第17話 王都ソーマ ◆
今回から第三章に入ります。
まだまだ続きますので、ご意見・ご感想などお寄せ下されば幸いです。
5/4追記:文末に挿絵を追加しました。大陸の概要図です。ゴチャゴチャした感じですが、これで大まかな地理は伝わるでしょうか……。
5/10追記:暴れ馬のシーン、描写をちょこっと追加しました。フラムのこと素で忘れとったわ……orz
夕日が射し込む室内。豪奢だがどこか翳りのようなものを感じさせるのは、黄昏時という理由ばかりではないだろう。
その部屋にはベッドが据え付けられ、そこで一人の男が横になっていた。
年の頃五十代半ばから六十というところのその男は、喘鳴のような呼吸を漏らしながら、枕元の小さなベルを鳴らす。と、しばしの後にノックの音が響いた。
「……入れ」
「失礼します」
ドアが開き、入室して来た人物が一人。ベッドの傍まで歩み寄り、一礼する。
「お呼びですか」
「そなた……《擬竜兵》なる者の噂を、聞いておるか……」
「小耳には挟んでおります。何でも、竜の細胞をその身に取り込んだ者だとか」
「竜の細胞を取り込んだ人間、か……」
ベッドに仰臥した男の目が、呼吸にも苦労しているとは思えないほどぎらついた光を放った。
「……竜の血は確か、万病に効き、口にした者に不老長寿をもたらすという伝承があったな」
「所詮は伝承です。むしろ、内包する力が強過ぎて、人体には害にしかならないという逸話も……」
「ならば」
思いがけなく強い語気に、ベッドサイドの人物は口を噤む。横たわる男は今や、妄執にも似た欲望の光をその目に宿していた。
「人の血で薄められた竜の血ならば」
「まさか……」
紡がれた言葉のおぞましさに、ベッドサイドの人物は絶句する。
「それは――いくら何でも」
「儂はな、このまま終わるわけにはいかぬのだ……!」
伸ばされた手が、生への希望を掴もうとするように空を掻く。
「まだ、まだ終わるわけにはいかぬ……! 儂はこの国を動かすために生まれ、そのために今まで力を尽くして来たのだ! このまま、日陰で消え果ててなるものか……!」
空をさまよった手が、行き場のない憤りに震えた。鋭い眼光が、ベッドサイドの人物を射抜く。
「良いか……! かの者を何としてもこちらに引き込め! そしてその力を我がものに……!」
不意に声が詰まり、くぐもった咳をする男。ようやく呼吸を落ち着けると、彼は力を使い果たしたかのように天井を仰ぐ。しかしその双眸にちらつく生への渇望は、未だ消え失せてはいなかった。
「良いな……必ずやかの者を、儂のもとに連れて来い。良いな……!」
「……はい」
そう答えるしかなく、ベッドサイドの人物は一礼すると、静かに部屋を後にする。その足取りは、まるで先ほどのひと時で力を吸い取られたかのように、重いものだった。
やがて窓から射し込む夕日も次第に弱まり、部屋は夕闇に包まれた。
――妄執も策謀も、すべてを覆い尽くすように。
◇◇◇◇◇
ファルレアン王国王都・ソーマ。国の中央部、やや南寄りに位置するその街は、街のランドマークでもある王城を中心として、四方にほぼ同程度の広がりを見せる美しい街だ。《雪華城》の通称を持つ白亜の城とどこか共通した、明るい色合いの街並み。主に貴族階級の邸宅が多い、王城に近い区画には石材を主として組み上げられた壮麗な邸宅が建ち並び、外に行くにつれて木材と石材・土を見事に組み合わせた建物が増えていく。地系統魔法によって魔法を取り入れた建築が可能なためか、建物はほとんど共通して窓が広い。これはファルレアン王国南部から中部にかけての、基本的に温暖な気候によるものでもある。
だが残念ながら、アルヴィーにそれらの街並みで目を楽しませる余裕などなかった。
「……なあ、これまだあるの……あるんですか」
名前を書きまくって疲れてきた左手を振りながら、アルヴィーは一応の主であるジェラルドに尋ねる。彼はにやにやしながら、
「聞きたいか?」
途端に絶望したような表情になったアルヴィーに、ジェラルドは満足したのか手を振った。
「冗談だ。これで区切りは付いた」
「よっしゃー!」
アルヴィーは解放感にペンを放り出したくなったが、危ういところで自重する。何しろ魔法騎士団大隊長の使うペンだ、それなりに高価なものだろう。そもそも従騎士として彼――ひいては彼の生家の後ろ盾を得ている点で、自分は彼に借りがある。それを余計に増やしたくはない。
アルヴィーは現在、ジェラルドの執務室、つまり中央魔法騎士団第二大隊長執務室にいた。騎士団及び魔法騎士団の中でも、王都やその周辺地域の治安維持を担当する第一・第二大隊は城内に本部を置いており、大隊長執務室もその一角にあるのだ。ただし、王城の敷地内とはいえ、城そのものからはかなり離れている。有事の際にはこの本部が文字通り最後の砦となり、外敵に対する盾として機能する仕組みだそうだ。
もちろん、部外者がおいそれと足を踏み入れられるような場所ではないが、アルヴィーはジェラルドの従騎士であるため、彼の許可があれば建物はおろか執務室への入室も許される。そして今、アルヴィーは他ならぬジェラルドによってここに引っ張り込まれていた。アルヴィーがファルレアンに正規の手続きを経て亡命したという体裁を取り繕うための数々の書面、検査への同意書に特別教育の講義を受講するための必要書類、そして騎士団への入団希望書――それらすべての書類にアルヴィーの自筆の署名が必要なため、彼はひたすら自分の名前を綴り続けるという一種の苦行を強いられていたのだ。ちなみに執務室を使っているのは、提出先に近くて便利、かつ溜まった仕事を多少なりとも片付けたいという、主にジェラルドの都合である。
