第99話 神代より残りしもの
アルヴィーからの報告を受け、日程を少し詰める形で、一行は王都ソーマへと帰還した。
といっても、捕虜とされていた騎士たちの中には西方騎士団・魔法騎士団出身者もいたので、彼らはすでに所属原隊に戻されている。わざわざ王都まで連れて来て西までまた戻るのは二度手間でしかないからだ。彼らについてはきちんと名簿を作ってあるので、それを基に帰還報告がなされる。
――地精霊フォリーシュの警告は、アルヴィーを通してジェラルドに伝わり、そこから騎士団本部にも報告が飛んだ。しかしそれに対してもたらされた返答は、予定を少し早めて帰還するように、ということだけだ。どうやら女王アレクサンドラを寵愛する風の大精霊シルフィアにより、術式の他の基点についてもすでに目星は付いているらしい。ただ、いずれも他国の領土内となるため、まずは相手国へ通達という手続きを踏まなければならないとのことだった。アルヴィーだけならば飛竜でも使えば簡単に赴けるが、許可を得ないままではそれすなわち不法入国であり、下手をすれば内政干渉にもなり得る。
(国同士って、こういうとこ面倒だよなあ……)
胸中で愚痴るも、アルヴィーではどうしようもないことだった。囚われた地精霊たちのことを思えば気も逸るが、事はすでに彼が動けば済むという次元ではなくなっている。それが通用するのは戦場くらいだ。
そんなわけで、アルヴィーは焦れる心を抑えつつも、護衛任務を果たしての帰還となった。
捕虜となった騎士たちが帰還することは、すでに本部では知れ渡っており、彼らを乗せた幌馬車が本部に到着すると、騎士団長自らが出迎えた。彼は帰還した騎士たちに敬礼を送る。
「諸君。――ご苦労であった」
美辞麗句を連ねられるよりも遥かに雄弁なその労いに、王都の土を踏むことが叶った騎士たちも一斉に敬礼を返した。その眦に涙を滲ませる者も、決して少なくはない。
長旅を終えた彼らのために、出迎えは最小限の時間で終了した。彼らに必要なのは一刻も早く家族のもとに帰るための許しと、その労苦を購う見舞金である。騎士たちはそれを受け取ると、ある者はそのまま王都やその周辺に散り、またある者はさらなる旅路へと歩み始めた。彼らには特別に、騎士団が足を用意し、それぞれが本来属している方面本部へと送り届ける手筈になっているのだ。
王都までの旅を終えた彼らを見送り、アルヴィーたちは報告のため本部の建物へと入る。もっとも、今回の任務の指揮を執ったのはジェラルドなので、報告は彼から騎士団長へという形になるが。アルヴィーははっきり言ってついでというか、おまけというか。
初めて入る騎士団長の執務室で、アルヴィーが落ち着かずそわそわしている横で、ジェラルドは簡潔に報告を済ませた。
「――そういう事情でありますので、出来うる限り早急に対処するべきであると考えます」
「なるほど、事情は分かった。だが、さすがに他国の領土内とあってはな。レクレウスの場合は、建前上だけでもあちらの許可があったゆえどうにかなったが、公国の方はそうも行くまい。そもそも、未だ連絡も取れぬ」
騎士団長ジャイルズ・ヴァン・ラウデールは、難しい表情でそう唸った。
「クレメンタイン帝国の傘下に入るという発表からこちら、三公国のいずれも外部との連絡を絶っている。無論、国境に近い地域ではまだ周辺国との行き来もあるが、国の中枢たる大公家や高位貴族は完全に情報が遮断されているのだ。我が国を含め、各国とも諜報員を投入しているが、これといった連絡もない」
「帝国側による情報封鎖、というところでしょうか」
