第2話 逃走
明朝 ライナー製薬地下研究施設
頭脳明晰な白衣の連中も、銃を構えた警備員もそれの前では無力だった。
暫くは緊急システムの影響で施設に閉じ込められはしたものの、一度目覚めた本能は檻を破壊し外に出た。
周囲のシャーレやチューブから飛び散る飛沫も気にせずに。それが悲劇の素など知るはずもなく。
街の地平の彼方から、昇ったばかりの明るい光が緑の体躯を照らし出す。初めて目にする眩さに目を細めつつ、それは微かにだが興奮を知った。
◆◇◆
現在 椎葉宅
俺は固定電話の前で焦りと苛立ちにさいなまれていた。
くそっ、こんなときに限ってどこにも繋がらないんだよ?
ガシャン、と苛立つ俺は半ば叩きつけるように受話器を置いた。 だが、その時ふと俺の目にあるものが映って、考え直す。
そうだ、固定はダメでも……。
それは無造作に投げ出された俺の携帯だった。俺は急いでそれを拾いあげて通報を試みる。
しかし何故かは有紗に止められてしまった。
「たぶん、無理だと……思うよ」
彼女は小さいながらも、確信のこもった声で言う。
何が? の答えはすぐに分かった。画面上端の圏外の二文字で。
「私にもメールが届いてて……。でもそれを見たときには、もう圏外だったの」
いつから圏外になってたんだ? メールが届いた直後か? いや、そんなことはもうどうだっていい。
「行こう」
一瞬の沈黙の後、俺が出したのは余りにも単純な決断だった。
当然、妹はどこに? という顔をしている。
「近所でもどこでもいい。助けを呼ぼう」
もちろん、それが大きな理由なのだが、所詮は建前に過ぎない。 本音を言えば俺はもうこの場に一秒たりとも居たくなかったのだ。
彼女もそれは同じだったのか、無言で玄関へ向かう俺に付いて来る。
途中にあった父親の骸は意識的に視界の端へと追いやった。というよりは精神的な自衛本能の一環だったのかもしれない。
下駄箱を開けて最初に目についたランニングシューズを履くと、玄関のドアを開けて外に出た。
朝方特有のの新鮮な空気が鼻を抜け、眩しいぐらいの日光にも照らされる。
今朝の天気は俺の心境とは裏腹に清々しいまでの秋晴れ。
くそ、皮肉なもんだな。
……ああ、天気なんか見てる場合じゃない! とりあえずお隣さんに、この状況を伝えなければならないのに。
右隣の小松さんの家からあたることにした。隣と言うこともあって比較的ウチとの付き合いは長い。
ピンポーン
俺は逸る気持ちでチャイムを鳴らした。
しかし一向に返事はない。
留守なのか? いや、休日の朝だぞ。それに車だって停めてある。誰か一人ぐらいは居るだろう。
助けてください! と叫びながら何度も鳴らす。
それでも音沙汰ない事に、俺は更なる焦りを感じて扉も拳で叩きまくった。
固いドアを懸命に叩き続けたので、流石に手が痛くなってきて中断してしまう。
屋内の明かりを確認したくても、窓がカーテンで閉め切られていて、中の様子はわからない。
やはり、留守なんだろうか。というかここまで大騒ぎしているのに、誰も様子を見に来ないのか?
そう思いつつも、次の家に向かおうとした時だった。
バンッッ!!
その大きな音で俺たちは同時に振り返った。
「おぁっ!?」
俺はみっともない声を出してしまったし、有紗も背後で小さく悲鳴をあげた。
だが、それでも失神しなかっただけマシだったのかもしれない。なぜなら視線の先には……
ドンッ! ガンッ!
父と同様に血にまみれて目を白濁させた隣人が一心不乱に窓ガラスを叩いていた。
「おいおいおいおいっ!」
眼前の光景が理解できない。逆に、この状況を瞬時に理解出来る者の方がごく少数だろう。それぐらいに常軌を逸した光景だった。
バンッバンッバン!! ドンッ!!
「う、ウソ!?」
「……冗談だろ?」
背後からも同様の音が聞こえ俺達に再び戦慄が走った。
辺りを見れば静かだった近所の窓は変わり果てた住人たちで埋め尽くされていて我先にと俺たちに手を伸ばしている。
その様相は、まさしくホラー、いやそれ以上に本能的な恐怖を覚える物であった。
見てはいけない、関わってはいけない。もっと言えば死を体現しているような……。
ビシッ、ミシッとあちこちで亀裂が入る音がする。窓に耐久量を超えた圧力が加わり、その亀裂はどんどん大きくなる。そして、
タイミングを合わせたかのように、複数の家屋の窓が一斉に大破した。
破片があちこちに突き刺さるのも構わずに、ガラスを破った狂気の集団が唸り声をあげて迫ってきた。
心拍数が上がり、アドレナリンが放出される。俺たちの頭の中の危険信号が最大に達した。
「キャー!!」
「逃げるぞッ!!」
言葉よりも先に俺たちは走り出していた。得体の知れない恐怖に背中を押されて。
途中、曲がり角からの強襲に驚いた妹は足がもつれて転んで、追いつかれそうにもなったが何とか振り切った。
アレの移動速度が思った以上に遅かったおかげで九死に一生を得たのだった。
「「はぁっ! はぁ、はぁ……」」
背後で呻き声が聞こえなくなっても、肺と器官に痛みを感じて尚、純粋な恐怖心が足を止めることを許さない。
どれくらいの距離、時間を走ったのだろう…。
気がつくと俺達は息も絶え絶えに小さな公園の前まで来ていた。辺りを見渡しても追手がくるどころか何かが動く気配もない。
不自然ともいえる静けさではあるが、今は取りあえず目に見える脅威が居ないというだけでも十分だ。
「とりあえず、み、水」
束の間の安堵感からか俺は急に喉の渇きを覚え、水を求めて公園の中に足を踏み入れた。
砂場と遊具の間に目当ての水飲み場を見つけた俺が、ひねった蛇口に顔を近づけ水を飲もうとした時だった。
「待て、飲むんじゃない!!」
「「ッ!?」」
冗談抜きで、俺と妹は飛びあがった。
突然の大声に驚いた俺達がその出所を探すと、公園の隣にある公民館らしき建物の2階の窓から白髪混じりの初老の男が身を乗り出していた。
「あ、あなたは?」
突然のことに思わず質問が口をつく。
しかし彼はそれに答えず、今正面の扉を開けるから早く中に入りなさい。とだけ言って窓を閉めた。
疑問は山積みだ。というよりは頭がこの急展開の状況に追い付いていない。
だが、さっきの言いぶり。あの人は何か知っているのだろうか?
結局俺たちは彼の言うままに建物の正面へと回り込んだ。
正面の入口に立つと、暫くしてカチャリという音の後に重厚な音を響かせて木製の扉が開いた。中の様子は、逆光と照明がないのも重なってよく分からない。
一瞬俺達はお互いに顔を見合わせたが、すぐに頷くと扉の中へと入った。