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パンの香り

街の空気は、焼き立ての香ばしい匂いで満ちていた。石畳の上を二人が歩くと、足元で小さな埃が舞い上がる。窓から差し込む朝の光に、粉雪のような小麦粉が舞っているのが見えた。第六王女は迷いなく、パン屋の扉に手をかけ、軽やかに開けた。鈴の音が小さく鳴る。


店内は、木の香りと小麦の匂いが混ざり合い、温かい空気が漂っていた。裏手には発酵中の大きな木鉢が並び、鉄板の上では小さなパンがぷっくりと膨らむ。粉の香りに、二人の呼吸も自然と深くなる。


「はい、第六姫様、粉をふるってね。ほら、ダマにならないように」


おばさんの声に、王女はすぐさま手を伸ばす。柔らかい布巾で粉をふるうその動作は、無駄なく手慣れていて、見ている護衛隊長の目が思わず釘付けになる。


「任せて。これは得意よ」


幼い頃、こっそりここでパンを丸めた記憶が蘇る。王女である自分は手を汚してはいけない、と諭されるたび、つまらなさに眉をひそめていた。しかし今、彼女の指先は生地を愛おしそうに扱い、自然な笑みを浮かべている。


護衛隊長は息を飲んだ。細い腕が小麦袋を軽々と持ち上げる。見た目に反して、王女には力がある。いや、力以前に、王女が小麦袋を担いでいるという事実そのものが異様であり、目の前の光景が信じられなかった。


「そっちの騎士さん、焼き上がったパンを運んでおくれ。籠は重いから、気をつけてね」


「わ、私が運ぶのですか……」


第六王女はくすくす笑う。


「はいはい、隊長。強いんでしょう? これくらい、できるわよね?」


その期待を背に、護衛隊長は籠を持ち上げた瞬間、予想を超えた重みに身体がぐらりと傾く。奥から無口なパン屋の大将が現れ、肩を軽くぶつける。背中に伝わる衝撃は、挑発なのか挨拶なのか判断に迷うが、王女の前では怒れない。大将は無言のまま、生地の具合を確認し続ける。


「このパン、城にも届けてもらっていますのよ」


王女の言葉に、護衛隊長は息を呑む。


「なっ……!?」


城の食卓に届く“幸福の香り”は、こうして無骨な職人の手から毎朝運ばれていたのか。納得と共に、胸が温かくなる。第六王女は小さく微笑み、粉まみれの手で丸めたパンを次々とトレイに並べる。


「ほら六姫様、そのパンに切れ目入れてごらん。そう、もっと大胆に!」


「こう?……よし、できた!」


彼女の笑顔は、城で見る厳かな表情とは違う。無防備で、楽しげで、しかしどこか孤独の影も帯びている。護衛隊長はその姿に、ふと心を揺さぶられる。ここが王女にとっての「もう一つの居場所」なのだろうと、静かに理解した。


「隊長、汗、拭かなくていいの?」


「殿下こそ……粉まみれでございますよ」


「それも勲章よ。ここでは、美味しいパンが焼けること。その一つの目標のために、皆で一生懸命作業する。それだけ」


店内には焼き立ての香りが立ち込め、二人の呼吸も自然と深くなる。台車には運べるだけのパンが積まれ、外の朝の光を浴びる。町の子どもたちの笑顔が浮かび、王女の心がほんの少し軽くなる。


「さて……次は、このパンを配りに行きますわよ。町の子たち、待っていますから」


護衛隊長は軽く肩を落とす。「ま、まだあるのですか……」


「あるわよ。今日は長い一日になりそうね、隊長」


第一王女の警護とは違う。剣と盾で守る日々ではなく、粉まみれになり、重い籠を運ぶ日々。だが、護衛隊長の胸には、不思議な充足感が芽生えていた。


二人は台車を押し、路地を抜ける。道端の小さな影が朝日で伸び、町のざわめきに混ざる。王女の手元だけを見つめながら、言葉は自然と紡がれる。


「私が“与える側”にならないため。だから私はまず手伝います」


護衛隊長もまた、自然に言葉が出る。


「並んで働けば、言葉も変わりますな」


「ええ。粉の匂いに紛れて、本音が出てくるのです」


やがて町の裏道を抜け、次の目的地――孤児院へ向かう準備を整える。王女は台車を指さし、笑みを浮かべる。「今日もお願いしても?」


「は。町娘の荷物持ち、務めさせていただきます」


粉まみれの手と汗が混じる。だが護衛隊長は知っていた。これこそが、王女の意志であり、民と繋がるための歩みなのだと。

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