第16話 決別
「――魔動巨人三体中一体が完全破壊、二体は中破で撃退、か。まあ、そこまで悪くはないな」
報告を受け、ジェラルドはひとりごちる。
一応、魔動巨人撃破のための別動隊を率いている立場の彼だが、アルヴィーは放っておいても魔動巨人程度なら一人で倒して帰って来るだろうし、第一二一及び一三八魔法騎士小隊もちゃんと隊長がいる。というわけで、現場の方は彼らに任せて、ジェラルドは彼らの連絡役兼万一の場合のフォロー要員として指揮所で待機していた。そもそも指揮官とは、軽々しく現場に出るものではない――などとは言わないが。レドナでは盛大に出張った挙句《擬竜兵》を一人倒してもいるので。
しかし、とジェラルドはふと考えた。
(魔動巨人を操ってたって小娘二人、アルヴィー・ロイにも心当たりがないってことは、軍人じゃないってことだ。いくらあいつが軍内の情報に疎かったとはいえ、あれだけの芸当ができる、しかも若い女となりゃ、どれだけ隠しても多少は噂に上る。それがまったくないってことは、あの二人は中途参入……おそらく、将官か貴族の個人的な持ち駒だ。あの二人の主が誰なのか調べられれば……)
とはいえ、まさかレクレウス陣に潜り込むわけにもいかない。その辺りは、諜報部に任せるしかないだろう。そのための部隊なのだし。
少女たちの素性の調査は諜報部に丸投げすることにして、ジェラルドは同じく指揮所で本隊の指揮を執るグラディスに声をかける。もちろん、対外的に問題ない口調でだ。
「アークランド一級騎士、魔動巨人は大体片付いたらしいですが、前線はどのような具合です?」
「悪くはないわね。魔動巨人が消えてくれた分、戦力差が縮まったから」
「それは重畳。――次席指揮官殿にはいささか申し訳ないことになりましたが」
「いや……貴殿の言う通り、戦闘開始とほぼ同時に魔動砲で吹き飛ばされたのではな。手出しもできんわ。それに彼奴ら、最初から魔動巨人は破壊するつもりだったのだろう。貴殿の部下と入れ替わりに現場に遣った者たちから、先ほど連絡があったのだが、魔動巨人の残骸の中に魔石らしきものがなかったそうだ。予め、魔石は回収しておいたのだろう」
次席指揮官はかえって諦めがついたのか、むしろ落ち着いた様子でそう言った。ジェラルドは、西の空に舞っていた飛竜を思い出す。
「なるほど……哨戒部隊かと思っていたが、あの中のどれかが密かに魔石を回収していたのか。――しかし、ずいぶん早く人を遣りましたね?」
「貴殿の部下らが早々に魔動巨人を倒してくれたのでな、おかげで戦線が大分向こう側に押し戻せている。その分、こちら側に敵がおらんのでな。ゆっくりと残骸を調べられるというわけだ」
次席指揮官も抜け目がないというか、転んでもただでは起きないというか。破壊されたとはいえ、レクレウスの技術を取り込んでやろうという目論見は、まだ健在らしい。
「ま、これでレクレウスの魔動巨人稼働率は多少落ちます。間接的に、他の戦線への支援にもなるでしょう」
「うむ、中破の二体も、修理にはしばらく時間が掛かるだろう。それに《擬竜兵》もこちらに付いた。ここでレクレウスの侵攻を押し返せば、大分楽になる」
次席指揮官は楽観的だったが、ジェラルドには気に掛かることが一つあった。
(しかし、アルヴィーの邪魔をした奴ってのが、引っ掛かるな……“見えない刃を飛ばす、魔剣の使い手”。レドナの時に会った、あの男か? しかし、だとしたらあの時レクレウス軍の人間を皆殺しにした奴が、今度はレクレウス軍を利したことになる……)
あの青年はあの時、自分はレクレウス軍の人間ではないと明言していた。自身が忠誠を捧げる主はただ一人だと。ならば、彼が“我が君”と呼んだ女、レクレウス軍の研究者シア・ノルリッツと名乗っていた彼女の意向なのか。しかし、同僚を皆殺しにして姿を消した女が、今更古巣に義理を果たしたりはしないだろう。
どうにもその意図が分からず、ジェラルドは頭を掻いた。
(分からんな……まあ、あんな頭の線が何本か飛んでるような連中の考えなんぞ、そうそう理解できても困るか。こっちは常識人なんだ)
部下の一部からは異論が出そうなことを考えながら、ジェラルドはその件については一時棚上げにした。
「……ま、当面はレクレウス軍を国境の向こうへ叩き返す方が優先か。もっとも、向こうの上層部がまともならそう時間は掛かるまいが」
「なぜそう思うのか、訊いても良いかしら?」
呟きを聞きとがめられたらしく、グラディスが尋ねてくる。ジェラルドは肩を竦めた。
「単純な計算ですがね。当初の彼我の兵力はほぼ拮抗。だが、レクレウスが魔動巨人を出して来たおかげで、こっちも戦力の増強を余儀なくされた。が、ここでその魔動巨人が全機消えた上に、《擬竜兵》がファルレアンに付いたことも向こうに知れたわけです。さあ、この時点で彼我の戦力差は?」
「つまり、こちらの頭数が増えた上に《擬竜兵》まで参戦したのに対して、向こうの兵力はほぼ振り出しに戻ったわけね?」
「一般兵には《擬竜兵》の情報は伏せられていたかもしれないが、指揮官クラスなら確実にその性能を知っているはずです。まともな指揮官なら、これ以上侵攻しようとしたところで兵力をすり減らすだけなのは分かるでしょう。つまりあれです。“割に合わない”」
「なるほどね。向こうも総兵力はこちらと二万ほどしか違わない。魔法を発現する人間の割合を考えれば、実際の兵力差はもっと少ないわ。これ以上攻めても、その差が余計に縮まるだけ。しかもこの旧ギズレ領は、イル=シュメイラ街道が通るレドナと比べると、奪っても旨味は少ないわね」
「その通り。向こうの指揮官は今頃、王都に撤退でも具申してるかもしれませんね。それが真っ当な判断というやつだ。俺が向こうの指揮官でもそうしますよ」
ただ――と、ジェラルドは目をすがめる。同じ懸念を感じたのか、グラディスも眉をひそめた。
