岩亀楼の喜遊
本作品を構成する要素に、作者の主義主張及び思想は一切含まれておりません。
純粋にエンターテインメントとしてお楽しみいただける方のみ御覧下さい。
イカデ日ノ本ノ女ノ操ヲ
異人ノ肌ニ汚スベキ
ワガ無念ノ歯ガミセシ死骸ヲ
今宵ノ異人ニ見セ
カカル卑シキ遊女サヘ
日ノ本ノ人ノ志ハカクゾト
知ラシメ給フベシ
横濱夕闇タウンガイド ――岩亀楼の喜遊――
一
平日の夕方でも、南幸橋の上は若者でごった返していた。
初めて来る横浜の街、そびえ立って見下ろす家電量販店や、いかがわしい看板の掲げられた小汚いビルに威圧感をおぼえながら、きよ子は喧噪の橋上で立ち止まり、さながら人込みに流されまいとでもするようにして、コートの背を欄干に押しつけた。
寒い。
きよ子はダッフルコートのフードを首すじに寄せる。それでもブレザーとコートの間にある僅かな隙間に、水のように冷えた十一月の空気が入り込んでくる。
なんとなく、若者の群れと目が合うことを避けて身を返すと、景色の足もとに、流れのない川がひろがった。横浜の繁華街を両断するように横たわる幸川である。およそ美しいとは言い難いその水の中には、異様に大きな鯉がざばざばと不気味に群れていた。
肩越しに、あの、と声がした。
それはあまりにさり気なく、道行く者たちの話声に紛れていたが、二度ほど続いたので、どうやら自分に掛けられた声らしいと理解し、やっときよ子は振り向いた。
「はい」
「あれ?」
軽薄そうな二十歳ごろの若者の、きょとんとした顔があった。きよ子と同じく手ぶらで、安いのか高いのか分からない黒のスーツを着ていた。
「高校生かあ」
「はい――」
きよ子は頷く。これはどういう男だろう。
知らず知らず怪訝な顔をしていたに違いない。男はきよ子の表情を見て、「あはは」と苦笑いした。
「カバン持ってないから、後ろからじゃ分かんなかった。高校生じゃどこにも紹介できないね。ごめん、ごめん」
何のことか判然としないが、軽い調子で謝りながら、男は去ろうとした。
きよ子はそれを引きとめた。
「すみません」
「ん」
男は立ち止まって振り返る。
「何?」
「私、人を探してるんですけど」
「人?」
「ジョウギョウジ、アズマって人――」
慣れない人種と話す緊張からか、妙に声が高くなる。慌てて声を落とした。
「ご存じありませんか」
「じょうぎょうじ?」
男は振り向いた姿勢のまま、首を傾げる。
その肩越しに、違う男の反応するのが見えた。
向こう側の歩道に座り込んでいた体格のいい男は、厚手の黒いパーカーを着て、フードを目深にかぶっていた。帽子のつばのようになったフードの下、こちらを見る鋭い瞳が垣間見える。
男は立ち上がり、左右も確認せず、真っ直ぐこちらへ歩いてきた。
橋を通り過ぎようとしていた車がぶつかりそうになってブレーキを踏み、クラクションを鳴らす。その瞬間、男はそのバンパーを無言で蹴り上げる。
営業マン風のドライバーと、フードの男。
一瞬の視線の交差をきよ子は見た。ドライバーはすぐさま下を向く。そこに起こったのは猛烈な威圧と、瞬間的に決定する原始的な上下関係であった。
こちらへ悠々と歩いてくる男の後ろを、逃げるように車が過ぎてゆく。
男はきよ子の前で立ちどまって、直立のまま問うてきた。
「アズマさん探してんの?」
親指でフードを持ち上げる。金色の髪を短く刈り込み、いかにも暴力的な目つきをしているが、この男もせいぜい二十歳かそこら、ひょっとしたらそれより下くらいに見えた。
スーツの若者が声をかける。どうやら顔見知りらしい。
「竹くんの知り合い? アズマって」
「んー」
腹のポケットから携帯電話を取りだしながら、フードの男は言う。
「大下さん、制服のコと喋っててアヤつけられたらヤバいっしょ。俺が通しとくから行っていいよ」
「ああ、うん、悪いね」
大下と呼ばれたスーツの男は、ちらっとこちらを見て、多分大丈夫だから、と苦笑いして去って行った。
多分とはどういうことだ。不安になりながらフードの男――竹の顔を見上げると、ちょうど目があった。
「今分かる人に電話するから、待っててね」
「あ、はい」
頷く。大きな体と低い声に、自らの体がおびえているのが分かった。
竹の携帯電話は、最近発売したばかりの機種だった。彼はそれを操作して耳にあて、すぐに出たらしい向こう方に、僅かにへりくだった口調で挨拶する。
「あ、お疲れ様です」
話しながらきよ子の傍ら、鉄の欄干にもたれかかる。
「なんか今、アズマさんに会いたいってコ見つけて――や、偶然す。一応ミンさんに教えといた方がいいかなと思って。はい」
竹は横目できよ子を見る。無表情なので視線の意味は分からない。
「じゃあ橋のとこいるんで」
電話を切り、ポケットにしまって、代わりに煙草を取りだす。
「来るって」
「あ……ありがとうございます」
「アズマさんじゃないよ。俺らあの人と直の繋がり無いから」
竹は煙草に火をつけ、言葉とともに煙を吐く。
アズマは来ない。では、誰が来るのだろう。さっきミンさんと言っていたが、その人が来るのだろうか。それに、俺らとはどういう意味だろう。なぜ複数形なのだ。
全体的に言葉の足りない人だ。
というより、さっきから何か、役目に出会ってしまった義務感で仕方なく手伝っているような雰囲気がある。ひょっとして、きよ子の質問に応えるのは義務のうちに入っておらず、この男にとっては面倒くさいことなのかもしれない。
気まずさを感じて、きよ子は立ったまま身を縮めた。
竹は欄干のもとに座り込んで、ぼそっと言った。
「エヴァンゲリオン知ってる?」
「え?」
「エヴァンゲリオン……」
竹は橋の向こう、西口側にあるパチンコ屋の看板を見ていた。そこには新世紀エヴァンゲリオンのキャラクターたちが、でかでかと並んで描かれている。
きよ子は恐る恐る頷いた。
「はい」
「どれが好き? 初号機?」
「え、えと」
本当はアスカの乗っていた弐号機が好きだ。
「……はい」
「強いよね、エヴァンゲリオン」
「はい――」
きよ子はただ、頷くしかない。
竹はまた黙ってしまった。
きよ子は勇気を出して口を開く。
「あの、ミンさん? って、どなたですか?」
「今来るよ」
