火祭り
――これはとある夏のことだ。
最近仕事が忙しかったこともあり、俺はしばらくお盆休みに家でのんびりとくつろいでいた。
だがそこへ、俺の安らかな眠りをぶち壊して携帯に一本の電話がかかる。
「誰だ?」
眠りを邪魔された苛立ちから無視しようかとも思ったのだが、あまりにもうるさいため、やむなく電話に出ることにした。
「もしもし」
「――もしもし、たくみかい?」
相手の声を聞いたとたん、俺は目を丸くしてベッドから上体を起こす。
それは、実家いるばあちゃんからの電話だった。幼い頃に両親を亡くした俺は、ずっと母方の祖父母に育てられていた。そういえば、都会に出てからしばらく電話をかけていなかったなあ、などと考えていると、
「……もしもし?」
「ああ、悪い」
電話中だったことを思いだし、再び携帯に意識を向ける。
ところで、さっきから電話の向こうでノイズのようなものが聞こえる気がするけど……気のせいかな?
俺は結局、異音は気にしないようにして会話を再開した。
「どうしたの? 電話かけてくるなんて珍しいね」
「どうしたじゃないよ。最近全然家に帰ってこないから心配してたんだよ」
「そういや、去年から一回も帰ってなかったな」
ばあちゃんに言われて、今頃俺は去年の夏から帰省していなかったことに気づく。
ずっと仕事に終われていたためなかなか帰る余裕がなく、今年こそは帰るなどと考えていたのだが……どうやらもう一年も経ってしまったようだ。
「たくみ、今年は帰って来るんだろうね?」
「ああ、今年は長い休みを貰えたから、そっちに帰れるよ」
「そうかい。そりゃよかった」
ばあちゃんの嬉しそうな声が響き、俺の顔も自然と緩んだ。
「明日には帰ろうと思うんだけど、いいかな?」
「もちろん。いつでも帰っておいで」
急なのにもかかわらず、ばあちゃんから快く了承してもらい、俺はほっと胸を撫で下ろす。
「それじゃあ、明日の昼頃に帰るよ」
「はいはい。早くおいで」
「わかってるって」
珍しく他人を急かすばあちゃんをなだめてから、電話を切ろうとした矢先、電話の向こうから微かに声が聞こえた。
「……あつい……あつい」
蚊の鳴くような声だったが、それは妙に俺の耳にこびりついた。
「え? なにか言った?」
「いや、なにも言っとらんよ?」
おかしいな、また気のせいだったのか。
「ごめん。やっぱり勘違いだったみたい。それじゃあ、明日」
「はいはい」
そう言って俺は今度こそ電話を切った。
◆ ◆ ◆
――翌日
俺は早朝から家を出て電車で実家へと向かった。みんな考えることは同じなようで、電車内は帰省ラッシュで込み合っていた。
だがそれも、電車を乗り換えて田舎に近づくほど数は減っていき、実家辺りに到着する頃には三、四人の年寄りしかいなくなってしまった。
古びた駅で電車を降りると、数分してバスが到着。このバスは一日二本しか来ないため、わざわざバスに間に合う早朝にでなければならない。
砂利道を走るバスに揺られながら進んでいき、さらにそこから山のほうへ歩いていくこと三十分。ようやく目的地に到着することができた。
村は昔と変わらず……といっても数年しか経っていないので当然ではあるが。
周囲には古い木の家と田畑しかなく、まさしく田舎といった光景だ。村の周りは山に囲まれているため、外との交流がほとんど入ってこない。幸い電気は通っている。
久しぶりに見る故郷に懐かしさを感じていると、ふと鼻の奥に焦げくさいにおいが漂ってきた。
顔をしかめて辺りを見回しても、それらしい発生源は見当たらない。
しばらく奇妙に思っていた俺も、自分の家を発見するとすぐにそのことを忘れた。
「ただいま」
玄関の引き戸を開けて中を覗くと、ほどなくして廊下からばあちゃんがやってきた。
「ああ、たくみ。よく来たね」
ばあちゃんは昔と変わらない柔和な笑みを浮かべて俺を出迎えてくれた。その笑顔につられて俺も笑い返す。
ただほんの一瞬、ばあちゃんが現れたのと同時に、またあの焼け焦げたにおいが俺の鼻腔をついた。