「でも……王都の方がそれを許さない可能性はあるわね?」
「確かに。レドナの占領に失敗した以上、レクレウスは代わりの橋頭堡を必要とするはずです。少しでもこちらの領土内に侵攻していれば、勝った暁にはそのまま自国領に編入。負けても交渉材料にできる可能性がある。――それに、面子の問題もあるでしょう。二年前、我が国の先代陛下が崩御なさった後、レクレウスは笠に掛かって余計に勢いを増して侵攻してきた。こちらの女王陛下がまだ十を過ぎたばかりだと、言葉は悪いが舐めて掛かったからです。それが今ではこの有様。国内でも不満が出ているかもしれない。だからこそ、あの時継戦を決めた連中には成果が必要です。それも、目に見える成果が」
そう言って、ジェラルドはニヤリと笑った。
「だが、俺はある意味、それを期待しているところもあります」
「なぜ……と訊いてもいいかしら?」
「派閥の問題ですよ。この状況下、強硬派がいればおそらく穏健派もいくらかはいるはず。そちらの派閥は、今のこの状況にそれ見たことかと、内心舌を出していることでしょう。強硬派は彼らを黙らせるために成果を求めて撤退を許さないかもしれないが、それは諸刃の剣だ。その状況で大敗でもした日には、穏健派は黙っていないはず。下手をすれば国が割れる――それはそれで、見物だと思いませんか?」
聞きようによってはもう一戦望んでいるとも取れる言葉に、グラディスはため息をついた。
「……あなた、それ外ではあまり吹聴しないようにね?」
「もちろん」
ジェラルドはいっそ胡散臭いほどの完璧な微笑を浮かべる。貴族など、これぐらい腹黒くなくてはやっていられない――とは言わないが。権力闘争から遠い下級貴族などは、まことに温厚篤実な紳士淑女も多いのである。ただ、ジェラルドの場合は王家とも遠いながら血縁がある大貴族の上、次男である彼は長男のいわば“スペア”としてそれなりの教育をされたというわけだ。もっとも長男はつつがなく成長したので、ジェラルドも心置きなく才があった武芸の道に進み、現在魔法騎士団で大隊長の椅子に座っている。
(何にせよ、さっさと片付いてくれるに越したことはないんだがなあ……)
笑みを引っ込めたジェラルドは内心でぼやきながら、遠く西方を見やる。
――双方が兵を引いたのは、その一時間ほど後のことだった。
◇◇◇◇◇
侵攻を押し返し、一息ついた格好のファルレアン陣とは対照的に、レクレウスの陣ではどこか諦めたような雰囲気が漂っていた。
「――おい、聞いたか? ファルレアンの方に、化け物みたいな魔法を使う魔法士が現れたらしいぞ」
「ああ、魔動巨人の魔動砲を一人で止めるって、嘘みたいな話の奴だろ?」
「……そいつ、元はこっちの軍の生体兵器だって話、本当かな?」
「けど、そんな話聞いたことないぜ。どっから出て来たんだ、そんな話?」
「レドナ攻めの後詰だった連中の間では、結構噂になってるぜ」
兵士たちの間で密かに流れる噂話と同様の話は、上層部の指揮官クラスの人間の耳にも届いていた。ただしこちらはただの噂話ではなく、《擬竜兵》離反という確固とした情報として。
「うまくない……実にうまくない話です、閣下。兵たちの間にも《擬竜兵》の情報が……」
「まあ、現在はまだ噂話のレベルだ。何とか鎮静化を図るしかあるまいな。わたしもかの《擬竜兵》については調べさせたが……他の被験者ならまだしも、彼に関しては、情報が広まるのはまずい。下手をすれば、九ヶ月前の一件までもろともに引きずり出されかねんからな。ファルレアン側で元辺境伯が拘束された以上、事の次第はファルレアン側には知れたと見るべきだろうが、それがこちらまで流布する事態は避けねばならん。もちろん我がクィンラム家も情報操作には尽力するが……」
ナイジェルはそう言ったが、それでも、庶民の間での噂話までを完全に封じ込めることは不可能だろうとも見ていた。いずれレクレウス側にもかの事件の裏側が噂として漏れ始めるのは避けられまい。いくら戦争状態とはいっても、国境が接する辺境などでは、両国の行き来が完全に途切れるわけではないのだ。レドナやここ旧ギズレ領のように戦場となった地域はまだしも、他の地域では未だに、国境を跨いで生活物資などを取引している人里は少なくない。何しろ、物資を運ぶにも相応の費用あるいは労力が要る。遠くの自国領より近くの敵国領で賄う、あるいは売り捌く方が、手間も掛からず実入りも増えるというわけだ。もちろん通貨の違いはあるが、そもそもそういった辺境の農村などでは物々交換が未だ幅を利かせているので、さして障害にはならない。
もちろん両国とも、主要な街道などは封鎖しているが、無数にある集落の生活道まですべて封鎖するのは現実問題として不可能である。それらのルートから話が漏れるのは避けられないと、ナイジェルは判断せざるを得なかった。もっとも、魔法がそれほど普及していない地方の農村などでは、情報伝達速度はそれほど速くはない。実際国の反対側のとある村では、ファルレアンと開戦してから半年近く自国が戦争していることを知らなかったという、笑って良いのか笑えないのか分からない話もある。そんなものだから、多少なりとも事の露見を遅らせることは不可能ではないだろう。それを最大まで遅らせるのが、クィンラム家の腕の見せ所ともいえるわけだ。
「ともかく、わたしは王都に連絡を取ってみる。指揮官殿は、まずは兵たちを落ち着かせるが良いだろう」
「は、仰る通りで……」
指揮官が敬礼して行ってしまうと、ナイジェルも王都と連絡を取るため、専用のアイテムを置いてある天幕に向かう。と、そこへ従者の少女たちがやって来た。
「旦那様、魔動巨人、言われた通りに台車に乗せて来ました」
「ああ、良くやった。これで王都にも、少しばかりは顔が立つというものだ」