「……はい」
会話が終ってしまった。
沈黙が始まろうとした瞬間、きよ子と同じ年頃の少女がひとり、ドン・キホーテの方から歩いてきた。
「ごめーん、竹ちゃんありがと」
「っす」
竹は立ちあがりながら煙草を踏み消し、右手の拳を左手で包んで、あごの高さに持ち上げ一礼する。カンフー映画でよく見るような挨拶だった。
「このコです」
「ん」
少女は体ごと首を傾げ、きよ子の顔を覗き込む。その仕草は着ぐるみのマスコットのように、あざといような可愛らしいような、大げさな動きだった。
綺麗な瞳であった。
少女の出で立ちは竹と同じく、あまりガラのよくない類のパーカー姿だったが、性別の違いを差っ引いても、印象は格段にやわらかい。全く化粧をしていないのか肌は健康的な肌色で、真っ金々に波打つ髪を一つにまとめて、華奢な肩の前へ垂らしていた。
この少女が、竹にミンさんと呼ばれていた相手なのか。何らかの立場において竹より目上のようだが、いったいどういう存在なのだろうか。
ピンク色の唇が開く。
「お名前は?」
「あ、私」
目を合わせたまま問われ、きよ子は戸惑う。
「すみません、武藤きよ子です」
古臭くて、あまり言いたくない名前だった。
きよちゃんか、と言いながら、ミンは竹を見る。
「そしたら、オレちょっとこの子案内してくるから。竹ありがとね」
「はい」
さっきと同じ礼をして、じゃあね、ときよ子に言って、竹はさっさと歩いていった。果たして、きよ子の会釈は目に入っただろか。
ミンは、女性の声優が少年役を演じている時のような独特の声で、きよ子に問いかける。
「竹ちゃん怖かったっしょ」
「あ、いえ――そんな」
「うっそだー、あいつデケーもん」
あはは、と笑いながら、ミンは煙草を取り出す。
「なんのお話してたの?」
「えっと……」
パチンコ屋の看板を見る。
「エヴァンゲリオンのこと、とか」
「ぶは」
煙を吹きだしてミンは笑った。
「そっかー。あいつ大人しい子向けの話題探すのヘタだな、あはは」
指先でフィルターを弾き、灰を落としながらミンは馬鹿笑いする。
この反応を見るに、やはり竹は気を使ってくれていたようだ。鈍い反応しかできなかったことが少し申し訳なかった。
ミンはまた煙草をひと吸いして、ふっと短く吐き出し、あらためてきよ子を見る。
「どこでアズマのこと知ったの?」
「え」
「あいつ看板出してるわけじゃないしさ。君みたいのが訪ねてくるって、けっこう珍しいと思うんだけど。なんかインターネットとかで流れてんの?」
「あ、いえ」
あっけらかんとしたミンの口調から僅かな威圧を感じ取り、きよ子は咄嗟に萎縮する。
「学校の噂で……警察の手に負えないこと、何でも相談できる人がいるって」
「うっわ」
マジか、とミンは眉をひそめる。
「そんな伝わり方してんだ。カワイソー」
「違う――んですか?」
「うーん」
何ともいえない唸り方をしてから、ミンは煙草を持ったまま、五番街の方へと歩きだす。
「いいや。ついて来て」
「あ、はい」
慌てて背中を追いかける。
ミンは細長い脚でゆっくりと歩きながら、振り返りもせずに話しかけてくる。
「オレ、黄明昌ね。みんなミンって言うからミンでいいけど」
「ホァン……ミン、ツァン?」
「ミンツァンさん、って語呂悪いじゃん。だからミン。ミンさんなら言いやすいっしょ」
「はあ」
「さっきの竹はね、うちの部下なんだ。だいたいの仕事はあいつにまとめてもらってんの。つえーし、アタマいいし」
「部下?」
それに仕事。会社か何かだろうか。
橋を渡りきり、右側の道へ入ったところで、ミンは立ち止まって振り返る。
「あー、そうだ」言いづらそうに。「あのさ、アズマ女の子嫌いだから、そこだけ気をつけてね。ヤなこと言われるかもしんないけど、言い返して機嫌損ねないほうがいいよ」
「はあ」
「そんなに悪い奴じゃないからさ。そこだけ誤解しないでやって」
「はい――」
というか、さっきから気になっていたのだけれど。
「あの、ミンさんって男の人なんですか」
「オレ? そうだけど、言わなかったっけ」
ミンは首を傾げる。
そういうこともあるのだろう。
きよ子は何とか平静を保ち、失礼なことを聞いてすみませんでした、と頭を下げる。
許す、と笑ってミンは歩きだした。
「あっちのゲーセンでさ、いっつもテトリスやってんだよ、アズマ。携帯でもできるのにバカみたいと思わない?」
「はあ」
「こっちね」
ミンは相鉄線改札前のくすんだ通り――五番街に入ってゆき、如何わしい店の看板を指で撫でながら、踊るように身を翻して、古そうなゲームセンターの中へと入ってゆく。
きよ子も続いて足を踏み入れたが、そこは今まで入ったことのあるような明るいゲームセンターではなく、アミューズメント色のまるで薄い、いかにも吹き溜まりのような空間だった。
薄暗い屋内に煙草の臭いが充満している。
母の代には、ゲームセンターなどは不良の行くところと決まっていたそうだが、ここはそうした雰囲気を今まで保ち続けているのかもしれない。騒音が四方八方から絶え間なく襲ってきて、はっきり言えば居心地が悪かった。
気付くと、自然に手を握られていた。ミンの柔らかい手であった。
「大体いつも上にいるの。ゲームやってるとき電話掛けると怒るからさ。確かめる前に来ちゃった方が早いんだよね。あ、階段気をつけてね」
「はい」
エスコートされるように手を取られ、薄汚れた階段を踏みしめる。
そうして上がった二階の奥に、それらしい男はいた。
中央より離れた人気のない一角、壁際にあるテトリスの台に一人かじりついているのは、痩せたハスキー犬がコートを着たような若者だった。薄い眉の下の三白眼をぎょろぎょろと動かしながら、物凄い速さで手元を動かしている。
「誰そいつ」
こちらを一瞥もせず、ゲームをしたまま男は呟いた。どうやらミンに向けられた言葉であるらしい。
ミンは隣の椅子に腰をかけ、横目でテトリスの画面を見つつ言う。
「きよちゃんていうんだって。アズマに相談あるみたいだから聞いてやって」
「知らねーよ。チンパン・クランで何とかしろ」
「ウータン・クランだっつーの」ミンは持っていた煙草の灰を床に落とす。「ねえ、こっち向くくらいしなよ、失礼じゃん」
