第100話 予兆
ごうごうと、風が唸る音が聞こえる。
眼下を凄まじい速度で過ぎていく雲たちに、アルヴィーはふと気付いた。
(……あ。またか……)
これは彼自身の記憶ではない。彼の中に在る、アルマヴルカンの記憶の一部だ。どうやらまた、“彼”の記憶を覗き見てしまっているらしい。アルマヴルカンが残した言葉を思い出した。
――これでもかなり影響を受けているぞ? 互いにな――。
(これも“影響”ってやつなのかな)
だがどうせ夢のようなものなのだと、少々呑気なことを考えていたアルヴィーの眼下で、雲の群れが途切れる。飛び込んだその先は、蒼。
(うわ……!)
その鮮やかさに、アルヴィーは思わず声をあげる。
と、眼下に広がったのは――。
(……街、だ)
王都ソーマに並ぶ、否、それ以上に広大な街が、そこには広がっていた。
アルヴィーの記憶にある街のどこでもないそこに、どこなのだろうかと彼が内心首を捻る。その時、これ以上ない特徴ある建物が目に飛び込んできた。
輝くような白い外壁を持つ城。だがファルレアンの《雪華城》とは違う。その佇まいに、アルヴィーはかすかに見覚えがあった。
(あれ……確か、シアんとこに捕まった時に)
脱出しようと散々駆けずり回ったあの城に、建物の配置や色が似ていないだろうか。
だが、眼下の城はあっという間に後方へと遠ざかってしまう。記憶の主にとっては、目に留めるほどのものでもなかったのだろう。
しかしほんの一瞬、その視界を掠めたものがある。
それは、塔の上にいた二人の人影。
翻る長い銀髪の少女と、彼女を守るかのように傍らに立つ青年――。
「……あれ」
目を開けると、そこはようやく見慣れてきた自分の寝室だった。
(ああ、やっぱ夢か……)
がしがしと頭を掻きながら起き上がる。室内はまだ暗かった。夜目が利くアルヴィーにとってはさほどの苦労もないが、常人ならば数歩歩くことすら困難であろう、漆黒の闇。貴族の屋敷が集まるこの辺りは、防犯も兼ねて見回りがされているし、街灯も設置されていて外は多少明るいのだが、夜なので当然窓は鎧戸を閉めている。ゆえにランプでも点けなければ、夜の室内は掛け値なしに真っ暗になるのだ。
もっとも、前述の通りアルヴィーにとっては大したことでもなかったので、枕元でぷすーぷすーと爆睡するフラムを起こさないようベッドを下りると、当たり前と言わんばかりに椅子などを避けて歩き、扉を開けて廊下に出た。夢のせいか、やけに目が冴えてしまったので、庭でも歩いて来ようかと思い立ったのだ。といってもこの屋敷の庭には、アルヴィーに懐いた地精霊フォリーシュもおり、彼女は力を取り戻すため地中で休んでいる。あまりうるさくはできない。
やはり明かりもなしに、真昼の光の中を行くがごとくすたすたと廊下を歩いていたアルヴィーは、だがふと物音を聞いて立ち止まった。
ひたひたとごくかすかな足音は、やはり常人の耳では夜の静寂の中であってもそうそう聞き取れまいが、視覚同様鋭敏なアルヴィーの耳にははっきり届いた。まあ、足音の主が泥棒などでないのは分かっているので、警戒もせずにそのまま歩いて行く。
玄関に向かっていると、行く手の部屋の扉がかちゃりと小さな音を立てて開き、中から小柄な人影が出て来る。人影は静かに扉を閉めたが、その際にアルヴィーの姿に気付いてぴゃっと跳び上がった。
『ひいっ!?』
「あー、脅かして悪かったな。仕事中か? いつもありがとな」
『うう、びっくりさせねえでくれよぅ。おいら気が小さいんだよぅ……』
すでに涙目になっているのは、この家に住む家妖精のティムドだ。以前の住人に気味悪がられたり泥棒と間違われて追いかけられた経験のせいか、最初の内は逃げ回ってばかりだった“彼”も、近頃は顔を合わせれば多少の話くらいはしてくれるようになった。とはいえ、何かに驚くと大袈裟にびくつき、場合によってはすぐ脱兎のように逃げ出してしまうのは未だに変わらないが。
『……こんな夜中にどこに行くんだい?』
「ちょっと目が冴えたから、庭ぶらついて来る。鍵は俺が戻るときに閉めるから、開けといていいぞ」
『分かったよぅ』