「おそらくはな。それに、首都周辺は風精霊も近付けぬようだと、陛下が仰っていた。例の、《エレメントジャマー》とかいう精霊除けの魔動機器でも使っているのだろう」
「陛下の風精霊も駄目となると、お手上げですな。後は現地の諜報員に、何とか踏ん張って貰うしかないというわけですか」
ジェラルドも、現時点では下手に動けないと察して肩を竦める。
「え、でも、フォリーシュの話だと、ずっと陣に捕まったままにしとくと精霊が狂うかもって――」
このまま現状維持、とされそうな雰囲気に、アルヴィーは慌てる。そんな彼に、ジャイルズは一つ頷いてみせた。
「貴公の言い分も分かる。――だが、人の世には人の世の法というものがあるのだ。それを軽んじる国は、その分他国より軽んじられる。国同士の法を守らぬ国など、どの国も相手にしたくはないからな。それは回り回って、やがてその国を滅ぼすだろう」
その言葉に、アルヴィーは言い返せずに黙る。そんなものはどうでもいい、と切り捨てるには、彼は国というものに深く関わり過ぎ、また子供でもなくなっていた。世の中には戦闘力だけではどうにもならないことが山ほどあると、彼はすでに嫌というほど知っている。
それでもどうにかならないかと、押し黙ったまま必死に考えを巡らせる彼の耳に、その時ばさりという音が聞こえた。
「……それは?」
「この大陸の地図だ。大雑把なものだがな。何しろ、地形の情報など各国の軍事機密だ。これは他国に潜入した諜報員からの情報や、飛竜を使って密かに調べた情報を集めたものになる。国内だけのものなら、もう少しまともな地図があるのだが、まあ致し方あるまい」
ジャイルズが広い執務机の上に広げたのは、大陸の大まかな形や各国の大都市の位置が書き込まれた地図だ。精密とはとても言えないということだが、それでも各国の王都・首都の位置関係は大体分かる。
ジャイルズは広げたその地図の上に、細い金属の輪を一つ置いた。
「……これは?」
「ああ、さすがにこの地図に余計なものは書き込めんのでな。作らせた……だがとりあえず、重要なのはここからだ。この輪の下をよく見ろ」
とん、と地図を叩く指につられたように、アルヴィーはそこを覗き込み、そして気付いた。
「これ……全部円で繋がるのか」
三公国の首都、そしてレクレガン。その四都市は、ほぼ等間隔で金属の輪の真下、あるいはごく至近に位置していた。地図の精度が低いので多少の誤差はあろうが、四つの都市が同じ円で結べることは分かる。
と――アルヴィーにしか聞こえない声が響いた。
『ほう、人間も気付いたようだな。ならば少し説明でもしてやろう。交代だ、主殿』
「え、おい、アルマヴルカン!」
いきなり代われと言い出した自身の中の竜に思わず突っ込めば、他の二人に怪訝な顔をされた。
「……いきなりどうした?」
「いや、アルマヴルカンがその術について知ってて、説明するって」
途端、二人の目の色が変わった。
「何だと!?」
「そ、それは本当か」
期待の眼差しを向けられれば、嫌とも言えない。アルヴィーはため息一つついて、その目を閉じた。一呼吸置いて両の瞼が開かれた時、そこから現れた色は鮮やかな金色。
そして同時に、突然空気が質量を持ったかのような重圧が、執務室に満ちた。
「くっ」
「これは――!?」
一度エルヴシルフトの威圧を経験して耐性があるジェラルドや、歴戦の騎士であるジャイルズは呻く程度で済んだが、迷惑なのは同じ室内にいた文官や警護の騎士たちである。いきなりの強大過ぎる気配に、ある者は腰を抜かし、またある者は席に着いたまま失神した。
(おい、気配押さえろって! 何事かと思われるだろうが!)
『何を言う。この程度、雛でも耐えられるぞ』
(竜と人間一緒にすんな!)