「タバコ」
「はいはい」
ミンは吸いかけの煙草をアズマの口にくわえさせる。
間接キスだ。どうしたらいいか分からないで突っ立ったままのきよ子は、ぼんやりとそれだけを思った。
口の端から煙を垂れ流しながら、アズマは言い放つ。
「話聞けつっても俺さ、女キライなんだよね」
「うーわ、また始まった」
ミンが椅子に両手をついて口をとがらせるのを無視し、アズマはずけずけと続ける。
「だってお前、女なんて男に飼われることばっか考えてんじゃねーかよ。付き合うときも相手の仕事とか年収とか気にして、そのわりに偉そーでよ。勘違いした家畜かっつーの」
「や、そんな女ばっかじゃねーって――」ミンはきよ子の方を見る。「いつも言ってんだけど」
「そんな女ばっかだよ」
アズマは乱暴な口調で言い切った。
「養われるならとことん媚びて、媚びるのが嫌なら一人で生きるか、さもなきゃテメーが野郎を養っちまおうって、そういう覚悟っつーかプライドのある女なんてお前、今の時代にいやしねーんだよ」
「んなことないってば」
ミンは短くなった煙草をアズマの口から取り上げ、一口吸ってから灰皿で押しつぶす。
「ごめんねきよちゃん。アズマんちって、ガキの頃にお袋さんがさ――」
「お袋でも何でもねェよあんな豚。余計なこと言うな」
「ごめん」
「あークソ! うるせーから失敗したじゃねーかよ!」
手をレバーから離し、ばんと画面を叩く。既に最高速度に達していたブロックは、たちまち積み上がって灰色に染まった。
「ボケが!」
アズマは立ちあがって椅子を蹴飛ばし、きよ子を押しのけて階段の方へ歩いてゆく。
もう――とミンは呆れた顔をする。
「どこ行くの?」
「ハイハイ楼」
「あ、オレもハイカラ麺食べたい。後からきよちゃんと行くね」
「勝手にしろ」
ダッフルコートのポケットに両手を入れて、アズマは階段を下りてゆく。
やれやれと息をつき、ミンはきよに苦笑を向ける。
「ホントごめんね、あいつの言うことイラッとしたでしょ」
「いえ――」
きよ子は首を横に振る。
確かに女として怒らずにはおれない言葉の数々であったが、きよ子はそれよりも、アズマの発した雰囲気にすっかり委縮していた。電話越しや文章のやり取りならともかく、あの場で口を挟もうものなら、たちどころに殴られそうで怖かった。
立ちあがったミンは、それを察したかのように優しく手を取って、覗き込むように微笑んだ。
「怖がんないでやって。ホント悪い奴じゃないから」
それからゆっくりと手を離し、階段に向かって歩き出す。
「色々あって卑屈なだけなんだわ。ああ見えてさ、人が困ってる時とか、ちょっとだけ優しーんだよ。行こ」
「はい……」
恐る恐る、きよ子も続く。
ゲームセンターを出ると、もうアズマの姿は無かった。
ミンはさっき来た道を戻り、南幸橋のほうへ歩いてゆく。
「腹減ってる?」
「え」そういえば何も食べていない。「はい、少し」
「よかった、じゃあ一緒にラーメン食べよう。あ――竹ちゃん!」
交差点のところにいる竹に手を振る。
「ハイハイ楼行くからおいで!」
「あ、自分さっきメシ食っちゃいました」竹の野太い声は、少し張るだけで車道越しにもよく聞こえる。「すんません」
「わかったよ、もう二度とおごってやんねーから!」
「勘弁して下さいよ」
「あはは」
ミンは楽しそうに笑いつつ、またきよ子の手を取る。
「行こ。すぐ近くなの」
そして早足で歩き出す。
南幸橋を渡りきり、斜め左に曲がってすぐ、右側の路地へ。
そこはラーメン屋ばかりが何軒も連なった小路であった。
「たまがったとか大勝軒も美味いしさ、最近あっちに一蘭も出来たんだけど、なんかいつもハイハイ楼なんだよね。あ、ココね」
迷いなくガラス戸を押し開けて入ってゆく。
さほど人のいない店内に、いらっしゃいませ、と数人の声が響いた。
前払制なのか、ミンはレジのところで立ち止まって、財布を出しつつ店員に注文する。
「ハイカラの辛さ二倍。きよちゃんは?」
不意に振り返って聞いてくる。
来たこともない店だし、メニューを見る暇もなかった。慌てて答える。
「ふ、普通ので」
普通がどんなだか知らないが、もたもたするのは気が引けた。
ミンは五千円札を出して言い直す。
「あとハイロウのトッピング無しお願い」
「ハイカラ二倍にハイロウ、以上で?」
「あい。お釣りいらないから」
「ありがとうございます」
店員はペコっと礼をして金を受け取る。
清算を終えたミンは、慣れた足取りで店の奥へと入ってゆき、壁際にあるテーブル席の客の頭をつついた。
「お待たせちゃん」
「待ってねーよ」
アズマであった。
ミンは悪びれもせず向かいに座り、きよ子の方を見て、こっちへと手招きしてくる。
従うしかなかった。
きよ子とミンは、まるで三者面談のようにアズマと向かい合う。ずるずると麺をむさぼるアズマを前に、きよ子はまだ注文の品も来ない手持無沙汰で、どうしていればいいのか分からずに俯いていた。
カウンター席が空いているのにテーブルで食事をしていたということは、あとから同席するのを許したということだろうが、何を言っても怒鳴られそうで切り出し方が分からない。そもそもこの男は、噂で聞いたような何でも屋なのだろうか。もしかしたら、ただ街の若者に顔がきくというだけの男なのではないだろうか。
やっかいな人物と相対してしまっただけなのかもしれない。
怖気づいていると、ミンが助け船を出してくれた。
「取り敢えず相談してみなよ。アズマが動いてくれなくても、オレらがなんか手伝えるかもしんねーしさ」
「てめーらみてーな犯罪集団が何手伝うんだよ」
餃子を口に放り込み、品悪く頬張りながらアズマは言う。
「お前よ」
ぎろりと三白眼がきよ子を睨んだ。
「コイツが何だかよく分かってねーだろ」箸でミンを指す。「コイツはお前、無茶苦茶悪い奴だからな。なんも考えねーで頼ったら取り返しつかねーぞ」
「まーね。場合によっちゃ金取るし、オレら動くとお巡りも目ぇつけてくっからね」
ミンは細い脚を畳み、かかとを椅子に引っかけて笑う。
「けどアズマなら安心だよね」
「チッ」
アズマは面白くなさそうに麺をすする。
きよ子の腕を肘でつつき、ミンは聞えよがしに囁く。