こくりと子供のように頷き、ティムドは厨房の方に向かった。その足どりが心なしか弾んでいるのは、厨房の作業台の上にさり気なく置かれている、パンとミルクのおかげだろう。いつも女中頭のホリーが用意してくれているそれは、家妖精が求めるという仕事の“報酬”だ。あくまでも“さり気なく”置くのがコツだという。
そんなもう一人の住人の姿を見送り、アルヴィーも当初の目的通り庭に向かった。
――外はいつもの通り、街灯でほのかに明るかった。今日は月もなく、星さえも雲に遮られたか見つけることはできない。空気の匂いを嗅げば、少し水の匂いがした。夜の内に一雨来るな、と判断したのはかつて辺境の村で暮らしていた頃の経験からだ。
貴族の邸宅の庭にしては人工的な痕跡の少ない庭で、アルヴィーは空を見上げて立ち尽くす。星も見えない夜空の下でそうしていると、あの小さな村にいた頃に戻ったような気がした。
(……もう完全に“余所の国”になっちまったな……)
自分が確かに生まれ、育った国。たとえその国の辺境、領主にすらほとんど認識されていないような小さな名もなき村だったとしても、そこは紛れもなくアルヴィーの故郷であり、懐かしい場所だった。
……今ではそれと同時に、胸に鈍い痛みを呼び起こす場所になってしまったが。
あの場所にアルヴィーが還れることは、もはやないだろう。自分はもはや、“ファルレアンのもの”になってしまった。いずれ年を重ね、この世を去る時が来ようとも、残された骸が還されるのはこの国の土だ。それほどに、アルヴィーの存在はこの国にとって、重いものになってしまったから。
期せずしてかつての祖国に舞い戻り、そして突き付けられた。自分はあの国を捨てると同時に、故郷に還る権利をも捨て去ってしまっていたのだと。
在りし日の小さな村、母はもちろんまだ父も健在で、ルシエルと仔犬のように転げ回って遊んでいた、あの幼い日――それが少しだけ脳裏をよぎって、アルヴィーはすん、と小さく鼻を鳴らした。
それはもう彼方に過ぎ去った、二度と手に入れることの叶わない日々。
その思い出だけを抱えて、アルヴィーはこれからを生きる。
誓うように握り締めた右手が、じわりと熱くなったような気がして、アルヴィーは怪訝な顔で右手を開いてみた。人にはあり得ない深紅の肌色が淡い明かりに浮かび上がるが、取り立てて変わったところはない。
(何だ……?)
探るように右手を何度か握って開いてと繰り返すが、先ほどの感覚は幻ででもあったように消え去り、すでに欠片ほども感じ取れない。
アルヴィーは何となく腑に落ちない気分ながらも、部屋に戻るため歩き始めた。玄関の扉を開けようと、金属製の取っ手に手を掛ける。
触れた金属が、やけに冷たかった気がした。
◇◇◇◇◇
――熱い。
左腕に宿る熱に、メリエは思わず呻いた。これまで自由に扱っていたはずの力は彼女の意思など無視して膨れ上がり、彼女自身を苛んでいる。
だが、それを手放すという選択肢など、初めからなかった。
(……だってこの力がないと、アルヴィーには勝てない)
自分よりも強い彼を屈服させ、今度こそ手に入れるため。
そのために今は、この苦痛に耐えなければならない。
唇を噛み締め、顔を歪めながらも、メリエは身体を丸めるようにしてその熱に耐え続けた。
「――……」
ふっ、と意識が浮上した時、聞こえてきたのは水の音だった。
まだ少し力が入らない身体を無理やり起こせば、ざばり、と反響する水音。どうやら地下研究施設の水槽の一つに入れられていたらしい。身体は怠くとも、頭の方はすっきりとしていた。
メリエは左手を少し動かしてみる。痛みなどもなく、以前と変わらず滑らかに動かせた。施術の時に付けられたであろう傷も、もはや跡形もない。
(少なくとも発動してない時は、特に異常もないってことね……じゃあ)
水槽の中に半身を起こしたまま、メリエは左腕を戦闘形態に変化させる。肌の上を見る間に鱗が覆っていき、左肩に魔力集積器官が形成されるのが分かった。身体を捻るようにして、それを見る。
彼女の左肩から伸び、広がったそれは、以前よりもより竜の翼の骨格に似た形をしていた。だがアルヴィーの翼のような翅はなく、鋭く尖った爪のようなそれは暗紅色の地色もあいまって、どこか禍々しさを感じさせる。それでもそこに内包された力は、以前よりもさらに強かった。それを感じ取り、メリエは満足げに笑う。
