第1王女の憂鬱2
控えの間には、静かな空気が満ちていた。
壁越しに聞こえてくるのは、外庭で行われている軽い訓練の音。木剣が触れ合う乾いた響きが、一定のリズムで流れてくる。その合間に、ぱたん、と一冊の書物が閉じられた。
第一王女は机に両肘をついたまま、視線を落とし、肩から力を抜くように長く息を吐いた。
「……はぁ」
その小さな吐息を聞き逃さず、壁際に控えていた護衛隊長が、わずかに姿勢を正す。声は控えめだが、確信を帯びていた。
「深いため息ですね。三回目です」
第一王女は、指先で書物の背をなぞりながら、視線を逸らしたまま応じる。
「数えなくていいんです。癖みたいなものです」
護衛隊長は否定せず、しかし一歩踏み込む。
「不満がある時の殿下の癖でしょう?」
図星だった。第一王女は一瞬だけ唇を噛み、視線を上げる。
「……そんなにわかりやすいですか、私」
護衛隊長は即座に答えず、ほんの一拍置いてから、静かに言った。
「ずっとおそばにおりますので」
その言葉に、第一王女の口元がわずかに緩む。自嘲とも、安堵ともつかない小さな笑みだった。
「……なら、言ってしまいますけど」
椅子から少し身を起こし、第一王女は天井の方へ視線を投げる。直接誰かを見るより、その方が言葉を出しやすかった。
「どうして私は、“どの国のお妃になるのか”もわからないまま、三つの国の言葉と宗派と作法を覚え続けなきゃいけないんでしょうね」
護衛隊長は口を閉ざしたまま、答えを急がない。その沈黙が、かえって許しのように感じられた。
第一王女は、堰を切ったように言葉を重ねる。
「北の敬語は硬すぎて喉が痛くなるし、南の言い回しは語尾が伸びて、歌っているみたいだし……」
言いながら、無意識に喉元に手を当てる。
「自国では“らしくない”って言われるし」
一度、言葉を切り、息を整えてから、低く続けた。
「“どの国へ嫁ぐかわからないから全部覚えろ”って……そんなの、ただの道具みたいじゃないですか」
最後の言葉は、怒りというより、疲労に近かった。
護衛隊長は否定も遮りもせず、ただ正面から受け止める。
「そのお気持ちは、もっともです」
剣を帯びた男の声は、珍しく柔らかかった。
「ですが……殿下が努力しておられるから、この国はまだ“道具のように扱われない”でいられるのです」
第一王女は驚いたように瞬きをし、護衛隊長を見る。
「……どういうことです?」
護衛隊長は視線を外さず、静かに続ける。
「もし殿下が何も学ばなければ、大国は力で選ぶでしょう。従順な第一王女を、です」
第一王女の指先が、わずかに強く握られる。
「しかし殿下は、三つの文化を理解し、言葉を操り、宗派の違いを正確に扱う。その姿そのものが、“価値ある存在”であることを示しています」
第一王女は、言葉を噛みしめるようにゆっくりと繰り返した。
「……価値、ですか」
「はい」
護衛隊長は一歩も動かず、断言する。
「使い捨てではありません。“選ばれるべき人物”として扱われる。殿下が学んだすべてが、殿下自身を守っているのです」
第一王女は、無意識に胸元へ手を当てた。
「……守って、いる……」
「ええ」
護衛隊長は、剣に軽く手を添えながら言う。
「言葉や作法は鎧になります。私の剣も殿下を守りますが、殿下自身の“知”は、それ以上の盾でしょう」
しばらくの沈黙。
第一王女は深く息を吸い、そして静かに吐いた。
「……少し、救われた気がします」
護衛隊長は、ほんのわずかに頷く。
「それはようございました」
だが第一王女は、苦笑とともに首を振る。
「でも、やっぱり不満はあります」
「承知しております」
そのやり取りを、廊下の曲がり角で、第六王女は足を止めて聞いていた。
盗み聞きするつもりはなかった。ただ、声があまりにも真っ直ぐで、通り過ぎられなかった。
(ああ……そうか)
胸の奥で、何かが腑に落ちる。
控えの間の中で、第一王女は視線を伏せたまま、ぽつりと言った。
「私、できれば……自分で、選びたかった」
その言葉が、第六王女の胸に静かに落ちる。
「どの国へ行くか、どんな人と生きるのか……ほんの少しでいいから、私の意思で決めてみたかった」
護衛隊長は、声の調子を変えずに応じる。
「殿下の“意思”は、必ずどこかで生きます」
揺るぎのない断言だった。
「たとえ婚姻が決まっていようとも、生き方を決めるのは殿下です。第一王女である前に、殿下は殿下です」
第六王女は、その言葉を、息を止めて聞いていた。
――第一王女である前に、人。
控えの間で、第一王女はゆっくりと頷く。
「……隊長。いつか、本当に私が折れそうになったら、その時も支えてくれますか?」
護衛隊長は即答だった。
「当然です。私は、そのために剣を持っています」
第一王女は、視線を落としたまま、静かに答える。
「……ありがとう」
やがて侍女の声が廊下から響く。
「講義の御支度が整いました」
第一王女は立ち上がる。
護衛隊長も、自然にその半歩後ろに並ぶ。
「もう少しだけ、隣で歩いてください」
「喜んで」
二人の足音が、並んで遠ざかっていく。
曲がり角の影で、第六王女はしばらく動けなかった。
けれど――
次に歩き出す時、彼女はもう、何も知らなかった頃の自分ではない。