「ね。あんま悪い奴じゃないっしょ」
「うるせーんだよガタガタよ」
スープをすすり、からん、とレンゲを置く。
「もう何でもいいけど食ってからにしろや、落ちつかねーから」
アズマはそう、面倒くさそうに吐き捨てた。
きよ子たちの丼が届く。
いただきます、と会釈すると、ミンはもう箸をつけているところだった。
「アズマさあ」
スープに浮かんだ挽肉を掻き回しつつ、ミンは言う。
「先週の土曜のこと、あれからなんか分かった?」
「あん」
「ほら、美千代ちゃんの」
「ああ――」アズマの表情が陰る。「ワリー、なんもわかんねー」
「そっか」
ミンの反応はそれだけだった。
会話の意味は、きよ子には知れない。さっきから分からないことだらけだ。犯罪集団だとか、警察がどうとか。
分からなくてもいいのだろうが、どうにも不安である。しかし――きよ子は向かいのアズマを見ながら考える。
今まですがった誰も、きよ子の力にはなってくれなかった。親も、学校も、警察ですら。今はどんなに胡散臭い者であれ、頼ってみるしかないのだ。
腹をくくって口に運んだハイロウ麺は、横浜らしい洒落た味で美味しかった。
ミンはあっという間に辛そうなラーメンを平らげ、立ち上がる。
「そしたら行くわ」
「オイ、この女マジで置いてくのかよ」
「いいじゃん。どーせアズマ、自分でなんかするんじゃねーんだし。オレらと違ってさ」
「ふん――」
アズマは箸を置き、煙草を出して火をつける。
「あー、美千代ちゃんにはよ」
アズマはその女性の名前を、恐らく親しみを込めて呼んだ。
それから、ゆっくりと煙を吐く。
「俺もけっこー、目が合うとだけどさ、声かけてもらってたわ」
「……うん」
頷いたミンの顔は、フードに隠れて見えなかった。
彼が去って行った店内には、いつの間にか他の客の姿は無く、ただ黙って煙草を吹かすアズマと、余った餃子と、下を向くきよ子だけが残っていた。
きよ子はおずおずと口を開く。
「あの――」
「あん」
不機嫌そうに横を向いたアズマは、一応返事をしてくれた。
「何だよ」
「美千代ちゃ……さんって、どなたですか?」
「やめとけ」
顔をしかめ、ふっ、と煙を吐く。
「お前とカンケーねーから。忘れろ」
「――はい」
踏んではいけない石だったらしい。
しばらく沈黙があった。
ラーメン屋にしては小洒落た店内に、FMラジオの音楽が流れている。
口を開いたのはアズマだった。
「あいつ――ミンの奴な」灰を落とす。「あれ、このへんの悪い奴らの中で一番偉いんだわ」
「……はい」
「ああ見えたって鬼みてーに強くってよ。さっきあんな感じで言ったけど、なんかあったら助けてもらえ。ヤクザよか後腐れねーし、中国系にも顔きくから」
「はい……」
きよ子は頷く。
ミンは喧嘩が強いのか。とてもそうは見えなかったけれど――中国系というのは、やはり、そういう系なのだろうか。
アズマは面倒くさそうに続けた。
「で? なんか話があるんだって?」
ぼりぼりと頭を掻く。
「くだらねーことだったら途中で帰っからな」
「く」
思わず大きな声が出そうになり、すんでのところで堪える。
「くだらないことじゃ……ありません」
「――ふん?」
ハスキー犬の三白眼が不思議そうに動いた。
二
店を出てコンビニの脇の路地へ入った途端、ミンは死角から何者かに「ぶつかられた」。
明らかに故意の衝撃を受けたことで、ミンは反射的に拳を繰り出していた。えぐり込むように突きあげた拳は相手の腹部に命中し、その体を僅かばかり硬直させる。
続けざまに肘を振るおうとしたが、その刹那、ようやく相手の顔を認識して、すんでのところで動きを止めた。
「な――」腕をおろす。「んだあ?」
「うおお、痛たぁ……」
苦しそうに腹を押さえて体を折ったのは、顔見知りの中年男だった。
「は、ハマの若いんはケンカの礼儀知らんのかい」男は涙目でミンを睨む。「普通どつく前に怒鳴ったりメンチ切ったりするもんやろ」
「知らねーよそんな礼儀……つーか何、土井さん? こんなんで引っ張っても意味ねーよ?」
「からかおうとしただけやがな。まさかいきなり腹パン食うと思わんかったわ」
土井は苦しそうに姿勢を直し、石のような色をしたコートの襟を正す。
「俺もハマ署に来てええかげん長いからな。ションベンみたいなことでお前パクっても、竹やら何やらが代わりに立つだけいうことくらい分かっとるわ。しかしお前強いなァ、いてて」
角ばった五十路前の顔をしかめ、大げさに腹を撫でる。
「今のもあれか、得意の何たら拳いうやつか」
「何の用? オレ忙しいんだけど」
「忙しいやろな、人探しで」
「あ?」
ミンの眉間がぴくりと動く。
路地に風が吹き抜けた。
にやっ、と四角い顔が笑う。
「そない怖い顔すなや。べっぴんな顔が般若になったで」
「邪魔すんじゃねーよ……」
「そらこっちのセリフや」土井はたじろがなかった。「何考えとるか知らんけどな、お前ら揃いも揃って殺気出しすぎやで。駅前歩いただけで分かるわ。ええか」
ずい、と顔を近づける。
「妙なことせんと警察に任しとき。言うても無駄かもしれんけどな」
「無駄だよ」
即答するミンの拳は握り締められていた。
はっ、と土井は笑った。
「せやろな」
「お巡りじゃヤりきれねーこともあんだよ、オッサン。さっきもいたぜ、アズマんとこ訪ねて来たコ。ああいうのもよ……てめーらが不甲斐ねーからじゃねェのか」
「上行寺東か」
土井はハイハイ楼の方を見る。どうやら、さっきからこの辺りをうろついていたらしい。
「この街は何かっちゅうとあのガキやな、やたら名前ばっか出てきよる。それやのにマエは無い、黒羽根の事務所にも出入りしてない、お前らともつるんでない。何やねんアレは」
「アズマは横浜のガイドマンだからさ」
「あん?」
「たまたまそーいうことになってんだよ」ミンは笑う。「ついてねーよな」
三
親友、青原カンナが最期の三日間をどう過ごしたのかは、本人にしか分からない。きよ子に届いたのは、死の間際にかかってきた一本の電話と、そこに含まれた事実だけだった。
「犯されたんです」
きよ子は膝の上で両手を握りしめる。
