第三王女 「暴走」
馬車は、なおも速度を上げていた。
石畳を叩く車輪の音が、
一定のリズムを失い始めている。
それは――
制御の限界に近づいている証でもあった。
護衛隊長は、無言のまま状況を測る。
(……この距離、この速度)
馬を止めるには、まだ早い。
飛び降りるには、危険が大きすぎる。
何より――
ここで身分を明かすことは、最大の悪手だった。
王女の護衛隊長。
それを悟られた瞬間、
この馬車は「交渉の場」ではなくなる。
ならば――
今は、時間を稼ぐ。
護衛隊長は、視線を落としたまま、
指先だけを動かした。
小さく、だが、はっきりと。
控えろ、まだ動くな。
軍部で使われる、最小限の手信号。
第三王女は、すぐにそれを捉えた。
馬車の揺れの中でも、
彼女の視線は冴えている。
一瞬、まばたきを二度。
了解、合図を待つ。
れだけで、十分だった。
「……何を、パタパタしてるんだ?」
御者の声が、苛立ちを含んで響く。
フードの奥から、
不信の気配が滲み出る。
「さっきからよ。
妙な動きが多すぎる」
護衛隊長は、動じない。
「揺れが強い。
馬車に慣れていない者がいれば、
体勢を整えるのは当然だろう」
「へぇ……」
御者は、鼻で笑う。
「だがな、
その“当然”が、
やけに手慣れてるんだよ」
続けて、低い声。
「……なぁ、
このまま何かあったら、どうなると思う?」
手綱が、きゅっと引かれる。
馬が嘶き、
馬車が大きく揺れる。
「この速度で転べばよ、
何が起きるかくらい……
想像できるだろう?」
それは、脅しだった。
しかも――
実行可能な脅し。
第三王女の指が、
わずかに強張る。
だが、彼女は動かない。
護衛隊長は、
第三王女の返答を待たず、口を開いた。
「……随分、乱暴な運転だ」
声は低く、
だが、震えはない。
「客を乗せた馬車で、
その言葉が出るとは思わなかった」
御者は、愉快そうに笑う。
「客?
ああ、そうだったな」
一拍。
「だがな、
俺たちは“客”を運んでるつもりはねぇ」
護衛隊長は、
あえて一歩踏み込む。
「……なら、何だ?」
沈黙。
そして――
御者は、わざとらしく肩をすくめた。
「商品だよ」
その言葉が、
馬車内の空気を凍らせる。
第三王女の目が、
一瞬、細くなる。
だが――
まだ、動かない。
護衛隊長は、
再び、指先だけを動かした。
もう少し。
追いつく。
第三王女は、
ゆっくりと息を吐き、
わずかに顎を引いた。
了解。
御者は、
二人の沈黙を、勝利と勘違いしたらしい。
「賢いねぇ。
大人しくしてりゃ、
痛い思いはしなくて済む」
手綱が、再び強く引かれる。
馬車は、
夜の奥へ――
さらに深く、突っ込んでいく。
だが。
その背後では――
確実に、距離が縮まっていた。
蹄の音。
一つではない。
御者の耳が、
わずかに動く。
それに気づいた瞬間――
護衛隊長の視線が、鋭くなった。
(……来た)
合図は、
もうすぐだ。
「――その馬車、止まれ!」
夜を切り裂くように、
張りのある声が飛んできた。
護衛兵の一人だ。
追いついた――いや、
追いつきかけている。
護衛隊長は、瞬時に外の気配を読む。
蹄の音。
一つではない。
間違いなく、味方だ。
だが。
御者は、振り返らなかった。
「……ちっ」
舌打ち一つ。
次の瞬間、
鞭が振るわれた。
馬が嘶き、
速度が、さらに上がる。
「構わず行け!」
外から、別の男の声。
「止まるな!」
馬車は、命令に従うかのように、
石畳を蹴り、闇へと突っ込んでいく。
「……さて」
御者の声が、
どこか楽しげに響いた。
「街を抜けた頃が、山場かね」
その言葉に、
護衛隊長の目が、細くなる。
――街を抜ける。
つまり、
人目がなくなる。
つまり、
何をしてもいい場所だ。
護衛隊長は、
静かに身を乗り出し、
外を覗いた。
街灯は、
もうまばらだった。
建物の影が長く伸び、
道は、次第に細く、暗くなる。
そして。
馬車にぶら下げられたランプが、
大きく、激しく揺れていた。
光が、
不規則に跳ねる。
闇と光が、
交互に、視界を切り刻む。
(……まずい)
この揺れは、
単なる速度の問題ではない。
意図的に、荒い走りをしている。
転ばせる気だ。
護衛隊長は、
第三王女を見ずに、
指先だけを動かした。
次で動く。
合図は――
第三王女は、
その意味を、正確に受け取った。
揺れる馬車の中で、
彼女の重心は、すでに低い。
恐怖はない。
あるのは――
(……ここね)
覚悟だけだ。
外から、
再び声が飛ぶ。
「止まれ!