アルヴィーの突っ込みに小さく鼻を鳴らし、アルマヴルカンは自らの気配を抑え込む。途端に空気が軽くなり、意識を保っていた人間たちは一斉に大きく息をついた。
「……なるほど、これが火竜か。とても欠片とは思えんな」
眼前に立つ、部下の姿をした《上位竜》に、ジャイルズは思わず畏怖の目を向けた。それを見返す金の双眸が、何かを面白がるように細められる。
『呻き声一つで済むのならば、人間にしては上等な部類なのだろうな。――さて、本題に入ろう』
アルマヴルカンはそう言って、地図に置かれた金属の輪を取り上げた。それを弄びながら、口を開く。
『今回の一件、使われたのはずいぶんと旧い術式だ。現在の、人間の保有魔力や魔石の魔力を使うものとは違う、自然界の力を流用する魔法になる。威力は桁違いに大きいが、使用に場所や条件などの制限が多いことや、術式そのものが難解で扱い辛いことから廃れ、人間の世界はおろか竜や精霊ですらも、ここ数百年の間に生まれた者はほとんど知らぬ術式だろう。わたしにしても、長い生の少しばかりの暇潰しとして覚えたもので、実際に使ったことはない』
とん、とアルマヴルカンが地図を指で叩く。
『まず、基点となる陣だが』
「悪いが、何か書くならこっちに頼む。その地図は取扱注意の貴重な備品だ」
敏くも嫌な予感を覚えたか、ジェラルドが適当な白紙を何枚か引っ掴んで机に広げた。話に水を差された格好だが、アルマヴルカンはさして気分を害した様子もなく、その白紙の一枚をもう一度指で軽く叩く。と、チッ、とかすかな音と焦げるような臭いが一瞬だけ立ち昇り、白紙に複雑な魔法陣が浮かび上がった。
「――これは……っ!」
『基点となる陣は、基本的に同じだな。地脈の流れを捻じ曲げ、任意の方向に向けて強制的に流路を変えるものだ。今回は四ヶ所だったようだが、数は特に問題にはならん。地脈の位置や数に応じていくらでも変更は利く。そして』
アルマヴルカンが別の紙をつつくと、また別の魔法陣が描かれた。
『これが力を凝集し、術を発動させるための陣になる。わたしが知るものをそのまま使ったとすれば、これは集めた力を極大の攻撃魔法に変換し、任意の方向に撃ち出すためのものだ。どこを狙ったかまでは分からんがな』
「火竜殿……でも分からぬのか」
『今のわたしは欠片に過ぎぬのでな。“本体”であれば感知できたやもしれんが……ああ、あの風の精霊なら感知できたのではないか? 風精霊の感知能力はちょっとしたものだろう』
「……確かに。陛下から承っている。――何でも、この世界を包む結界とやらに穴が開いたと、風の大精霊は言っていたそうだが」
『ほう、世界結界にか』
アルマヴルカンが少し驚いたように金の双眸を見張る。聞き覚えのない言葉に、ジェラルドが眉を寄せた。
「“世界結界”?」
『かつてこの世界に存在した神々が、世界を去る時に構築していった結界だ。文字通り世界を包むほどの規模だと聞いている。その結界が構築された当時はわたしも雛に毛が生えた程度の幼さだったが、そのわたしでさえ全身が総毛立ったものだ。何しろ凄まじいほどの力が動いたからな』
その時を思い出すように、アルマヴルカンの瞳が遠くを見た。
『世界結界に攻撃を加えるつもりだったのならば、わざわざあんな廃れた術式を持ち出してきたのも頷けなくはないな。現在の魔法であれだけの出力を出そうと思えば、《上位竜》何十頭分の《竜玉》が必要になることか』
(そんなに威力が違うのかよ!? そりゃそっちの方法使うわな……)
アルヴィーは思わず納得してしまった。規模が大き過ぎてもはや実感が薄い。
『今回使われた術式が、わたしの知るものとそっくり同じであることを考えると、その知識を与えたのはわたしの《竜玉》に宿る“本体”の方だろう。何を思ってのことかは知らぬがな』
「……自分の大元であるのに、分からぬと?」
探るようなジャイルズの目に、アルマヴルカンは小さく肩を竦める。その仕草はやけに人間臭かった。
『こうして欠片の一つとして分かたれた時点で、すでにわたしは“わたし”ではない。ましてや主殿の右腕に宿ってから、それなりの時を経ている。――これでもかなり影響を受けているぞ? 互いにな』
(……え?)