「カンナはその男のこと、好きだったのに――呼び出された部屋には、そいつだけじゃなくて、何人も仲間がいたんです。カンナは逃げようとしたけど殴られて、一晩中玩具にされました」
「うん。まあ、それはさっきも聞いたよ」
しゅぼ、とライターの音が響く。
「それでその子、二日後に飛び下りたんでしょ」
アズマの反応はつまらなそうだった。
「お巡りにも言わないで」
「……はい」
「わかんねーな、女っつーのは」アズマの吐いた煙が溶ける。「今時貞操も傷物もねーだろうによ、たかだかつっちゃアレだけど、犯されたくらいで死ぬこた無ェんじゃねーの? しかもケーサツにも言わんで」
ため息をつき、分かんねえなァ、と繰り返す。
「そりゃお巡りも取り合わねーよ。死んじゃってちゃどうしようもねーもんな」
「……はい」
きよ子はスカートの裾をぎゅっと握る。
長くなった灰を落として、アズマは頭をかく。
「それで? その連中に仕返ししたいから手伝えって?」
「……お願いします」
「アホくせえ」面倒くさそうにアズマは言う。「金にもなんねーのによ。なんでそんな女のためにお巡りの真似ごとしなきゃいけねーんだよ」
「……っ」
ぐっと唇を噛む。
アズマは椅子にもたれ、なおも続けた。
「だいたいそいつが死ぬのがアホなんじゃん。生きてりゃ証言でも何でもできたのに、なんでワザワザ死んでんだよ。お嫁さんに行けないからか?」椅子に背をもたれて笑う。「頭ワリーんじゃねーの」
「……ない」
「あん?」
「カンナは頭悪くない!」
きよ子は金切り声を上げていた。
恐らく、店員はこちらを見ているだろう。
だが止まらなかった。
「さっきからテーソーとか何とか、的外れなこと言ってんじゃねえよ! 女とか関係ねえんだよ!」
下を向き、どん、どん、と握り拳でテーブルを叩く。
「悔しかったの! あの子、死ぬ前に電話で、何度も悔しいって言ったの! 一生懸命もがいてる自分のこと見て、笑いながら手拍子してるあいつらの顔が――バカにした笑い顔が、ずっと頭から離れないって……」泣きそうだった。「カンナは悔しくて! プライド潰されたのが我慢できなくて! 死んだんだよッ!」
思いきり叩きつけた手が痛んだ。アズマは何も言わない。きよ子は顔を上げた。
「もう――あんたなんかに頼まない」
ぐすりと鼻をすする。警察にもろくに取り合ってもらえなくて、どこにも相談するところが無くて……やっと掴んだワラみたいな希望が、こんな奴だったなんて。プライドに殉じた親友をバカにされてまで、頭を下げるくらいなら。
「あたしが全員刺し殺してやる。一人残らずブッ殺してやる」
「……殺すってお前」アズマの三白眼が光る。「パクられるよ。分かってんの?」
「関係ない」
「……。ふん」
目を伏せて二度、瞬いてから。
「わーかったよ」
アズマはため息をつくように言った。悪かった、と言ったのか、分かったと言ったのかは判然としないが、ともかく煙草の火を消した。
「何とかしてくれそーな人んとこ、連れてってやるよ」
「え――」
「取り敢えず関内行くから」立ち上がる。「ついてこいや」
コートの前を閉じながら、アズマは出口の方へ歩いてゆく。
きよ子も慌てて席を立ち、そのあとに続いて店を出た。
無言で歩くアズマの背に従い、南幸橋を駅の方へと渡る。アズマはミンと違って歩幅を合わせてくれないので、ほとんど小走りに近いような速度でないと追いつけない。
ふと、橋の中央でアズマが立ち止まった。
「何してんだお前」
「こっちの台詞なんだけど」
正面から出くわしたのは、黒い毛皮のコートを着た、髪の長い少女だった。顔立ちからして中学生くらいだろうか、それにしても小柄である。
「彼女つれてどこ行くの? 女の子、嫌いって言ってたくせに」
「バカか」アズマは吐き捨てる。「こんなお前、地味で弱そーなツラした女が彼女なわけねーだろ」
「へー、あんたって派手で強そうな顔の子が好きなんだ。それあたしじゃん」
「うざ……」
アズマは心底うざったそうに少女を見下ろす。
少女は確かに派手な顔立ちをしていた。ハーフとも思えないが、トンボのように目が大きく、色が白く、まつ毛が長い。妙に艶やかな髪だけが和人形のようで浮いていた。
ガラス細工じみた瞳がこちらに向けられる。
「初めまして」
「あ――」
どう見ても年下にしか見えない少女に、つい、ぺこりと頭を下げる。
「どうも、武藤です」
「葉田理江子です」
少女は名乗っただけで、またアズマの方に顔を向ける。全く表情の無い子だった。
「これからどこ行くの?」
「……ねーちゃんとこだよ」
「スタジアムね。車出させてあげようか」
「いいよ」アズマは面倒くさげに手をひらひらさせる。「お前は電話で命令するだけでいいかもしれねーけどよ、ヤクザってお前、隣町に行くだけでも挨拶とか色々あって大変じゃねーかよ。若い人らにゴチャゴチャ時間取らせんのヤだし」
「考えるほど面倒じゃないわよ。このあたりで時津より貫目が上の人間なんて、そういないもの」
「どっちにしたってスジもんの車は乗り心地良くねーんだよ」アズマは急に歩き出す。「オラ行くぞ」
「え? あ、はい」
きよ子はその背中を追いかけつつ、理江子の方を振り返る。
理江子は相変わらず何の表情も作らぬまま、大きな目でこっちを見つめて、「ばいばーい」と手を振っていた。
駅の方へ歩きながら、きよ子はアズマに問いかける。
「今の女の子、お友達ですか?」
「知り合いだよ」
「すごく可愛かったですね……」
「ろくなもんじゃねーよ、あんな奴」
アズマは舌打ちしながらずいずいと歩いてゆく。
きよ子はそれ以上詮索できなかった。
ヤクザという単語が出てきたことには、今さら驚かない。アズマやミンは、そういう世界と近いところにいる人種なのだろう。
しかしそのヤクザが少女の命令で動くとはどういうことだ。漫画じゃあるまいし、女の子が暴力団の組長をやっているなんて絶対に有り得ることではない。
「……。はあ」
考えるのに疲れ、きよ子はため息をつく。
いつの間にかJRの改札前に来ていた。
アズマが切符を買うのを待って電車に乗り込み、ふた駅ほど揺られると、横浜スタジアムや中華街で有名な関内駅へ着いた。電車の中では終始無言だったが、気まずさは感じなかった。さっきラーメン屋で思いきり怒鳴ってから、何かが麻痺してしまったようだ。