「……アルヴィーのほど綺麗じゃないけど、これはこれでいっか!」
それに、彼をこちらへ連れて来れば、あの綺麗な翼も存分に見られる。そう考えて、メリエは笑んだまま立ち上がった。体力はすでに回復している。
全身から水を滴らせながら立ち上がった彼女は、濡れそぼった長い髪を苛立たしげに払うと、炎を操って身体に纏わり付く水分を消し飛ばした。乾いてさらりと流れる髪に満足し、からからに乾いた水槽から出る。と、すぐ傍に置かれた小さな台に、着替えの入った籠が置かれているのを見つけた。その下にはロングブーツも置いてある。メリエは身支度を他人に任せることに慣れないので、一人でも支度ができるよう、予め用意されていたのだろう。
早速服に袖を通し、メリエは意気揚々と施設の出入口に向かう。足音を聞いたのか、出入口近くで常駐しているオルセルが声をかけてきた。
「あの……もう、大丈夫なんですか」
「見れば分かるでしょ。――ところでさ、シア、あたしのことで何か言ってた? 目が覚めたら来いとか」
「いえ、特に何も……」
「そ」
それさえ聞けば用はないとばかりに、メリエは出入口の扉を押し開けようとしたが、ふとその手を止めて振り返った。
「……あんたもさ、こんな辛気臭いとこにいつもいないで、街にでも出れば? 宮殿の外、大分街ができてきてるんでしょ?」
現在の帝都クレメティーラは、次第に在りし日の姿を取り戻しつつあった。《虚無領域》の随所にある集落に噂がばら撒かれ、それに惹かれた人々、特に若者たちが続々と集まり始めているのだ。街は魔動巨人や人造人間たちによって整備され、各集落への道もやはり魔動巨人によって次々と開通している。それにつれて帝都に流入する人間は増え、建物しかなかった街には生きた人間たちの活気が生まれ始めていた。
一方、一時的に人口が流出してしまう形となる集落の方にも、レティーシャは手を打っている。魔動巨人の小型版である魔動彫像を各集落に配布して魔物に対する守りとし、ポーションや食料も支給して集落の人々の死亡率の引き下げを図っていた。辺境の小さな村落では、飢餓や病気の蔓延が簡単に起こり得る上、医療水準も低いために小さな病気や怪我が命取りになりやすい。彼女はまずそれを予防し、集落における若年人口の増加を目論んでいた。貧しい集落では働き手の確保のため、子供を多くもうける傾向がある。それは厳しい環境で子供が命を落としやすいからでもあるが、それを防げればどんどん人口が増えていくこととなるのだ。それは彼女の目的に適っていた。
そういった施策もあって、帝都の人口は増加の一途を辿っている。人が集まればそれを目当てに商売を始める者も現れ、街では手探りながらも店を開く者も出始めていた。もうしばらくすれば、そうした店が軒を連ね始めることだろう。
メリエ自身、レクレウスの地方都市の出身で、時折街を歩いて店を冷やかすこともあった。無論、こんな身体になる前の過去の話だ。だが、帝都の街が充実してくれば、こちらでも同じことをするにやぶさかではない。
オルセルもまた、メリエと大差ない年の少年だ。出身が比べ物にならないほど田舎の集落とはいえ、活気溢れる街に心惹かれないわけもないだろう。そう思って尋ねてみたのだが、オルセルは困ったように微笑むと緩くかぶりを振った。
「いえ……僕はあまり街に出たいとは……その、人ごみは苦手ですし」
「ふうん……ああ、でもそっか、田舎の村で育てばそうかもね」
納得したようなメリエに、オルセルは曖昧に頷く。
そのまま興味を失い、今度こそ扉を開けて外に出て行くメリエの背中に、オルセルはそっと呟いた。
「……それに、僕はあの子たちをちゃんと育てないと。あの子たちが手を汚した分を、僕も背負うと決めたんです。――外の光の中には、もう出て行けない」
ぎい、と扉の軋む音がそれを掻き消す。
薄闇に沈もうとする少年を残したまま、扉は重苦しい音と共に閉じられた。
◇◇◇◇◇
ファルレアン王国外務副大臣、ヨシュア・ヴァン・ラファティーの無事の帰還は、王国首脳部の歓迎をもって受け入れられた。
「――まずは無事の帰還何よりです、ラファティー伯。長の戦争処理の任、大儀でした」