今回の一戦で唯一戦果といえるのは、彼女たちによって魔動巨人の回収と始末がほぼ成功したことくらいだ。擱座した魔動巨人の魔石は哨戒ついでに回収させていたため、本体の方は遠慮なく吹き飛ばして来いと彼女たちに命じていたのだが、二人はそれを見事にやり遂げた。その際に《擬竜兵》及びファルレアンの魔法騎士と戦闘になり、頭部の術式伝達機関と魔動砲を破壊されたそうだが、それでも何とか持ち帰って来たのだから手柄と言って良いだろう。回収した二体の魔動巨人は、遅ればせながら到着した新たな台車によって王都まで運ばれ、修理される予定である。
「しかし、裏を掻いたつもりでおまえたちを二手に分けたが、見抜かれていたか……やはりわたしは、戦では素人だな」
ナイジェルは《擬竜兵》に二体まとめて倒されてしまうことを避けるため、わざわざ二方面に魔動巨人を展開させた。そうすれば、片方が《擬竜兵》に出くわしても、もう片方が擱座した魔動巨人を確実に破壊できる。《擬竜兵》と当たった方の魔動巨人が行動不能になったとしても、残った無事な魔動巨人でそちらも破壊して情報漏洩も防ぐ――というのが、彼の目論見だったのだが。まさか、弓矢で魔動巨人を射貫くような芸当ができる者がいるなどとは、さすがに考慮の外だった。
「とりあえず、おまえたちはしばらく身体を休めていろ。ああ、それと魔石の装身具は一応返して貰うぞ。あれも本来は国の所有物だ。今回は事態が事態だけにあんな真似もできたが、本来国の所有物を勝手に弄るのは違法だからな。懐に入れたりしたら手が後ろに回るぞ?」
主の言葉に、少女たちは慌てて腕環と足環を外した。それを主に渡し、一礼して離れて行く。
(さて……王家の器がどの程度か、測らせて貰おうか)
ナイジェルは胸中でそう呟き、天幕の入口を潜った。天幕の中には台座が置いてあり、その上には一枚の鏡が据えられている。王都にもこれと対になる鏡があり、魔法で双方を共鳴させて声や映像を届ける仕組みだ。稼働させるにはキーとなるアイテムが必要となり、現在はナイジェルと指揮官クラスがそれを所持している。そしてそのキーアイテムにもランクがあり、ナイジェルが持つそれは指揮官のものより上位の人間への通信が可能だった。
キーアイテムで鏡を起動させると、ナイジェルはその場に跪く。ややあって、鏡から声が聞こえた。
『――報告を待っていたぞ、クィンラム公』
「は、殿下におかれましては、ご機嫌麗しく」
通信の相手は、王太子ライネリオだ。彼は王妃に良く似た容貌をしかめ、
『それで、魔動巨人の件は? 一体は諦めるより他ないということだったが、残る二体は回収出来たのだろうな?』
「はい、《擬竜兵》や魔法騎士と戦闘になり、損傷は受けましたが、擱座した一体を完全に破壊し、残る二体は回収に成功しました。本日、到着した台車に引き渡し、王都に向かったところでございます」
『そうか、良くやった』
ライネリオが思わずといった様子で声を弾ませる。
「しかし……畏れながら、殿下。二体の内一体の損傷は《擬竜兵》によるものです。かの者は明確に、我々への敵対意思を示しました。ですがその者の素性が素性だけに、表立って糾弾することは難しいと思われます」
『なぜだ? 国を裏切った大罪人ではないか!』
「その者は九ヶ月前、魔物に滅ぼされた辺境の村の――例の、ギズレ元辺境伯の配下の失態の後始末に使われた、あの村の生き残りです。軍も、あの一件を国内の戦意高揚に利用しました。下手にあの《擬竜兵》を糾弾すれば、ファルレアンがその一件を喧伝し、こちらの国民感情に揺さぶりを掛けてくることも考えられます。何しろあちらは、《擬竜兵》本人や元辺境伯といった証人を押さえているのです」
『む……おのれ、たかが平民風情が、ずいぶんと祟ってくれるわ……! 村の一つや二つ滅んだとて、それが我が国のためとなるならば、名誉と感じて然るべきであろうに! 卑しい村人風情が国の礎となれるのだぞ!』
ライネリオは不快げに顔を歪めて吐き捨てた。彼にとって、辺境の小村など取るに足らない存在でしかない。
「とにかく、その《擬竜兵》の力を間近で見た兵たちの士気が大きく下がっております。それでなくとも、魔動巨人を失った今、《擬竜兵》に対抗できる戦力など我が軍にはございません。いたずらに兵を損耗する前に、後方へ下がった方が後のために有効かと――」
『ならん!』
皆まで言わせず、ライネリオは癇癪を起こしたように叫ぶ。
『父上――陛下も仰ったであろう! レドナへの侵攻が失敗に終わった今、代わって橋頭堡となる地が必要であると! 何としてもその地を落とし、我が国の版図に組み込まねばならんのだ! それにそもそも、卿は指揮官ではない、単なる客将に過ぎん! 越権行為であるぞ!』
「……は。出過ぎたことを申しました」
ナイジェルは内心を押し隠して頭を垂れる。王都での軍議で、ライネリオこそ国王を差し置いて、本来王の臣下である大臣に指図をしていたことは、彼の記憶にも新しい。
(王太子殿下は継戦派の急先鋒であられたな……それがこの泥沼。多少なりとも版図を広げてみせねば、足場を崩される――か)
ナイジェルが冷静にそう分析していることなど知る由もなく、ライネリオはなおも鏡の向こうで言い募る。
『兵員など、減れば徴兵してまた集めれば良いのだ! たかが平民どもが命を惜しむなどおこがましい! 国の盾となるのだぞ、名誉と誇るべきであろう! そもそも我がレクレウス王国が敗北するなどありえん、この王都が落ちぬ限り我が国の負けはないのだ!』
「……は」
『卿は王都へ帰還せよ。ただし部隊の撤退は許さぬ。最後の一兵になろうともその地を我が国の版図に加え、死守するのだ! これは陛下の御意思でもある!』
その言葉を最後に通信は途切れた。ナイジェルは立ち上がり、ただの鏡となったそれに向かって呟く。