いよいよ見慣れぬ駅のホームに降り立ち、左右を見回すと、アズマが久しぶりに口をきく。
「中華街に行く観光客とかで、ココで下りちゃう奴よくいるんだけどな、中華街行くなら次の石川町で下りた方が近けーんだよ」
「へえ……」
「まあ、どーでもいいけどな。こっちな」
アズマは本当にどうでも良さそうに、スタジアム口と書かれた方へ歩いてゆく。初対面の時より幾分か態度が軟化した気がするのは、きよ子の錯覚かもしれない。
改札を出て左手に逸れ、横断歩道を渡ると、すぐに横浜スタジアムの敷地内に入った。
球場の内部はテレビ中継などで何度も目にしたが、外観を見るのは初めてである。周囲は想像していたように殺風景ではなく、やたらに木々なども生い茂り、傘の下にはどうやら剣道場のようなものも見えた。
「あの――」
スタジアムのほうへと歩いてゆくアズマに追い付き、きよ子は問いかける。
「どうしてこんなところへ?」
「家造りは雇気楼のごとくにして、あたかも龍界にひとしく――」
アズマはポケットに両手を突っ込んで歩きながら、独り言でも唄うように呟いた。
「六月の燈籠、葉月の俄踊、もん日もん日の賑い目をおどろかし、素見ぞめきは和人、異人打ちまじりて朝夜を分ず」
「え……え?」
「娼妓道中は精麗をかざりて唐物、和物を好みの取りまじへ、さし飾り着かざりたる粧ひ、天女のあまくだりしかと疑がわざる。楼上には洋館の花を咲きみだしぬ、座敷には金銀の宝を蒔きちらせり――何のことだと思う?」
「わ……分かりません」
「この球場があったとこに昔、港崎っつーバカでけえ遊郭があってよ。まあ、三度も炎上して何百人も焼け死んだ、呪いの色町だけどな」
「遊郭――」
ここに? 今歩いているこの土地に、そんなものがあったのか。きよ子は遊郭といえば吉原くらいしか知らないし、横浜にそんなに大きな遊郭があったなどと、今まで聞いたこともなかった。
アズマは砂を蹴りながら続ける。
「そこで一番デカかったのが岩亀楼って遊女屋で、昼間にも見物料取れるくらい豪勢な店でよ。今でいったら、銀座の最高級クラブとアミューズメント何とかが合わさったみてーな――いや、そーいうのとは格が違うわな」ちらりと振り返る。「ヨコハマのでかい遊女屋つったら、ある意味外交施設みたいな感じもあったんだよ。ラシャメンの認可制とか言って、分かる?」
「いえ――」
何語なのかも分からない。
そっか、とアズマは話を戻した。
「とにかくアレだ。その岩亀楼のナンバーワン、よーするに横浜のナンバーワンが、喜遊ってヒトだったんだわ」
「きゆう?」
「喜ばせるに遊ばせるって書いて喜遊な。メチャクチャ頭良くて、メチャクチャ芸達者で、メチャクチャ美人で、メチャクチャ気ぃ強かったねーちゃんだよ。元々は吉原にいたらしーけど、ヘッドハンティングっつーの? それで早い内に引き抜かれて、横浜の花になったんだと。どんなに金持ってる客でも人間性が気に食わなきゃ叩き返しちゃうよーな、とんでもねー人だった」
まるで見てきたようにアズマは語る。
「けどその人な、十九で死んじまったんだよ。数え年だから今でいったら十八か」
「え――」
「喜遊サンが、親父さんの療養費のために三百両の約定金で身売りしたとき、いっこだけ条件が付いてた。何があっても異人の相手はしねえ、って約束だ」
「異人って、外国人ですか」
「攘夷志士の親父さんに育てられたってのもあるだろうけど、そん時のガイジンはけっこーデタラメな奴多かったからな。酔っぱらってレイプはするわ、そーいう奴が通りすがりの侍に斬られた日にゃあ、被害者ヅラして大騒ぎするわ……そりゃーマトモな奴も沢山いただろーがよ、日本人を下に見てたのはみんな同じだからな。喜遊サンが嫌うのも無理ねーよ」
「はあ……」
「でもアボットっつー大金持ちのアメ公が、喜遊サンを指名するどころか、大枚はたいて身請けしようとした。今っぽく言ったら愛人として囲いたがったんだな。とーぜん喜遊サンは断ったし、岩亀楼だって約定があるから突っぱねた」
いつの間にか、スタジアム裏の公園に入っていた。
垣間見える景色から想像していたより、ずっと広い。立て札を見ると、横浜公園と書かれている。
夕闇に土の香りが混じる。
アズマは少し歩く速度を落とした。
「突っぱねたんだけど――アボットのヤローは江戸幕閣にも威張れる武器商人でよ。悔し紛れに圧力かけやがったもんで、神奈川奉行から岩亀楼に、アボットに喜遊を身請けさせろっつーフザけたお達しが下っちまったんだよ」
「そんな――」
公的機関がいち外国人のわがままに動かされ、しかも日本人を押さえつけなくてはいけなかったのか。
「日本は、そんなに弱かったんですか?」
「弱かったね、今よりもっと。横浜なんて土足で踏み躙られてたようなもんだ。ガイジンはよその家に入る時も靴脱がねーからな」
「……」
「お上からのお達しじゃ、岩亀楼も受けるしかねーわけだ。でも、喜遊サンはアボットの妾にゃならなかった。身請けする約束の夜、勝ち誇ったツラで迎えに行ったアボットが見たのは――短刀で自分の首かっ切った、喜遊サンの死体だったんだよ」
「……自害したんですか」
「ああ」アズマはまた何やら暗唱する。「いかで日の本の女の操を、異人の肌に汚すべき。わが無念の歯がみせし死骸を、今宵の異人に見せ、かかる卑しき遊女さへ、日の本の人の志はかくぞと知らしめ給ふべし――日本人なら遊女でもこんなプライド持ってるってことを、私の死体で異人に分からせてやれ、っつー遺書だった。のこのこやってきたアボットは手ぶらで帰る羽目だ」
「す……ごい、人ですね」
すごいというか、物凄い。もはや気が強いなんていうレベルを超えているではないか。
やがて横浜公園の奥の隅、木々の中にひっそりと佇む石灯籠の前で、アズマはゆっくりと立ち止まった。
「これな、岩亀楼の石灯籠だ」
「……これが」
「喜遊サンもさ」アズマは石灯籠を見つめる。「今の日本の女、基本的に嫌いなんだ。言いたいこと言うばっかで突っ張りきれてねーから」
視線が動き、きよ子を見る。
「でもお前、それなりに気合入ってるみてーだし」
「え――」
「目ェ閉じろ」