「どうしたんだい?」
「……いや、なんでもないよ」
とくに話すようなことではないと判断した俺は、平静を装って家に上がった。
居間へ行く途中で辺りに視線を巡らせてみたが、家の中は俺がいた頃となんにも変わってなかった。
居間にやってくると、じいちゃんがぽつんと畳の上に正座をして俺を待っていた。
「たくみ、よく来たなあ」
「あ、ああ……」
いつもの俺なら「俺が来るまでずっとその状態で待ってたの?」と笑って返すだろうが、じいちゃんの虚ろな瞳を見てなにも言えなくなってしまった。
俺の知っているじいちゃんのはずなのに、これはほんとに俺のじいちゃんなのかと疑いの念を抱くほどに異様な雰囲気を漂わせていた。
勘ぐってしばらくじいちゃんを凝視していると、不意にじいちゃんが笑みを浮かべる。
突然のことに、俺はびくりと肩を跳ねさせた。
「ゆっくりしていきなさい」
「そ、そうするよ……」
なんとか言葉を返して、俺はそそくさと居間を出て自室へと向かった。
昔使っていた部屋へきて、ようやく一息つく。
寝転がって天井を見上げ、しばらく木の模様をじっと凝視した。
「……なんか変なんだよな」
俺の口からもれたのは、ここに来てから真っ先に思った感想だった。
昔と何一つ変わらない俺の故郷であるはずなのに、どことなく違和感を覚える。
ただ俺が神経質になり過ぎているだけなのかもしれないが……。
「散歩でもしてみるか」
気分転換に村を見て回るのもいいと思い、俺はゆっくりと上体を起こした。
玄関へ向かおうと廊下を歩いていると、居間のほうからぼそぼそと呟き声が聞こえてきた。
なにかと思いそっと中を覗くと、じいちゃんとばあちゃんが互いに正座をして向き合っていた。
うつむいていて表情は読めないが、口を動かしているのだけはわかる。
呟いている内容が気になり、俺はそっと耳を傾けた。
「あつい……あつい……」
二人の声が耳に届いた瞬間、俺の体は石のように動かなくなってしまった。
あの声と内容は、昨日ばあちゃんと電話で話していたときに聞こえたものだ。
苦しみに悶えるような低い唸り声。
やっぱりあれは、俺の聞き間違いなどではなかったんだ。ならどうして、ばあちゃんはあのときなにも言ってないなんて言ったんだ……?
本人に直接聞けばすぐにわかる話だが、とてもじゃないけど、今のあの二人に話しかける勇気はない。
俺は二人に気づかれないよう、静かに廊下を歩いて玄関を出た。
あの二人は、どうしてしまったのだろう。
俺がいない間になにかあったのか……。
しばらく考えながら歩いていたのだが、どうしても二人の呟き声が耳から離れなかった。
そうこうしているうちに、気づくと俺は周りがたんぼに囲まれた場所まで来てしまっていた。
慌てて引き返そうかと思った矢先、たんぼで作業をしていた人が声をかけてきた。
「あら、もしかしてたくみ君かい?」
声をかけてきた人物は、幼い頃お世話になった近所のおばさんだった。
見知った顔と出会い、俺は安心感からほっと胸を撫で下ろす。
「どうも、おひさしぶりです」
「まあ、立派になったねぇ。今日こっちに戻ってきたのかい?」
「はい。しばらく帰ってきてなかったもので」
おばさんと何気ない挨拶を交わしているなか、俺は思いきってばあちゃんたちについて聞こうと考えた。
「あの、ひとつお訊きしたいことがあるんです……俺のじいちゃんとばあちゃん、最近なにか変わったことはありませんでしたか?」
唐突な俺の質問におばさんは少しの間首を傾げていたが、やがて首を横に振る。
「いや、私が見たぶんにはおかしなところはないように見えるけど。今朝も会ったけど、とくに変わったところはなかったよ」
「……そうですか」
本当なら安堵できるはずなのに、なぜか不安を拭いきれないでいる。
「ありがとうございました。じゃあ俺はこれで……」
「なんだか力になれなくてゴメンね。なんかあったら、いつでも相談乗るからね」
「ありがとうございます」
