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目覚め

 城の目覚めは、

王女たちの目覚めでもあった。


鐘が鳴るよりも先に、

それぞれの場所で、それぞれの朝が始まる。


王宮の中庭は、まだ薄い朝霧に包まれている。

芝の先に溜まった露が、

淡い光を反射していた。


第二王女は、すでに膝をついていた。


長い袖をまとめ、

土に触れる指先は迷いがない。

昨夜の慌ただしさも、

城内を駆けた伝令の足音も、

今は遠い。


「……冷えているわね」


土の温度を確かめるように、

静かに呟く。


彼女にとって、

植物の状態は何より正直だ。


踏まれた痕。

折れた茎。

夜間に乱れた気配。


それらを、

何も言わずに教えてくれる。


だが今朝の庭は、

目立った乱れがない。


それが、

わずかな安堵をもたらす。


「城が騒いでいても、

 あなたたちはいつも通りね」


小さな芽を支え直しながら、

第二王女は微笑む。


だがその微笑みは、

完全な無関心ではない。


彼女は感じている。

空気が、わずかに張りつめていることを。


理由は分からない。

だが、植物の葉が揺れる方向が、

いつもと違う。


風が、

どこか重い。


その違和感だけを胸に、

彼女は黙々と手を動かし続ける。



第四王女の自室では、

侍女が帯を整えていた。


鏡の前に立つ第四王女は、

いつもより早く目を覚ましている。


「今日は、静かね」


帯を締め直しながら、

独り言のように呟く。


静けさは、嫌いではない。

だが今朝のそれは、

“整えられた静けさ”だ。


廊下の足音が少ない。

侍女の声が低い。


誰かが、

気を遣っている。


「……何かあったのかしら」


鏡越しに、自分の目を見る。


彼女は聡い。

だが、詮索はしない。


知らされるべきことは、

いずれ知らされる。


それまでは、

自分の役目を果たすだけ。


「朝食は軽めでいいわ。

 今日は、書類が多そう」


軽く笑う。


だがその笑みの奥に、

ほんのわずかな緊張が潜んでいる。



厨房の窯の前では、

第五王女がすでに汗をかいていた。


焼き上がるパンの匂いが、

温かく広がる。


「もう少し、温度を上げて」


彼女の声は明るい。


火を扱う集中は、

余計な思考を遮断する。


発酵の時間。

生地の弾力。

焼き色の変化。


それらに意識を向けることで、

城内の違和感を追い払う。


だが。


「……今朝は、人が少ないわね」


ふと、窯の向こうを見て呟く。


厨房の出入りが、

確かに少ない。


物資の運搬が、

昨夜のうちに動いた形跡がある。


第五王女は、

問いを深めない。


パンを裏返す。


「焼き色は、正直よ」


火は嘘をつかない。


だからこそ、

彼女は火を信じる。



第六王女は、

窓辺の椅子に腰掛けていた。


黒髪をゆっくりと梳く。


櫛が通るたび、

朝の光が髪を滑る。


静かな動作。


だが、その手が、

ふと止まる。


“あの赤色”。


昨夜、

視界に強く焼き付いた色。


揺れる炎のような髪。


守られる側でありながら、

決して目を逸らさなかった横顔。


第六王女は、

理由もなく櫛を止めたまま、

しばし動かない。


「……」


何を思ったのか、

自分でも分からない。


ただ、

胸の奥に小さな引っかかりがある。


やがて、

何事もなかったように櫛を動かす。


だが、

その動きは少しだけ遅い。


***


――第三王女は、まだ眠っている。


昨夜を越えた身体と心は、

今は深い休息を求めていた。


城は、ゆっくりと目を覚ましていく。


だがその奥で。


石壁に囲まれた冷たい場所に、

もう一人、

目覚めきった男が立っていた。


城の奥深く。

湿り気を帯びた石壁に囲まれた場所。


松明の火が、

鉄格子の影を床に落としている。


護衛隊長は、

その前に立っていた。


背筋はまっすぐ。

足幅は肩幅に揃えられ、

両手は背後で組まれている。


一見すれば、

いつもの立ち姿だ。


だが、

その視線は違った。


中には三人。


異国の言葉を話す男たち。

昨夜の喧騒が嘘のように、

今は壁にもたれて座り込んでいる。


疲労か。

諦観か。

それとも計算か。


護衛隊長は、

怒ってはいなかった。


怒りは、

夜のうちに燃え尽きている。


横転した馬車。

軋む車輪。

土埃の中で抱き寄せた、

第三王女の小さな体。


腕に残る重みは、

今も消えていない。


守った。


確かに守った。


だが――


「防いだ? 何を防いだ?」


自問が胸に刺さる。


最悪を、

辛うじて回避しただけではないか。


理不尽は、消えていない。


赤い髪に向けられた視線。

異国の街角で交わされた、

軽い嘲笑。


“慣習”という言葉で正当化される、

暴力。


それらは、

事故とは無関係に存在している。


護衛隊長は、

鉄格子に指をかける。


冷たい。


この冷たさは、

明確だ。


だが、

城の外にあるものは違う。


見えない。

触れられない。

だが、確かにある。