「は、これもひとえに女王陛下のお力の賜物でございます」
《雪華城》の一角、塔の上に位置する議場、《天空議場》において、で女王アレクサンドラからの労いを受け、ヨシュアは恭しく跪いて礼を述べる。実際、彼女と風の大精霊シルフィアの助力があったからこそ、彼はレクレガンの王城で魔動巨人の魔動砲の餌食にならずに済んだのだ。
ヨシュアの感謝を小さく頷いて受け取り、アレクサンドラは騎士団長ジャイルズ・ヴァン・ラウデールに向き直った。
「……それで、報告にあった術式について何か分かって?」
「は……《擬竜騎士》の裡にいるという火竜に、話を聞くことが叶いましてございます」
その言葉に、場がざわめいた。
「火竜に話を聞いた、だと……?」
「確かに、《擬竜騎士》の中で竜の意識が生きておると、大精霊殿は仰っていたが……」
ざわつく議場の空気に構わず、アレクサンドラは先を促す。
「それで?」
「は。――あの術式は、火竜アルマヴルカン自身が、“実行犯”に伝えたものである可能性が高いと……」
その言葉に、今度こそ大きなざわめきが巻き起こった。
「そ、それは! 《擬竜騎士》も今回の一件に関わっているということか……!?」
悲鳴のような声に、ジャイルズはきっぱりとかぶりを振る。
「その可能性はございません。――火竜によれば、欠片として分かたれた時点で、“本体”である火竜とは源を同じくしながらも、違う存在として在ることになるのだとか。その後で互いが何をしようと、それは互いに与り知るところではないというのです」
「つまり……欠片として分かたれ《擬竜騎士》に宿った方の火竜は、今回の一件には関わりがない。ただし、使われた術式に関する知識は問題なく持っている――という解釈で良いのかね?」
結論付けるように尋ねたのは宰相のヒューバート・ヴァン・ディルアーグ公爵だ。彼に向けて、ジャイルズは肯定を返した。
「左様でございます」
「なるほど……なかなか複雑な話だ」
そう唸りながらも、ヒューバートはそっと安堵の息を漏らした。どんな屁理屈であろうと、アルヴィーに疑いが掛かるようなことがあってはならないのだ。何せ彼は今やファルレアン王国の貴族の一人であり、貴重な高位元素魔法士であり――何より、火竜の加護を後世に伝えることができる人間なのだから。
その場にいた人々も同意見のようで、空気が少し和らいだ。
「火竜より説明のありました魔法については我々騎士団よりも、宮廷魔導師の方々や魔法技術研究所の方が専門になりますので、彼らの知恵をお借りすることになろうかと存じますが」
「任せます」
アレクサンドラが頷き、宮廷魔導師の長たる魔導師長も胸を張った。
「お任せあれ。むしろこちらとしては是非協力させていただきたいくらいだ。本来であれば竜の知識など、望んでも得られるものではないのだからな」
宮廷魔導師は、魔法に関する求道者とでもいうのか、魔法に対しての知識欲が非常に旺盛だった。そんな彼らが、火竜から与えられた魔法の知識などというものに食い付かないわけがない。すでにその双眸はぎらぎらと輝き、ともすればこのままアルヴィーのもとに押し掛けんばかりの雰囲気である。
もちろん王立魔法技術研究所の長であるサミュエル・ヴァン・グエンも、未知の魔法術式に興味津々の様子であった。
「抜け駆けはなしですよ、魔導師長殿。我々魔法技術研究所としても、是非とも一枚噛ませていただきたい」
「何の、貴公のところではポーション開発や、転移術式の確立に忙しかろう。古の魔法は我々に任せていただいて構わぬのだぞ」
角突き合わせる、というほどではないが、互いに譲る気もなさそうである。まあそこは後ほど話し合って貰うことにして、ジャイルズは報告を終えた。
「騎士団からは以上でございます」
「うむ、ご苦労であった」
頷き、ヒューバートはアレクサンドラに向き直る。
「それでは陛下、この後は定例議会を始めてよろしゅうございますかな」
「ええ、そうしましょう」
アレクサンドラも頷きで返した。元々この《天空議場》に閣僚たちが集まったのは、定期的に開催される議会のためだ。その前に少し時間を取って、戦後処理を見事に果たしたヨシュアを労い、気になった事項について尋ねただけのことである。他にも話し合うべきことは山ほどあるのだ。何しろこの議会で、この国の施策が決まるのだから。