「……にしてもおまえ、利き手は左なのか?」
署名の終わった書類を纏めながら、ジェラルドが尋ねる。アルヴィーは左手を振りつつ、
「いや、元々の利き手は右だ……ですけど。今の右手でペンとか持ったら、もれなく握り潰しちまう感じなんで。すっごい注意したら潰さないで済むけど、そもそも持ち辛いし」
「あーまあ、そりゃそうか」
何しろ、指の骨格からして人のものとは微妙に違っているのだ。ジェラルドは納得して頷き、改めて書類の署名を見やる。お世辞にも達筆とはいえないが、読めないほどの悪筆でもなかった。利き手ではない方の手でここまで持って来るのは、それなりの訓練を必要としたはずだ。
「……まあ、根性はありそうだしな」
そう呟いて、ジェラルドは書類を手に立ち上がった。
「じゃあ、これ提出ついでに検査に回るぞ。ついて来い」
「あ、分かっ――」
アルヴィーも続いて、使っていた机から立とうとした時。
「――きゅー!」
今の今までアルヴィーの膝で居眠りをこいていたはずのカーバンクルが、置いて行かないでと言わんばかりにアルヴィーの足にしがみ付く。ため息をついて、アルヴィーはその首根っこを掴み、自分の肩へと移動させた。持ち方が正しいかどうかは知らない。カーバンクルは肩の上でご満悦なようだから問題ないだろう。
「ずいぶん懐かれたな、それ」
「何で懐かれたんだかなあ……俺、最初おまえのこと蹴っ飛ばしたのになあ」
くりくりと頭を撫でてやると、心地良さそうに目を細めるカーバンクル。
「まあ、飼うんなら面倒は自分で見ろよ。あと、名前くらいは付けたらどうだ」
「名前ねえ……」
むう、と唸るアルヴィー。自慢ではないが、今まで生き物を飼った経験など皆無である。元猟師なだけに、狩った経験ならいくらでもあるのだが。
「うーん……」
カーバンクルの胴体を鷲掴みに、顔の前に持ってきてまじまじと見つめる。まず目に付くのは額の紅い宝玉のようなもの。アルヴィーの《竜爪》にも似た深紅の中には、目を凝らすと炎のようなかすかな揺らぎが見て取れる。
「……《炎》」
呟くと、ジェラルドが意外そうに眉を上げた。
「古い言葉だな。良く知ってたもんだ……いや、逆に辺境だから古い言葉も残るのか」
「昔、村に吟遊詩人の旅人が来たことがあって、古い言葉で歌ってたんだ。だから、これだけは覚えてる」
まだ両親が健在だった頃、ルシエルと肩を並べて聞き入った歌だ。人の出入りの少ない村で吟遊詩人は珍しく、歌っているところを二人でよく見ていた。
「きゅ!」
すると、カーバンクルが声をあげた。まるで気に入ったというように。
「何だ、これでいいのか?」
「きゅっ!」
というわけで、気に入ったものと解釈してカーバンクルの名前は《フラム》で決定。そういえばこいつは雄雌どちらなのだろうかとアルヴィーはふと思ったが、まあおいおい確かめれば良いかと片付ける。どちらでも通じそうな名前だから良いだろう。
名前も決まったところで、フラムを肩に乗っけて書類提出兼検査に向かう。といっても、書類提出は本部の職員にジェラルドの名前で届けさせれば良いということで、彼らが向かうのは検査を行うという王立魔法技術研究所だ。騎士団の本部だけでもだだっ広いのに、研究所はさらに別棟だそうで、そんな建物をいくつも内包してさらに城まで建っているここの敷地はどれだけ広大なのかと、アルヴィーはちょっと気が遠くなりかけた。
幸い研究所まではさほど遠くはなく、石畳で舗装された小道を数分も歩けば辿り着く距離だった。そもそも騎士団の装備の一部を研究所が開発していることもあり、両者の関係はそれなりに深いのだそうだ。
そんなことを説明しながら正面入口の扉を開け、ずかずかと中に入って行くジェラルドにアルヴィーの方が慌てるが、当の本人は涼しい顔で、
「いちいち取り次ぎなんぞ待ってたら夜まで待ちぼうけだぞ。ここの連中は一度研究に没頭したら、周りなんぞ気にせず飯も睡眠も抜くような、文化的生活不適合者しかいないからな」
そう言いつつ、正面の扉を押し開ける。
「魔法騎士団第二大隊のカルヴァートだ。お待ちかねの《擬竜兵》を連れて来たぞ」
瞬間。
『……おおおおおおお!?』
まるで暴動のような歓声が巻き起こり、アルヴィーは思わず一歩退いた。
「……な、なにこれ」
「そりゃあ、人間に《上位竜》の細胞を植え込むなんて狂気の沙汰の実験を受けて、未だに生きてピンピンしてる被験者だぞ。ここの連中にしてみれば、垂涎もののデータの塊が服着て歩いてるようなもんだろうな」
「……俺帰りたい……」
心底本気でげんなり呟いたアルヴィーだったが、騎士団に入る以上検査は絶対条件とのことだし、受けなければルシエルにも心配を掛けそうなので、覚悟を決めることにした。
「――やあ、待ってたよ。わたしはここの所長のサミュエル・ヴァン・グエンだ」
二人を出迎えたのは、眼鏡を掛けて長い髪を無造作に纏め、白衣を羽織った男性だった。研究者というよりは芸術家のような雰囲気を漂わせる、どこか浮世離れした印象だ。
