プロローグ
懲りずに新作始めました。
こっちはエタらないように頑張ります……。
きみは、ぼくの太陽だった――。
ガチャン、と素焼きのゴブレットが床に落ちて割れる。
その原因は、殴り飛ばされてテーブルにぶつかった一人の少年だった。淡い金色の髪は乱れ、その間から覗くアイスブルーの瞳が、冷たく燃える蒼い炎のようにぎらりと輝く。
だが、いくら双眸に怨嗟を込めようとも、まだ十歳にもならない少年と、三十を過ぎたばかりの男とでは、体格にも腕力にも差があり過ぎた。殴られた頬を押さえる少年の胸ぐらを男は掴み上げ、酒臭い息と怒鳴り声を撒き散らしながら喚いた。
「ガキが、クソ生意気な目をしやがって! 立場の違いってもんを分からせて――」
刹那――慎ましい家に相応しい質素なドアが、豪快な音を立てて蹴り開けられた。
「変な音がしたと思ったら――ルシィに何してやがるっ!」
声と共に、小柄な人影が弾丸のように突っ込んで来て、男に体当たりを食らわす。その弾みで、少年の胸ぐらを掴んだ男の手が緩んだ。その隙を見逃さず、少年は男の手を振り解いて脱出を果たすと、乱入して来た人影に駆け寄った。
「――アル!」
「ルシィ、もう大丈夫だからな!」
少年を自分の背後に庇い、果敢に男を睨み上げるのもまた、同じ年頃の少年だった。少し癖のある黒髪に、赤みがかった琥珀色の瞳。その双眸を怒りに燃え上がらせながら、黒髪の少年は仔狼のように吼える。
「いい加減にしろよ! 毎日酒ばっか飲んで、ルシィやおばさんに怪我させやがって! そういうの、男のカザカミにも置けないって言うんだぞ!」
「あァ!? 何だと、このクソガキ!」
「アルっ!!」
男の足が振り抜かれ、黒髪の少年をしたたかに蹴り飛ばす。金髪の少年は悲鳴じみた声をあげたが、黒髪の少年は数度転がりながらも機敏に跳ね起き、再び男を睨み据えた。蹴られた腹部の痛みに顔を歪めながらも、その眼は未だ闘志を失っていない。
「っ、この、生意気なクソガキが――」
再び掴み掛かって来ようとする男の足下に、黒髪の少年は椅子を引き倒して転がした。それに足を取られて派手に転ぶ男を尻目に、黒髪の少年は金髪の少年の手を掴む。
「今だ! 逃げるぞ、ルシィ!」
「うん!」
二人の少年は手を繋いで、家を飛び出す。逃げ込む先はいつも決まっていた。少し離れたところに建つ隣家――黒髪の少年の家だ。
安全地帯である自宅に逃げ込み、黒髪の少年は息をついた。
「……しばらくは帰れないだろうから、うちにいろよ。どうせまたその内、どっかに酒飲みに行くからな、あいつ。それまでのガマンだ」
「うん」
金髪の少年は頷き、心配そうに顔を曇らせた。
「……でも、アル、大丈夫? さっき、あいつに思いっきりお腹蹴られてた……」
「これくらいどうってことねーよ! それより、ルシィの方こそあいつに殴られたんだろ、ほっぺた腫れてんぞ。来いよ、かーさんに手当てして貰おう」
子供二人、手を繋いで台所を覗く。
「かーさん、あいつまたルシィのこと殴ってた。ほっぺた腫れてるから、手当てしてやって」
「アルも、お腹蹴られたんだ。僕を助けに来たから……」
「まあ! まったく、あの飲んだくれも懲りないねえ……ほら、二人ともこっちにおいで」
予想通り、畑仕事の合間の一休みで台所にいた母に傷を診て貰い、それぞれ手当てを受けた。金髪の少年は頬に揉んだ薬草を包んだ布を押し当てられ、黒髪の少年はやはり薬草を磨り潰して練られたものを、腹にできた痣に塗られる。薬草臭さに黒髪の少年は顔をしかめ、金髪の少年は礼を言った。
「ありがとう、おばさん。それと、アルにも怪我させちゃってごめんなさい……」
「違うぞ、かーさん、ルシィは悪くないぞ! あいつまた、酒飲んでルシィのこと意味もなく殴ってたんだ!」
「分かってるよ、まったくあの酔っ払いは、いつになったら改心するんだろうねえ……ロエナも大変だ。ルシエル、しっかり支えておやりよ。あたしやアルも、できるだけ力になるようにするからね」
