03.僕の過去
僕は中学一年の初夏に異世界に拉致られた。
そのときのことを思い出そうとすると、血色の静止画がランダムな紙芝居のようになる。
僕自身は直接的に痛めつけられる前に救出されたけれど、百八十度衆人環視の檻の中で裸で見世物のようにされ、排泄も何もかもを見られた。
そんな恥ずかしさよりも何よりも、目の前で何人もが生贄として殺されていく光景をえんえんと見せられ、次は自分だと恐怖に陥り、僕の心は壊れた。
残虐な行為が繰り広げられ、それを見てゲラゲラ笑い、酒宴が繰り広げられる異常な世界。
あの異常な世界から助けてくれたのは父だった。
夢だったんだ。
そう思いたかった。
けれど、そう思い込むには僕に僅かに残っていた理性の欠片が冷静かつ現実的だった。
救出され、日本に帰還できた僕は喋れなかった。
心因性失声症。
同時に外出することに恐怖を覚え、対人恐怖症に似た状況にも陥り、父や救出時の数人以外との接触を強く拒否した。
異世界に拉致られたのは朝の通学途中。
道に倒れていた自転車と通学鞄を見つけた人が警察に連絡。自転車の登録と鞄の中身を改めた情報から警察が学校に連絡し、学校から父と母に連絡があり、そこから事件になった。
人通りは多くもなければ少なくもない住宅街での事件。目撃者なし。残念なことにその近辺に防犯カメラはなく、僕は忽然と消えた。
父には学校以外に警察からも連絡が行き、僕が行方不明で、誰かに攫われた可能性があると知らされた。
その当時の僕や未だに母も姉も知らないことだが、警察組織の一員である父の本当の仕事は異世界との対応。
息子が誘拐されたかもしれない連絡に動揺しつつも、職業病のように「まさか召喚された?」と思ったらしい。誘拐でもなく召喚でもなくひょっこり帰ってきてくれと祈りながら、異世界召喚が発生していないか照合するため秘密裏の組織──異世界対応特殊部隊に連絡。
ビンゴだった。
普通なら警察官の家族や親族が犯罪に巻き込まれた場合、捜査の公平性や客観性の担保、警察官自身の精神的保護もあって担当から外される。なのに父自らが僕を助けに来てくれたのは、いくつもの異例が重なってのこと。
あとから清水さんや富田さん、先輩たちが教えてくれた。
実は最後の最後は父と父を慕う仲間による強行突破で、事情と状況の切迫さもあって一番上の人も目を瞑ってくれたんだって。
僕は大阪で行方不明になり、一週間後に東京の奥多摩の山の中で発見されたことになっている。
心因性失声症とパニックを起こしていて、本人から話が聞ける状態になく、警察内部のデータベース照合で大阪で行方不明の男子と合致。父が駆けつけてくれた──ことになっている。表向きは。
母は僕が行方不明になってから寝るに寝られず、加えて何の情報もないことで心労で三日目にダウン。姉が母に付き添い、一時的に父と別行動となったタイミングで父は強行突破作戦へ。父が母と姉から離れて単独行動できるよう、父だけでなく父の仲間もそうなるように仕向けたんだと今ならわかる。
保護された僕は、母を見ても姉を見てもブルブル震え、言葉は出ず、奇声をあげて床に縮こまるばかり。
そんな僕を見た母は、無事に僕が生きていることを知った安堵と、僕の酷い状態にショックを受けて倒れてしまった。
中学校は休学。
僕は保護された病室から出ることを拒み続けた。外に出たらまたあの異常な世界に拉致られると思い込んでしまっていた。
そんな様子もあって僕の治療は保護された東京で継続。そこは特殊部隊が異世界から救出した人たちのケアをする場所で、表向きは病院。
一週間くらい両親と姉はホテルから見舞いに通い続けていたが、延々その生活ができるはずもなく、とくに姉は高校に通わなければならない。
どんな話し合いがあったのかは知らないけれど、母と姉は大阪に帰り、父が東京に残った。
異世界対応を任務とする特殊部隊の本部は東京。父は前々から打診されていた役職へ昇進する覚悟を決め、僕の事件が起きた翌年の春に正式に警察庁警備局の参事官になった。そして、宿舎を用意してもらったのにずっと僕の病室で寝泊まりしてくれた。