「ではこれより、定例議会を開始する――」
ヒューバートの声が朗々と響き、反比例するように閣僚たちのざわめきが収まっていく。席に座して前を見据えながら、アレクサンドラは長杖を握った手にほんの少し力を込めた。
(……一体、何を考えているの……? “クレメンタイン帝国”は)
騎士団から上がってきた報告によれば、レクレガンで起きた騒乱は、背後でクレメンタイン帝国が糸を引いていた可能性が高いという。帝国に属する者とアルヴィーが現場で交戦した以上、それは間違いあるまい。そして、自身を寵愛する風の大精霊の、“結界に穴が開いた”という言葉。
(“彼ら”の目的が分からない……)
帝国側の目的を推察すらできない以上、現時点での対応は後手に回るしかない。その歯痒さに、彼女のペリドットグリーンの双眸が苛立たしげな光を放つ。
「……陛下。どうされました? ご気分でも」
「いいえ、ありがとう。――始めましょう」
ヒューバートの声に、アレクサンドラは思考の海から舞い戻った。短く礼を言い、気分を切り替える。
(……今は、我が国を守ることを考えなければ。――お父様から、受け継いだ国なのだから)
少女の身には重過ぎる決意を胸に、彼女は国を導く者として、眼前の会議に集中し始めるのだった。
◇◇◇◇◇
王都ソーマは社交時期がほとんど終わったせいもあり、次第に落ち着きを取り戻しつつある。
そんな街中を、アルヴィーは執事であるルーカス・グローバーを伴い歩いていた。
「――よろしいですか、旦那様。仮にも貴族ともあろうお方が、馬車の一台も所有しておられないというのは、はっきり言って問題でございます」
長期任務を終えて多少とはいえ休暇を貰い、さあ思う存分寛ごう、と浮かれていた矢先であった。眼鏡をぎらりと(きらり、などという生易しい輝きではなかった)光らせたルーカスに、そう突っ込みを受けたのは。
彼に言わせれば、貴族――特に一家の当主というのはそもそも、自らの足で出歩くべきではない、ということである。“当主というのは貴族の家門を体現する存在、いわば“家”そのもの。その立ち居振る舞いは即座に家門の評判に直結するのです”、と拳を握り締めて力説してくる彼に、家門も何も新興したばっかりの成り上がりだし、などと突っ込む勇気はアルヴィーにはなかった。だって怖かったのだ、いつにないその迫力というか、鼻息の荒さというかが。
そんなわけで、現在アルヴィーは馬車を発注し、それを操る御者を探すべく、ルーカスを伴い――というか、向かう先はルーカスの伝手だということだから、むしろアルヴィーの方が伴われるというのが正しい――馬車の工房へと向かっているところなのだ。
「こちらでございます」
「おおー……」
やがて辿り着いた工房の前で、アルヴィーは感嘆の声をあげる。
そこはルーカスの説明によれば、決して大きくはないが堅実な仕事をする職人の工房、ということだった。しかしそれでも、客車が何台も組み上げられ、丹念に塗装を施されたりしている様子はなかなかに壮観だ。
「失礼。馬車を一台誂えたいのだが」
ルーカスが声をかけると、気付いた職人がやって来る。周囲の職人が畏まっているところを見ると、どうやらこの工房の主のようだ。
「こりゃあ、もしかして貴族様のお遣いですかい? うちの馬車を気に入ってくださるとは、有難い話ですなあ。それで、どんな馬車をお望みで?」
「希望としては四人乗り二頭立てほど、あまり派手でないものが良い。これが当家の紋章だ」
ルーカスは懐から紋章を模写した紙を取り出し、職人に見せる。彼は目を見張った。
「五枚翅の翼に紅い剣……聞いたことがありますなあ。確か、まだ二十歳前だってのに新しく叙爵されたっていう男爵様だ。――えっ、じゃあ、もしかしてこの若いの、いや、このお方は」
ようやくルーカスの隣にいるアルヴィーの素性に思い至ったのか、職人は何か固いものでも飲み込んだような顔になる。
「ええと……よろしく」
何ともいえない顔で凝視されたので、とりあえず、へらりと笑ってみた。
――その後、ちょっとした騒ぎになったものの、馬車の発注そのものは無事に済み、アルヴィーとルーカスは商業ギルドに向かった。