「王都が落ちぬ限り我が国の負けはない……か。世間知らずな王子様だ。王都の生活を支えているのは他の領地。王都だけが残ったところで、そのまま干涸らびるだけだというのに」
そもそも都市部というのは大抵の場合、生産するものより消費するものの方が多いのだ。王都レクレガンとて例外ではない。国中から農産物や資源、あるいはその加工品がこぞって集まるからこそ、王侯貴族を含む王都の民は豊かな生活を享受できている。だというのに、先ほどのライネリオの言葉は、王都さえ無事ならそれらの生産地はどうなろうと構わないと言ったに等しい。
ナイジェル自身もまた、決して小さくない領地を持つ領主でもある。それだけに、次代の王となる王太子の見識に、暗澹たるものを感じずにはいられなかった。
(王侯貴族の生活しか見てこなかった弊害か……あの王子様には、民も家畜と大差ないのだろうな)
ナイジェルとて、自身が特に民を愛する領主だなどとは思っていない。だが、自分たちの生活が平民なくして成り立たないものであることくらいは理解している。自分たちが毎日当たり前のように享受している衣食住も、突き詰めればそのほぼすべてが平民の手によるものだ。ゆえにナイジェルは、自領の民を甘やかしはしないが搾取もしない。死罪覚悟で逃散される方が面倒だからだ。
しかしそうしてそれなりに苦心しながらも治めている己の領地すら、王太子にとっては自身が住む王都の盾に過ぎないのだろう。そう理解した瞬間、ナイジェルは自身の中の申し訳程度の王家への忠誠さえ、急速に薄れていくのを感じた。
(あの王太子が王になれば、この国にもいよいよ先がないな)
そしてそうなれば、クィンラム家やナイジェル自身も王家や他の貴族共々心中である。そんな未来を受け入れる気は、彼にはない。
――答えは、出た。
ナイジェルは天幕を出ると、部下を呼び寄せた。
「情報部の連中を動かせ。もう情報収集の段階は終わりだ、“頭”を排除して取り込めと伝えろ。それと、国内の穏健派の貴族に密かに接触を」
「はっ」
一礼し、部下は素早く立ち去る。そこへ、入れ替わるように指揮官がやって来た。
「失礼致します、公爵閣下。王都は何と……」
「ああ……後退を具申してみたのだがな、王太子殿下には聞く耳を持っていただけなかった。最後の一兵になろうともこの地を版図に加え、死守せよとの仰せだ。王都が落ちぬ限り我が国の負けはない、と徹底抗戦をお望みのご様子でな……」
「! 左様ですか……」
指揮官の表情がこわばる。実質、王太子に捨て駒扱いされたようなものだ。無理もないだろう。
「殿下はよほどファルレアン憎しで考えが凝り固まっておられるのだろう。ついに翻意してはいただけなかった。力が及ばず、貴官らには申し訳ない」
「いえ……勿体無いお言葉です」
指揮官と別れると、ナイジェルはふと薄く笑みを浮かべた。これでこの地の兵士たちには、王家――特に王太子への反感が芽生える者も多いはずだ。士気はさらに下がり、中には命惜しさに脱走する兵も出るかもしれない。
(まずは、王太子の足場を揺さぶる。そして穏健派の貴族を上手く動かせれば……)
クィンラム家は長きに渡り、王家の影として存在してきた。その立場そのものに不満はない。だが、影として仕える相手くらいは選びたいものだ。そしてそれに相応しい器の持ち主がいないのなら――自らが光の下へ出ることも良いだろう。
「……どちらにせよ、まず我々が生き残らねば始まらんか」
そう呟いて、ナイジェルは自らに割り当てられた天幕へと戻って行った。
――そんな彼の姿を見下ろせる立木の梢。その枝に、ブランとニエラはちょこんと腰掛けて空を眺めていた。
「誰だったんだろうなあ……あれ」
「《擬竜兵》から助けてくれた人のこと?」
「……助けて、くれたのかしら」
ブランはあの時のことを思い出す。天から《擬竜兵》を急襲した、見えない攻撃。確かにそのおかげで彼女は逃げおおせたが、なぜその攻撃の主があの時介入したのか、ブランにはさっぱり分からなかった。何となくすっきりしない、居心地の悪さがある。
(あれは……誰? 何のためにわたしを……)
ブランは空に視線をさまよわせたが、もちろん答えなど浮かんでいようはずもなかった。
◇◇◇◇◇
北への帰還の途上。何気なく地上を眺めていたダンテは、ふと目をすがめた。
(……女の子? しかも、追われているのか?)
彼の視線の先を必死な様子で駆けているのは、一人の少女だった。そしてそれを追うのは、どうやら盗賊か何かのようだ。
「ふむ……」
ダンテは少し考え、大蛇の鱗をコツンと叩く。
「《トニトゥルス》、向こうだ」
大蛇は心得たというように、空中を滑るようにして追跡劇の舞台へと近付いていく。その背で、ダンテは愛剣を抜いた。
(事情を聴かないと何とも言えないけど……女性が追われてるのをそのまま見過ごしたとなると、我が君にも顔向けできないしな、騎士としては)
大蛇《トニトゥルス》は高度を下げ、優雅に身をくねらせる。突如降下して来た巨大な翼ある蛇に、追う方も追われる方も、悲鳴をあげて足を止めた。
「じゃあ《トニトゥルス》、ここでおとなしく待っておいで」
利口な使い魔の鱗を軽く撫で、そしてダンテは次の瞬間、ひょいとその背から飛び降りた。
(――どうしてわたしが、こんな目に)
少女は絶望に身を震わせていた。
必死に逃げ惑っていたその眼前に、いきなり舞い下りて来た巨大な空飛ぶ蛇。彼女の体力はもう限界だった。足を止めてしまったが最後、崩れ落ちるように座り込んでしまう。
生まれてこの方、これほど必死に走ったことなどなかった。彼女はれっきとした貴族令嬢であり、物心付いた頃から走るなどはしたないと教育されてきたのだから。しかし今は形振りなど構っていられず、こうして死に物狂いで駆けて来たのだ。だがそれももう、ここで終わるのだろう。
(……どうして……どうしてこんなことになったの? お父様……!)