意味深な言葉に、アルヴィーが面食らった時。
『――さて、説明はこのくらいで良いだろう。主殿、後は任せよう』
アルマヴルカンが両の目を閉じる。もう一度目を開いた時、そこに宿る色は元の朱金だ。
「……戻ったか」
それを確かめ、ジェラルドの声にもわずかに安堵が混じった。
「しかし、あれはどういう原理だ? おまえの身体を使って竜が喋るってことだろう。何か影響はないのか?」
「特にそういうのを感じたことはないけど……アルマヴルカンが“表”にいる時でも、俺の意識もちゃんとあるし」
「そういうもんか……だが、何か異常があったらすぐに報告しろ」
「あ……はい、了解」
深く考えることもなくひょいひょい“交代”していたが、確かに先ほどの一言はそこはかとなく不穏だ。たまにアルマヴルカンの記憶を覗いてしまうこともあるし、互いの結び付きが深まっているのは事実だろう。アルヴィーは頷いた。
――報告を終え、二人は騎士団長の執務室を後にする。そこでジェラルドとも別れ、アルヴィーは久々の自宅に戻ることにした。長期任務だったので、この後数日は休暇だ。どう過ごそうかと考えながら、建物を出る。
『――アルヴィー!』
途端に、地面から飛び出したフォリーシュが飛び付いてきた。その頭を撫でながら、アルヴィーは眉を下げる。
「……ごめんな。他の精霊を助けに行くの、ちょっと時間が掛かりそうだ」
『ん……わかった』
こくりと頷くフォリーシュ。その口調はまた、たどたどしいものに戻っていた。おそらくまだ力が戻りきっておらず、本来の聡明な部分が出しきれていないのだろう。
『いついけるの?』
「分からない。――ここじゃない、余所の国なんだ。遠いし、勝手に入っちゃいけない」
『そう……』
きゅ、とアルヴィーの手を握るフォリーシュの指に、少し力が入った。
『……でも、はやく助けてあげたい』
「そうだな、俺もだよ」
自らの呪いに蝕まれていたシュリヴの、苦悶の叫びを思い出す。
そして、竜の魂に喰われて狂った、かつての僚友たちを。
昏い記憶を見つめ返しながら、アルヴィーはフォリーシュと手を繋いだまま、自宅への道を辿り始めた。
◇◇◇◇◇
エメラルドをばら撒いたかのように美しく輝く、緑したたる森。その最奥に、ユーリが育った泉はある。
帝都ヴィンペルンから飛竜を飛ばし、森の入口で待つよう言い置いて、彼は懐かしい森に足を踏み入れた。護衛も兼ねていた飛竜の騎手は渋い顔をしていたが、そもそもこの地でユーリを害するものなどなく、また飛竜を留め置けるような場所もない。そんなわけで、ユーリはひとり故郷を訪ねることとなったのだ。
とはいえ、彼にとっては勝手知ったる、というやつで、小鳥の囀りなどに耳を傾けつつ、さっさと目的地に辿り着いた。
緑の中に慎ましく存在する泉は、久しぶりの愛し子の帰省を喜ぶかのごとく、木漏れ日にきらきらと輝く。ユーリはすたすたと泉に歩み寄り、そして何らためらうことなく、その澄み切った水へと身を躍らせた。
瞬間――世界が切り替わったように、水音が消える。
ふわりと緩やかに、彼は舞い下りていった。とん、と下り立ったのは、明らかに人為的に磨き上げられた石造りの床だ。周囲には水路が張り巡らされて水の珠がふわふわと浮かび、行く手に佇むのは太い柱と彫刻が施された屋根で構成された、かつて神殿と呼ばれた形式の建物。見上げた頭上にはどこまでも水面が揺らめき、この不思議な世界に明るさを振り撒いている。
この場所こそ、泉に住まう高位精霊の支配する領域であり、ユーリが育った場所であった。
