第14話 群れる雲
もう安息の時間などないのかもしれない。
ゾンビ犬を倒した後、再び橋を目指して歩きながら俺はそう思った。
この街は地獄だった。修羅と餓鬼と畜生がひしめき蠢く地獄そのもの。
絶対の安全などどこにもなく、今この瞬間にも化け物が襲撃の機会をうかがっているかもしれない。
悪夢が正夢になってしまうがごとく、皮肉にもその考えは現実となってしまう。
太陽が真上にさしかかった頃、ふと服の袖が引っ張られた。
――――有紗だった。
「どうかしたか? 有紗」
「う、後ろ……」
「ああ、」
首をひねって見ればやはりというかゾンビがいた。それも大群で。
早速、だな。
お約束な展開に、俺はため息をついた。
大方さっきの戦闘での銃声や悲鳴、血の臭いをたどって集まったのだろう。しかしまだこちらとの距離は十分あり、俺たちの存在には気づかれていない。
ただしなんとなく生き物の温もりを感じているのかゆっくりと頭を揺らしながら背後をついてくるのは薄気味悪かったが。
佐伯さん達も事態に気づいたようで、静かに指示を出す。それは≪このまま静かにやり過ごす≫という内容だった。
つまり無用な戦闘は避けようということだ。戦っていいことなんて一つもない。皆は無言でそれに従った。
先ほどの激戦の後では普通のゾンビに対する恐怖も薄れていた。普通なら喚きたてて、狼狽するところを、黙って行動できた。
度重なる非日常の連続で、完全に俺たちの感覚はマヒしている。
ゾンビを引き連れての行進という異色の事態にも関わらず、それ以外の問題はなかった。常に背後の警戒は怠れないが順調に歩を進める事が出来た。
大型スーパーの前を通り過ぎたころ、間宮さんが前方の空を指さして囁いた。
「隊長、あれは何でしょうか」
彼の指す方向には黒い煙のようなものが見えた。
「火事でも起こってんのか……?」
「いや、それにしては揺れ方が不規則だ。まるで意志を持っているかのような」
護の意見を否定した佐伯さんの言うとおり、確かにそれは煙と言うには動きがおかしい。どちらかといえば蚊柱のような、群体を思わせた。
すぐに俺を含めた何人かが双眼鏡を取り出して確認する。
――――おいおいおい……。
俺は言葉を失った。
黒煙の正体がわかったのだ。その正体はやはり煙などではない。
無数の黒い翼、黄ばんだ嘴、赤く不気味に光る目、目、目……。
それは群れるカラスの大群だった。
百を超えるカラスの集団が、奇声を放ちながら空を埋め尽くさんばかりに飛んでいる。
しかも――――
「こちらに近づいてきます!」
間宮さんがそう言っている間にもその塊は距離を縮め、接近している。完全にこちらに気づいている様子だった。
次第に大きくなるギャーギャーというけたたましい鳴き声に俺たちの背筋は逆なでされる。
どう考えても普通のカラスではないことだけはよくわかった。
「カラス……そう言えば、あの時、ヘリを襲った連中か!?」
自衛隊の大型輸送ヘリ。俺たちの仲間を乗せて脱出を試みた。しかしそれは搭乗した隊員が『カラス』と呼ぶ何かによって撃墜されてしまった。
今、その存在が目の前にいる。佐伯さんが僅かに焦りを見せ、周囲を見渡す。
「マズいな。ヘリで対処できないような連中だ。どこか身を隠せる場所が欲しい」
全員で辺りを見渡すも、半壊した建物がほとんどで頼りない光景が広がっていた。
少し前に通り過ぎた大型スーパーを見るといつの間にかそこにもゾンビたちがいた。
どうすれば……!
