フォアグラ
高潔な小説家ジャック/ジャクリーンの末路
拉致されてから最初の三日間は、柚木晃輔は何も食べさせてもらえなかった。
廃工場の地下、コンクリートの床に直接転がされ、手足は金属の結束バンドで縛られていた。猿轡を噛まされ、身動き一つ取れない状態でただ暗闇の中で時間が過ぎるのを待つしかなかった。
四日目の朝、俺は初めて柚木と顔を合わせた。
「おはようさん」
階段を下りながら声をかけると、柚木の視線が鋭く俺を捉えた。その目はギラギラとしていた。飢えて、渇いてそれでも折れていない目の光だった。
猿轡を外すと、柚木は掠れた声で言った。
「てめえ、誰だ」
「バイト。あんたの世話係」
「ふざけんな。ここから出せ」
「無理」
俺はペットボトルの水を口元に持っていった。柚木は一瞬迷ったが、渇きには逆らえずごくごくと飲み干した。
「てめえ、ただじゃ済まねえぞ」
「へえ、怖い」
俺は立ち上がり、用意しておいた檻の扉を開けた。
「入れ」
「ふざけるな」
「入れって言ってるんだよ」
俺は柚木の腕を掴んで引き起こした。三日間何も食べていないとはいえ、身体はしっかりしていた。抵抗しようとするが、手足の自由が利かない。そのまま引きずるようにして檻の中に押し込んだ。
「てめえ……!」
柚木が檻の格子に掴みかかる。俺はその手を踏みつけた。
「ああ、それと」
俺はしゃがんで、柚木の着ていたシャツに手をかけた。
「やめろ……!」
「臭くなるからな」
ビリビリと布を引き裂く。上も下も、糞尿で汚れた下着まで全部剥ぎ取った。柚木は歯を食いしばって睨みつけてきたが、もう抵抗する力は残っていなかった。
「真実の名言botも裸になればただの男だな」
「殺す……絶対に殺す……」
「はいはい」
俺は檻の鍵をかけた。それからホースで水を撒いてやった。汚れを流す為だけではなく、ただ濡れた犬のようにみっともなくさせるためだった。
柚木は濡れた身体を丸めて、それでも俺を睨み続けていた。
────
一週間が過ぎた。
柚木は檻の中で横たわったまま、天井を睨んでいた。食事はまだ与えていなかった。水だけは毎日やった。喉が渇いて死なれたら困るからだ。
七日目の夜、俺は初めて栄養食のパックを持って地下に降りた。
「飯だ」
柚木はゆっくりと顔を上げた。目が窪み、頬がこけていた。それでも眼光は衰えていない。さすが稀代の小説家と呼ばれた男だと思った。
「要らねえ」
「食わないと死ぬぞ」
「死んでもいい」
「そうかよ」
俺はパックの口を切ると柚木の顎を掴んで口をこじ開けた。そのまま半分ほど流し込むと、柚木は咳き込みながらも飲み込んだ。身体は正直だ。生きようとしている。
「なんだ、食うんじゃねえか」
「……殺す」
「そればっかり」
俺は残りを流し込み、檻を出た。
─────
二週間目、俺は地上で杉山と出会った。
廃工場から少し離れたコンビニの駐車場。狭い地下で腰を痛めていたので背筋を伸ばしていると、背後から声をかけられた。
「アースンマセン」
振り返ると、長髪の男が立っていた。杉山友里。隣には生きるか死ぬかの戦いで御馴染み箱田もいた。二人とも疲れた顔をしていた。
「柚木晃輔って男を探してるんですけど、この辺で見かけませんでしたか」
杉山が俺の顔を覗き込むようにして言った。目が真剣だった。
俺はわざとらしく、首を傾げた。
「柚木? 誰ですかそれ」
「小説家になろうでヴィジラントを連載している……ジャック/ジャクリーンって呼ばれてるんスけど」