周囲の水路で弾んだ水の珠が、彼の周囲を漂い子供のような笑い声をあげる。水の下位精霊である彼らは、幼い頃からのユーリの遊び相手でもあった。久しぶりの帰郷にはしゃぐ彼らを纏わり付かせたまま、ユーリは神殿へと足を進める。
神殿の前には、すでに一人の女性が佇み、彼の到着を待っていた。小走りに彼女に駆け寄り、ユーリは普段あまり変わらない表情を綻ばせる。
「ただいま、母さん」
『おかえりなさい、わたしの可愛いユーリ』
ふわり、とユーリを抱き締めた彼女からは、どこまでも澄んだ水の匂いがした。
彼女――ユーリの育ての母である水の高位精霊イシュカは、豊かに流れる青緑色の髪を揺らし、明るい蒼の瞳を細めて微笑む。十代後半から二十代前半ほどの年頃に見えるが、もちろんこれでも数百年という長い年月を過ごし、この辺り一帯の水を司る存在だ。
赤子の頃に彼女に拾われ、以来ロドルフに連れられて泉を後にするまで、人生のほとんどを彼女のもとで過ごしたユーリは、人間で唯一、この空間に自由に出入りすることを許されている。彼以外が泉に飛び込んでもただ水底に行き着くだけで、この異空間には決して来られない。
清らかな水の匂いに満ちた空間に、ユーリは知らず双眸を細め、その空気を胸一杯に吸い込んだ。
「……やっぱりここは、水が綺麗だね。落ち着く」
『あら、外はそんなに水が汚れているの?』
「場所によるよ。――ここんとこたまに、エンダーバレン砂漠で水脈とか弄ってたし。あそこは呪われてる間に一回完全に水脈が切れたから、呪いが解けても水が来なくて、水脈繋ぎ直すの面倒だったんだ」
『では、あの可哀想な精霊も解放されたのね』
母の言葉に、ユーリは目を瞬かせた。
「……知ってたの?」
『噂で聞いたことはあったわ。まだ生まれてから幾許も経っていないのに、心を寄せた人間に裏切られて狂ってしまったのでしょう? 可哀想に、諌めてくれる同族も近くにいなかったのね』
イシュカは痛ましげにかぶりを振る。精霊というのは自然の具現化であり、生まれた時からすでに自然の摂理を知る存在だ。だが彼らがこの世界に在るには、生まれ持ったものだけでない知識や経験が不可欠だった。精霊たちは通常、それを先に生まれた同胞たちから学び取っていく。そうしなければ、不必要な危険にぶつかり、触れるべきでないものに触れ、果ては自らを滅ぼすことにもなりかねないからだ。
だが、ある時生まれた幼い精霊は、不幸にもそういった存在を得られなかった。なまじ強い力を持っていたために、下位の精霊たちはその力を恐れて遠ざかり、人間に心を寄せることの危険を教える者もいなかった。
そして――悲劇は起こったのだ。
『でも、どんな形であれ呪いから解放されたのなら、喜ばしいことだわ。――さ、こちらへいらっしゃい、ユーリ』
母に促され、ユーリは頷いて神殿に足を踏み入れた。重厚な屋根と柱だけで壁はないが、この空間そのものが家のようなものなので、雨風にさらされることもなければ暑さ寒さに苦しむこともない。この神殿は、単にイシュカが神々の在った旧き時代に興味を持ち、彼らを祀った神殿を真似て造ってみただけのものだと聞いたことがあった。要するに、巨大な調度品に過ぎないのだ。
それでも中に入れば、寛ぐための長椅子が置いてあり、外界の様子を覗き見ることができる大きな水球が水盤の上に浮かんでいる。ユーリが長椅子に腰掛けて一息ついていると、イシュカに仕える水精霊が杯を運んで来た。恭しく差し出されたそれを、ユーリは短く礼を言って受け取り、ためらいもなく口を付ける。杯の中身はわずかに甘味さえ感じる水だった。もちろんただの水であろうはずもなく、濃密な魔力の含まれた特別なもので、高位の水精霊にしか生み出せない。幼いユーリはこの水で育ったようなものだった。