何人もの医務職員さん、特殊部隊の方々が僕のことを見守ってくれたけれど、清水さんと富田さんがいなければ、僕の心は戻ってこれなかったかもしれない。それくらいお世話になった。
僕が行方不明になった事件は一般報道はされなかったけれど、さすがに住んでいた地域と通っていた中学校付近では噂が広がる。
僕が小学四年生のときに大阪に引っ越して、周囲とも馴染んできたのに、僕の事件のせいでコソコソ噂話が絶えず母と姉は居づらさが積み重なってしまった。父もたまに帰ると噂好きの近所の方に囲まれる。そんなこともあって、姉が通っていた高校への通学距離に支障がないところ引っ越した。
何の理由かは覚えていないけれど、僕の事件があろうがなかろうが、それまで住んでいた公務員宿舎の賃貸住宅から出る予定をしていたらしく、前倒しで引っ越ししたと聞かされている。
僕が言葉が出せるようになるまで半年くらいかかっただろうか。
外に出るのもおよそ半年。やっと自分で病院の中庭に出ることができたとき、日差しを浴びた感覚に涙が出た。
僕が病室の片隅で蹲っている間に、大阪で通っていた中学校から東京のとある中学校に転校手続きされていた。
今ならわかる。そうしてくれてよかった。
僕の治療の終了時期は不透明で、通っていた学校に復帰できる見込みはなかった。
あのまま大阪の中学に在籍していたら、卒業アルバムに僕だけ顔写真を丸囲みで載ることになり、同級生たちが卒業アルバムを見返すたびに集合写真の隅の僕の顔写真を見て事件を思い出すことになっただろう。
表向きは誘拐されて一時的記憶障害の僕。
それだけなのに心ない噂はあるもので、何かのときにポロッと零した姉の言葉で、姉が僕の同級生たちに腹を立てていたのも知っている。
声を取り戻した頃から病室で勉強を受けた。フリースクール制度を利用したもので、今ではイラッとさせられることが多いあの大先輩、関根さんが丁寧に教えてくれた時間はとても優しかった。
転機は僕が中学三年生になる前の春。
付き添い人がいれば病院から徒歩十五分くらいのところにあるスーパーに行けるくらい回復して、『このままずっと病院にいちゃだめだ』程度だけど、自分の未来のことを考えることができるくらいにはなった。
けれど不安もあった。
異世界に行った記憶を失くす措置もある。
けれども『洗脳』や『記憶剥奪』は、他の通常の記憶にも障害が起きるリスクがあって、父から「勇人が誰にも言わないなら施したくない」と告げられ迷っていた。
異世界のことを誰かに言ったところで、頭がおかしいとしか思われないだろう。小説や漫画の読み過ぎではと呆れられるだけだと思う。
そう思っても、この秘密を抱えて生きていく──。覚悟まではまだだった。
よく覚えている。
その日は雨で、関根さんが雑談しに来てくれていた。
ドタバタと騒がしくなって病室に飛び込んできたのは父。その後ろから父の仲間がなだれ込んできて、父を羽交い締めで取り押さえるという珍事。
「勇人は一般人だー! そうだ! 名前を変えよう! 名前を変えれば!」
「参事官そんなことをしても無駄ですから!」
「落ち着いてください!」
父は支離滅裂に絶叫しながら僕の病室に飛び込んできて、すぐさま父の仲間が取り押さえて連れ出していった。
僕は父の叫びにきょとんとしてしまったけれど、関根さんの顔は強張っていた。
特殊部隊の仕事は危険と隣り合わせ。
異世界に召喚されてしまった人を助けるだけでなく、ときには異世界で戦わねばならない。グロテスクな状況も多く、異文化に接して気が狂いそうになることもしばしば。
そういう特殊な任務に就ける人材は非常に奇特で、採用試験や面接で探し出せるものでもない。
それを補うのがいつの時代からあるのかわからない異能を与えられる者を選ぶ秘術。
その秘術が特殊部隊に就ける者だと僕の名前を挙げた──。
そのことを知った父は、息子を自分と同じ任務に就かせたくないと半狂乱になったのだ。
紆余曲折あったけれど、僕は僕の意思で特殊部隊で働きたいと告げた。
父は物凄く反対した。
父も今となっては特殊部隊の最高責任者と言える立場だが、だからこそ身内が、息子がこの任務に就くことに感情的に反対。父に号泣されたが、僕は父を目指したいと思ったんだ。