「君が噂の《擬竜兵》か。ふむふむ。ちょっと失礼」
彼――サミュエルは挨拶もそこそこに、アルヴィーの右手を持ち上げる。
「なるほど、右腕は完全に竜の細胞を取り込んでいるのかな? 骨格はもちろん、筋組織も人のものとは明らかな違いが見られる……と。腕と胴体の接合部はどうなっているのかな」
「ぎゃ――――!?」
いきなり服を剥かれかけて、アルヴィーは悲鳴をあげた。ざざっと後退る。しかしジェラルドはしれっと、
「では、そいつはしばらくお預けします。――おい、グエン所長は伯爵位を賜ってるからな。無礼な真似はするなよ」
「うえええ!?」
「あはは、領地なしの栄誉爵だけどね。じゃあ彼はちょっと預かるよ。君の報告にあったデータも、どうやら更新の必要がありそうだし」
「そうですね。存在自体が常識外れなのにその上ひょいひょい進化しやがるんで、この際徹底的に調べてください」
「人を未確認生物みたいに言うなあああ!!」
アルヴィーの絶叫などどこ吹く風で、ジェラルドは本当に一人でさっさと帰ってしまった。
「さ、君はこっちで検査。――あれ? それはもしかしてカーバンクルかな?」
アルヴィーを連れて行こうとしたサミュエルが、その肩にちんまり落ち着くフラムに気付き、きらりと眼鏡を光らせる。
「滅多に人前に現れない希少な幻獣がこんなに懐いてるとはねえ。けどご主人様はこれから検査だからね、君はこっちだよ」
ひょいとフラムを取り上げたサミュエルは、きゅーきゅーとどこか悲痛な鳴き声をあげて四肢をばたつかせるフラムを、研究員に用意させたケージに入れて隔離した。
「じゃあ改めて、君はこっちだ」
サミュエルに連れられ、アルヴィーは廊下を歩いてさらに奥の部屋へと足を踏み入れた。中には寝台や様々な機器が設置され、物珍しさにアルヴィーは思わずきょろきょろと見回してしまう。
「珍しいかい? 一応ここは、国内でも一番魔動機器が充実してるところだからね。もっとも、魔動機器大国のレクレウスにはさすがに及ばないかもしれないが。――さて、まずは基本的なデータを採らせて貰おうか。そこの寝台に座って」
「あ、はい」
指示に従い、頭や腕に測定用の機器が取り付けられるのを黙って見守る。だがサミュエル以外の研究員たちの手付きが、どこか恐る恐るといった様子なのに気付いて、何とも言えない気分になった。目敏くそれを見て取ったか、サミュエルは笑う。
「ははは、部下が及び腰なのは勘弁してやってくれるかい。何しろ、君たち《擬竜兵》の“武勇伝”はこちらにも伝わっていてね。君の機嫌を損ねるのは怖いのさ。誰だって“竜”の逆鱗に触れたくはない」
「……俺は人間ですよ」
「わたしもそう願うよ。我々のためにも、そして君のためにもね。――さ、これでいい」
機器類をセットしてしまうと、サミュエルはアルヴィーの肩を軽く叩いて、測定機器を作動させる。
「しばらく時間が掛かるから、何ならそこに横になるといい。それじゃ、わたしは他にも仕事があるのでね、少し外すよ」
アルヴィーを残し、サミュエルは部屋を出て行く。廊下を歩く彼に、追い付いて来た研究員がどこかほっとしたように話しかけた。
「……意外とおとなしかったですね、《擬竜兵》。いや、彼のデータには非常に興味がありますが、やはり何かの拍子に機嫌を損ねたらと考えると……」
「そう怯えなくてもいいだろう。まだ二十歳前の子供だ。そうやって腫れ物に触るような態度を取られる方が、彼も鬱陶しかろうよ。――それより、データの管理はくれぐれも厳重に。あらゆる意味で貴重なデータだ。どことは言わないが、《擬竜兵》のデータや身体組織を欲しがってる陣営もあるらしいし。何でも、竜の細胞を取り込んだことで不老長寿になってるんじゃないか、なんて眉唾物の話が一部に広まってるようだね」
「そ、そんなことが……あり得るんですか」
「さあねえ。少なくとも超人的な回復力と膨大な魔力は手に入れている。だったら、まったくあり得ないとも言い切れないなあ」
目を細め、サミュエルはクスリと笑う。
「何にせよ我々は、彼のことを知らなければならない。ともすれば彼自身よりもね」
「は、はい」
呑まれたように頷く研究員に「仕事に戻りたまえ」と手を振り、サミュエルは歯切れの良い足音を響かせて歩いて行く。と、歩きながら器用に何やら手帳に書き込んでいた初老の女性研究員と、危うくぶつかりそうになった。
「おっと」
「おや、所長。失礼」
「また何か面白い薬のレシピでも思い付いたのかい、キルドナ女史」
「いえねえ、あたしも年なもんで、何か思い付いたらその場で書き留めないと忘れちまうんですよ」
「女史はまだまだ現役だろう。――そういえば、カルヴァート一級魔法騎士が王都に戻って来ていたが、確か彼の部下は女史の……」
「ああ、あの馬鹿弟子もそろそろ戻って来る頃かねえ。あれも最近は、すっかり可愛げがなくなって。まあ、元からそう愛想良くもない子供ですけどもね」
女性研究員は肩を竦め、サミュエルに一礼して立ち去って行く。サミュエルも白衣を翻し、目的地へと向かって再び歩き始めた。
(さて、《擬竜兵》のデータを採るはいいけど、それを狙ってネズミがうるさいことになりそうだなあ。いい機会だから、所内の侵入防止機構の確認に使わせて貰おうか)
そんな、ちょっぴりえげつないことを考えながら。