そうして喉を潤せば、待っていたというようにイシュカが目をきらきらと輝かせながら、
『それで、今日はどうしたの? もう、外の世界には満足したのかしら』
「別にそういうわけじゃないけど。外は外で色々あるし。――今日はちょっと、母さんに訊きたいことがあって、陛下に許しを貰って帰って来たんだ」
『あら、そうなの』
イシュカが少し残念そうな顔になった。彼女はユーリが可愛くて仕方ないのだが、ずっとこの空間にいるばかりではあくまでも人間である子供の成長には良くないと考え、泣く泣く外の世界に送り出したのだ。愛息子が外の世界に満足してここに戻って来れば、母子水入らず(空間自体は水の中にあるが)で暮らそうと思っているのだが、どうやらその時は当分先らしい。
それでも可愛い息子からのお願いに、イシュカは気を取り直した。
『……それで、何を訊きたいのかしら?』
「えーと、これなんだけど。母さん、何か知ってる?」
ユーリが取り出したのは、例の陣の一部を記した紙だ。イシュカはそれを受け取ってしげしげと見つめたが、
『……そうね。覚えがあるわ』
「それ、何?」
『確か……とても昔に、神々が編み出したという魔法の術式に似ているわね』
イシュカは神々がこの世界を去ったすぐ後に生まれた精霊だが、その頃はまだあちこちに、神々の名残が残っていた。彼女はそれらに興味を惹かれ、残された文献や魔法を収集したのである。その中の一部にこの陣と良く似たものがあったのを、彼女は覚えていた。もちろん、ここにあるのは陣のごく一部なので、間違いないとは言い切れないが。
『それに似た陣について書いてある文献が、わたしの手元にあったはずだわ。必要ならお持ちなさい。今の文字とは少し違っているけど、あなたは読めるでしょう?』
「うん、ありがと」
文献といってもその時代はまだ製紙技術などもなく、幻獣の皮に書かれた巻物だ。文字も現在使われているものではないため、たとえ今の世に流出したとしてもただのわけの分からない文書としか思われないだろう。だが、ここで育ったユーリはそういった文字も母から習ったため、遥か昔の古代文字も読める。
イシュカは自らに仕える精霊に、それらの文献を探して用意するよう命じると、愛する息子に微笑みかけた。
『――さあ、それじゃ外の世界の話を、わたしに聞かせてくれるかしら?』
もちろん、ユーリに異存などあろうはずもなかった。
◇◇◇◇◇
「――まあ、やっぱりわたしの見立て通り! 二人とも可愛いわ!」
目の前で黄色い声をあげる令嬢に、ブランとニエラは困惑して顔を見合わせた。
――ここはレクレウス王都レクレガンの、オールト侯爵邸である。先だっての災厄からも何とか逃れ、自宅に戻ることが叶った侯爵家の末娘オフィーリア・マイア・オールトは、この日、婚約者であるナイジェルの護衛を務める少女たち、ブランとニエラを館に招いていた。彼女たちに危地を救われた礼として、オフィーリアは少女たちにドレスを仕立てると申し出ていたのだが、それが出来上がってきたのだ。
もちろん、当の少女たちにしてみれば恐れ多いにも程があるような申し出だったが、主のナイジェルも止めてくれない以上、まさか断るわけにもいかない。そんなわけで、ドレスができたと連絡を受けたナイジェルに送り出され、まさにおっかなびっくりという心境でオールト邸を訪れたのだった。
