第三王女 「馬車の横で」
草の匂いが、強く鼻を打った。
馬車は横倒しになり、
砕けたランプの残光が、地面を不規則に照らしている。
遠くでは、怒号と剣戟が交錯し、
護衛兵たちが最後の制圧に入っているのが分かった。
だが――
この場所だけは、切り離されたように静かだった。
第三王女は、
護衛隊長の胸の中にいた。
抱きしめられている、というよりも、
覆われているに近い。
彼の腕は、
彼女の頭を胸に押し付けるように回され、
衝撃のすべてを、背中と肩で受け止めている。
天地が逆転した一瞬の記憶。
宙に浮いた感覚。
次の瞬間、
すべてが彼の身体で止まった。
第三王女は、
その鼓動を、はっきりと感じていた。
速い。
だが、乱れていない。
――生きている。
――そして、守られている。
やがて、
彼女の呼吸が整ったことを感じ取ったのか、
護衛隊長の腕が、ゆっくりと緩んだ。
だが、完全には離れない。
半歩の距離。
それ以上、下がらない。
第三王女が自分の足で立てると、
確信するまで。
護衛隊長は、
深く、深く頭を下げた。
「……すいません」
その声は、
驚くほど静かだった。
「私の不注意のせいで……
このような事態を招きました」
第三王女は、黙って聞いていた。
護衛隊長は、顔を上げない。
「申し訳ありません」
それは、形式ではなかった。
誰かに許しを請う言葉でもない。
自分自身への、裁定だった。
「私には……
護衛を司る資質が、欠損していたようです」
第三王女の目が、わずかに見開かれる。
護衛隊長は、なおも言葉を続けた。
「結果として、
殿下に剣を抜かせ、
夜の街に身を晒させ、
そして――」
視線が、
横倒しになった馬車へと向く。
「このような事態を、
未然に防ぐことができなかった」
拳が、草を掴む。
「これで……
護衛のお役も御免となる事でしょう」
それは、予測ではなかった。
願いでもない。
当然の帰結として、彼はそれを口にした。
護衛として失格であるなら、退くべきだ。
それが、軍に身を置く者としての、
唯一の矜持だった。
第三王女は護衛隊長に
一歩近づいた。
倒れた馬車でも、
制圧されつつある敵でもなく、
護衛隊長その人を、真正面から見る。
「……それは」
声は低く、
だが、はっきりしていた。
「そんな事は、私が許しません」
護衛隊長の肩が、わずかに揺れる。
第三王女は、続けた。
「あなたは、私を庇った」
短い言葉だった。
「転ぶと分かっていて、
私を抱きしめて、
肩で、背中で、すべてを受けた」
一歩、距離を詰める。
「それを、
“資質の欠如”と呼ぶのなら――」
第三王女は、
一切の迷いなく言い切った。
「この国の護衛は、
誰一人、務まらないわ」
風が、草を揺らす。
護衛隊長は、
言葉を失っていた。
第三王女は、
ほんの少しだけ、声を和らげる。
「……顔を上げなさい」
それは命令ではない。
信頼の確認だった。
護衛隊長は、ゆっくりと顔を上げる。
第三王女は、
その目を、真正面から受け止めた。
「あなたは、私の護衛隊長よ。
今も......これからも」
馬車の外では、
「制圧完了!」という声が上がる。
だが、二人にとっては
「護衛」という言葉の方がずっと重かった。
護衛隊長は、
しばらく何も言えなかった。
軍人として、命令に従う覚悟はある。
だが――信じられる覚悟を、
向けられることには、慣れていなかった。
やがて、彼は、静かに膝をついた。
「……承知いたしました」
声は、低い。
「殿下を、必ず、お守りいたします」
それは誓いだった。
義務ではなく、選び取った誓い。
第三王女は、小さく、頷いた。
「ええ」
夜は、まだ終わらない。
だが――この瞬間を境に、
二人の関係は、
“守る者”と“守られる者”ではなくなっていた。
共に責を引き受ける者同士として。
横倒しの馬車のそばで、
第三王女と護衛隊長は、並んで立つ。
次に待つのは報告であり、裁断であり、
その場所は国王の前だ。
だが、もう迷いはなかった。
守られたからではない。
選んだからだ。
第三王女は、夜空を見上げる。
「……帰りましょう」
護衛隊長は、半歩後ろに立ち、
はっきりと答えた。
「はい、殿下」
この夜は、彼らを試した。
そして――二人は、折れなかった。