眦には涙が滲み、喉が引き攣れるように痛む。足にはもう力が入らず、踵と爪先は針で刺されているかのようだ。履いているのは彼女のために特注で作られた高級な靴ではなく、平民が履くような粗末な靴だった。纏った服もその辺の町娘と同程度の質素なチュニックとスカート。絹のドレスのような着心地など望むべくもない。
だがこれは、彼女が生き延びるために必要なことだった。
彼女の名はベアトリス・ヴァン・ギズレ――否、もはや貴族を表す“ヴァン”を名乗ることは許されていない。彼女の父であるギズレ“元”辺境伯は、王国への反逆罪によって爵位を剥奪され、今や処刑を待つしかない身なのだから。父だけではない。家族もベアトリスだけを残して皆、父と同じ道を辿ることが確定していた。貴族にとっての反逆罪は、それほど重い罪なのだ。
だが、罪の軽重などベアトリスにはどうでも良い。彼女にとっての父は、優しく頼り甲斐のある存在だった。彼女が求めるものは何でも与えてくれて、蝶よ花よと可愛がってくれた父。いつか相応しい嫁ぎ先を見つけてやるという父の言葉を、彼女は無邪気に信じていたのだ。
あの日までは。
王都から突然やって来た騎士たちによって、父と家族が拘束されたあの運命の日。ベアトリスだけは偶然、居城の庭にいた。庭師自慢の薔薇園の中で、その花の美しさと芳香を楽しんでいたのだ。そこへ、長くギズレ家に仕えていた初老のメイドが険しい表情でやって来て、隠し持っていた小さく纏めた手荷物をベアトリスに渡し、告げた。
――旦那様が反逆罪で逮捕されました。ここはもう危険でございます。お逃げくださいませ。
事態が呑み込めないベアトリスを引きずるようにして、メイドは彼女を自身の居室がある使用人部屋に連れて行き、ベアトリスと身体つきが近いメイドの服を彼女に着せると、特徴的な紅茶色の髪をスカーフで隠し、彼女を外へと連れ出した。そして、街の中にある自分の娘の家に連れて行き、そこで自分ともども旅支度を整え、祖母と孫と偽って街を脱出したのだ。
メイドの行動で、ベアトリスの命はとりあえず救われたが、それは同時に苦難に満ちた逃避行の始まりでもあった。
生粋の貴族令嬢であったベアトリスにとって、粗末な靴で何ケイルも歩くことや、質素な食事、狭くみすぼらしい宿の固いベッドなどは耐え難いものだった。だが、時折聞こえる人々の噂話、捕まれば処刑されるという事実が、彼女を萎縮させ、辛い逃避行に対する文句を奪った。
国境沿いに北へと向かったのは、その辺りなら戦争の影響も少なく、他国へ脱出する道も残されているということだったからだ。だがそのために、不用意に山に分け入ったのは誤りだった。その山を根城とする盗賊たちに程なく見つかり、年老いたメイドはベアトリスを逃がすために盗賊たちの前に立ちはだかって、ほんの一瞬で斬り倒された。彼女の断末魔を振り切るように、ベアトリスは必死で道なき道をここまで逃げて来たのだ。
だが、少女の足で逃げ切れるはずもない。いよいよ追い付かれる、そう思ったまさにその時、眼前に巨大な蛇の魔物までが舞い下りて来たのだった。
――せめて、何も分からない内に一瞬で終わらせて欲しい。
恐怖のあまりそう願った時。
「じゃあ《トニトゥルス》、ここでおとなしく待っておいで」
柔らかくすらある声と共に、一人の青年が眼前に下り立った。
さらりと風に流れる髪に、最高級のエメラルドもかくやという翠緑の瞳。優しげに整ったその容貌に、ベアトリスは思わず目を奪われた。
「あ……あなたは――」
「あァ!? な、何だてめえ!?」
問いかけた声は、しかし盗賊のだみ声に断ち切られる。盗賊たちは青年の背後に浮かぶ大蛇に腰が引けながらも、各々武器を構えて青年を睨んだ。
「じゃ、邪魔する気か!?」
「さあ。邪魔するかどうかは、そっちの答え次第になる。女性一人を追い回して、何をしようとしていた?」
「は、そんなもん決まってんだろうが、そんな上玉みすみす逃がせるかよ! 一通り楽しませて貰った後はどっかの娼館にでも売り飛ばして――」
盗賊の一人がそう喚き立て、青年の注意を引く。その間に、別の盗賊がさり気なく、青年の死角に入り込もうとしていた。気付いたベアトリスが、危険を知らせようと口を開き――。
「そうか。――やっぱり、下衆は下衆か。《シルフォニア》」
青年はそう呟いて、手にした剣を無造作に振るう。次の瞬間、不意討ちしようとしていた盗賊が、見えない刃で両断された。
「ひっ……!」
上下に泣き別れた胴体、飛び散る血。それらをまともに見てしまったベアトリスは、すうっと気が遠くなるのを感じた。
「……あれ」
少女がくたりと倒れ込んでしまったのを見て、ダンテは頭を掻く。
「しまった……普通の女の子には刺激が強過ぎたか」
主がたおやかな見目に似合わず、鮮血飛び散る惨劇にも眉一つ動かさない女傑なので、すっかり忘れていた。
「なッ、て、てめえ一体……!」
がくがくと震えながら、それでもなお武器を向けてくる盗賊たちに、ダンテは温度のない目を向ける。この連中が救いようのない下衆だと知れた以上、彼がやることなど一つだ。
「さあ?――とりあえず、そっちの味方じゃないことは確かだ」
ダンテがもう一度《シルフォニア》を振るい――それで、すべては終わった。
あっという間に血腥くなったその場で、彼は剣を鞘に納めると、どうしたものかと卒倒した少女を見下ろす。
(……やっぱり、我が君にご報告すべきか)
ため息をついて、ダンテは左耳のピアスに触れた。
「……我が君」
『あら、どうしました、ダンテ』
「申し訳ありません。実は――」
少女を救った一件を手短に話す。と、通信の向こうで、主はうふふ、と鈴が鳴るような笑い声を響かせた。
『ねえ、ダンテ。わたくし、実は新しく侍女が欲しいと思っていたところでしたの。騎士であるあなたに、こうして何度もお使いを頼むのも気が咎めますし、城にいる他の者たちではあまり長く外には出せませんものね。簡単なお使いを頼める侍女がいれば、わたくしも助かりますわ。あなたはわたくしの剣ですもの、傍にいて貰いませんと』
「勿体無いお言葉です、我が君。では、そのように」
通信を終え、ダンテは少女を横抱きにして地を蹴った。《トニトゥルス》の背中に下り立つと、少女を寝かせる。
「揺らさないように飛んでくれよ、《トニトゥルス》。――さあ、今度こそ帰ろうか」
カツン、と鱗を叩くと、利口な使い魔はゆっくりと空に舞い上がり始める。広げた翼にたっぷりと風を孕み、見えざる坂を引き上げられていくように。
その姿はすぐに、北の空へと溶け込んでいった。