しかし彼女たちも年頃の少女。あまりの身分の差に萎縮してしまうという一点を除けば、ドレスを仕立ててくれるという申し出に心が躍らないわけもない。そして贈られたドレスは、確かに彼女たちに良く似合っていた。
ブランは淡いピンク、ニエラはそれよりも少し紫がかった色を基調とし、袖はパフスリーブ、スカートは足首の少し上まで。貴族の令嬢ではないので、スカート丈は多少短くても良いのだろう。抜けるような白い肌のブランと、褐色の肌のニエラに、そのドレスはそれぞれ映えた。
にこにこと満面の笑みで自分たちを見つめるオフィーリアに、ブランとニエラは顔が引きつりそうになるのを抑えながらも、ぺこりと一礼する。
「あの、こんなに立派なドレスを、ありがとうございます……」
「こんな可愛いドレス、初めて着ました」
「そうなの!? 勿体無いわ、あなたたちこんなに可愛いのに!」
オフィーリアはそう言ってくれるが、そもそもブランもニエラも、生まれてこの方ドレスなどまったく縁のない生活をしてきたのだ。それは彼女たちだけではない。大多数の平民はそんなものである。祭りや結婚の時に着る晴れ着より、このオールト邸のメイドのお仕着せの方がよほど良い生地を使っていそうだ。
「――でも、あなたたちベールは外さないのね。邪魔ではないの?」
と、オフィーリアの指がブランのベールをそっと摘んだ。ブランはびくりと硬直したが、まさかその手を払いのけるわけにもいかず、ううう、と小さく呻く。
「……だ、大丈夫です。薄いので前はちゃんと見えます……」
「わたしたち、これを外してはいけないんです」
「あら、どうして?」
「その……えっと」
口ごもる少女たちに、オフィーリアはことんと首を傾げたが、
「……何か事情があるのね。なら、深く訊くのは失礼ね」
そう言って指を放してくれたので、ブランはほっと息をついた。傍らのニエラと、そっと目配せし合う。薄いベール越しにも、互いの視線が絡み合うのが分かった。
――このベールの下を、人の目に晒すわけにはいかないのだ。
その下には、主以外に知られてはならない秘密がある――。
「あなたたち、音楽は好きかしら? わたしは竪琴が得意なの。一曲聞いてくださる?」
いつの間にか大きな竪琴を用意していたオフィーリアに、二人は恐縮しながらも、一曲聞かせて貰うことになった。細い指から紡ぎ出される、瞬く星のような調べに、うっとりと耳を傾ける。
「……わたしね」
その旋律に紛れるようにひっそりと、オフィーリアは呟いた。
「本当は、おねえさまになりたかったの」
――もうお父様もお母様もいらっしゃらないから、無理だけれど。
彼女のひっそりとした願いを乗せて、竪琴の調べは空間をたゆたう。
その音はどこか、寂しげに聞こえた。
◇◇◇◇◇
かつん、という硬質な靴音が、水音に混じって暗い空間に反響する。
レティーシャは、地下研究施設の一角を訪れていた。
管理者であるオルセルを伴うこともなく、ただ一人慣れた足どりで、彼女は一つの水盤の前まで進む。
そこに蟠るのは、人の背丈を優に超える肉の塊。
(経過は順調……そうでなければ困るのだけど)
それは彼女が手掛ける研究の中でも唯一、予備がなく替えが利かないものだ。ゆえにこれだけは、彼女も頻繁に様子を見に訪れていた。
他の人造人間の水槽とは違う、どこか生臭さを感じる臭いに、彼女はうっそりと笑みを浮かべる。
その臭いは、血液のそれに似ていた。
(――今度こそ、手に入れてみせる)
群青の瞳を瞼の下に収め、去来する数々の記憶を噛み締める。
そしてゆっくりと目を開くと、彼女は踵を返し、振り返ることなくそこを後にした。