◇◇◇◇◇
検査の結果、アルヴィーの心身共に特筆すべき問題はなし、との結論が出たのは、検査を受けてからわずか四日後のことだった。
「健康状態は良好、精神的な問題も特になし。まず第一段階はクリアだ」
データを基にした診断結果を記載した紙をジェラルドに渡し、サミュエルは満足げに息をついた。
「いやあ、貴重なデータを採らせて貰ったよ。特に右腕の戦闘形態。生物としてあれだけ異質なもの同士が、あれほど美しく融合するとはねえ。右肩のあの翼型の魔力集積器官なんか、どうにかして再現したいな」
うっとりと思い返しているらしいサミュエルへの挨拶も無礼にならない程度に手短に切り上げ、ジェラルドはさっさとその場を辞去しようとした。うっかり彼の長話に捕まってしまえば、せっかく確保できた執務時間がゴリゴリと削られてしまう。別に必要以上に仕事熱心なわけではなく、後で楽をするためにやるべきことは早めに済ませておきたいだけのことだが。
「あ、そうそう」
だが、サミュエルが思い出したようにふと声をあげる。
「多分彼のデータを狙ったんだと思うけど、ネズミが昨日までで五人も出た。侵入防止機構のいいテストケースになってくれたけど、彼の身辺にも気を付けてあげた方がいいと思うよ」
「……ご忠告、有難く拝聴しますよ。では」
今度こそその場を辞去し、ジェラルドは執務室へと戻った。
執務室では、待たせておいたアルヴィーが、副官用の机に突っ伏して爆睡していた。せっかくだからファルレアン王国の歴史でも勉強しておけと本と机を貸したのだが、どうやら勉学があまり得意ではないらしい彼は、睡魔の侵攻にあっさり屈してしまったらしい。その頭の上ではフラムも丸くなって寝ていた。なかなか心和みそうな光景だったが、生憎ジェラルドはそれで絆されるような気性でもない。もちろん即座に拳を固めてアルヴィーの頭を一発殴った。
「――痛ってー!?」
「きゅー!?」
アルヴィーが飛び起きた拍子にフラムも巻き添えを食って吹っ飛ばされ、二重の悲鳴が執務室にこだまする。
「おい、俺は居眠りさせるために机と本を貸したんじゃないぞ。少しは進んだのか」
「うっ、いや、それは……」
アルヴィーの目が泳ぐ。何しろ厚さ五セトメルはあろうかという分厚い歴史書だ。ファルレアン王国は建国から三百余年を数える、大陸の中では中堅といえる国家だが、それでも三百年も続いていれば国内の出来事だけでも結構な数がある。正直、文字を追っているだけで睡魔に意識を乗っ取られる勢いだ。残念ながらこれには、《擬竜兵》の高い身体能力や魔法耐性もまったく役に立たない。
「……そういえば、この国って百年前の戦争に参加してねーの? 練兵学校の座学じゃ、結構色々聞いた気がするんだ……ですけど」
「ああ……それか」
ふと思い付いたアルヴィーがページを開いて見せた箇所に、ジェラルドは頷く。
「確かに百年前のクレメンタイン帝国と連合国との戦争は、歴史上でも大戦の一つに数えられるな。今ドンパチやってるファルレアンとレクレウスの戦争でさえ、あれに比べりゃ地域紛争のレベルだ。――ちなみに、“連合国”は全部で何ヶ国だった?」
「えーと……まずレクレウスだろ、それからヴィペルラート、リシュアーヌ……後は帝国の貴族じゃなかったっけ?」
「ほう、意外と覚えてるな。正解だ。付け加えると、連合国側で参戦した帝国貴族の中でもサングリアム、ロワーナ、モルニェッツの三公爵は、戦後に大公と称してそれぞれ国を興した」
「んーと……サングリアムって確か、ポーションで有名じゃなかったっけ?」
「そうだ。元々サングリアム公国は、帝国領だった頃からポーション製造の拠点が置かれてたところだからな。今でも大陸に流通してるポーションの七割以上を、サングリアム公国で生産してる。というかあの国は、ポーション製造の設備と技術のおかげで国として独立できたようなもんだ。国の歳入の大部分を、ポーションの利益で賄ってる国だからな」
「ふわー、すげーな。想像できねー……んでもさ、ファルレアンがその戦争に参加してないのはどう繋がるんだ?」
「ああ、話が逸れたな。ファルレアンはちょうどその大戦の寸前に、王位継承が原因の内乱で国が割れかけた。何とか内乱を収めはしたが、他国に侵攻なんざしてる場合じゃなかったってのが一番の理由だな。後は立地か。ファルレアンとクレメンタイン帝国との国境は、半分以上が当時のサングリアム公爵を含む、帝国に反旗を翻した帝国貴族の領地だった。つまり、わざわざ参戦しなくても“盾”があったわけだ。それに残りの半分弱は、《神樹の森》っていう馬鹿でかい森でちょうど蓋をされた格好で、帝国への進軍ルートとしては使えない。そういう理由もあって、ファルレアンは帝国との戦争には参戦しなかったんだ。ある意味、その大戦のおかげでファルレアンも助かったようなもんだがな。そっちへ周辺国の戦力の大部分が振り向けられたからこそ、内乱後のゴタゴタに付け込まれることもなかった」
「へー……」
ジェラルドのちょっとした歴史講義に、アルヴィーは感心したように頷く。レクレウスでは当然、レクレウスの歴史しか習わなかったので、他国のこういった裏話はなかなか興味をそそられるものがあった。
「あれ? でもそういや、この戦争ってどうやって終わったんだっけ? 座学でもそこらへん、妙にぼやっとしてたような……」