◇◇◇◇◇
レクレウス軍を偵察していた斥候部隊から急報があったのは、両軍の激突から数時間ほど経った頃だった。
「レクレウス軍が動き出したですって!? 間違いないの!?」
『はっ。再び我が軍に向けて進軍を開始しています』
「そう……分かったわ。良く探ってくれた」
報告を受け、グラディスは顎に手をやり考える。
「さっき押し返されたばかりなのに、もう一度……? これじゃ、こちらもおちおち休めないわね」
「しかし、頼みの綱の魔動巨人は、出撃不可能なはずですが……」
話し合う指揮官たちを横目に、ジェラルドは《伝令》の魔法を発動させた。
「アルヴィー・ロイ。今すぐ指揮所に来い。――伝えよ、《伝令》」
魔法で形作られた白い鳥が飛んで行く。そしてジェラルドは、指揮官二人を振り返った。
「とりあえず、俺と《擬竜兵》で一足先に前線を掻き回して来ましょう。こちらも態勢を整える時間が要る」
「……そうね。悪いけど、お願いできるかしら」
グラディスは一瞬の逡巡の後、頷いた。
「これでも一応“頭数”ですのでね」
ニヤリと笑みを浮かべ、ジェラルドは言葉を継ぐ。
「今回の進軍、おそらく向こうの指揮官かその上層部が、撤退を許さなかったということでしょう。だが、魔動巨人も無しで続けざまの出撃、しかもこちらには《擬竜兵》がいる。向こうの士気はさほど高くないはずです。ここで再出撃してきたのも、時間を置けば脱走兵が出て余計に戦力が減るという懸念からでしょう。なら、ここでその心を完膚無きまでに折り砕く。それには、圧倒的な戦力差を見せつけてやるのが一番手っ取り早い」
「ふ、二人で二千もの兵を相手取るというのか!? それはいくら何でも……!」
「別に二千の兵が横一列で向かって来るわけじゃありませんからね。先頭集団を吹っ飛ばしでもすれば、後続は腰が引けるでしょう」
相変わらずえげつないことをさらりと言う男だ。指揮官二人が何ともいえない顔になる。
しばらくして、アルヴィーが指揮所にやって来た。
「アルヴィー・ロイ、出頭しました」
ファルレアン式の敬礼は、まだ慣れないのか少しぎこちない。上げられた右腕の異様さが目を引くが、それ以外はごく普通の少年にしか見えなかった。
それでもグラディスは思わず息を呑んだが、彼を呼び出した張本人は平然と促す。
「よし、来たか。じゃあ行くぞ」
「は? 行くってどこへ?」
「レクレウスが再攻勢を掛けてきた。ここでいっちょ派手にかまして、向こうの士気をへし折って来るぞ」
「かますって――」
「早い話が、いくらか吹っ飛ばして出鼻を挫け、ってことだ」
アルヴィーの表情がはっきりとこわばった。
「それ、って……」
「何だ、怖気付いたか? だが、おまえはもうファルレアンの人間だ。レクレウス軍は敵なんだよ。――肚決めたんだろうが、今更ふらついてんじゃねえ」
冷徹にすら聞こえるジェラルドの言葉に、さすがにグラディスが口を挟もうとした時。
「……そうか。――そうだな」
目を閉じて大きく息をつき、そしてアルヴィーは目を開く。
「……分かった。行く」
「分かればいい」
「でも、最初の一撃は俺に任せて欲しい」
見上げる朱金の瞳に、ジェラルドは眉をひそめたが、
「いいだろう、行くぞ。――アークランド一級騎士、悪いが飛竜を二騎借り受けます」
そう言って、毅然とした足取りで天幕を出て行く。アルヴィーもそれに続いた。
陣の最後方に留め置かれていた飛竜の内二騎と操縦士を借り受け、装備を身に着けて搭乗する。アルヴィーを乗せた方の飛竜は例によって怯えたが、やはりアルヴィーの一睨みでおとなしくなり、操縦士の驚嘆の眼差しを浴びながら乗ることとなった。
二騎の飛竜が飛び立ったその眼下では、レクレウス軍再攻勢の報を受けた騎士たちが慌ただしく態勢を整えている。その中にはきっと、ルシエルの姿もあるのだろう。
(大丈夫だ。――俺が守る)
再び前を向いた双眸に、もう迷いはなかった。
「――見えました! あれです!」
飛竜の背から地上にレクレウス軍の先頭を確認し、操縦士が声をあげる。
「よし、降りるぞ!」
ジェラルドの指示が飛び――それに先んじて、アルヴィーは搭乗用の装備を外していた。
「お、おい、何やって……!」
「悪いけど俺、先にここで降りるんで」
慌てて止めようとする操縦士にそう言い置いて、右腕を戦闘形態に変化させ、次の瞬間飛竜の背から地上へ向かって身を躍らせる!
「おい、待て――」
ジェラルドの呼び留める声もあっという間に遠ざかり、耳元で風が唸る。支えるものなど何もない空中で、アルヴィーは自身とレクレウス軍との距離を目測。そして大きく身を捻り、右腕を振り抜きざまに《竜の咆哮》を全力で撃ち放った。
一閃。
光芒が一瞬で地を横切り――その軌跡をなぞるように、巻き起こった爆炎が壁となって戦場を真っ二つに断ち割った。
「なっ……!」
さしものジェラルドも、目を見張って絶句する。もちろん、レクレウス軍の恐慌は彼の比などではなかった。
「う、うわああああ!!」
「火が――止まれ、下がれっ!」
「そんな馬鹿な……! 一撃だぞ!?」
鼻先を炎の壁に阻まれ、進軍は急停止。だが、アルヴィーが《竜の咆哮》で薙いだのは、ギリギリで兵士たちを巻き込まないラインだった。それに気付き、ジェラルドは目をすがめる。
「……あいつ」
そしてそのことに、レクレウス軍の一部も気付いた。
「どういうことだ……?」
恐怖と疑問がない交ぜになった目で、燃え盛る炎を見つめる。その視線の先、アルヴィーは地上へと下り立った。炎の壁を背に、レクレウス軍と相対する。背後から吹き付ける熱風は、兵たちを堪らず後退らせたが、アルヴィーにとっては微風と変わらない。
彼は異形の右手をかつての友軍に向け、口を開いた。
「……こっから先は通さないぜ。押し通るってんなら、今度こそ当てる。それくらいの覚悟は、俺もしてきた。――だから」
泥を被る覚悟も、血に塗れる覚悟も決めた。
……それでも、譲れない一線がある。
「それが嫌なら――帰れ。自分の国へ」
戦場を割る炎の壁は、未だ衰える気配を見せない。押し寄せる熱は凄まじく、だがそれを作り出した少年は平然とその中に立ち、その業火を生み出した異形の手を自分たちに向けている。進軍を強行すれば、あの猛火が今度は自分たちを焼き尽くすのだ。
その事実に、兵士たちの足が一歩、また一歩と後ろへ下がり始めた。
「う……うわあああ! に、逃げろっ!」
「進んだら焼き殺されるぞ!」
「冗談じゃねえ、あんなの敵うわけないだろ!」
「撤退だ! 退けぇぇ!!」