「この先を右に曲がれば……警察署!」
ふいに少し離れた所にいた菜月さんが道端の案内板を見て呟いた。
「警察署!」
渡辺さんが復唱する。
もちろんそこが安全である保障など皆無だ。しかし警察という言葉の響きが俺たちの心を動かす。
それに背後にはゾンビ、前方からは血に飢えたカラスの群れ。まさに背水の陣となった俺たちに考えている暇はなかった。
「よし、次の道を右へ曲がれ! 警察署を目指すんだ!」
指揮官の合図で俺たちは一斉に走った。
ガァ! グガァ。ゥオォォ……!
カラスや佐伯さんの声に触発されたのだろう、背後からもうめき声が聞こえ、余計に俺たちの足を加速させる。
俺たちは懸命に走った、それでもカラスたちの追撃が予想以上に速くて距離はどんどん詰められていく。
何だ、あのスピードは!?
俺は背筋に冷たいものを感じた。
先ほどのゾンビ犬もそうだったがゾンビ化したからと言って一概に知能が落ち、動きも緩慢になるわけではないらしい。
現にコイツらと同じようにゾンビ犬も群れで襲いかかってくるし、カラスに至っては視力も兼ね備えられているようだった。
非常に厄介な相手だ。
空飛べるってだけでも十分なのによ!
それにこちらの走れる時間は体力的に限られている。今更になって、装備や予備弾薬、武器であるハンマーの存在が重く感じられた。
「このまま逃げても、やられるじゃねーか! って、おわぁ!」
先頭のカラスが早くも至近距離に迫ってきて護が叫ぶ。
ドンッ! バンッ!
「今の戦力じゃ、迎撃は、無理だッ!」
佐伯さんが怒鳴り返しながらもその一匹を拳銃で見事に撃ち落とす。
「ヘリに……主力兵器の、M4カービンを残したのは、不覚でした!」
間宮さんが荒い息でそう言った。そう言う彼もまたカラスを撃退する。おかげで先頭のカラスは排除されたが、その奥にはまだまだ黒い一段が雲のように追いかけていた。
「ああ、全くだ! く、このままでは……っ!」
全滅を覚悟した佐伯さんは走りながら俺たちに向き直る。
「私はあの、……カラスどもを、なんとかする。だが、もし私に、何かあっても走り続けろ。いいな! 間宮、みんなを頼んだぞ!」
「な、何をする気です!?」
「いいからこれは命令だ!!」
「隊長!!」
「佐伯さん!」
皆が口々にがそう言った時には彼はもう隊列から外れ、進行方向とは逆に走りだしていた。
「そんな、止めないと!」
すぐに菜月さんが後を追おうとしたが渡辺さんに腕を掴まれて引き戻される。
「ちょ、渡辺さん!? 放して」
掴まれた手を振りほどこうと、彼女の後ろ髪が左右に揺れる。ほんの一瞬立ち止まった隙を見たのか、看板の陰から数羽が飛来してきた。
パンパン、パァンッ!
H&KP2000が火を噴き、カラスは撃墜される。――――渡辺さんだ。
「今は彼を信じましょう」
カラスを倒した彼はそう言い、いっそう強く彼女を引っ張った。メガネの奥の瞳はいつになく燃えている。慣れた手つきでポケットからマガジンを取り出すと手早くリロードを済ませた。
しかも空になった弾倉も近くのカラスに向かって投げ、飛び道具として使っていた。
その様子に触発されたのか、間宮さんも後に続く。
「隊長には……きっと、考えがあるんでしょう! それと皆さん、重荷になる食糧は捨てて下さい!」
言葉とは裏腹に彼も不安そうではあったが、指示を飛ばした。
「分かり……ました」
色々と腑に落ちない表情ではあるものの、菜月さんは頷くとポーチを残してリュックを放り捨て、走り出す。
俺や護も苦渋の選択ではあったが生きるか死ぬかの瀬戸際で、結局リュックを投げ捨てた。
そう、俺たちがこの危機的状況で出来ることは佐伯さんを信じて走ることだけだった。
目の前に警察署の大きな建物が見え始める。
「有紗、頑張れ! あと少しだ!」
目的地を前に減速してきた妹を励ます。本当は俺も死ぬほど苦しいのに大声を出したのは確実に大きくなっているカラスどもの鳴き声をかき消すためでもあった。
こんなに走ったのはいつ振りだろう。陸上部に所属していた高校生以来だろうか。
キェァァァ!