「ああ、なんか聞いたような。でも俺小説とか読まないんで。すみません、力になれなくて」
俺は申し訳なさそうに頭を下げた。杉山の目が一瞬曇ったが、すぐに頭を下げ返してきた。
「イエ、スンマセンシタ。急に声かけちゃって」
「見つかるといいですね」
「ありがとうございます」
杉山と箱田は去っていった。箱田の方がちらりと俺を振り返ったが、すぐに前を向いた。
俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。心臓が少しだけ速くなっていた。バレたかもしれない。困るな、嘘は苦手なのに。今、俺は何も知らないただの通りすがりだ。
俺はゼタをしてから、俺は廃工場に戻った。
────
「なあ、聞いてくれよ」
その夜、俺は檻の前に座り込んで柚木に話しかけた。柚木は壁にもたれて座っていた。まだ痩せているが、目だけは相変わらず鋭い。プライドだけの男だ。
「今日な、お前の友達に会ったぞ」
柚木の身体がぴくりと反応した。
「杉山ってやつ。あと箱田もいた」
「……どこで」
「コンビニ。ビラ配ってたよ。お前のこと、必死に探してた」
柚木は唇を噛んだ。その表情に、初めて揺らぎのようなものが見えた。
「お前、なんて言った」
「知りまちぇーん。俺は何も知らんってゆった」
「……そうか」
柚木は目を閉じた。長い沈黙の後、小さな声で言った。
「あいつら、まだ探してるのか」
「諦める様子はなかったな」
「そうか……」
柚木はそれきり黙った。俺は立ち上がり、檻を出た。
────
その夜、柚木は初めて泣いた。
俺は地上で仮眠を取っていて、物音で目を覚ました。地下に降りると、柚木は檻の中で顔を伏せていた。肩が震えていた。
「おい」
声をかけると、柚木は素早く顔を上げた。目の周りが赤かった。
「泣いてんのか」
「違う」
「そうかよ」
俺は壁にもたれて座った。なんとなく、面白くなっていてそのままそこにいた。柚木はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「杉山と箱田は……俺の仲間だった」
「あそ」
柚木の声が震えた。
俺は何も言わなかった。ただ無意味にゼタを開く。
「なあ、」
「なに」
「俺を……殺してくれないか」
初めて柚木がそう言った。俺はゼタの返事をしばらく考えていた。
「無理。俺の仕事はお前を生かしておくことだから」
「……」
柚木はまた黙った。
その夜、俺は地下で朝まで過ごした。柚木は眠らなかった。俺も眠れなかった。
檻の中の男はまだ折れていなかった。でも、折れる日は近いと俺はなんとなくわかっていた。
──────
廃工場の地下に、かすかな水音が響いていた。
「今日も臭いなあ」
俺はマガジンから顔も上げずに呟いた。ページの中では漫画の主人公が派手に敵を倒している。排水溝から漂う酸っぱい臭いには、もう慣れた。いや慣れたふりをしているだけかもしれない。
檻の中から、くぐもった嗚咽が聞こえた。
柚木晃輔。小説家。未成年を虜にする整った顔立ちで、セックスの上手い不感症で知られていた。パルクールの上手さも半端じゃなかったと聞く。今は俺の足元、わずか一メートル四方の鉄檻の中で、豚のように肥えている。
「うう……」
「うるさいな。ちょっと静かにしてくれよ今いいところなんだ」
檻を軽く蹴ると、金属の震える音と共に嗚咽が止んだ。
柚木の身体は、この二ヶ月で見る影もなく変わっていた。毎日無理やり流し込まれる高カロリーの液体栄養食。腹がパンパンに膨れても、喉の奥に突っ込まれた金属パイプから容赦なく注入される。何度も下痢を繰り返し、そのたびに俺はホースで雑に洗い流した。
