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歴史とDNA

弥生人と長江と渤海

作者: とびうお君
掲載日:2026/03/10

 縄文人に触れたので弥生人にも触れるべきだ。弥生人はそれほどややこしい謎はない。ただややこしくしてる人もいる。もう分かってるのに古い話を持ち出す人が居るんだ。稲作と絡んで弥生人長江起源説を唱える人が多いんだ。それと言うのも、縄文時代から寒冷化がありその後、一度気温が戻る時期があり、ここで長江から稲作が北上してる。


 結論から言うと、この現象は重要でもあり重要でもない。長江の優れた稲作が確かに北上したが、遺伝の流れは伴ってない。なおかつ日本の稲作にとって決定打となったのは、むしろそれらの技術伝播を受けて発展した山東省独自の稲作にある。


 遺伝の流れが伴ってないと言うのは、この時期むしろ漢民族の拡大の方が目立つのだ。確かに長江からの遺伝の影響はあるが、初期弥生人はむしろアムール川流域の北東アジア人に遺伝的に近い。漢民族の遺伝の影響が強くなるのはその後の古墳時代になる。


 ついでに古墳時代の話もするが、遼河付近の人口分布が変わるだけで、中央の漢民族が日本に分化を伝えたと思うのは早計だ。どちらかと言えば、新石器時代に広がった漢民族が中央の拡大によって円状に広がったような感じとなる。これはとても重要で、長安や洛陽あたりの都会の中国人が日本に来たわけじゃない。


 遼河付近の集団の漢民族に近いDNAが濃くなっただけ。遺伝的浮動じゃないと思う。何かしらの理由はあるんだと思う。ただ中央の中国人がまとめて移住してきたような話ではない。昔から住んでいた漢民族の方がなんらかの理由で増えたのだろう。


 それと言うのも弥生人はかなり初期から漢民族のDNAを多少は持っている集団がいて、後の古墳時代は遼河の混血の割合が反映されただけと言える。もちろん全く持たない集団もあり、その事から単純に山東省の遺伝的状況を反映してるわけじゃない点。


 それよりこの時代に気なるのは、殷の滅亡付近になる。殷の滅亡前後で山東省は漢民族と異なる原住民を支配する流れが盛んだった。なおかつ、DNAもその時期原住民のDNAが減って漢民族が増えている。この集団が日本に向かったのではないか?と予想される。


 ただこの集団長江から北上したような集団じゃない。長江の北上に関してややこしいのは、稲作に関して長江からの北上は確かにあった。ただそれはかなり前の出来事で。弥生時代付近の出来事じゃない。これを北上と言ってしまうのは、日本人の起源はアフリカ人でしょ?と言うような乱暴な話になる。


 実質この付近に住んでいたのは、北東アジア人に近い集団で黄河下流の沿岸部は遼河から広がった北東アジア人が住んでいた。新石器早期、かなり前の事になる。これに関しては稲作の起源がくそ古い事が関係していて、黄河での農業化の何年も前から米の栽培は始まっていて、そのため黄河で農耕が始まった初期にもう稲作民が北上している。


 余りの速さに私は、稲作民からの農業の伝播を考えたほど、この結論はまだ出てない。そのためこの地域は長江の遺伝的な影響は限りなく薄くなってしまっている。この時期の稲作は縄文時代の寒冷化で一旦北部では滅んでいる。その中で細々と温帯ジャポニカ、寒冷地で適応した稲作が残り弥生に繋がったとみている。


 実際渤海付近の遺跡からも新石器早期に温帯ジャポニカが見つかっている。何らかの理由で、長江から弥生期に北上した集団は遺伝的痕跡を残さずに稲作技術だけをこの集団に伝播しただけとなってる。これをさらに弥生期の水田に発展させたのはこの集団になる。


 弥生人は長江起源ではない。明確に彼らの技術だと言えるのが乾田の存在になる。これは長江の稲作文化にはない。研究者の推測になるが畑作から発展した発想ではと言われている。稲作と畑作を繰り返すと、両方の雑草が繁栄しにくい状況になるらしい。水田によって水が畑作の雑草の根や種子を殺してしまい。畑作はその逆になる。


 どうやって発見したか?分からないが、2毛作でもやろうとして発見したのかもしれない。やがて裏作の畑作無しでも水生の雑草の根絶に役に立つからそのまま残ったのではないか?と推測している。


 以前から書いてるのをまとめてるだけだが、今回書いたのは新しい発見もあったから縄文と弥生として揃えてして書いてみた。今回の発見は、熱帯ジャポニカも満州で詳細に調べると期限が古いものが見つかったという話があった。もちろん元は長江以南にあったものだと思うが、それでもかなり古くから寒冷地適応の熱帯ジャポニカもこの地域で育てられてきた。


 弥生期の長江からの集団の北上が全く必要じゃなくなってしまった。弥生人の長江からの北上は無視して良いと思う。むしろ日本との関係は薄くなるけど、新石器初期の稲作民が黄河農耕民に与えた影響の方が面白いと思う。


 ハプログループについて、O1B2が日本起源ではないか?との話があったが、これはC1A1とよく似た問題で、縄文時代にYDNAのデータがもっと豊富に取れるようにならないと無視して良いかと。今の所D系しか見つかってない。その点からC1A1は縄文系と言われてるが私は懐疑的だ。


 山東省には漢民族とは違う集団が居てそれらが追い出されてしまったので、日本で特異な残り方をした可能性が否定できないのだ。D系は実際発見されたが、他は見つかってないので、現代からの飛躍した論理だなと見ている。


 余談で、弥生とはちとずれるが縄文人と言うの抵抗がある謎がある。曽畑式土器の存在、これらは明らかに朝鮮系の影響を受けている。かつこの時期縄文系が朝鮮南部にいたのも事実。逆に向こうからこっちはなかたか?または縄文人が混血して混ざった集団として日本に帰ってきた例は無かったか?


 日本にはかなり孤立した古いN系統がある。ただし、厄介な問題も言おう、山東省から追い出された集団はNが強い集団だった。あの一体Nが多かったのはこの朝鮮の具合からも分かる。なんとなく円状の広がりが見えると思う。そもそもヤンシャオの中心的ハプロはN系である。


 漢民族のO2じゃないの?山西省はそうだが、河南は違っていた。N2がむしろ中心だった。征服したのか?ならない。遺伝的に大きな変化が無いから。父系がたまたまN2が濃くなっていただけで、この父系だけが後にO2にすっぽり入れ替わってしまっただけ。


 この点は戦争で滅ぼされた説は否定されてる。まあ山東省をおわれた集団は核DNAが違っていたという事かな。日本に古いNが残ってるのはこれでも説明が可能。何故なら、朝鮮から山東省まで遼河も含めて陸地でも繋がりがあるから。


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