一人が恐怖に引きつった声をあげれば、崩れるのは早かった。まるで砂の城が加速度的に崩れていくように、兵士たちは雪崩を打って逃げ出す。恐慌はあっという間に伝播し、後に続く兵たちもわけが分からないままに恐怖だけが煽られ、前方から逃げて来る兵に巻き込まれるように引き返し始めた。
「貴様ら、怯むな、戻れ! これは敵前逃亡だぞ――」
逃げ惑う兵士たちを何とか止めようと、指揮官が辛うじて踏み止まり声を荒げるが、その足下すれすれにアルヴィーが威力を抑えた《竜の咆哮》を撃ち込むと、たまらず絶叫をあげて逃げ出した。指揮官の逃亡に、兵士たちの混乱にも余計に拍車が掛かる。
潮が引くように、レクレウス軍が後退――いや、逃散していくのを、上空のジェラルドは黙って見下ろしていたが、操縦士に指示して炎の影響が少ない地点へと降下を始めた。
彼が地上に降り立った時には、火勢は大分弱まり、熱気も和らいでいた。それでもまだ、彼にしてみればむっとするような熱さに、思わず顔をしかめてしまう。
「……おい」
自分よりもよほど熱源に近い、普通の人間ではとても無事ではいられないような場所に平然と立つ少年に、彼は声をかけた。アルヴィーは腕を通常のそれに戻し、ジェラルドを見やる。
「……何だよ。レクレウス軍は追い払ったぜ」
「だが、直接攻撃はしなかったな。やっぱり祖国には未練でもあるか?」
「違う」
アルヴィーはジェラルドの眼前まで歩いて来て、真正面からその双眸を見据える。
「泥を被っても、血に塗れても……裏切り者って呼ばれても、俺は今の道を歩くって決めたし、戦って誰かを手に掛けることもあるって、その覚悟も決めた。――でも、殺さなくたってどうにかできる相手まで手に掛けるのは、違うと思う。それは覚悟なんかじゃない」
思い出すのは、魔物に踏み躙られて地図から消えた故郷。そして、業火に包まれたレドナの街。
この手を血に染めることがあったとしても、それが無差別な殺戮の果てであってはならないのだ。
それでは、故郷を蹂躙したあの魔物たちと、何ら変わりのない存在となってしまうのだから。
「俺は“人”だ。魔物にはならない」
真っ直ぐこちらを見据える一対の瞳は、揺るがぬ炎。折れない意思を内包し、静かに燃える。
それを受け止め、ジェラルドは知らず笑った。
「は、上等だ。人生なかなか儘ならんもんだが、まあおまえぐらい力があれば、選べる幅も多少は広かろうさ」
「……どういう意味だ?」
きょとんとするアルヴィーには答えず、ジェラルドは踵を返し飛竜に向かって歩き出す。
――騎士といっても、一人一人は所詮ただの人間だ。力及ばず守りきれないものもあり、二つを選べないがゆえに一つを切り捨てざるを得ないこともある。それは、ジェラルド自身何度も直面し、そして越えてきた過去だ。
だが、人を超えた力を持ちながら、なお人であろうとするこの少年が騎士となったなら、その手に救い上げられるものはきっと、自分たちのそれよりも多いのだろう。たった今、一人の命も奪うことなく兵を退かせたように。
そのことに羨望を感じないと言えば嘘になる。だが、その未来を見てみたいと思う自分も、確かにいる。
(騎士なんぞ、綺麗事だけじゃ務まらん。――だが、そう簡単には折れてくれるなよ)
小生意気な、だが眩しいほどに真っ直ぐな少年に、胸中でそう呟いて、ジェラルドはアルヴィーを促した。
「早く来い。――戻るぞ」
「おう!」
「……やっぱり、言葉遣いはキッチリ教え込むべきだよなあ」
「いでででででで!?」
初対面が初対面だったせいか、油断するとすぐ敬語が外れるアルヴィーの頭を鷲掴みしつつ、ジェラルドは彼を飛竜のところまで引っ張って行く。
しばし後、二騎の飛竜は東へと飛び去って行った。地面を横切る一直線の焦げ跡を、一つ残して。
そしてこれが、旧ギズレ領攻防戦での、事実上最後の戦いとなった。
この一件により、レクレウス側では脱走者が続出。戦線の維持が困難となり、部隊はついに後退を始める。
数日後、斥候部隊によりレクレウス軍が国境の向こうまで撤退したことが確認された。これをもって、指揮官であるグラディスは再びの武力衝突の可能性は低下したと判断。ファルレアン側も後退を始め、前線の陣地に置いた監視要員以外の部隊を領都ディルに収容した。
以降は再び国境を挟んでの睨み合いとなり、警戒態勢は解かぬものの、部隊の人員は順次削減されることとなる。これに基づき、レドナから転戦してきた人員は今度こそ、それぞれの原隊に帰還する運びとなった。
こうして、旧ギズレ領攻防戦はファルレアン側の勝利という形で、幕を下ろしたのだった。
◇◇◇◇◇
「――未だ連絡なし、か……こりゃ失敗したな、あいつら」
レクレウス軍情報部特殊工作部隊小隊長、ブラッド・ルーサムは遥か空を見晴るかし呟く。傭兵団《紅の烙印》が首尾良く《擬竜兵》を奪還すれば、彼を連れてこの合流予定地点に現れるはずであった。だが、もうここで待機を始めて十日近く経つというのに、誰も姿を見せないどころか、連絡の一つすらない。おそらくは、ファルレアンの騎士団に返り討ちに遭ったのだろう。
(まったくもってうまくない状況だ……踏んだり蹴ったりってやつだぜ)
それなりの投資もした今回の作戦までが失敗したとなると、ますます自分の首が――比喩ではなく物理的に――危うくなる。薄ら寒い想像に、ブラッドは思わず自身の腕を擦った。
「隊長」
そこへ、別の隊員がやって来る。ジャン・ダヴィッドという、レドナでの欠員によって新しく小隊に編入となった隊員で、経歴を見る限りなかなか優秀な男だ。その優秀さを買われ、空席となった副隊長の席に納まっていた。眼鏡が似合う理知的な風貌で、諜報員というよりは学者のような雰囲気の男である。
「ああ、ダヴィッドか。どうだった?」
「先行偵察させた隊員が、戦闘の痕跡らしいものを発見したそうです。やはり、ファルレアンの騎士団と戦闘になり、返り討ちに遭った可能性が高いかと」
「そうか……あいつらも結構腕はあるはずだったが、やっぱり正規の騎士団ってとこか。今更だが、使い魔の一つも飛ばしとくべきだったかねえ」
「しかし、使い手があのレドナの一件で軒並みやられましたからね。正直、満足に扱えない人間が使い魔を飛ばしたところで、向こうの騎士に察知される可能性もありました。それに、下手に探りを入れて、《紅の烙印》に臍を曲げられても面倒でしたし」
「まったく、あの《擬竜兵》の一件に関わってからこっち、ロクなことがねえ……」
ブラッドは苦々しくぼやいた。
「これからどうされますか、隊長」