「そうだな。戦争終結の直接の要因は、実は今でも良く分かってない。その辺りも諸説あるんだが、帝国の魔動兵器の暴走だとか、帝都全域を巻き込むレベルの大規模攻撃魔法の発動だとか、突飛なところだと帝都が自爆したってのもあったな。まあとにかくそんな感じで、帝都が陥落した――というかもうほぼ消滅に近かったそうだが、それで連合国側の勝ちってことになった。ただ、帝国の高い魔法技術も帝都もろとも消えちまったせいで、今でもこの大陸の魔法やら魔動機器やらの技術は、当時の帝国の足下にも及ばないレベルでしかない。帝国は強力な中央集権国家で、魔法技術も帝都に集中してたらしいからな。帝都と共におじゃんってわけだ」
「え、じゃあその頃の技術って、今よりも凄かったのか?」
「数段上だってのが定説だな。だから今では、各国にクレメンタイン帝国について研究する学者もいる。あわよくば当時の魔法技術についての手掛かりが掴めないか、ってとこだな」
一通り説明すると、ジェラルドはニヤリと笑いつつアルヴィーを見やった。
「……とまあ、自分が知ってるところから手繰って行けば、多少は頭に入るだろう。隣国だけに、ファルレアンはレクレウスとの関わりも多いしな。さすがに全部覚えろとは言わんが、歴史上の大きな事件や歴代の王、主要な貴族の家名と領地くらいは頭に入れてないと、この先立ち回るにも不便だぞ。騎士団にも貴族出身者は多い。下手に揉め事でも起こしたら面倒だ」
「う……分かった」
アルヴィーは呻きつつも、再び本をめくり始める。ルシエルも通った道だと自分に言い聞かせ、固有名詞や地名などを呪文のように呟き始めた。
「……なー、そういや騎士団の特別教育って何やんの……何、やるんですか」
呪文めいた暗記の合間に、アルヴィーはふと気になって尋ねる。ジェラルドは軽く頭を掻いて、
「あー、俺は正規に騎士学校入ったからなあ……まあ、大体それの圧縮版ってとこだろ。一般常識、礼儀作法、それから武術に魔法講義ってとこか。まあおまえは、魔法講義の一部は免除になるかもしれんが。おまえ、火系統に特化し過ぎてるからな。まず間違いなく高位元素魔法士認定されるぞ」
「へ?」
「要件は満たしてるしな。《上位竜》の加護持ちみたいなもんで、魔力量も魔法の威力も申し分なし。高位元素魔法士の数は国の軍事力にも関係するからな、どの国も欲しがる。ファルレアンでは女王陛下が風の高位元素魔法士だが、さすがに陛下に戦場にお出ましいただくわけにはいかんからな。その点おまえは攻撃力に秀でた火系統、その上滅多な怪我じゃ死なない回復能力持ち。うってつけだ」
「……こっちでも兵器、ってことか」
「不満か?」
「別に。そもそもそういう目的で改造されたのが《擬竜兵》だしな。首輪がない分こっちのがマシだよ」
しゃらん、と指で掬い上げたのは四人分の認識票。レクレウス軍から支給された時はチェーンが制圧用のマジックアイテムを兼ねていたが、今はただのチェーンでしかない。それでもこれを外そうとは思わないけれど。
認識票を服の下に戻し、アルヴィーはいつの間にやら肩の定位置に戻っていたフラムを摘み上げた。
「おまえは俺のこと怖がらねーよな。飛竜でさえ怯えるのに。実はおまえ、意外と肝据わってんのな」
「きゅ?」
きょるん、と小首を傾げるフラム。その様子に、ジェラルドはふと目をすがめる。
(……そういえば、最初からこいつにべったり懐いてたな、この小動物。アルヴィーの中の《上位竜》の気配に気付かなかったのか? 普通、こういう小動物の方が気配には敏感なもんだが。同じ竜種の上位種ってことで飛竜が過剰に反応しただけか、それとも……)
「きゅー……」
ジェラルドが見据えているのに気付いたのか、フラムが居心地悪そうに身をよじる。アルヴィーが庇うように両手で抱え込んだ。
「そんな睨むなよ、こいつ怖がってんじゃん」
「《擬竜兵》にも怯えない奴が俺が睨んだくらいで怖がるか。それよりおまえは、上司にきちんと敬語を使えるようになれ」
「う……」
痛いところを突かれ、これまた小動物のように縮こまるアルヴィーを一瞥すると、ジェラルドはため息をついた。先は長そうだ。
と、その時部屋のドアをノックする軽やかな音が響いた。
「――カルヴァート大隊長はご在室でしょうか」
「ああ、入っていいぞ」
「失礼致します」
ドアを開けて入室して来たのは、騎士団の制服とはまた違うお仕着せを着た、二十歳ほどの女性だった。亜麻色の髪をきっちりと纏め、薄くそばかすが浮いているのがどこか愛嬌を添えている。
「お仕事中失礼致します。先ほどラストゥア通りの仕立て屋から言伝がありまして、ご注文の品が出来上がりましたとのことです。つきましては、サイズの確認なども含めまして、ご本人様にご来店いただきたい、と……」
「ああ、そうか。――よし、アルヴィー。行って来い」
「え、俺が? だって頼んだのあんたじゃ――」
「俺が注文したのはおまえの略装一式だ。騎士学校の生徒は制服がそのまま従騎士の正装として使えるが、生徒以外が騎士学校の制服を着用するのは禁止だからな。それ以外の従騎士用の略装の規定がある。俺が注文したのはそれだ。特別教育の受講にはそれを着て行け。シャツとスラックスは他にも使い回せるし、持っといて損はない」
「……俺、そんなの払える金ねーけど」
