空を見上げて
街の中は、王城の静謐で整然とした空気とは違い、自由があった。息を吸い込むだけで肩の力が抜け、心が少し軽くなる。
「ねえ、隊長。さっきから、周りばかり見ていますけれど――」
第六王女は肩をすくめるようにして隊長を見上げた。長いマントの裾が石畳に触れ、かすかな布擦れの音を立てる。護衛隊長はぱっと目を上げ、王女の瞳を見返す。
「……職業柄、つい」
「一度くらい、空も見上げてみません?」
王女の言葉に、護衛隊長は目を細め、ゆっくりと視線を上げた。冬の空は雲ひとつなく、澄み渡っている。青の濃淡が町の屋根や樹木の緑に映え、通りを歩く人々の声や匂いと絶妙に溶け合っている。
「空、ですか……では。雲一つない、良い天気でございますね。視界も開けていますし、人の流れも、落ち着いているように見えます」
王女は頷き、石畳を踏む足音を意識的に少し軽くする。冬の風が頬をかすめ、髪を柔らかく揺らした。
「ええ、本当に。こんなにきれいに晴れていると、『今日は何も起きませんでした』って一日で終わっても、許されそうですわ」
護衛隊長は、普段の緊張感から解き放たれたように一瞬口元を緩める。
「……そういう日も、悪くありませんね」
王女は小さく微笑み、目を細めて空の青を見つめた。
「城の窓から見る空って、どうしても“背景”みたいでしょう?」
「……はい。額縁の中にあるような、空です」
「でも町の空は、人の声や匂いと混ざっていて……ちゃんと『上にある』って感じがします」
護衛隊長は静かに頷く。空の青が頭上で広がり、通りを歩く人々や店先の活気が柔らかく包まれているのを感じる。城で見る空とは違う、生きている空気と一体化した空。
「……なるほど。確かに、城で見る空とは違いますね」
王女は微かに肩をすくめる。冬の空気に赤く染まる頬に、柔らかく微笑みが浮かぶ。「……隊長。もし、今日が無事に終わったら、この空の色、覚えておいてくださいな」
護衛隊長は視線を空に戻し、しばし静かにその色を心に刻む。
「……分かりました」
「次に胃が痛くなった時、『第六王女と、変な一日を過ごしたな』って思い出せるように」
「……変な一日、ですか。確かに、印象には残りそうです」
王女は足元の石畳を見つめ、くすっと笑う。
「大丈夫。それだけで、少しは楽になりますから」
護衛隊長は少し息を吐き、穏やかな気持ちが胸を満たすのを感じる。
「……覚えておきます。その時は、今日の空も一緒に」
王女はちらりと隊長を見やり、いたずらっぽく眉を上げる。冬の陽光に映える瞳は、普段の王女の威厳とは違う、軽やかで柔らかな輝きを帯びていた。
「……殿下は今、身分を隠されているも同然です。人の視線が軽くなる分……距離感を誤る者が出る恐れがあります。無遠慮な距離で近づかれる可能性も否定できません。変な輩が寄ってこないか、注意は、怠れません」
「……ふふ」
護衛隊長は肩をすくめる。
「……やはり、そう来ますか」
「そう言われると思っていましたわ」
王女は少しだけ身を寄せ、風に揺れるマントを整える。
「でも隊長、その言い方、さっきより声が柔らかいです」
「……そう、でしょうか」
「注意しているのは分かりますけれど、もう『叱る側』じゃなくて、ちゃんと『一緒に歩いている人』の声ですもの」
護衛隊長は少し顔を赤らめ、言葉を選ぶ。
「……意識はしていませんでしたが。そう聞こえるなら、結構です」
王女は口元に小さく笑みを浮かべる。
「もちろん、警戒は大事です。変な輩が寄ってきたら……その時は私、全力で“何も知らない町娘”を演じますわよ?」
「……演技、ですか」
「転びそうになって、『ごめんなさい!』って言って、隊長の背中に隠れますから」
護衛隊長はすぐさま想像し、視線を下げつつも心の中で計算する。
「……その位置なら、確保できます」
「……だから、その時は。剣より先に、一歩だけ前に出てください」
「……承知しました」
王女は通りの向こうを見やり、満足げに頷く。
「大丈夫ですわ。今の隊長なら、ちゃんと出来ますもの」
護衛隊長は肩をすくめ、口元を引き締める。
「……過信はなさらぬよう。ですが、努めます」
「それに――私の方も、ちゃんと周りを見ていますから」
護衛隊長はゆっくりと頷いた。冬の空気が二人の間に柔らかく流れ、街のざわめきは遠く、しかし確かに心地よく耳に届く。王女の仕草や言葉に、隊長の警戒心も少しずつ和らぎ、同時に緊張の糸は解けずに張りつつあった。
「……ええ」
二人は再び歩き出す。マントの裾が石畳をかすめ、風が髪を揺らす。町の空気、通りの匂い、冬の光の冷たさと温かさ。すべてが、この一日の、そして二人の奇妙で心地よい距離感を包み込んでいた。
そして、護衛隊長の心に、確かに刻まれる。
「……しっかり、覚えます」
王女の視線と街の空を、柔らかな冬の光を、そして何気ない仕草や微笑みを――すべてを。