おばさんに元気づけられながら、俺は踵を返して帰路に着こうと歩き出した。
「――それにしても、あついねぇ」
背後から、聞こえるか聞こえないかぐらいの声が耳に入って、俺は無意識に足を止めた。
「あついあつい……ああ、あつい」
次に聞こえてきた言葉で、俺は反射的に背後を振り返った。
おばさんは急に振り返った俺を見て「どうしたんだい?」と声をかけてきた。だが俺にはもう、その反応そのものが白々しく感じられる。
俺は裏切られたような気分になり、なにも言わずに速足でその場を離れた。
◆ ◆ ◆
結局、俺が家に帰ってきたのは、夕日が沈みかけた頃だった。それまで俺はずっと、人気のない山の中を歩き続けていた。
誰とも会いたくない、その一心で。
「おや、たくみ。今までどこに行ってたんだい?」
家に入ると、ちょうどばあちゃんが玄関にやってきていた。
「ちょっと、散歩に……」
「そうかい。今探しに行こうかどうか迷っていたところだったんだよ」
ばあちゃんと目を合わせようともせずに、俺はそそくさと自分の部屋に戻ろうとばあちゃんの横を通り過ぎようとした。
だが通り過ぎようとした直後、不意に腕を掴まれてびくりと体を強張らせる。
「ああ、たくみ。今日は村で祭りのある日だからね? じいちゃんは先に祭りの準備をしに行って、ばあちゃんもすぐに手伝い行かなあかんのや。祭りの場所は覚えとるか?」
「や、山のほうだろ。ちゃんとわかってるから」
震えそうになる声でどうにか答えると、ばあちゃんはにっこりと口角を上げて俺の腕から手を離した。
「それじゃあ、先に行ってくるよ」
「行ってらっしゃい……」
ばあちゃんが引き戸を閉めたのと同時に俺は安堵のため息をついた。
正直、今は祭りに行く気分じゃない。それどころか一刻も早く村から出たいとさえ思える。
しかし、こんな夕暮れにやってくるバスはもうない。歩くにしてもこんな山里の中を歩くのは危険すぎる。表現は悪いが、完全にこの村に閉じ込められたということだ。
「どうするか……」
口からため息まじりに情けない声がもれる。
このまま家の中に居ても事態は進展しない。それならいっそ、祭りに行っていろんな人たちから、ばあちゃんとじいちゃんの話を聞いたほうがいいのではないだろうか。
そんな一縷の望みが俺の中に湧き出る。
行くかどうか迷ったのち、俺は仕方なく祭りに行くことを決意する。
◆ ◆ ◆
山までは、家から歩いて十五分ほどで到着する。ぼろい石段をのぼっていくと、上へ上へと進むごとに焦げ臭さが鼻についた。
俺はまたこのにおいか、と思うと同時に祭りの内容を思い出していた。
この村の祭りは、いわゆる火祭りと呼ばれるもので、お盆に帰ってくるご先祖様が道に迷わないよう、積み上げたやぐらに火をつけて目印とするための祭りだ。
もしかしたら、今までこの村に漂っていた焦げたにおいは、祭りの準備で火をつけていたためではないのか。
そんな期待を胸中に抱きながら、俺は長い階段を上がり終えた。
そして、俺の視界に映ったのは、神社へと続く閑散とした石畳の一本道だった。
「……あれ?」
俺は自分の予想と異なった景色に、ひどく困惑した。
おかしい。昔は石畳の周りにたくさんの出店が並んでいたはずなのに……それどころか人の姿が見当たらない。
一瞬場所を間違えたのかとも思ったが、この村で祭りをできるような場所ここしかないはずだ。
いったい、どうなってるんだ。
俺はわけも分からないまま、石畳を踏んで奥にある神社へと近づいた。
周囲は恐ろしいほどに静まりかえっており、虫の声ひとつしない。
神社に近づくにつれて、俺はあることに気がついた。階段から見たときは、暗闇で神社のシルエットしかわからなかったのだが、よく見ると神社の影に重なるようにして複数の人影が存在していた。
それも五人や六人ではなく、軽く十人以上はいる。もしかしたらあの中に、じいちゃんとばあちゃんがいるのかもしれない。
――こんな暗闇の中、彼らはいったいなにをやってるんだ?