「はい、ありがとう、おばさん」
「任しとけ! ルシィやロエナおばさんがいじめられたら、絶対助けてやるからな!」
にかりと太陽のように笑う黒髪の少年を、金髪の少年は眩しげに見つめる。
酒浸りで暴力も辞さない継父に支配された、灰色の毎日の中。
彼――アルヴィーとその家族は、ルシエルにとっては眩い光だった。
「……ねえ、アル」
「ん? 何だ?」
手当てを終え、二人でいつもの遊び場所に向かう。村外れの、大きな木を天辺に戴く小さな丘。その木の枝が、二人にとってはちょっとした秘密基地のようなものだった。
手を繋いでその丘に向かいながら、ルシエルはアルヴィーに語りかける。
「僕たち、大人になっても、ずっと一緒だよね」
「当たり前だろ!」
即答するアルヴィーに、ルシエルはほっと笑みを浮かべる。いつもアルヴィーに助けて貰ってばかりの自分に、彼がいつか愛想を尽かして離れてしまうのではないかと、幼心にも心配になったから。
だがアルヴィーは、そんな鬱屈を吹き飛ばすようにルシエルの金髪を掻き回す。
「心配すんなって! ルシィもロエナおばさんも、うちの身内みたいなもんだって、かーさんも言ってたしな。身内って、家族ってことだろ? だから、おれが守ってやる! とーさんみたいにな!」
猟師だったアルヴィーの父は、この小さな村を襲った魔物から妻子を――家族を守るために、戦って命を落とした。その死は、幼いアルヴィーの心に深い悲しみと、それ以上に強い思いを残した。
“大切な存在は、命を懸けてでも守るもの”――それが、父の死によってアルヴィーに根付いた思いだった。
だから、アルヴィーは力で敵わない相手にも立ち向かう。
“家族”であるルシエルを守るために。
「……うん。僕の家族は、母さんとアルたちだけだ。あいつなんかいらない……」
ぎゅ、とアルヴィーの手を縋るように握り、ルシエルは呟く。アイスブルーの瞳が、継父への敵意で仄暗く光った。
旅の商人に便乗してこの村にやって来たルシエルの母・ロエナを上手く誑かし、まんまと夫婦になったあの男。隣家の、アルヴィーの父がまだ健在だった頃は、その猟師という立場――貴重な肉を村にもたらし、獣や魔物と戦える技術を持つ猟師は、村の中では立場が強い――に遠慮していたのかまだまともだったが、彼が他界すると、時が経つにつれ化けの皮は剥がれ、酒浸りと暴力の素顔があらわになった。今ではロエナが村長の家で使用人として働き、あの男は日がな一日好き放題に過ごしている。逃げようにも、この村は小さ過ぎて隠れるような場所などなく、村の周囲の森の奥に棲む魔物の存在を考えれば、森歩きに慣れ戦う術を持つ猟師でもない女子供だけで村を出るというのも不可能。アルヴィーとその母がいなければ、どうなっていたかなど考えたくもなかった。
アルヴィーの家も父を失った母子家庭ではあるが、アルヴィーの母は畑仕事で生計を立てているだけあって体格の良い豪快な女傑であり(村の男たちの中でも一、二を争う色男だったアルヴィーの父が彼女に惚れ込んだのは、村でも一番の不思議だと有名だった)、一度ルシエルを庇ったアルヴィーが肋骨を折られて寝込んだ時など、怒り狂って鍬を片手で軽々と振り回しながら犯人であるあの男を村中追い回したことさえある。よほど肝を冷やしたのだろう、それ以来、彼女相手にはさしものあの男も二の足を踏むのだった。
二人、手を離さないまま丘に辿り着き、大木の根元から村を眺める。いつ見ても変わらない景色。
――きっと何年経っても、自分たちはこうして隣に並んで、こうして村を眺めるのだろう。
二人とも、そんな未来を疑っていなかった。
◇◇◇◇◇
――ずっと、隣にいると思っていた。
いつもと変わらない、ある春の昼下がり。
外からやって来た、今まで見たことがないような豪華な馬車に、小さな村は大騒ぎになった。