これ以上は――」
その声は、
鞭の音にかき消された。
馬車は、
街の境を越えようとしている。
ランプが、
大きく、
一際、強く揺れた。
まるで――
合図のように。
護衛隊長は、
深く息を吸う。
そして。
(……今だ)
この夜の、
山場が、始まろうとしていた。
護衛隊長は、外の闇を睨み据えていた。
――この先だ。
この道は、整備が甘い。
石畳は途切れ、土がむき出しになり、
ところどころに轍が残っている。
馬車で全速を出す場所ではない。
それを、彼は知っていた。
その時、外から声が飛んでくる。
「……ここだな」
追走していた護衛兵の一人が、
道の状態を見て、確信した声だった。
――ここは。
兵たちが、訓練で使う場所。
馬から落ちる練習をする区画。
速度を保ったまま、
落馬し、体勢を立て直す訓練。
それを知っている者だけが、
ここを“使える”。
「さすがですね、隊長」
あえて、護衛兵は声を上げた。
わざとだ。
聞かせるために。
「これ以上は、草丈も高いし、
道も荒れますよ!」
さらに続ける。
「あまり飛ばすと、
危ないんじゃありませんか?」
その声に、
御者が鼻で笑った。
「心配してくれているようだな」
だが――
その直後。
「……おっと」
馬車が、大きく跳ねた。
車輪が浮き、
車体が軋む。
「たしかに、
車輪が跳ねるな」
声に、
わずかな苛立ちが混じる。
護衛隊長は、
その揺れを、逃さなかった。
(……そろそろだ)
馬車が、
再び跳ねる。
ランプが大きく揺れ、
影が乱れる。
その瞬間。
「――では」
護衛隊長の声は、
驚くほど静かだった。
「失礼して」
次の瞬間、
護衛隊長は、御者に飛びかかった。
一切の無駄がない。
肘。
肩。
手首。
御者の体勢が、
一瞬で崩される。
「――いでででっ!?」
悲鳴が上がる。
「おい!
やれ!!」
外から、
慌てた声。
「まじかよ!」
焦りが、
はっきりと混じる。
「しょうがねえな!!」
その叫びと同時に、
御者――いや、
馬車主は、
無理やり体を捻り、
手綱を強く引いた。
急旋回。
馬の首が、
強引に引き寄せられる。
馬車が、
大きく傾く。
地面が、
視界いっぱいに迫る。
第三王女は、
その瞬間、低く身を落とした。
護衛隊長は、
即座に彼女の前に立つ。
衝撃が――
来る。
だが。
それは、
彼らが狙った瞬間でもあった。
闇の中で、
複数の影が、
同時に、
跳んだ。
急旋回。
世界が、横に引きちぎられた。
護衛隊長は、考えるよりも先に動いていた。
第三王女の身体を引き寄せ、
抱きしめるように、覆いかぶさる。
「――っ!」
言葉にならない息が、喉から漏れた。
草丈の高い場所だった。
柔らかい下草が、
ほんのわずかに――
衝撃を殺した。
それでも。
どん、と。
馬車全体に、
骨まで響く衝撃が走る。
第三王女は、一瞬、
天地が逆転した感覚を覚えた。
上か、下か。
前か、後ろか。
分からない。
ただ――
身体が宙に浮いたような感覚と、
次の瞬間、
強く引き戻される圧。
護衛隊長の肩と背中が、
激しく、
容赦なく、
内壁に叩きつけられた。
「……っ!」
鈍い音。
だが、
その衝撃は、
すべて、第三王女の前で止まった。
護衛隊長は、
王女の頭を、
胸に押し付けるように抱きしめている。
視界は、
布と、鎧と、
彼の身体だけ。
外の音が、
一瞬、遠のく。
第三王女の額に、
護衛隊長の鼓動が伝わる。
――早い。
――だが、乱れていない。
(……守られている)
その事実が、
遅れて、胸に落ちてきた。
さらに、
もう一度。
がしゃん!