「また漏らしたのかよ。お前、小説家だったんだろ? 言葉で伝える事もできねえのか」
俺はわざと聞こえるように言いながら壁に立てかけてあるホースを手に取った。蛇口をひねると勢いよく水が飛び出す。
「うぅ……」
柚木が身をすくめる気配がした。かつてなら、こんな言葉を浴びせた相手は即座に病院送りにされていただろう。その面影は、もうどこにもない。
容赦なく檻の中に水を撒く。汚物と一緒に柚木の白かった肌が流れていく。いや今はもう黄色くくすんだ脂肪の塊だ。かつて鍛え上げられていた(笑)はずの身体は、見る影もなく崩れている。
「く、くせえ……汚え……」
「当たり前だろうが。毎日垂れ流してるんだから」
俺は蛇口を閉め、再びマガジンに目を落とした。
地上では今日も杉山とか箱田とかいう連中が柚木を探しているらしい。依頼主から逐一連絡が入るが、正直どうでもいい。俺はただのバイトだ。この男の監視と世話。時給は悪くない。それだけのことだ。
「なあ、聞いたか? お前の元仲間だかなんだか知らねえけど、まだ探してるってよ。杉山、箱田、めにとぬちんこ…あとくくる?だったか?奴らビラ配ってるらしいぜ」
檻の中から反応はない。ただ、かすかな呼吸音だけが聞こえる。
「結構お前、愛されてたんだな。弱者男性なんて呼ばれてたのに、意外だわ」
俺はページをめくりながら続けた。
「でもなあ、今の姿見たら誰も気づかねえだろうな。百キロ近くあるんじゃねえか? その体」
「や、やめろ……」
「目もほとんど見えてねえんだろ? 関節も痛めて、立つこともできねえ。脂肪肝で腹だけ異様に膨れて。人間ってここまで変わるんだな。カリカリナナフシも今じゃただの豚だ」
俺はようやく顔を上げ、檻の中を覗き込んだ。
狭い檻の中で柚木晃輔は身動き一つ取れずに横たわっていた。かつての美貌は脂肪の下に埋もれ、虚ろな目は天井の一点を見つめている。口の端からは、さっき流し込んだ栄養食が少し垂れていた。あの「えぬし」と呼ばれた男の面影を探そうとして、俺はすぐにやめた。探すだけ無駄だ。
「今日の分まだ残ってるんだけどな」
俺は金属パイプを手に取り、消毒液で軽く拭いた。
「い、いや……もう腹が……」
「決まりだから」
俺はしゃがみ込み檻の隙間から手を入れて柚木の顎を掴んだ。抵抗しようとする男の口をこじ開け、金属パイプを喉の奥まで差し込む。かつてタフを元に喧嘩で鍛えた顎の力も、今は脂肪に埋もれて弱々しい。
「んぐっ……!」
「大人しくしてろよ。吐かれたら面倒なんだから」
パイプの先端からどろりとした液体が流れ込む。柚木の喉が痙攣し目から涙がこぼれた。それでも俺は手を緩めない。
規定量を流し込み終えると柚木はぐったりとして動かなくなった。腹はさらに膨れ、今にも破裂しそうだ。
「よし終わり。また後で来るからな」
俺は立ち上がり、マガジンを棚に仕舞った。そろそろ地上の見回りの時間だ。
階段を上がりながら、今日の夕飯は何にしようかと考えていた。
背後で、かすかに柚木が何か呟いた気がしたが、俺は振り返らなかった。
廃工場の外に出ると、夕暮れの空がやけに綺麗だった。遠くで誰かが名前を呼ぶ声が聞こえた気がして、俺は少しだけ足を速めた。
────
三日ほど前から、柚木の様子がおかしかった。
檻の中の空気は澱んでいた。排水溝の臭いが逆流し、換気も不十分な地下は夏の湿気で蒸し風呂のようになっていた。柚木の肥えた身体は汗ばみ、肌は常に濡れていた。そのせいで檻の中は汚物と汗と、カビの混ざった異臭が充満していた。