「阿呆。従騎士にそんなもん出させる主がどこにいる。基本的に、従騎士の生活の面倒は主が見るもんだ。そもそも従騎士を任命できるのは一級騎士以上だぞ? そんな半端な財力の人間がいるか」
一級騎士ということは、すなわち貴族出身である。それに国からの給金もちょっとしたものだ。結果、一級クラスの騎士は大抵、下手な下級貴族の当主より財力があったりする。従騎士の一人や二人、面倒を見るくらいはどうということもないのだ。
「それに、王都の地理を掴むにも多少出歩いた方がいいだろう。それとも、ここでずっと本と睨み合う方がいいか?」
「行く!」
条件反射のように思わずそう答え、次いで困ったような表情になるアルヴィー。
「あ……でも、ラストゥア通りってどこだ?」
「あの……」
と、おずおずと声をかけてきたのは、存在が空気になりかけていた女性だ。
「よろしければご案内しましょうか? わたしも所用で外に出る予定がありますし、少し足を伸ばせば……ラストゥア通りなら道も分かりますし」
「なら、悪いが頼めるか。何しろこいつは王都に来たのは初めてで、右も左も分からない有様だ」
「はい、お任せください」
当のアルヴィーを余所に、とんとんと話が纏まった。どこかで見たような図だ。
こうして、アルヴィーは王都ソーマに来てから初めて、街に出ることとなったのだった。
◇◇◇◇◇
ソーマの街は、今まで目にしたことがないほどの人でごった返していた。
「ふわー……」
ぽかんと口を開け、アルヴィーは活気溢れる混雑を眺める。隣に立つ女性がくすくすと笑った。
「これくらいはいつものことよ? その子、盗られないように気を付けてね。カーバンクルってこんな街中じゃ本当に珍しいのよ」
「だってさ。この袋にでも入ってろ」
「きゅっ」
アルヴィーは肩の上で落ち着いていたフラムを鷲掴み、持って来た小袋に詰めて首に掛ける。執務室に置いて行こうとしたのだが、例によってきゅーきゅー鳴きながらアルヴィーの肩にしがみ付いて離れず、やっと引っ剥がしたと思ったらつぶらな瞳をうるうるさせて見つめられたため、諦めてそのまま出て来たのだ。念のために袋を持って来ておいて良かった。
「ラストゥア通りはこっちよ。途中まではわたしの行き先と同じ道ね」
案内役を買って出てくれた彼女は、リーネ・エルダと名乗った。騎士団の本部に勤めてはいるが、騎士ではなく王城から事務仕事のために派遣されている文官だという。
「仕事中なのに俺の案内なんかしてていい……んですか」
「いいんですよー。文官の中でも下っ端で、雑用が主ですもの。ああやって騎士様方に伝言を伝えたり、書類を届けたりするのが仕事なの。――でもあなた、凄いわね。あのカルヴァート大隊長の従騎士だなんて」
「そうかな……」
「そうよ。あの方は本当にお強くて、憧れてる騎士様も多いんだから」
うっとりした表情のリーネに、アルヴィーは乾いた笑いを浮かべた。確かに強いのは認める。が、騎士たちに信奉者が多いと言われても何だかピンと来ない。
とりあえず、ペンやインクなどの消耗品の注文を届けるというリーネの用を先に済ませることにして、彼女の後をはぐれないようについて行く。辿り着いた文具店は小ぢんまりしていて、うっかりしていると見落としそうだ。リーネが中で注文をしている間、アルヴィーは手持ち無沙汰に店の表で待つ。
(……ファルレアンの王都、かあ。ちょっと前までは、こんなとこに来るなんて思いもしなかったな)
レクレウスの王都レクレガンとはどこか違う、明るい印象。それは建材の色合いの違いかもしれないし、人々の活気の差かもしれない。レクレガンではまだ、戦争は遠いものでしかなかったが、それでも物流や税など、庶民は身近なところに戦争の影を確かに感じていた。
「どいてどいて!」
荷を積んだ荷馬車が目の前を通り過ぎて行く。と、その荷台から果物が一つ転がり落ちかけたので、アルヴィーはとっさに駆け寄ってそれをキャッチした。
「おい、そこの荷馬車のオッサン! 落としたぜ!」
「おう、兄ちゃんあんがとよ!――何だその右手、怪我でもしたのか?」
「ああ……まあね」
馬を止めた御者に果物を渡しながら、アルヴィーは曖昧に笑う。現在彼は、異形の右手を街中で人目に晒さないため、肘まである長い手袋を借りてはめていた。服も長袖なので、手袋を外しでもしなければ見咎められることはないだろう。
アルヴィーが果物を拾ってやった荷馬車の他にも、やはり似たような荷車を牽いた荷馬車が、眼前の通りを行き交う。良く見ると、荷馬車が通れる部分がきちんと決められているらしく、人通りの多い中でも互いに通行の障害にはなっていない。
感心しながら人や荷馬車の流れを見ていると、
「――暴れ馬だーっ!」
不意にあがった声に、アルヴィーははっとそちらを見た。すると注意を促す声に被さるように、馬の鋭い嘶き。
程なく馬蹄の音が響き始め、一頭の馬が鞍の両側に荷を提げたまま走って来るのが見えた。相当興奮しているらしく、荒い息に口の端からは泡が零れている。せっかく決まっている通行区分も暴れ馬には通用せず、歩行者に突っ込む勢いで突進して来る馬に、人々は悲鳴をあげて逃げ惑った。
「……シア様!」
そんな人々の悲鳴の中、耳に飛び込んできたその声に、アルヴィーは思わずそちらを振り返る。
(――シア!?)