予期せぬ方向から奇声を発し、頭上から一羽が舞い降てきた。突然の奇襲だった。
「食らえ!」
「この野郎ッ!」
俺と護はすぐに9mm拳銃をぶっ放したがひらりとかわされた。動く目標に小さな弾丸を当てることは、素人の俺たちが一朝一夕でできるものではない。
そして、あろうことか被弾を免れたカラスは、そのまま有紗につっこんでいった。
妹の悲鳴が鼓膜に響く。俺の心臓が大きく高鳴った。
させるか!!
とっさに拳銃を左手に持ち替えてベルトに挟んでいたハンマーを握りしめ引き抜く。
そのまま俺は獲物を怒りにまかせて振りかぶった。
アドレナリンが出ているのか、恐怖も焦りも微塵もなく純粋な怒りのままにスムーズな動作でそれを行った。
グシャッ!!
グゲェッ……!
生々しい音と同時に肉を叩き割った不快な感覚が、生ぬるい血の感触が、右手を襲う。
が、気にしている暇もなく別のカラスの集団が突っ込んでくる。
「うぉぉぉっ!」
その後も俺は無我夢中でハンマーをふるい続けた。点よりもいくらか面である攻撃のほうが、カラスの対処法には向いていたようだ。
隣では護も俺に倣ってカラスを殴り落としている。そして一時は怯んでいた妹までもが、気力を振り絞って、手にした警棒で奮闘していた。
黒い羽根や赤茶けた血肉がまき散らされる。暫くはカラスの奇声と自身の叫び、生々しい音が支配する空間で、俺たちは修羅となっていた。
あらかた敵を片づけてまた走りだそうとすると、今度は有紗が足をもつれさせて転んでしまった。
「有紗っ!」
彼女の背後にはカラス、カラス、カラス。
ちくしょう…! もう駄目だ!
俺がそう思ったときだった。
ギィィィーンッ!!
背後でとてつもない炸裂音がした。
「!?」
驚いて振り返ると、それはガソリンスタンドの近くで起こったのだとわかる。
キーンと余韻を残すその音に反応してカラスどもが一斉に向きを変え、ゾンビも誘導されるようにその方向に首を傾けた。
そして僅かな間をおいて――――
――――ドォォォォンッ!!!
凶悪な怪鳥が群がった先で、大地を揺らす爆音と衝撃とともに巨大な火柱が立った。
「「「なっ!?」」」
皆が呆気にとられた。いつの間にか足が止まっていることも気にならないほどに。
ゴオッ! と熱風が押し寄せ、俺はとっさに有紗を庇うような形で蹲る。
熱気が収まり、辺りに静寂が戻ったころ恐る恐る顔を上げるとそこにはもう追手の姿はなかった。
昼間から辺りを夕焼けのように紅に染める大きな炎はゾンビもカラスも一緒くたに燃やし尽くしたようだった。
おお……。
しばらく俺たちは紅蓮の業火と黒煙に魅入っていた。だが、メンバーの一人があることに気が付いた。
「でもあそこには佐伯さんが……!」
我に返った菜月さんの震える声で思考を取り戻す。
そうだった。俺も大事なことを思い出して心が沈んだ。あの規模じゃ、佐伯さんはもう……。
悲観的な思いが胸に押し寄せる。
妹がまた俺の服の袖を掴んできた。どうやら泣いているらしかった。
皆が後悔や悲しみを漏らし、涙を流す。
音を立てて燃える炎の存在がより大きく感じられた。彼は命を賭して、俺たちを救ったのだ。
「くっ、隊長!」
辛そうに顔をゆがめた間宮さんも敬礼をしようと足を揃える。が、突然大声をあげた。
「あ、あれは!」
そこには炎を背にゆっくりと近づいてくる一人の男の姿があった。皆が待ちわびた、ある男の姿が。
「おいおい、死んだことにしないでくれるか…」
煤や灰ですっかり黒ずんだ制服に身を包んではいるが、ニヤリと笑うのは紛れもない佐伯さんだった。なぜかその全身は水に濡れていたが。
