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着替えの意味

 朝の光が市場の石畳に差し込む。空気はまだ冷たく澄んでいて、通りを歩く人々の足音や馬車の車輪の音が、柔らかく響く。魚屋ではせわしなく包丁が板を叩き、パン屋では香ばしい匂いとともに子どもたちの笑い声が溢れていた。


「よし、行きましょ。次の家にも寄りたいの」


第六王女は手に軽く荷物を抱え、踵を返す。肩の動きが小気味よく、顔には期待と好奇心が浮かんでいる。


護衛隊長は軽く眉をひそめ、声を潜める。


「次、でございますか……」


「まだ序の口よ。今日は『特別な日』なんだから」


護衛隊長は心の中でため息をつく。特別な日――その響きに、なぜか嫌な予感しか浮かばなかった。市場の喧騒は、王女の軽やかな足取りとは対照的に、護衛の神経を研ぎ澄ませる。


「いつものところに行きます。ついて来なさい」


第六王女は迷いなく進む。護衛隊長は一歩遅れてついて行き、問いかける。


「どちらへ向かわれるのですか?」


第六王女はにっこり笑い、肩越しに軽く答える。「ついてくればわかるわ」


護衛隊長の眉はさらに寄る。――不安しかない。城の外のことなど、まだ学ぶことが多い身で、王女の行動一つが国の均衡に影響するかもしれない。


「……あの洋服を借りに行く家は、一体どのような繋がりが?」


第六王女は歩きながら、指で空気を軽く払うように動かす。


「ふふ、気になりますわよね。あのお家は、昔から城と『直接つながっていた家』ではありません。むしろ、その逆ですわ」


護衛隊長は足を止めて彼女を見つめる。石畳の上で、彼女の影が長く伸びる。


「私がまだ小さかった頃、あの家のおばさんのご主人が城下の倉庫番をしていました。戦の後で、物資が不足していた時期です。帳簿の上では『足りていない』ことになっていた物が、実際には子どもや病人の口に回っていたの」


「……規則違反、ですな」


「ええ」


第六王女の声は柔らかいが、力強さがあった。


「だから、誰かが見て見ぬふりをしなければならなかった……その『誰か』が、父上でした」


護衛隊長は唇を引き結ぶ。


「王としての判断、ですか」


「公には褒められない。表彰もできない。でも罰もしない。ただ配置換えをして、それ以上、表に出ないようにしただけ」


第六王女は軽く微笑むが、その瞳の奥には戦後の冷たい現実が映っている。


「ご主人は病で亡くなりましたけれど、残った家族は町に根を下ろして、今も暮らしています」


「私があの家に行くのは、恩返しというほど大げさなものではありません。ただ、『あの時、見なかったことにした命』が、ちゃんと今も続いているか確かめに行っているだけ」


護衛隊長はその言葉に胸を打たれる。王女が、城の外に出る意味、それは単なる視察や名目ではなく、確かな責任の象徴であった。


「だから、王女の衣装では行かないのです」


第六王女は肩に軽く掛けた布を握り、微笑む。


「借り物の服で、同じ高さの目線で」


護衛隊長の目は鋭くなる。


「……あの家は、王家に忠誠を誓った家ではありません。それでも、王家が守るべきものの中にある」


第六王女は街の人々の声に耳を傾けるように、一歩踏み出す。


「それが、あの家との繋がりですわ」


朝の光の中で、彼女の影は石畳に長く伸び、護衛隊長はその背中をしっかりと見守った。王女は、城を出て民と触れ合う意味を自ら背負いながら、今日も静かに歩いていく。


朝の光が柔らかく差し込む通りを、二人はゆっくり歩いていた。石畳の感触が靴底に伝わり、馬車の車輪の音や市場の喧騒が耳に届く。人々の声が遠くから近づき、遠ざかる。そのざわめきが、護衛隊長の神経をひそかに緊張させる。