僕はあの異世界の残酷かつ残虐さを目の当たりにして一度は心が壊れた。
けれど僕は僕を取り戻せた。
つらい任務に就いている人たちが、時間の隙間があれば僕を見守り、勉強を教えてくれて、笑顔を取り戻してくれた。
こういう人たちになりたい。
僕を助けてくれた父はかっこよかった。
誰かを助ける一人に、なれるなら、なりたい。そう思った。
特殊部隊メンバーになる適性審査を受け、父は「落ちろ、落ちろ」を呪詛っていたけれど、無事に採用されることになった。
異能を授ける任命式は恐れ多くも天皇陛下。異世界との対応は古来は陰陽師が担っていたなんて表の歴史では知らない事実だった。
「己の命を最優先としなさい。未来にあなたの解職を言える日があることを望みます」
死ぬな。
本来なら言うのことができない陛下の私の言葉。
言外に込められた陛下の心に、頭を垂れた。
僕の任命式が終わってからの父はがらりと気持ちを変え、上司として、先輩として、僕のことを特殊部隊の一員として扱ってくれるようになった。
親子で特殊部隊の任務に就くなんて陰陽師が活躍していた時代でもあんまりなくて、父が公私の間で葛藤するのは普通。それがわかるからこそまわりも僕のことを特別扱いしないし、僕も特別扱いなんて求めていない。
母と姉には、まだ一人で外に出ていく気持ちが追いつかないなどと理由付けて、高校は通信制を選択。
通うことのなかった東京の中学校の卒業を機に、僕と父の生活空間と化していた病室からも卒業した。
弟を心配していた姉は、僕の事件をきっかけに医者を目指して大学に進学している。僕たちと一緒に暮らせないかと東京の大学も考えていたようだけど、最終的には大阪の大学に進学したので、父と僕が東京、母と姉は大阪というお互い同意の別居生活が継続中。
父と僕が住んでいるのは、父が参事官に昇進して、東京で暮らすために用意された公務員宿舎。
父がだいぶ偉い立場になって、緊急呼び出しもあるから職場に行き来しやすい場所で用意してもらったと聞いた。僕もまだ定期的に通院することになっているから、母と姉は病院にも近くていいと安堵してたっけ。
異世界から帰還して治療監視室から移動した仮眠室で、タブレットをいじりながら先週受けた物理の復習をしていたけれど、今日までのことをぼんやりと思い出してしまった。
異世界から無事に帰ってきたことが、それより前の異世界に拉致られたときのことを呼び起こしてしまったのだろう。思い出すとヒュッと腹の奥が冷えるような感覚に陥るけれど、もうパニックは起こさない。
僕は僕を取り戻した。
これからの僕は異世界と戦っていく。
通常退勤時間よりも少し早い時間に不調がないなら帰宅してよしとなり、父と一緒にスーパーに寄って帰宅できた。
帰宅できるとわかったときに母と姉に連絡して、二人とも久しぶりの家族団欒に承諾だったので、約束していた時間に家のパソコンを起動して、お互い画面越しで夕食だ。
『なーんか父さん太った?』
「座っているからだろう。着ぶくれだ、着ぶくれ。美亜こそ、どうしたその髪は。思い切ったな」
『でしょー! ばっさり切っちゃった!』
姉の言葉を即座に否定した父だけど、お腹がちょっとぽっこりしてきていると思う。
クスクス笑う母の表情も明るい。
平凡な日常。
これがとても贅沢だとしみじみしてしまう。
『世の中が夏休みになる前にそっちに行こうと思うの』
「いや、新幹線は俺が手配するから盆明けでもいいか?」
『そう? それならパート先にも相談しておくわ』
「ああ、いつでも来ていいって言えなくてすまんな」
「そんなこと気にしないで」
父は本当の仕事の内容を母と姉に言っていない。いや言えない。
母も姉も父のことは警察の偉い人という認識だけ。でも任務の内容を言えないことを理解しているから、リアルに会う機会が少なくても文句はない。
しかし、母が来るなら部屋を片付けねば。
画面には映っていない洗ったけど畳まずそのまま放置している服たち。そういえば掃除機っていつかけたっけ?
ゴミだらけの汚部屋ではないけれど、あれこれ片付いていない部屋をチラリと見て、父と僕は掃除を頑張らなきゃと通じ合ったのだった。