「何で商業ギルドなんだ?」
「商業ギルドは国の財務部門の下部組織として、あらゆる業種の管理・調整を国に代わって行っております。その中には馬を扱う業者や、御者を斡旋する業者もおりますので」
「へー……オークションだけじゃないんだな、商業ギルドって」
「むしろ業者の管理監督、並びに金融事業が主な業務でございますよ」
さすがにデキる執事ルーカスは、商業ギルドについても詳しかった。すらすらと説明され、アルヴィーはぽかんと口を開けて感心するしかない。
相変わらず豪勢な佇まいの商業ギルド本部で、二人――というか主にルーカスは、手際良く馬と御者の手配を済ませた。といっても、馬車が出来てこないことには意味がないので、正規の契約は馬車の納入を待たなければならないが、ひとまず目を付けた馬と御者は押さえておく。
正直アルヴィーは要らないくらいの仕事ぶりだったが、ルーカス曰く、食料や日用品程度ならともかく、馬車や馬となるとさすがに値が張るし、実際に使うことになるアルヴィーの好みや相性などもあるので、主たるアルヴィーの監督と裁可を仰がないわけにはいかない、とのことだった。確かに、場合によっては火竜の気配が漏れ出すことも考えられるので、できればそれに動じない馬が欲しい。というわけで、馬を選ぶ時にはこっそり制御を緩めてみたりしたのだが、まあそれはさておき。
「……これで終わりか?」
「左様でございます。後は馬車が出来上がりました時に、本契約を済ませなければなりませんが」
「そっか。――にしても、馬車かー……」
まさか自分が馬車を持つような身分になるとは思わなかった。アルヴィーはため息をつく。
「何か、馬車に嫌な思い出でもおありですか?」
「いや……うーん、ある意味そうなる……か?」
思い出せば幼少時代――ルシエルとロエナが村を去ったあの日。二人を連れ去って行ったのは、馬車に乗ったセドリックだった。もちろん、彼が悪いわけではない。彼は主家の命を果たしただけに過ぎないし、アルヴィーもその方がルシエルの幸せに繋がると考えて、その手を離したのだから。
嫌な思い出、というほどのものではないのだが、何となく自分が馬車に乗る側になる、ということに落ち着かないものを感じるのも確かだった。やはり感覚はまだ平民のそれなのだろう。
「……まあ、おいおい慣れるさ」
多分な、と付け加えたアルヴィーに、それは良うございました、とルーカスが返す。彼としては年若い主に一日も早く、貴族社会の一員であるという自覚を持って貰いたかったので。風采は悪くないのだから、後は物慣れてくれればそれなりに見栄えもするはずである。
出来うる限り早くその日が来ることを願いながら、彼は若き主の後を追った。
◇◇◇◇◇
“それ”は、打ち捨てられたように地面に突き立っていた。
周囲には魔法陣が輝き、時折脈打つようにその光を強める。その中央で一振りの剣が、魔法陣の光に呼応するように細かく震えていた。
ピキン、と。
かすかな――ほんのかすかな音が響く。剣の刃が小さく欠けた音だった。毀れた欠片はぽろりと大地に落ち、そして一瞬のうちに形を失って崩れ去る。
剣の振動は少しずつ、だが確実に強いものになっていった。それに比例するように、魔法陣の輝きも強まっていく。
だが――それが強まりきる直前、上空から見えざる刃が降ってきて、魔法陣をズタズタに切り刻んだ。
「……危ない危ない。いくら何でも、“帝国領”の中で地脈と精霊を暴走させるわけにはいかないしな」
輝きを失った魔法陣に、巨大な影が落ちる。それは翼を持つ大蛇。
その背から身軽に飛び下りたダンテは、手にした鎖を剣の刃と柄に巻き付けた。それを嫌がるように剣から光が漏れるが、彼は意に介した様子もなく、剣を魔法式収納庫に仕舞う。
「さて、と……今のところファルレアンの独り勝ちだけど、それだと一方的過ぎて面白くないなあ。やっぱり、多少なりとも痛手は負って貰わないと」
どこか楽しげにそう言って、ダンテは忠実な使い魔の背に飛び乗った。空飛ぶ蛇はそのまま上空へと舞い上がり、優美に空を泳いで遥か彼方へと消えていく。
後には破壊された魔法陣だけが、虚しく空を仰いでいた。