「そうさな、こうなったら俺たちで追うしかない。ここは撤収だ。偵察を呼び戻して隊を纏めろ」
「了解しました」
ジャンに指示を出し、ブラッドは歩き出そうとする。
――その首筋を、鋭い刃が薙いでいった。
「は……」
何が起こったのか分からずに、彼は倒れ込む。刃は頸動脈にまで達し、噴き出す鮮血が下草や地面を濡らした。急速に視界が暗くなり、犯人にまで考えが及ぶその前に、ブラッドの意識は永遠に途切れた。
倒れたブラッドを見下ろし、ジャンは手にした剣の血を拭って鞘に納め、魔法式収納庫に仕舞うと、代わりに予め用意しておいた魔物の骸をいくつか引っ張り出し、適当な場所に放り出す。それは風属性の簡単な魔法を使って攻撃してくる魔物で、遠距離から弓矢などで戦う分には普通の獣と大差ないが、不意打ちで急所などを攻撃されると手練れの剣士でも命を落とすことがあった。この魔物は比較的良く見られる種類であり、またここは魔物除けの陣を設置したベースキャンプからは少し離れている。不審には思われまい。
“犯人”の用意も済ませると次に魔動銃を取り出し、周囲に魔力弾の弾痕を付ける。魔物との戦闘を偽装するのだ。そして、自分自身にも刃物で浅い傷をいくつか付けた。
すべての準備が終わると、魔動通信機を起動させる。
「こちら基点、現在魔物の襲撃を受け応戦中! 隊長がやられた! 至急戻れ!」
『りょ、了解!』
先行偵察に出していた隊員が慌てて返答する。これでこの現場を見せれば、魔物の襲撃で“運悪く”小隊長のブラッドは死亡、ジャンは辛うじて生還した、という筋書きになるはずだ。
偽装工作も済ませ、ジャンは懐から小さな笛を取り出して吹いた。程なく上空から舞い下りる一羽の鳥。彼は手帳を取り出して短く報告文を書き記し、ページを破って鳥の足に付いた筒に入れる。
「――よし、行け!」
鳥を飛ばすと、ジャンは呟いた。
「さて……小隊の掌握はこれでやりやすくなる。後は、ナイジェル様がどう動かれるか……」
これから彼は、真の主のために軍部の情報収集及び操作に当たることとなる。同様に軍に潜入している同胞たちと共に、いずれナイジェルが動き出す時のために、準備を整えておくのだ。
これからの段取りを考え始めた彼の頭上遥か――蒼く澄み渡った空を、飛竜の編隊が飛び去って行った。
◇◇◇◇◇
吹き荒ぶ風に目を細め、アルヴィーは胸元でごそごそ動く毛玉にその目を落とした。
「……こら、暴れんな。落ちたらどうすんだ」
「きゅ!」
戦場で拾ったカーバンクルは、あれ以来アルヴィーにべったりで、離れようとしない。レクレウス軍迎撃の際にジェラルドに呼び出された時は、袋に詰めてルシエルたちに預けておいたのだが、どうやってか脱け出したらしく、帰還した途端大ジャンプで顔面に張り付かれた。危うく窒息しそうになった。
もちろん旧ギズレ領を後にする段になっても頑としてアルヴィーから離れなかったので、結局根負けして王都にまで連れて行くこととなったのである。
そう、アルヴィーは今、飛竜の背に乗って王都ソーマへと向かっている。ギズレ元辺境伯逮捕の際、グラディスたちがディルに急行するために使った飛竜を王都に送還するのに、相乗りさせて貰っている形だ。地上を護送してまた襲撃でもされたら面倒なので、手っ取り早く飛竜で王都まで連れて行く、というジェラルドの案が通ったためだった。最初からこうしていれば《紅の烙印》の襲撃もなかっただろうが、国境に八騎取られて、残った飛竜のスケジュールが動かせないくらい詰まってしまった結果なので仕方ない。
カーバンクル入りの袋を首から下げるという、いささか間の抜けた格好で飛竜に搭乗する羽目になったアルヴィーは、ため息をついた。周囲にもすでにアルヴィーが飼い主認定されている始末だ。ルシエルの隊のユナなど小動物が大好きだそうで、アルヴィーに倍する勢いで構っていたというのになぜだろうか。
「……おまえ、何で俺について来たんだ?」
「きゅ?」
動物が答えるはずもないと分かってはいたが、つい尋ねてしまった。もちろんカーバンクルは、きょるんと小首を傾げただけだ。和みはするが何も解決はしない。
もう一度ため息をついて、カーバンクルのことを考えるのは止めにする。アルヴィー自身、これから自分の心配をしなければならない状況だ。王都に着けば、まず検査を受ける予定になっている。他にも騎士団の特別講義受講の手続きや、今までの件についての尋問などもあるだろう。考えただけでげんなりしてきた。
――だがすべて、ルシエルの隣に立つためには必要なことだ。そう思って肚を括ることにする。
(ルシィだって、この国に来た時はきっと、苦労もしたんだろうしな。俺だって、負けてらんねー)
辺境の村からいきなり貴族社会に放り込まれた彼も、並大抵ではない苦労があったはずだ。だが彼はそれを乗り越え、騎士として立派に部下を率いるまでになっている。そんな彼の隣に立とうというのだから、今から弱音など吐いていては先がないというものだ。
祖国とはすでに決別した。これからはファルレアンが、自分の守るべき国となる。
「――おい、王都に着いたらまず書類仕事だぞ。おまえの亡命申請の書類を形だけでも揃えなきゃならんからな。それから従騎士としての仕来りも叩き込んでやる。ついでに言葉遣いもな。せいぜい勉強しろよ」
「げっ……!」
隣の飛竜の背で悪い笑みを浮かべるジェラルドに、アルヴィーは呻く。アルヴィーの主として、彼もまた一足先に王都に向かうこととなったのだ。帰還部隊の取り纏めについては、パトリシアやセリオを始め優秀な部下がいるから問題ない、とのたまった彼に、アルヴィーは思わずその部下たちに同情してしまったものだが。
「呻いててどうする。言っとくが、おまえの足下掬ってやろうとしてる連中は王都にうようよしてると思っとけ。その程度、鼻で笑って跳ね除けるくらいでないと、クローネルの隣になんぞ立てねえぞ」
「……そっか。そうだな」
呆れたようなジェラルドの言葉に、はっとする。今から自分が踏み込むのはかつての敵地。《擬竜兵》としての力、従騎士の立場やカルヴァート家の後ろ盾は、そこで道を切り拓くための剣であり鎧なのだ。
「――うっし、やってやる!」
改めて気合を入れ直し、アルヴィーは前に向き直る。その向こう、遥か遠くに、自分の新天地が在るのだ。
そこから始まる、新たなる道。
その先の未来を見据えるように、アルヴィーは真っ直ぐに前を見つめた。
ようやく第二章が終わりました……。
第三章からは舞台がファルレアン王国に移ります。
これからも拙作をよろしくお願い致します。




