第9話 束の間の安息
「トイレくらいなら、行かせても大丈夫ですよね?」
結局しびれを切らした少女は母親に連れられて、部屋を出る。菜月さんも何か言いたそうだったが、引きとめることはなかった。
静寂が、徐々にざわめきに変わる。
「おい、オレたちゾンビになっちまうのか?」
「知らねぇよ、俺に訊くなよ!」
「そんなの、ヤダ……」
水を飲んだ当事者である生徒達は、気が気ではないらしくそわそわしていた。
するとそんな中で一人の男性が立ち上がった。
「ここに科学室はあるのかな? 少し調べたいことがあるんだけど」
そう突然生徒に尋ねたのは、科学知識があるという理系の男性。痩身長躯で鋭角フレームの眼鏡をかけた彼は、いかにも白衣が似合いそうだ。
「ありますけど、何するんですか?」
「水の安全性について、確認をしたくて。なんなら加川さんも一緒に来てもらえると助かりますが」
そう言って彼は菜月さんを見た。
「ええ、構いませんよ」
生徒の一人が案内を申し出て、彼は真相究明のために菜月さんも連れだって部屋を後にする。
「あれ、加川さんは……、トイレは特に問題がなかったのですが」
その後入れ替わるようにさっきの親子が返ってきた。安易な考えだがトイレくらいなら大丈夫な気がしたのか、他のメンバーも続々とトイレに急ぐ。
もちろん俺も行ってみたが、便器を流れる水も、洗面所での水もいたって普通の水だった。
もっとも公園で飲みそうになったあの水も、見た目に違和感を感じることはなかったが……。
細菌や、ウイルスって目に見えない場合がほとんどだしな。俺は支給されていたハンカチで念入りに手を拭くことにした。
来た道を戻ろうと廊下を歩いていると何かを蹴飛ばしてしまった。
滑らかな床を、高く小気味のいい音をたてながら何かが転がっていく。
壁にぶつかって目の前で止まったそれは、3㎝くらいの小さな金属片だった。拾い上げてみると丸い筒のような形をしている。
……なんだろう、赤銅色のコレは?
どこか見覚えがあるそれをポケットに入れると俺は歩き出そうとした。
しかし俺は再び足を止めてしまう。
一応は拭いたようだが、完全には消えておらず、ぼんやりとではあるものの廊下の壁や床、天井、いたるところに、血が飛び散った跡があったからだ。
床には赤黒い筋が走っており、何かを引きずった形跡がみられるものもある。
気味が悪くなって俺はその場を離れた。
あそこで、何があったんだ?
部屋に戻ったものの、護に今し方のことを話すべきか迷っていると、ちょうどその彼は近くの女子生徒に問いかけていた。
「しかし学校だってのに、先生の一人もいねえの?」
質問された生徒は何か怯えたように一瞬身を強張らせたが、やがて小さな声で語りだした。
「最初は当直の、先生が何人かいて私たちを教室で待機させて、職員室で緊急会議をしてたみたいなんですけど、たぶんその中の誰かが噛まれてたのか感染? していたみたいで、暫くしたら職員室のほうから悲鳴が聞こえてきて……」
「不安で様子を見に行ったら、その、先生たち…全員ゾンビになっちゃってて、白眼が一斉にこっちをむいて」
女子生徒は自分のカーディガンのすそをぎゅっと握りしめる。
「私たち、訳わかんなくなって怖くて逃げたら、追いかけてきて、それで……」
そこで彼女は口ごもり、顔から血の気がさっと引く。これ以上話すのは困難だろう。それを察して彼女の友人らしき少女が後を引き取った。
「それをあの角田って人が銃で撃って倒したんです」
「あの時はびっくりしたぜ、いきなり知らないオッサンが銃ぶっ放してんだからさ」
他の生徒も口々に混ざる。
「そういえばあの人、いつの間に学校に入ってきたんだろうね?」
「さあ、こっちもそれどころじゃなかったし」
「まあ、そのおかげで俺らは助かったんだけど……」
「それからだよな、恩人気取ってやたらと偉そうにあれこれ仕切りだしたの」
……先ほどの現場はゾンビとの戦闘跡だったのか。そして拾った金属片は角田が撃った銃の薬莢だったのだ。
「例の角田ってヤツか。俺はまだ会ってないんだが、そいつは今どこにいるんだ?」
護がきくと生徒の一人がどうでもよさそうに答える。
「たぶん校長室にいると思うよ。あそこのソファーを気に入ってたっぽいし」
校長室で椅子にふんぞり返る角田の姿が容易に想像できた。
その後、生徒たちは身の上話を語りだした。
今ここにいる彼らは部活の朝練などで早朝から登校していたそうだ。中にはゾンビに直接遭遇したことの無い者もいた。
因みに、倒したゾンビはゴミ捨て場まで運んで焼却済みだという。もちろん作業にあたった生徒は無事のようだ。
燃やすことで病原体は死ぬのだろうか。
それにしても死体を燃やすなんて、なかなかの根性だと思ったが、どうやら角田に強要されて仕方なく実行したらしい。
一歩間違えば感染の恐れがあるような作業をやらせるところにあの男の非情さがうかがえる。
そんなこんなで時間が経ち、部屋に先ほどの理系の男性が戻ったときにはもう、日が傾いていた。
「遅くなってすまない」
戸口に部屋中の視線が集まる。水を打ったように静まり返る一同に男性は口を開いた。
「検証の結果、100%とは言えないがほぼ、安全だとみて間違いありませんね」
その報告に生徒たちは大きく息を吐いた。
「ったく、ビビらせんなよ、寿命が縮むぜ」
「でも何にもなくてよかったじゃん」
「そーだよ」
そんなやり取りが聞こえる中、検査を行った眼鏡の男性は語った。
ゾンビ化の原因が細菌かウイルスだと見ていた彼はそれらを様々な方法で探したが、ここの各所で採取された水道水のサンプルから陽性反応が出ることは無かったそうだ。
ということは水道汚染は局地的なものだったのだ。
どんな検証方法かを菜月さんが簡単に説明してくれたが、文型の俺には半分程度も分からなかった。
RNA分子ってなんなんだ……
護をちらりと見たが、彼もお手上げのポーズをする。
本当はワクチンが欲しいが自分の技術では到底不可能だと男性は言った。
そもそもワクチン開発は一朝一夕でどうこうなる作業ではないらしい。
渡辺 敦と名乗る彼はとある理科大学で助教授をしていたのだと語った。
年齢が36だときいて少し驚かされる。童顔ゆえに、20代後半だと言われても十分に頷けるほどだ。
日没後、水が安全だとわかったので、俺達は学生たちの案内で更衣室のシャワールームを借りて順番に汗を流す。
服が汚れている俺には着替えが用意されていた。薄緑色の事務員用の作業服だったがこの際文句は言えない。
夕食はレトルト食品だったが、家庭科室のガスコンロや電子レンジが使えたおかげで皆、温かい食事をとれて大満足だった。
この状況でライフラインが生きていることは謎だったがとにかく有り難い。
来るかに思えた角田は、校長室から出てこなかった。
まあ、あの男のもとには奪った食糧がたんまりあるが。
食後に女性陣は後片づけを始め、男は今夜の為の寝具を探す。
俺と護は保健室に向かう。そるとそこにはすでに菜月さんがいて、必要な医薬品の調達をしていた。なんともマメな人である。俺達はシーツ類を抱えて部屋に戻った。
寝具を敷くと、合宿所のようになった。その夜は身体的にも精神的にも疲れていたのか、皆、消灯と共に深い眠りに就いた。
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