その馬車から降り立った、これまた村では望むべくもない風采の良い紳士は、騒ぎを聞き付けて集まって来た村人たちの中から、ロエナとルシエルを見出しはっきりと言ったのだ。
「ロエナ様、ご子息共々、お迎えに上がりました」
――ロエナがかつて隣国のとある下級貴族の娘であり、格上の貴族にしばしの寵愛を受けたこと、そしてルシエルがその貴族とロエナの間に生まれた落胤であることを、村人たちはこの日初めて知った。
ロエナの夫であった男は、紳士から金の入った小袋を手渡されると、あっさりと妻子を手放すことを了承した。
村人たちの興奮も冷めやらぬ中、二人は大した荷物も持たぬまま、引っ張り込まれるように馬車に乗せられようとする。
アルヴィーは、堪らず駆け出していた。
「――ルシィ!」
「アル……」
親友の首に齧り付くように抱き締め、アルヴィーは涙を堪える。離れたくなどない、それは言うまでもなかった。村の子供たちの誰よりも長い時間を共有し、誰よりも分かり合った、家族同然の存在。胸の奥が締め付けられるような痛みを感じながら、それでも、行って欲しくないと口に出すことはできなかった。
この村にいる限り、ルシエルは継父の理不尽な暴力に晒され続ける。
守ると決めたから。
……守るためにその手を離すという方法があることを、アルヴィーはすでに知っていた。
「っ、絶対、会いに行くから。だからっ……!」
ぎゅう、とさらに強く抱き締める。忘れないために。離れる覚悟をするために。
耳元で、ルシエルが小さく嗚咽を漏らすのが聞こえた。
やがて母子を迎えに来た紳士が、そっと二人を引き離す。ルシエルはまだ離れ難い風情だったが、半ば強引に促されて馬車に乗り込んだ。
続いて自らも乗り込もうとした紳士は、上着の裾が子供の手に掴まれているのに気付く。
「……何かね?」
他愛無い子供の駄々かと、素っ気なく問いながらその手の主を見た彼は、しかし次の瞬間その考えを改めた。手の主である少年の赤みがかった琥珀の瞳は、涙で煙りながらも、子供の癇癪とは違う強く真摯な輝きを湛えていた。
「……ルシィが、今より辛い思いするようなとこだったら……許さないからな……っ!」
その苛烈なまでの眼差しを正面から受け止めた紳士は、そっと少年の手を上着から離させる。
「……旦那様に、申し伝えましょう」
そう言い置いて、彼は馬車に乗り込み、そして扉が閉められた。
御者が馬に鞭をくれ、馬車は軽やかに進み出す。遠ざかる馬車を見送る――そこで、アルヴィーはついに限界を迎えた。
「……う゛あ゛あ゛あぁぁぁぁっ」
慟哭。十にもならない少年のものにしてはあまりに悲痛なそれに、村人たちも言葉もなくそれを見守る。
ただ母だけが進み出て、最後まで耐えきった息子を褒めるように抱き締めた。
「良く我慢した。――良く頑張ったよ、アル……」
母に抱き締められながら見上げた、ルシエルの瞳に良く似た蒼い空も。二人で眺めた村の景色も、遊び場だった丘の上の大木も。
すべてが目に痛く、アルヴィーはただ空を見上げて、ぼろぼろと大粒の涙を零し続けた。
馬蹄の音に紛れながらも、わずかに聞こえた、悲鳴のような慟哭。
すでに後にして来た場所からのそれに、ルシエルは思わず振り返った。後ろ髪を引かれながらも、もはや戻ることはできない。
(……アル)
自分たちを連れに来た紳士にアルヴィーが言い放った言葉は、ルシエルにも聞こえていた。あの親友は最後まで、ルシエルの幸せを願ってくれた。
――最後まで自分は、守られるだけだった。
ルシエルは名残を振り切るように、前に向き直る。隣に座る母に、誓うように呟いた。
「……いつか、アルたちを迎えに来るよ。――絶対にだ……!」
強くなる。
いつも自分を守ってくれた彼を、今度は自分が守れるように。
……だが、少年の幼くも真摯な誓いは、ついに果たされることはなく。
二年後。
経済摩擦や越境犯罪をきっかけに関係が悪化した隣り合う二つの国は、少年たちが育った小さな村を擁する国からの宣戦布告により、ついに戦端を開いた――。