アズマはポケットから両手を出し、意図が分からずに首を傾げるきよ子を、苛々と低く怒鳴りつける。
「言う通りにしろや。グダグダしてたら帰るぞ」
「は、はい」
思わず目を閉じる。
真っ暗になった景色の中で、風の音や通行人の声に混じって、アズマの声が聞こえてくる。
「いいって言うまで絶対目ぇ開けんなよ。開けたらどうなるか俺にもわかんねーし」
「はい――」
「じゃあ行くぞ」
「!」
不意に――全ての音が消えた。
風の音も、人の足音も。
それだけではなく、頬に触れていた空気の流れすら無くなった。まるで屋内にいるみたいに。
「あ……あの」
怖くなって口を開いたきよ子の頭を、ぱしっ、と何かが叩く。
「いたっ」
「いつまで目ェ閉じてんだよ気持ちわりーな。開けろ」
「は、はい――」
いいと言うまで開けるなと言ったくせに。
内心で文句を言いながら目を開けると、そこは今まで立っていた横浜公園の隅ではなく、どこか古い日本家屋の、まっ暗な廊下であった。
「え――」頭が混乱する。「え、ええっ?」
「でけー声出すな。岩亀楼だよ」
「がん、き、ろう……」
きよ子は眩暈のするような感覚をおぼえながら、その景色を見回す。
広く長い廊下であった。両側には障子の戸が並び、それら全ての向こう側が暗い。天井は低いが奥は深く、ときどき柱の隅に立っている蝋燭だけが照らす空間は、黒い靄に包まれてでもいるように、曖昧な視界しかもたらしてくれなかった。
「どうして――」
「説明するの面倒くせェ」
アズマは靴を乱暴に脱ぎ、靴下になって廊下を歩きだす。
「靴ここに脱いでついてこいよ。あの人、松の間にいるから」
「は、はい……」
これは夢なのか、それとも催眠術なのか。しかし革靴を脱いで歩み出したきよ子の足の裏には、確かに、冷えた床板の感触がした。
暗い廊下にも障子の向こうにも人の気配はしなかったが、よくよく耳を澄ますと、三味線らしき音色や人々の笑い声が、遠く微かに聞こえてくる気もする。怖くなったきよ子は暗闇の中、アズマの背にぴったりと付いて歩いた。
廊下の付きあたりには階段があり、アズマはそこを、慣れた足取りで上ってゆく。
「横浜には時々、こういう隙間があってよ」
「隙間――?」
「変な土地なんだよ。だから横浜で迷子になるんじゃねーぞ。下手なとこ入ると帰れねーからな」
「……はい」
「この奥だ」
二階――かどうかは知れないが、さっきより一つ上の階に上がると、廊下の奥に一つだけ、黄色く光る障子が見えた。あそこだけ明かりが灯っている。
「俺が話してみるから、取り敢えず黙っとけな」
「はい……」
きよ子は頷く。
二人はゆっくりと歩みを進め、光る障子の前で立ち止まった。
障子には薄らと、座した誰かの影が見えた。
「あーちゃんかい?」
蓮っ葉な若い女の声が聞こえる。
「ここんとこ顔出さないから心配しちまったよ。入ってきてお菓子でも食べな」
「うん、ありがと」
あーちゃんと呼ばれたアズマの口調は、幼い頃から自分を知っている大人に対するような、何となくの甘えを帯びた調子であった。
「でも、あー、なんつーかな」耳の後ろを掻き、言いづらそうにアズマは言う。「今日ちょっと、女の子連れて来ちゃってさ」
「えエっ?」
障子の向こうの女は、あからさまに嫌そうな声を出した。
「何だい、野暮ったいことだよ」ちっと舌打ちが聞こえる。「帰しちゃっておくれよそんなもん。あたしァ今ね、暫くぶりにゆっくりあーちゃんと話ができるって喜んだんだよ。がっかりするじゃないか」
「いや……ごめん」
拗ねたことを言われ、アズマはぽりぽりと頭をかく。
「でも、ちらっとだけ話聞いてやってくんねーかな」横目できよ子を見る。「この子の友達がさ、どーしよーもねー野郎どもに犯されて、飛び降り自殺しちゃったらしくて――被害者死んじゃってるせいで、お巡りも取り合ってくれねーらしいんだわ」
「はン」
馬鹿にしたように女は笑った。
「お上なんざ昔っから当てになるもんかね。死んだ人間当てにするくらい馬鹿馬鹿しいよ」
「まあそう言わないで聞いてよ」
「何だいもう」
「その死んだ子、青原カンナっていってさ。将来は外国で働くのが夢で、ふだんから英語の勉強とかしてたらしいんだけど」
「はーっ、異国かぶれかい」忌々しげに女は言う。「本当、腐ったもんだねェ」
「その子、桜木町のスポーツバーでたまたま知り合った男と、時々会って英会話のレッスン受けるようになったんだって。でもそいつがクソヤローでさ……その子のこと騙して呼び出して、同じ国から来てる仲間と一緒に、テープで縛ってマワしたらしいんだよ」
「あん――?」
女の声の調子が変わる。
「ちょいと待ちなよ、どういうことだい」
「みんなで楽しそーに酒飲んだりテレビ見たりしながら、一晩中代わりばんこにオモチャにしてさ」アズマはため息をつく。「最後にゃ飲み残しの酒と食い物、頭からぶっかけやがったって」
「待ちなってんだよ」
女の影が立ちあがり、ゆっくりとこちらの方へ歩いてくる。女は障子のすぐ向こうで立ち止まった。
「成程ねえ。あたしなんぞンとこへ持ってきたワケも、どうやら分かってきたよ」声が刃物の光を帯びる。「要するにその、娘を手篭めにした野郎どもってのァ」
「ああ」
アズマは頷く。
「そいつらみんな、亜米利加人だ」
「――っ!」
ぱぁん、と障子が開いた。
……蝶が。
煌びやかな座敷の光とともに、大きな蝶が現れたようだった。
その一瞬、色とりどりの羽が舞い散ったのは、おそらく気のせいではない。だってここは夢うつつ、横濱の闇の隙間なのだから。
圧倒されるきよ子を見据え、花魁姿の天女は言った。しゃんと結い上げた日本髪の下、浮世離れした美貌を歪め、平成の世になお燃えさかる、百五十年の怒りと共に。
「喜遊が何とかしてやらあ。話ィ聞かせな、お嬢ちゃん」
「う――」
ぶわり、きよ子の目から涙が溢れだす。
どうして泣いてしまったのかは分からない。だが少なくとも、初めて会った、それも今ここへ本当にいるかも分からない人だというのに、この人はきよ子にとって、親よりも頼もしく感じられた。
喜遊の胸にすがり付き、きよ子は泣いた。見たこともないほど華やかな着物に、とめどない涙が染み込んでゆく。喜遊はそれを怒りもせず、そっと頭を撫でてくれた。