親衛隊長の言葉が、

脳裏に蘇る。


「確認を怠るな」

「最悪を想定せよ」

「運に頼るな」


自分は、

最悪を想定していたか。


横転の可能性。

襲撃の可能性。


それは想定していた。


だが、

“赤い髪が持つ意味”までは、

十分に想定していなかった。


第三王女が泣いた瞬間。


王女ではなく、

娘として、父に縋ったあの姿。


あの瞬間、

護衛隊長は理解してしまった。


自分は、

彼女の背負うものを、

本当の意味では理解していなかったのだと。


力が足りないのではない。

覚悟が足りないのでもない。


立場が、

限界に来ている。


彼女はもう、

一人の護衛が

背負いきれる存在ではない。


護衛隊長は、

ゆっくりと視線を牢内に戻す。


ここからだ。


尋問は始まる。


だが、

問いを重ねるだけでは足りない。


必要なのは、

背景だ。


国と国の間にある前提。

赤い髪にまつわる偏見。

黙認する空気。


それらを知らずに、

守れるはずがない。


(……このままでは、駄目だ)


胸の奥で、

はっきりと結論が固まり始めていた。


牢の中の三人は、

護衛隊長の視線に気づいている。


だが、

誰も口を開かない。


沈黙は、

時に言葉より雄弁だ。


護衛隊長は、

彼らを“敵”として見てはいなかった。


敵であれば、

単純だ。


斬るか、捕えるか、裁くか。


だが彼らは、

背景を背負っている。


生まれ育った国。

教えられた価値観。

当たり前だと思ってきた序列。


その中で、

赤い髪はどう見られてきたのか。


蔑視か。

恐れか。

あるいは、取引材料か。


昨夜、

街角で交わされた言葉。


軽く、

冗談のようで、

だが確信に満ちていた。


あれは偶然ではない。


積み重なった常識の、

氷山の一角だ。


護衛隊長は、

鉄格子から手を離す。


冷えた指先が、

わずかに白くなる。


ここで問いを投げれば、

何かは得られるだろう。


だがそれは、

“整えられた答え”だ。


必要なのは、

もっと手前。


なぜそう思ったのか。

なぜ笑えたのか。

なぜ、誰も止めなかったのか。


その層まで、

掘り下げなければならない。


そして――


そのためには、

自分の立ち位置を変える必要がある。


第三王女の傍に立つ者として、

すべてを抱え続けるのではなく。


一歩、引く。


引いて、

全体を見る。


知り得た限りを、

整理し、

繋ぎ、

次に立つ者へ渡す。


「引き継ぐ」という行為は、

書類の束を渡すことではない。


恐れたこと。

見逃しかけたこと。

気づいたこと。


それらを、

正確な重さのまま渡すことだ。


それが、

今の自分に出来る、

最善。


退くのではない。


守る形を、

変える。


護衛隊長は、

ゆっくりと踵を返す。


背後で、

囚人の一人が、

小さく息を吐いた。


何かを言いかけて、

やめる。


まだ、

時ではない。


廊下へ出ると、

城は完全に目を覚ましていた。


遠くから、

訓練の掛け声が聞こえる。


日常は、

止まらない。


だがその下で、

確実に何かが動いている。


護衛隊長は、

深く息を吸う。


ここからだ。


守るという言葉の意味を、

もう一度、組み直す必要がある。


赤い髪を守るとは、

剣を構えることだけではない。


背景を知り、

構造を知り、

沈黙の理由を知ること。


城は目覚めた。


だが、

赤い髪にまつわる物語は――

確実に、次の段階へ足を踏み入れていた。


第三王女の部屋は、

まだ薄暗かった。


厚いカーテンの隙間から、

細い光が差し込む。


寝台の上で、

彼女は静かに眠っている。


呼吸は規則正しい。

だが、まぶたの下で、

わずかに揺れがあった。


夢を見ているのかもしれない。


横転の瞬間。

揺れる視界。

抱き寄せられた温もり。


だが、

今は深く沈んでいる。


泣き腫らした痕が、

まだ残っている。


王女である前に、

少女だった証。


侍女は、

起こさない。


医師の指示でもある。

だがそれ以上に、

城全体がそう判断していた。


――今は、眠らせておけ。


その判断は、

誰の命令でもない。


守る者たちの、

暗黙の合意だった。


そして。


護衛隊長は、

城の中庭へ続く回廊を歩いていた。


足音は一定。


迷いはない。


すでに、

決断は終わっている。


知り得たことを、

すべて整理する。


背景を洗う。


偏見の根を探る。


そのうえで、

後任へ渡す。


守る形を、変える。


第三王女の傍に立つことだけが、

守りではない。


支える者を増やすことも、

守りだ。


歩きながら、

一瞬だけ足を止める。


遠く、

第三王女の部屋がある方向を見やる。


眠っている。


まだ、知らない。


自分の選択を。


だが、それでいい。


守るとは、

すべてを知らせることではない。


背負わせないことも、

守りだ。


護衛隊長は、

再び歩き出す。


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