道端で僅かに動くゾンビの頭を踏みつぶすと、彼は俺たちと合流した。
「隊長!」
「佐伯さん!」
「お怪我は?」
矢継ぎ早に繰り出される質問に、彼は短く答えた。
「問題ない。間宮、そちらは?」
「全員、無事です!」
その確認で皆はまず一息ついた。
「助かりました」
「でも一体どうやって……?」
全員が口々に言い、歓喜に包まれる中で彼は事の次第を説明する。
逃走中、このままでは全滅だと踏んだ彼は大きな賭けに出たのだという。
最初は携行していた手榴弾で一掃しようと思ったが、有効範囲が直径3m前後の爆風だと効果は薄いと断念した。
そして他に何か手はないかと振り返った彼の目に、ガソリンスタンドの看板が飛び込んできたそうだ。次いでその脇にあった防火用水槽も。
道すがら通り過ぎた先ほどのガソリンスタンドを使おうと決めた彼は、一か八かで誘導を試みた。
ギリギリのタイミングでガソリンスタンドにたどり着くと、まずヤツらが音に反応するという習性を見込んで、スタングレネードを使った。
それが先ほどの炸裂音の正体であるそうだ。
180デシベルの爆音と100万カンデラの閃光は、見事に敵を引き寄せることに成功し、ころ合いを見て彼はスタンド内のタンクにピンを抜いたM26破片手榴弾を投げ込むんでから、防火用水槽へと飛び込んだのだった。
その後グレネードの爆風がガソリンに一気に引火し、炎が敵を撃破。
彼自身も想像以上の爆炎に吹き飛ばされはしたが、軽度の火傷とかすり傷程度で済んだのは奇跡だ。と語った。
話を聞いた俺たちは唖然とした。自衛官の間宮さんでさえ驚愕の表情だったし、菜月さんに至っては口をパクパクさせていた。
「まあ、予想以上にガソリンが残っていて助かった。それに手榴弾を携帯していた甲斐があったな」
と言う佐伯さんにとうとう間宮さんが食ってかかった。
「一歩間違っていたら死んでたんですよ! 第一いくら隊長といえど、こんな不確定要素の高いことを独断で!」
「あの状況で説明できたとでも? それにお前から説教されるとはな」
佐伯さんは口元に不敵な笑みを浮かべて言った。
「笑い事じゃありませんよ!」
「そ、そうです、無茶し過ぎです!」
説得に菜月さんも加わった。見れば頬には涙が光っていた。
「あー……いや、済まなかった」
女性の涙に面喰ったのか、彼にしては珍しく歯切れの悪い返事。そんな3人のやり取りを見て俺は密かに思った。
映画みたいだな。
まさに勇気と機転、行動力を兼ね備えた彼で無ければ成しえなかった偉業だ。運も味方しているし、映画なら間違いなく英雄だろう。
感心する俺たちに佐伯さんは口を開いた。
「しかしひとまず追手は消えたが、少々派手にやり過ぎた。あの分ではじきにまたゾンビが集まってくるだろう。それと我々は疲弊している。……休憩が必要だ。そこで予定を変更し、この先の警察署へと向かおうと思うのだが」
彼は一瞬間を置いたが誰も異論はなかった。皆、続けざまの戦闘と逃走のせいで疲労が溜まっていたからだ。
体がだるく、重い。関節に至っては痛みを伴うレベルだった。
俺もアドレナリンの効果が切れてきたのか、急に倦怠感を感じ始めていた。隣では護もげっそりとしていた。
今になってみればとんでもなく激しい戦闘の連続だった。
「よし、決定だ」
疲れ切った俺たちは眼前に聳え立つ警察署へと歩を進める。俺はただそこにゾンビがいなことだけを祈った。
とにかくゴチャゴチャしてて鬱陶しい作品ですが
感想など頂けると光栄です!m(_ _)m