「着替える意味は……危険に巻き込まれる確率が上がります」


護衛隊長は王女の横に立ち、目を細める。日の光に照らされる第六王女の横顔は、城の中で見るのとは違い、自然で軽やかだ。


「……ええ」


第六王女は柔らかく頷き、肩越しに護衛隊長をちらりと見た。口元に微笑みを浮かべるが、その目には真剣さが宿る。


「その通りです、隊長。王女の装いを捨てれば、守られているという『合図』も一緒に消える」


彼女の声は街の音に溶け込みながらも、どこか響き渡る。薄手のワンピースの裾を軽く押さえ、歩幅を揃える。


「巻き込まれる確率が上がる……それは、分かっていますわ」


護衛隊長は唇を引き結ぶ。


「それでも、あえて」


「ええ」


第六王女は目を細めて笑う。


「それでも、着替える意味は――『狙われる理由』を減らすこと、です」


街角の影に人影が揺れ、彼女の言葉が現実味を帯びる。


「王女だと分かれば、近づくのは忠誠か、打算か、敵意か。いずれにせよ、『目的を持った人間』だけになります」


護衛隊長は眉を寄せ、短く息を吐く。


「……危険の質を変える、ということですか」


「はい」


第六王女は少し身を乗り出すようにして、視線を前方に向ける。「危険は増えます。でも、種類が変わるのです。王女として狙われる危険は、鋭く、計画的で、致命的。町娘として巻き込まれる危険は、鈍く、突発的で、止められる余地が残る」


石畳に並ぶ小さな影が、二人の足取りに合わせて揺れる。「だから私は、あなたのいる時にだけ、町娘になります」


彼女の声が少し柔らかくなる。


「……無謀だと判断なさるなら、今日は戻りますわ。最終判断は、護衛隊長であるあなたの役目ですから」


護衛隊長は一瞬ためらい、深く息をつく。


「……承知しました」


二人は市場を抜け、薄暗い路地へと歩みを進める。朝露で湿った石畳が足元で冷たく、護衛隊長は思わず肩をすくめる。


「お古の洋服に袖を通すことに、抵抗はありませんか?」


第六王女は手元の布を指でなぞりながら、目を伏せる。


「……抵抗、ですか。正直に申しますと――最初は、ありましたわ」


城で用意される服は、硬く、誰かの体温や生活の痕跡がない。


「正しくあるための服」ですもの。でもあの家の服は違った。袖口が少し柔らかく、動きやすく擦り切れている。


「誰かが生活した証です」


第六王女は軽く笑みを浮かべる。


「お古に袖を通す、というのは、その人の暮らしに一瞬だけ、席を借りること。それが、とても贅沢に感じられるのです」


護衛隊長は横で息を飲む。王女の指先が布を撫でるたび、街の喧騒が遠のくように感じられた。


「……それに、この袖の感触を知っていると、城に戻った時、自分が何を守っているのか忘れずにいられますから」


「第一王女は、ご存知なのでしょうか」


第六王女は軽く頷く。


「……ええ。細かい行き先までは、きっと聞いていないでしょうけれど。それでも、私が町に出ている理由も、そのやり方も、最初から分かっています」


護衛隊長は視線を下ろす。王女が歩きながら前方を見据える姿は、城内で見た威厳とは違い、どこか頼もしさと孤独が混ざっている。


「もし今日、何かが起きていたら。真っ先に叱られるのは、私ではなく――あなたと一緒に、お姉様の前に立つことになりますわよ?」


第六王女はふっと笑う。目の端に光が差し込み、街の影と共鳴する。


「覚悟は、よろしいですか」


護衛隊長はわずかに肩を震わせ、声を絞り出す。


「……承知しました」


二人の足音が石畳に柔らかく響き、朝の市場のざわめきと交じり合う。第六王女はふと視線を上げ、屋根越しの空を見つめる。自由であることの責任を、胸の奥で強く抱えながら、今日も歩みは止まらない。

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