リラックス
冬の朝の光は柔らかく、町の石畳を淡く照らしていた。商人の声が通りにこだまし、屋台からは焼きたてのパンやスープの香りが漂う。小さな子どもたちが通りを駆け回り、足音と笑い声が混ざり合う。王城の厳かな空気とは違い、町は自由で、息が自然に吸える場所だった。
「ふぅ……やっぱり町は落ち着きますわね」
第六王女は肩を軽く落とし、長いマントの裾を石畳に沿って揺らした。息を整えながら、目を細めて周囲を見渡す。護衛隊長は王女の横に立ち、言葉少なに頷いた。
「……はい」
王女の瞳には、町のざわめきや色彩が映り込んでいる。店先の干し魚や果物、煉瓦色の壁や木製の看板――すべてが生きているようで、王城の整然とした廊下とは全く違う。城では、一歩踏み出すごとに呼吸を揃え、体の動きを抑え、言葉も選ばねばならない。ここではその必要がない。風や人々の声が、肩の力を自然に解いてくれるのだ。
「……隊長、今みたいな時間、嫌いじゃないでしょう?」
護衛隊長はしばらく考え込むように目を細め、慎重に答えた。
「……嫌い、というほどでは。むしろ、落ち着かないだけで」
王女は微かに笑った。唇の端がわずかに上がり、穏やかな光が瞳に宿る。
「ふふ、でしょうね」
二人は歩調を揃えて進む。粉まみれのマントが石畳に軽く触れ、ほのかに麦や土の匂いが混ざる。王女は台車や市場の店先を見渡し、自然に手を伸ばして扉を押す。護衛隊長はその後ろで、王女の動作の一つ一つを無意識に観察していた。
「……城とは、勝手が違います」
「お姉様はね、『こうあるべき』を一つずつ積み上げて歩く人ですもの」
「……はい。背中で示される方です」
王女は柔らかく笑い、肩越しに隊長を見上げる。「……だから、私みたいに粉まみれになって走り回る王女は、きっと想像もしていないでしょう」
「……想像はされていないかと。少なくとも、私は」
「でも――初めてで、なんとも言えないって顔」
「……自覚はあります」
「それ、悪くありませんわよ」
「……そうでしょうか」
王女は台車や街路を見渡しながら、淡く微笑む。
「慣れなくて戸惑っている人の顔って、城ではなかなか見られませんから」
「……確かに。皆、慣れている顔をします」
王女は足を止め、護衛隊長を真っ直ぐに見つめた。
「ねえ隊長、正直に言っていいですわよ」
護衛隊長は一瞬言葉に詰まる。王女の視線は柔らかいが、どこか探るような鋭さも帯びていた。
「……では。正直に。戸惑っていますし、落ち着いてもいません。ですが――……悪くは、ありません」
王女は軽く息を吐き、目の端で隊長の顔色を窺う。
「楽しいです? それとも、胃が痛いです?」
「……正直に申し上げますと。難しさの方が先に立ちまして、楽しむには少し時間がかかりそうです」
「……なるほど」
「自分でも、そう感じています」
王女は肩を揺らしながら微笑む。
「それは、とても隊長らしい答えですわ」
「……そうでしょうか」
「難しさが先に来る、ということは、ちゃんと『守ろう』としている証ですもの」
「……はい。そのつもりでは、あります」
王女は周囲の町並みを眺め、石畳の隙間から芽を出す小さな草や、壁に刻まれた人々の手の跡に目を止める。これらは、城では決して見えない、生活の痕跡であり、時間の重みを教えてくれるものだった。
「何も考えずに楽しめる人は、最初から危ういです」
「……確かに。油断は、隙になります」
二人は少し歩幅をゆるめ、並んで進む。粉まみれの袖が石畳を掠めるたび、風が柔らかく舞い上がる。王女の呼吸は深く、穏やかだが、どこか胸の奥には日常の緊張が残っている。護衛隊長もまた、その空気を吸い込み、胸の奥の緊張を意識していた。
「でもね。時間がかかる、でいいんです」
「……そう言っていただけると、助かります」
「今日すぐ楽しまなくても、『なんだったんだろう、あれ』って、あとで思い出すくらいで、ちょうどいい」
「……後から、ですか。それくらいの距離感なら」
王女は一瞬、微笑みを押し殺すようにして、遠くの通りの人々を見つめる。
「お姉様と……第一王女と私を比べて頂いてもいいですよ。私は、もう、比べられるのには慣れていますから」
「……失礼しました。無意識でした」
「でも今は、『こんな王女もいる』。それだけ覚えてもらえたら、私は十分ですわ」
護衛隊長は目を伏せ、深く頷いた。冬の冷たい空気の中、石畳に反射する朝の光を受けて、王女の輪郭が柔らかく輝く。胸に温かさが広がり、長く歩き続けた疲れとは別の、心地よい疲労感が全身に染み渡った。
「……はい。しっかり、覚えます」
王女の肩越しに、護衛隊長の声が低く、しかし確かに響く。街のざわめき、粉や土の匂い、石畳の冷たさ、そして王女の柔らかな仕草──そのすべてを、胸に刻むようにして。