馬車が、完全に横倒しになる。
中の物が、
一斉に転がる。
それでも――
第三王女の頭は、
揺れなかった。
護衛隊長の腕が、
一切、緩まなかったからだ。
彼の背中が、
盾になっている。
第三王女の頬に、
護衛隊長の外套が擦れる。
土と、草と、
鉄の匂い。
「……大丈夫ですか」
声は、
耳元で、低く響いた。
それは問いであり、
確認であり、
祈りでもあった。
第三王女は、
短く、しかしはっきりと答える。
「……ええ」
その一言で、
護衛隊長の腕に、
ほんの一瞬、力が戻る。
外から、
怒号と、
蹄の音と、
金属のぶつかる音が聞こえる。
だが――
この小さな空間だけは、
まだ、時間が止まっていた。
護衛隊長は、
王女の頭を、
胸に抱いたまま、
動かない。
王女を守る。
それだけが、
この数秒間、
世界のすべてだった。
護衛隊長の声は、
衝撃の余韻の中で、ひどく静かだった。
「……すいません」
抱きしめていた腕が、ゆっくりとほどける。
だが、完全に離れることはしない。
第三王女が自分の足で立てると確信するまで、
距離は、半歩以上は開かなかった。
「私の不注意のせいで……
このような事態を招きました」
その言葉は、
誰に向けた弁明でもなかった。
自分自身への断罪だった。
草の上に横倒しになった馬車。
砕けたランプ。
揺れる影の中で、
護衛隊長は深く頭を下げる。
「申し訳ありません」
声は、震えていない。
だが、その静けさが、
かえって重かった。
「私には……
護衛を司る資質が、欠損していたようです」
第三王女の目が、
はっきりと見開かれる。
護衛隊長は、なおも続けた。
「結果として、
殿下に剣を抜かせ、
夜の街に身を晒させ、
そして――」
視線が、
倒れた馬車へと向く。
「このような衝撃を、
受けさせてしまった」
拳が、わずかに震える。
「これで……
お役御免となる事でしょう」
その言葉は、
覚悟の宣告だった。
自分がどうなるかではない。
そうあるべきだという、
軍人としての結論。
その瞬間。
第三王女は、
一歩、前に出た。
護衛隊長の胸元に、
はっきりと視線を向けて。
「……それは」
声は低い。
だが、
迷いはなかった。
「私が、決めることよ」
護衛隊長の目が、
わずかに揺れる。
第三王女は、
倒れた馬車でも、
地に伏した敵でもなく、
護衛隊長その人を見ていた。
「あなたは、
私を庇った」
短い言葉。
「転ぶと分かっていて、
私を抱きしめて、
背中で受けた」
一歩、近づく。
「それを、
“資質の欠如”と呼ぶのなら――」
第三王女は、
はっきりと言い切った。
「この国の護衛は、
誰一人、務まらないわ」
外で、
剣の音と怒号が交錯する。
護衛兵たちが、
すでに制圧に入っている。
だが、
この二人の間には、
まだ静寂があった。
護衛隊長は、
言葉を失っていた。
第三王女は、
最後に、
ほんの少しだけ声を和らげる。
「……顔を上げなさい」
それは命令ではない。
信頼の確認だった。
「あなたは、
私の護衛隊長よ」
夜風が、
草を揺らす。
壊れた馬車のそばで、
役目を失うはずだった男は、
まだ、そこに立っていた。
――守った者として。