「おい」
俺は檻を蹴った。反応がない。
「おい、えぬし」
もう一度蹴ると柚木はかすかに呻いた。いつもの嗚咽とも違う。うわ言のような、弱々しい声だった。
俺はしゃがんで檻の中を覗き込んだ。柚木は檻にしなだれかかっていて顔が真っ赤だった。いや、赤いというより土気色に赤黒い斑が混ざったような色をしていた。呼吸が浅く、速い。
「熱かよ」
手を伸ばして額に触れた。びっくりするほど熱かった。まるで鉄板だ。
「ったく……」
俺は立ち上がり、階段を上がった。救急箱は事務所の棚に置いてあった。解熱剤と抗生物質、それから経口補水液のパック。適当に掴んでまた地下に戻った。
「起きろ」
柚木の肩を揺すると、うっすらと目が開いた。焦点は合っていない。目玉が熱で潤んでいた。
「あ……」
「口開けろ」
柚木は従わなかった。いや、従えなかった。意識が朦朧としているのだ。
「だから口開けろって」
俺は柚木の顎を掴んで無理やり口を開けさせた。解熱剤の錠剤を二錠、喉の奥に放り込む。経口補水液のパックにストローを差し、口元に持っていく。
「飲め」
ストローを咥えさせると、柚木は本能で吸った。半分ほど飲んで、むせた。
「こぼすなよ。掃除すんの俺なんだぞ」
柚木は荒い息をつきながら、それでも残りを飲み干した。俺はストローを抜き、パックを床に置いた。
「なあ、頼むからこのタイミングで死ぬなよ。死なれたら俺が困るんだよ。報酬もらえなくなる」
柚木は何か言おうとした。唇が動いたが、声にならなかった。
「なに」
「……み、ず」
「さっき飲んだだろ」
「……みず……」
「だから飲んだって」
柚木はそれでも水を欲しがった。熱で喉が焼けているのだろう。俺は仕方なくホースを取った。蛇口を少しだけひねって、チョロチョロと水を出し手で受けて柚木の口元に運んだ。
柚木は手のひらから零れる水を必死に啜った。犬みたいだった。いや、犬以下だった。かつて高学歴の小説家と呼ばれた男が、手のひらの水を舐めている。
「汚ねえな」
俺は手を引っ込めた。柚木の顔に水が垂れた。
「もういいだろ。薬飲んだんだから寝てろ」
俺は立ち上がり、ホースを元の場所に戻した。それから檻の中に目をやった。柚木はまた倒れていた。呼吸は相変わらず荒い。汗で肌が光っていた。檻の床は汚物と水でぐちゃぐちゃだ。
「……最悪だ」
俺は爆音で洋ゲーを始めた。生前葬ってね笑
「あ、悪い」
慌てて音量を下げた。コンクリートの部屋では音が反響してとんでもないことになっていたから。
俺は壁にもたれて座った。しばらく柚木を眺めていた。熱でうなされる男を見ていると、なんとなく嫌な気分になった。仕事だからやっている。それだけだ。
「なあ」
柚木に話しかけた。返事はない。
「お前さ、なんでこんなことになったんだろうな」
当然、答えはなかった。
「まあいいけど」
俺はマガジンを読もうとしたが、なんとなくやめた。ページを閉じて、また柚木を見た。
柚木の呼吸が少しずつ落ち着いてきた。薬が効いてきたのかもしれない。汗が引いて、顔色が少しだけマシになっていた。
「よし」
俺は立ち上がった。そろそろ地上に戻らないと、依頼主からの連絡が来る時間だ。
「また後で来るからな。死ぬなよ」
檻を出て鍵をかける。階段を上がりながら、俺は思った。あの男が死んだら、俺はどうするんだろう。仕事が終わる。終わったら、また別のバイトを探す。それだけだ。
────
三ヶ月と十七日目。