真っ先に思い出したのは、《擬竜兵》の管理を担当していた女性研究者、シア・ノルリッツ。だが彼女はレドナで行方不明になったはずだ。こんなところにいるはずがない。
実際、振り返った先にいたのは小柄な少女と若い女性の二人組だった。少女の方は小花柄のワンピースに、フード付きのケープで半ば顔を隠している。どこかのお嬢様といった雰囲気だ。若い女性の方はその付き人というところか。叫んだのはその付き人の女性の方らしい。
彼女たちも暴れ馬の進路から逃れようとしていたが、人が多い上に混乱が祟り、思うように動けないようだった。そうしている間にも、暴れ馬はどんどん近付いて来る。
と、
『……うん? あれは……』
ふと自分の内側で呟いたアルマヴルカンに、アルヴィーは何事かと尋ねようとした。しかしそれは、新たな悲鳴といよいよ間近に迫った馬蹄の音に霧散する。今はまだ致命的な被害は出ていないようだが、このままでは遠からず群衆に突っ込んで大惨事になりかねない。
「――何!? どうしたの、何があったの!」
「ちょうど良かった、こいつ頼む!」
ちょうど店から出て来たリーネに小袋ごとフラムをパス。
(ええい、後で怒られたらそん時のことだ!)
そう肚を括って、アルヴィーは馬の進路に飛び出した。人々の間から悲鳴があがる。もはや周囲のことすら認識していないのだろう、暴れ馬はアルヴィー目掛けて真っ直ぐに突っ込み――。
「――いい加減、おとなしくしやがれっ!!」
アルヴィーの一喝が空気を震わせた。それに打たれたがごとく、暴れ馬がつんのめるように急停止。棹立ちになって勢いを殺す。そこへ駆け寄り、手綱を掴んだアルヴィーは、それを固く握って馬を押さえ付けに掛かった。並の人間なら馬に引きずられて振り回されるところだが、生憎こちとら膂力では馬にも負けない自信がある。思いっきり手綱を引っ張って馬の動きを阻みつつ、駄目押しに魔法だ。
「圧し潰せ、《重力陣》!」
重力魔法、ただし対象は自分自身だ。馬に掛けたら馬自身の重量で足をへし折ってしまいかねない。その点自分なら高重力にも耐えきる身体強度がある。
自身を楔としての馬との根競べは、アルヴィーに軍配が上がった。びくともしないアルヴィーに馬も疲れてきたのだろう、動きが緩慢になってくる。やがて興奮も静まってきたのか、息遣いも穏やかになってきた。
「……おお!」
そこへようやく駆け付けて来た馬の主らしき中年男性が、感嘆の声をあげた。
「あんたが止めてくれたのか、ありがとう! よく無傷で止めてくれた!」
歓喜のあまり彼が駆け寄って来ようとしたので、アルヴィーは慌てて魔法の発動を止めた。馬も大分落ち着いたようだし、この分ならもう心配はないだろうと踏んで手綱を渡す。と、周囲の群衆から喝采が飛んだ。
「いいぞー、兄ちゃん!」
「すげえ、一人で暴れ馬止めやがったぜ、あの若いの!」
「やるなあ!」
ちょっとした見世物になってしまったが、周囲に大した被害が出なかったのは喜ばしいことだ。見たところ馬にも怪我らしい怪我はない。馬や牛などは庶民にとっては財産の一種でもあるので、馬の主である男性が躍り上がって喜ぶのも無理はなかった。だが、落ち着いたらしい馬を撫でてやろうとすると、怯えたように避けられる。アルヴィーは苦笑して手を引いた。馬は基本的に臆病な動物なので、一喝した時にアルヴィーの中の竜の気配を感じて怯えたのだろう。まあ、それを狙っていたのだが。
「いや、すまんねえ。こいつさっき虫に刺されて、驚いて走り出しちまったんだ。こいつがいないと荷が運べなくなるから、本当に助かったよ!」
何度も感謝を述べながら馬を連れて行く男性を見送っていると、横合いから声をかけられた。
「あなた、凄いわね! あんな暴れ馬を一人で止めるなんて!」
そこに立っていたのは、フード付きケープを被った小柄な少女。先ほど“シア”と呼ばれていた、あの少女だった。後ろでは、付き人らしき女性が慌てたように少女を引き留めようとしていたが、少女の方は意に介した様子もない。
「さっきのは、どうやったの? 魔法?」
「え、ええと……まず馬を驚かせて足を止めて、力比べしたのは重力魔法を自分に掛けて……」
などともごもご説明していると、付き人の女性が少女に囁いた。
「――アレクシア様、もうよろしいでしょう。お早くお戻りくださいませ」
おそらく本人は極限まで声をひそめたつもりだったのだろうが、アルヴィーの聴力はバッチリ強化済みのため、はっきり聞き取れてしまった。まあ確かに、お嬢様が得体の知れない男にひょいひょい話しかけに行ったら、お付きとしては心配だろう。ざっと周囲を見回して人だかりの中にリーネの姿を見つけ、アルヴィーはさっさと話を切り上げることにした。
「じゃあ俺、他にも行くところあるからこれで」
「あ、ちょっと――」
少女が引き留めようとするが、アルヴィーは可及的速やかに撤退。リーネと合流して人だかりを抜けた。
ラストゥア通りに向かう道すがら、彼女に事情を説明すると、アルヴィーはアルマヴルカンに尋ねる。あの時言いかけていたことが気になったからだ。
(……なあ、さっき馬が暴れてた時、何言おうとしてたんだ?)