一歩一歩近づくごとに人影が鮮明になっていき、それと同時に焦げたにおいも濃くなっていく。
残りあと五メートルまで到達したところで、俺の鼻に今まで嗅いだこともないような腐臭が漂ってきた。
俺は口を押さえて必死に吐き気をこらえる。
吐き気がおさまったところでゆっくり顔を上げると、目の前の人影がぞろぞろとこちらに近づいてきていた。
俺は言い知れない恐怖から、彼らに合わせて少しずつ後退していく。
だが俺がもたもたしているせいかその距離は徐々に詰まる。
そうしているうちに、俺はあることに気がついた。
ペタペタという石畳を歩く足音に混じって、人影たちから声が聞こえてくる。
「あつい……あつい……」
唸り声にも似たその声を聞いて、俺は思わず足を止めてしまった。
それは、ばあちゃんたちが呟いていた声そのものだったからだ。
そして距離が二メートルもない辺りまで近づいたことで、俺は人影の様相をとらえた。
全身がドス黒く焼けただれ、眼球のない眼窩や口からは、どろどろとした液体があふれだしている。
「うわぁぁ!」
絶対にあれに捕まったら終わりだ。
直感的に判断し、逃げようと方向転換した直後、強い力で腕を掴まれた。
「熱っ!」
異常なまでに高温な手が、焼ける痛みとなって襲ってくる。
俺は死にもの狂いで掴む相手を蹴り倒した。
そして、蹴り倒した人物を目にした瞬間、俺は自分の目を疑った。
地面をのたうつそれは、原形をとどめていなかったが、はっきりとばあちゃんであるとわかった。
「ウソだろ……どうして……!」
地面を這いずるばあちゃんは、真っ黒な眼窩を俺に向けて睨んでいた。
「なんでお前は死んでないんだ……生きているのはお前だけ……私はこんなに熱くて苦しいのに……!」
憎悪に満ちた声を聞いて、俺の目には涙があふれていた。
あんなに優しかったばあちゃんがどうして……。
俺は「熱い熱い」と叫んで苦しみ悶えるばあちゃんから目が離せなかった。
だが、そうしている間にあいつらは間近まで迫っている。
俺は意を決し、涙をぬぐって駆け出した。
階段から転んでも靴が脱げてもかまわず、ひたすら逃げることだけを考えて俺は走った。
それからの記憶はあまりないが、気づくと俺は病院のベッドで寝ていた。
医師の話によると、たんぼの近くで倒れているのを、近所の住民が助けてくれたとのこと。
どうやら俺は山をひとつ越えて隣の村までやってきていたらしい。
退院後、あの村になにがあったのかを調べて驚愕した。
どうやらあの村は去年、祭りがあった日に大火災が起きたらしく、二十人もの村人が逃げ遅れて焼死していた。
その後村は廃村となっており、今は誰もあの村に住んでいないようだ。
「そうだったのか……」
自分の住んでいた村がすでになくなっていたことを知らなかったどころか、祖父母が死んでいたことにさえ気づかなかった自分が情けなくて仕方ない。
あの日の出来事は、自業自得だったと、今にして思う。
――ばあちゃん、じいちゃん、こんな不孝な孫でごめんな。
次にまたあの村に行くときは、ちゃんと花束を持っていくから。
俺は腕に残るやけどを見つめて、静かに目を伏せた。