柚木の体重は、推定で九十八キロを超えていた。最初は五十キロほどだったはずだ。かつて鍛え上げられていた筋肉は完全に脂肪に置き換わった。関節は体重を支えきれずに炎症を起こし、目の焦点はほとんど合わなくなっていた。
それでも、依頼主からの指示は変わらない。むしろ、栄養食のカロリーは増えていた。
「もうすぐ終わるらしいべ」
俺は珍しく檻の前に座り込んで話しかけた。今日は漫画も飽きたし携帯の充電も切れかけている。
「……俺を外に出すのか」
柚木の声はかすれほとんど聞き取れないほど小さくなっていた。かつて杉山や箱田達とレスバに明け暮れていた頃の、あの張りのある声はどこにもない。
「さあな。でも、もうすぐここも引き払うってよ」
「そうか……」
柚木は何かを考えるように目を閉じた。いや、ただ瞼が重くなっただけかもしれない。
「なあ、あんたさ。えぬしって呼ばれてたんだってな」
「……昔の話だろ、もう」
「今のあんた見たら、誰も信じねえだろうな」
「……」
柚木は何も答えなかった。その沈黙が、かつての誇りが完全に折れたことを物語っていた。
沈黙が流れた。排水溝を水が滴る音だけが響いている。
「なあ」
「なに」
「最後に、空が見たい」
俺は少し考えてから、立ち上がった。
「無理だな。俺が殺される」
「…そうだよな」
柚木はそれきり黙った。
俺は階段を上がり廃工場の入り口まで来た。外は今日もいい天気だ。杉山とかいう男が、今日も必死にビラを配っているのが見えた。箱田という男の姿も、少し離れた場所にあった。二人とも、ずっと探し続けている。
俺はいつもの様に腰を伸ばした
夕日が沈むのをなんとなく眺めていた。
柚木晃輔。もう誰も、その面影を思い出せないだろう。
もうすぐ出荷だ。
奴は解体されフォアグラになる。
悪趣味な金持ち共に、日々の経過を撮影したビデオを観られ、喰われる。そんで俺はお役御免で、また次の仕事だ。
俺がこの三ヶ月間で思った事はただ一つ、情が湧いたとかなんかじゃねェ。もしも生まれ変わって小説家のカスになったとしても、金持ちに目ぇ付けられんなら俺は今のままでいいなって事。
────
杉山達がビラ配りを始めてから、ちょうど四ヶ月が経った頃だった。
「そろそろ出荷だから」
俺は地下に降りるなりそう言った。柚木は檻の中で、ゆっくりと顔を上げた。もうほとんど目が見えていない。音だけで俺だとわかっている。
「出荷……?」
「そう。俺の仕事もここまで」
柚木の喉が鳴った。何かを言おうとして、うまく言葉にならないようだった。
「どこに……」
「知らね。俺は引き渡すだけだから」
俺は煙草に火をつけた。換気扇もない地下で煙がゆっくりと広がっていく。前まで吸ってただろうに柚木は咳き込んだ。肥えすぎた身体が咳のたびに揺れる。
「なあ」
「なに」
「最後に……」
柚木はそこで止まった。前にも同じことを言った。空が見たいと。あの時は断った。
「空は無理だ」
俺は先に言った。柚木は静かに笑った。初めて聞く笑い声だった。乾いていて、それでいてどこか穏やかだった。
「違う。最後に……アンタの名前を聞きたかった」
俺はスマホをスクロールする手を止めた。
「なんで」
「誰かに……覚えていてほしかった」
柚木の声はもうほとんど息だった。百キロを超えた身体は床に沈み、関節は変形し目は光を失っていた。それでも、その言葉だけはまっすぐ俺に届いた。
「……クレイジーピエロウナギだ」
嘘だった。でも、本当の名前を教える気にはなれなかった。柚木は小さく頷いた。