『ああ……先ほどの娘が、少々珍しくてな』
(さっきのって、あの女の子? 珍しいって何が?)
『あの娘、自身はそこそこ強い火の力を抱えているが、なぜか風の下位精霊がいくつか纏わり付いていた。だがその割に娘自身からは風の力を感じ取れなかったのでな』
(ふーん……でもまあ、そういう人もいるんじゃねーの? 俺だって火系統特化だけど、地系統の魔法も使えるぜ)
『それは元々、主殿に地系統の適性があったということだろう。適性がなければいくら修練してもほとんど身には付かん。主殿の場合は単に、わたしの欠片を植え付けられて火系統特化に塗り替えられたようなものだ。あの娘とはまた違う』
(……おまえ今、さらっと怖えーこと言わなかった?)
聞きようによっては大変エグいことをさらっとのたまったアルマヴルカンに、ちょっと戦慄するアルヴィー。欠片だけで人間の持つ基本適性を塗り替えるとか、よくよく考えると恐ろしい話だ。やはり竜という生物の力は規格外である。よく魂ごと食い潰されずに済んだものだと、思わず安堵の息をついてしまった。
「――さあ、ここからラストゥア通りよ」
そこで聞こえたリーネの声にふと現実に立ち返る。しかし彼女が指し示す方を見たアルヴィーは、再び現実逃避したくなった。
「……なに、このいかにも庶民お断り的な雰囲気」
塵一つなく掃き清められた石畳の両側に並ぶのは、いずれも瀟洒さを競うような店構えばかり。道を行き交うのは荷馬車ではなく家紋が入った乗用の馬車で、今しがた客を見送って店先に出て来た店員でさえ、きっちりと制服を纏いどこか品の良さを漂わせている。
「確かに、この辺りのお店って貴族御用達が多いのよね。でも、平民も入れないわけじゃないのよ。貴族に仕える平民の小間使いとか、結構出入りしてるし」
「何か俺もそう思われそうだな……」
実のところ、形としては従騎士としてジェラルドに仕える格好なので、あながち間違いでもないのだが。
ともあれ、入り難いからといって回れ右するわけにもいかない。アルヴィーは覚悟を決めて――というと大袈裟だが――その空間に足を踏み入れるのだった。
◇◇◇◇◇
「……よろしいですか、アレクシア様。先ほどのように得体の知れない下々の者に軽々しく近付かれるのは、何とぞお止めくださいませ! そもそもこうして城下を歩かれること自体、アレクシア様のご身分を鑑みれば本来あり得ないことで――」
「もう、分かっているわ。でも、自分の目で民の生活を見て回るというのも、重要なことではなくて? ダメなら最初からお姉様も許してくださらないでしょ」
「そ、それは……」
「こうしてあなたを連れて行くことで許可が下りているんだから、お姉様だって民の生活を知ることは大事だと思ってらっしゃるのよ。だったら、こうして見聞きしたことをお姉様にお伝えするのが、妹としてのわたしの役目だわ」
少女はやおらフードを取り、自分を諫める付き人をくるりと振り返った。赤みがかった金髪が、普段の手入れの良さを物語るようにさらりとなびき、きらきらと光るペリドットグリーンの瞳は宝玉を思わせる。年は十二、三というところ。今まさに咲き初める花のような、瑞々しく生命力に溢れた美少女だ。
「……でも、さっきの暴れ馬を止めたあの平民は、なかなか良かったわね。騎士団に入れば出世するかもしれないわ。ああ、でも馬に怖がられるようではダメかしら」
「馬に乗るだけが騎士ではありませんよ、アレクシア様」
「分かっているわ。マグダレナも乗馬は苦手だものね」
「なっ!? そ、それはあえて不得手を挙げるならばということで……僭越ながら、人並み以上には乗れると自負しておりますっ!」
マグダレナと呼ばれた女性はわずかに赤くなってそう抗弁する。黒髪黒目の怜悧な印象の女性だが、半分ほどの年齢の少女に言い負かされる様はどこか微笑ましい。
「はあ……ともあれ、あまり軽はずみなことはなさいませんよう。淑女たる者、本来軽々しく殿方に話しかけるなどもっての外で――」
「だーかーら、分かっていると言ってるでしょう。わたしももう十二になったのよ。声をかけて良い相手とそうでない相手の区別くらい付けるわ」
両手を腰に当て、少女はむくれてみせる。
「……それならよろしいのですが。御身に害が及ぶようなことは、万が一にもあってはなりませんので」
「仕事熱心よねぇ、マグダレナは」
いっそ感心したようにそう言うと、少女は再び前に向き直った。
「今日はもう戻るわ。行きましょう、マグダレナ」
「はい、アレクシア様」
少女に一礼し、黒髪の女性も歩き出す。
建物の間からでも良く見える、天を衝く白亜の城――《雪華城》へと向かって。
〈挿絵・大陸概要図〉