よろしくお願いね――と、横でアズマの声が聞こえた。
四
ちょうど一週間後の夕方、アズマは横浜駅の四番ホームの隅で、煤けた金網にもたれてコーヒーの缶をくわえていた。さっき東京方面への列車が来て客を拾って行ったばかりである。
風が吹き、相鉄線側の階段を上ってきたミンが声をかけてくる。
「ういー、見学に来たよ」
「おう」
缶を金網の上に置いて、アズマは向こう側のホームをあごで指す。
「あの、端っこに立ってる茶色いダウンの奴な」
「どれよ――」ミンは前かがみになってそちらを見る。「おお、なんかイケメン外人じゃん。かーっこいー。ひゅー」
「お前の方が全然ツラぁ良いんじゃねーの?」
「えー? オレが女の子だったらの話でしょ、それ」
ミンは楽しそうに言う。
「あれが主犯格かあ。まだ二十代だって?」
「どっかの英会話何たらの何たらかんたらだってよ。知らねーけど」
アズマも横目でその外国人を見る。
異国から来た金髪の若者は、手に荷物を持たず、不自然な立ち方で左右に揺れていた。
この距離では何を言っているのか聞こえないが、ぶつぶつと常に口を動かし続けている。周囲の者たちも不審に思っているのだろう。向こう側のホームはさして空いてもいないが、彼の周りには、やや遠巻きに円のようなものが形成されていた。
がたん、がたんと右の方から列車の音が近づいてくる。さっきのアナウンスによれば、ここを通過してゆくつもりの列車だ。
ポケットに手を突っ込み、ミンが呟く。
「これでやるのかな?」
「多分な」
アズマも思わず、ミンのように笑う。
ホームとホームの間に、轟音とともに鉄の塊が突っ込んでくる。
外国人の若者は、こちら側へ向かって――少なくとも見た目にはだが――自らの足で跳んだ。
その口が大きく動く。電車の音が轟いていたが、その声は精いっぱいの絶叫だったらしく、アズマの耳にもしっかりと届いた。
HELP。
大きく吹っ飛ばされ、ブレーキをかけきれなかった列車に一瞬ですり潰される寸前、彼は怯えきった顔でそう叫んでいた。
長い急ブレーキの音に紛れるように、ミンが手を叩く。
「すげーすげー、一瞬であんなバラバラになるんだ。やっぱ電車のパワーはハンパないね」
「お前動体視力いいな」
さすが武術をやっているだけはある。アズマには残念ながら、よく見えなかった。
電車が完全に止まると同時に構内が騒然とし始める。
ざわめきをよそに、ミンはポケットからメントスを取り出し、口に放り込んだ。
「こえでれんいん?」
「何言ってんだか分んねーよ、食いながら喋んな。他の三人は一昨日いっぺんにやられちゃったから、これで全員だよ」
「聞こえへるりゃん」モグモグと噛み潰す。「かーいそうね、まだ若いのに」
「ホントにな。惜しい連中を亡くしたよな」
「知らんけどね」
「おう。知らねーけどな」
言いながらアズマは腕時計を見る。ディオールの時計の針は、午後の七時を指していた。
「あー、つーかメシどうする? そろそろ夕メシ食っとくべき時間だべ」
「ハイカラ麺」
「なんでお前いつも同じ答えで即答できちゃうの……?」
呆れながらアズマは、柱の傍に立っている少女の方を向く。
「お前は? さっきから黙ってっけどよ。帰る前に横浜でなんか食ってくか?」
「私もハイカラ、味玉乗せで」
武藤きよ子もまた、即答であった。
「でもその前に、崎陽軒でシウマイ弁当買ってもいいですか? あとで喜遊さんに持って行かなきゃいけないんです。今回のお礼ってことで」
「持って行くって、何お前――石灯籠の玄関、開けてもらってんの?」
「はい」
走る駅員、ざわめく客たちをよそに、きよ子はにこりと微笑んだ。
「お琴と書道を習ってるって言ったら少しだけ気に入ってもらえて、今度からいつでも教えてくださるって。あと、アズマさんが子供の頃の可愛いエピソードも、色々聞かせてくれるって仰ってました」
「勘弁してくれ」
アズマは頭を抱える。これだから女は手に負えないのだ。
横でけたけたと笑うミン。微かに流れる、異人の血の香り。乾いて冷えた風に混じって、どこからか遊女たちの笑い声が聞こえてくる。
ここは横浜、港町。浮ついた夕闇の街である。
横濱夕闇タウンガイド・岩亀楼の喜遊 了
長編小説「肉食同居人」を途中で放置して、もう一年以上が経ってしまいました。これは大変なブランクです。
その間に何をしていたかなんて、無意味なことなので一々申しませんが、続きを書こうにも以前のように書けるか不安でならず、取り敢えずはリハビリに一本、こういう書きやすいものを仕上げてみました。
何となく連作のような形を取ってはおりますものの、お話は一話完結となっておりますので、たとえ御趣味に合われたとしても、すぐさま次の話が読みたくなる類の物ではありません。よって私が忙しなく更新しなくとも、今作にかぎってはお怒りを受けることが無いというわけであります。
そうした不純かつ臆病な姿勢で書いた作品ではありますが、これから「肉食同居人」を再び書き始めるにあたり、またいつ足を挫くかも分かりませんので、そういう時の気分転換に、時々書き足してゆこうかと思っております。
我が地元横濱の物語、どうか楽しみにすることなくご愛顧くださいませ。
さて蛇足となりますが、本エピソードで描かれた伝説の遊女「喜遊」は、百五十年前の横濱に実在しました。ええ、そうです、彼女のように壮絶な人物を、私ごときが空想できるわけがありません。
もちろん端々に関しては諸説ありまして、身請けを強要したアボットの正体は亜米利加人ならぬ仏蘭西人であったとか、「いかで日の本~」の遺書とともに「露をだにいとふ倭の女朗花ふるあめりかに袖はぬらさじ」なる美しき辞世の句を遺したとも伝えられております。
辞世の句は出来すぎているので攘夷派のでっち上げた創作だろう、という人もありますが、当時最高クラスの遊女といえば、そこらの文人よりよっぽど教養のあった人たちですから、本人が書いたと考える方が自然だ、などという識者もいて、何が本当なのかは分かりません。
当時のことを細かく聞いてみたい方は、横浜公園の隅に佇む石灯籠の前で、そっと目を閉じてみてはいかがでしょうか。