵》の前から遁走し、その人物は現場から少し離れた物陰に身を潜めた。そっと袖をめくる。特に異常はない。
(呪詛は返されなかったか……多分、あの炎で呪詛そのものが焼き尽くされた。さすが、というところか。次はもっと強い呪詛にしなければ)
さっき掛けようとした呪詛は、思考力を奪い術者の言いなりにさせるためのものだったが、いともあっさり防御された。やはり《擬竜兵》ともなれば、魔法抵抗も常人とは比べ物にならないほど高いらしい。少々甘く見ていた。
物陰を出ると、歩き出す。怪しいことこの上ない風体も、こんな裏路地では見咎める人間などいない。
(《擬竜兵》……必ず手に入れてやる。このわたしの目的のために)
ちらりと背後を一瞥し、その人物は足早に、どこへともなく歩き去って行った。




