第5話 逃走Ⅱ
「どうするの?」
「くそっ!」
「もう、お終いだ……」
ゾンビの襲来に、戦々恐々となった場を鎮めたのは、やはりというか館長の八木さんだった。
「みんな落ち着け!」
よく通る声で彼は一喝する。
「こうなったらここは諦めるしかない。男性は廊下の本棚を通路に並べて奴らの侵入を防ぐ。その間に女性は食料などの荷物を持って屋上に避難してくだされ!」
そんな司令官さながらの彼の指示で全員が水を打ったように行動を開始した。
俺達は廊下に出て右手にあった大きな棚を一心に押し出す。古く立派な造りでかなりの重量だった。
これなら十分壁になってくれるかもしれない。
「「ア゛ガァァァ…」」
くそ、もう大分近いじゃないかよっ!
下から響く奴らの呻き声が俺達の恐怖心を煽る。二台目の本棚に取りかかろうとした時、奴らの先頭が2階に到達した。
「だあぁ、クソ、間に合わねぇ!」
誰かがそう叫んで走り出した。
正直、俺も逃げたかったが、護たちに混じって負傷者の佐々木さんまでもが棚を押しているのが視界に入って踏みとどまる。
みんな怖いのは同じだ。でも戦っている。俺だけが逃げるなんてできなかった。
それに本棚一つで諦めるほど、奴らが利口だとも思えない。窓ガラスを素手で叩き壊すくらいだ、すで理性は無きに等しいだろう。
俺は半ばやけくそになって作業に没頭した。もっとも、それ以上考えたくなかったことの裏返しではあるが。
ヤツらはもう、踊り場を抜けて迫ってきた。何体かの頭が見えて、俺は目を瞑った。
余計なことはいいから集中しろ、俺。
「「「うぉぉォォ!!!!」」」
俺達は声を重ねて力の限りで棚を押す。
腐臭に奇声、いちいち気にしているときりがないので。俺は五感を出来るだけシャットアウトしてそれらを無視するように努めた。
間に合ってくれ、頼むから!
ぎりぎりのタイミングだったが、幸運なことに2つ目は最初の棚を支える形で収まった。
「まったく、寿命が縮むぜ……」
護がそう言って、一息ついた。全力だったのと、極限状態だったこともあって、俺は背筋に脱力感を覚えた。
棚越しに拳で木材を連打する激しい音はしたものの、奴らはすぐには突破出来ない様子だった。
それでも数に物を言わされてしまえば、突破される可能性も十分にあったので、保険として俺達はさらに椅子や机、その他様々なものでバリケードを補強した。
警報代わりに鈴をリールに結わえたものを廊下に張り巡らせてから、佐々木さんに肩を貸し屋上へ向かった。
屋上では女性陣が心配げな面持ちでこちらを見ていた。すると、一人の男性が進み出てきた。先程逃げた男である。
「八木さん、すまない。俺は、俺は!」
罪悪感と羞恥心からか、その顔は真っ赤になっていて、彼はもう土下座でもしそうな勢いだ。
「顔をあげなさい」
八木さんが静かに告げる。
「最悪の事態は避けられた。過ぎたことを悔やんでも仕方が無い。バリケードも完成したことだし、これで暫くは彼らもここには来られないでしょうな」
その言葉にあちこちから安堵の声があがった。
「しかし侵入した数を考えるとここも長くは保たないし、巡査さんの話ではすぐに助けが来るという保証もありません。よって下が突破された際には最寄りの呈楠高校へと移動したいと思っているが、いかがかな?」
どうやって? と皆が思っていることを察して、彼はあるものを指さした。
「あれは災害時の避難用簡易スロープ。下が突破された場合にはあれを使って地上へ脱出し、固まらずに順に高校を目指せばいい」
だがここにきて彼は突然、言いにくそうに口ごもる。
「その際、男性の方に全員が脱出できるまで私と共に殿をして頂きたいのだが……」
ようは避難が完了するまで逃げずに敵を引きつける、囮役、ということだ。
それに対して護が真っ先に挙手した。見た目に違わず熱い男である。
「キミはまだ若い、女性達を守ってくれ」
と断られ、結局、佐々木巡査を含む数名の勇士が囮役に立候補した。
皆が、貴方は怪我人だろう、と言ったが、使命感に燃えた佐々木巡査の前にはどんな説得も無駄だった。
その後は八木さんの案に従いスロープのカバーを外して屋上で待機した。 その間に脱出の準備が行われ、寝巻のままだった俺と妹もここの事務服に着替えて、荷物一式の入ったリュックを背負った。
自衛隊でも来てくれればなぁ……。
長きにわたる睨みあいの持久戦が続いたため、俺は何度も助けが来ないものかと祈ったが、そんな希望を打ち砕くかのごとく、警報代わりの鈴の音が聴こえてきた。
バリケードが突破されたのだ。
畜生、思ったよりも早いんだよ!
俺は内心で舌打ちした。
「慌てず、順番に降りて下さい!」
恐怖に駆られて我先にと争う人々に、警官の佐々木さんが注意する。
思いのほか脱出には時間がかかったが、俺達が仕掛けたトラップが予想以上に功を奏しているのか奴らはすぐには来ることはなかった。
やはり、ゾンビ化した人間の知能はあまり高くないようだ。
それに白く濁った目は役に立たないのか、視覚よりも聴覚を優先しているらしく殿を務める人たちが発する声に反応しているように思える。
その隙にスロープによる避難が迅速とはいかないまでも、順調に進められた。
「ヤバくなったらすぐ逃げて下さいよ!」
と護が降下際に叫ぶ。殿、もとい囮役の面々は無言で頷いた。
それを確認すると、スロープを滑り切った俺と護は地面に着地して、あらかじめ決められたルートに従って大通りに出て、高校を目指した。
大通りは静まり返っていたが、念のために辺りを警戒しつつ足早に行動した。
八木さんたちの無事を願いながら。
今更ですが、タイトルのInfectionは感染の意です。
…それだけです、はい。