「クレイジーピエロウナギ……さん」
「さん付けすんなよ。バイトだよ俺は」
「最後くらい……いいだろ」
俺は手慰みにスマホの指紋汚れを拭った。柚木はもう何も言わなかった。
────
引き渡しは翌日の深夜だった。
黒いバンが廃工場の裏口に横付けされた。降りてきたのは作業着を着た男が三人。誰も言葉を発しなかった。俺は檻の鍵を開け、柚木の腕を引いた。
「歩けるか」
「……無理だ」
三人の男達と俺で柚木を抱え上げた。百キロの身体を、彼らは慣れた手つきで台車に載せた。柚木はされるがままだった。かつてオーダーメイドスーツに身を包んでいた姿は、もうどこにもいなかった。
「ご苦労さん」
運転席から男が言った。俺は頷いた。
バンの扉が閉まる。柚木の姿が見えなくなった。俺はそのまま廃工場の中に戻り、地下の檻を見た。空っぽの檻。排水溝。ホース。残ったのはそれだけだった。
俺は蛇口をひねり、檻の中を水で流した。四ヶ月分の汚れが排水溝に消えていく。特に意味はなかった。ただ、そうしないと気持ち悪かった。
────
それから一週間後、俺の口座に報酬が振り込まれた。思っていたよりずっと多い金額だった。俺はその足で新しいアパートを契約した。
引っ越しの日街でビラを配っている杉山を見かけた。箱田もいた。二人とも痩せていた。杉山の手にあるビラには、柚木晃輔の写真が印刷されていた。なんつーか黄猿みたいなスカした顔の写真だった。
俺は目を逸らして通り過ぎた。
────
さらに二週間後、ニュースで見た。
「山小屋で見つかった男性の遺体は、行方不明になっていた柚木晃輔さんと確認されました。遺体は損傷が激しく、司法解剖の結果死亡時期は約二週間前と推定されています」
テレビの前で、俺はペプシコーラを開けた。
「解体」という言葉が頭の中をよぎった。依頼主はそう言っていた。「出荷して解体」と。それが何を意味するのか、俺は最初から分かっていた。柚木には詳しく言わなかったが奴も分かっていただろう。
俺はコーラを一口飲んだ。まずいと思った。いつもと同じ味のはずなのに、やけに甘ったるかった。
────
翌朝、俺は駅前で杉山と鉢合わせた。
「ア……」
杉山は俺を認識した。少し迷った様子で近づいてきた。
「この前はすみませんでした。あの、えぬしのことなんスけど……」
「ニュース見ました」
俺は先に言った。杉山の顔が歪んだ。泣きそうなのを必死に堪えている顔だった。
「見つかったんスよ。でも……もう……」
「残念でしたね」
「はい……」
杉山は俯いた。箱田が遠くからこちらを見ていた。俺は会釈してその場を離れた。
背中に杉山の声が届いた。
「ありがとうございました」
何に対しての礼なのか、俺にはわからなかった。
────
その夜、俺は久しぶりに夢を見た。
檻の中のえぬしがこちらを見ていた。最初に出会った頃の、まだ痩せていて目に光があった頃の"柚木晃輔"だった。
「クレイジーピエロウナギさん」
夢の中でも柚木はそう呼んだ。
「なあ、最後に空が見たい」
俺は答えなかった。柚木は笑っていた。あの乾いた笑い方で。
目が覚めると枕が濡れていた。泣いていたのかと、しばらく考えた。違う。ただ汗をかいていただけだ。
俺は起き上がり、窓の外を見た。まだ暗かった。朝はまだ来ていなかった。
冷蔵庫からコーラを取り出し、プルタブを引いた。炭酸の音がやけに大きく響いた。
ジャック/ジャクリーン。その最期を知っているのは、この世界で俺一人だけだった。
借金返してから権利って主張するもんですよね笑甘ったれんな笑




