19.賭けに勝つ
ベランダに出る窓を開けて下を覗いたけれど、いつもの風景。
音の発生源はベランダ側じゃなかったということは、建物の角の向こう。
何の音だったのか想像できる。智也くんのご両親が乗ってきた車がなにかにぶつかった。僕の住むこの公務員宿舎の外周の壁が被害にあった可能性大。せめて人や他の車などにぶつかった音じゃないことを祈りたい。
外だと智也くんを呼ぶ声がはっきり聞こえる。
『靄』の悪影響の問題関係なく、異常行動にしか思えない。
他のマンションやアパートのベランダにも何だ何だと外を覗く人が出てきて、道にも人が出てきている。
「勇人」
父に呼ばれて振り返ったら、父が智也くんを抱き締めていた。両手で耳を塞いでいる智也くん。
部屋に戻って窓を締め、父と代わって智也くんを抱き締める。智也くんより僕のほうが小さいから父のような安心感は与えられないけれど、僕が智也くんを抱き締めたら僕の背に手を回してくれた。
「誰が来ても応答しなくていい」
下に向かう父に頷いて答える。
僕と智也くんの頭に大きな手のひらを乗せて、父の背を見送った。
「大丈夫。父さんに任せておけば、大丈夫」
「う、ううっ」
智也くんを抱き締めて、慰めることしかできない僕が歯がゆい。
そう思いながら、病室の隅で震えていた僕はどうだったか。抱き締めてくれた温もりがどれだけ安心だったかと思い出す。僕が僕じゃなかったあのとき、父にも母にも姉にも、清水医師にも富田医師にも、春日先輩にも関根大先輩にも、こういう歯がゆい思いをさせていたんだ。
でも、その温もりたちが僕を取り戻す力となったのも事実。
「僕ね、智也くんのご両親は心の病気だって思う。その、さ。ギャンブル依存症とかも病気でしょ? えっとお酒を飲みすぎちゃう病気も。何ていうか、ご両親は智也くん依存症って病気なんだよ」
変なことを言い出しちゃったけど、親権問題とか持ち出されたらアウトで家を出られないって聞いた。でも、今まさに異常なお母様の様子を知っちゃうと、あれで智也くんの親権ウンヌン言われても、正しい判断能力がある大人じゃないって突っぱねられないかって思う。
そのあたりは父や僕のまわりの大人のみなさんがよく知ってる。
異世界から救出した後の対応で、保護した先の家庭が育児放棄しているとか、この前の厨二病全開だった子は学校でいじめ問題があったとか。現実生活に戻すときに調べて、そのまま帰したらだめなときは行政側に手を回すこともある。
智也くんは異世界からの救出保護対象者じゃないけど。いや、そうだ、『靄』! 『靄』が悪さして、ご家庭環境を壊したから保護! これなら特殊部隊が裏で手を回せるんじゃないかな?
って、僕が思いつくぐらいだから父はもうその方向で考えて、何なら動いてくれていそう。
それならあと僕ができるのはこうして智也くんと一緒にいること。あと……、結局『靄』のことに戻ってきてしまう僕。
細く長くなってこっちに向かっていた『靄』。ご両親もここに辿り着いてしまったから、また『靄』が智也くんに纏わりついてしまった気がする。
『靄』の残滓は何度捕獲して取り去っても、本体があるとエンドレス。
ご両親のところに向かった父はどう考え、どう動くのか。
僕は何をすれば智也くんを守ってあげられる?
ドンッと玄関扉を叩きつける音がして二人して体が強張った。
「いるんだろ! 出てこい!」
叫ぶのは男性の声。智也くんのお父様だろう。
お母様の声が一緒に聞こえないから、父はお母様のことを捉えたけれど、お父様の突入を許してしまったんだと想像。そしてこういうこともあるだろうから、「誰が来ても応答しなくていい」と言って出ていった。
「アーッ!」
「智也くん! 大丈夫! 外の父さんに任せれば大丈夫だからね!」
智也くんがパニック泣き。床に蹲ってブルブル震える智也くんをどうにかこうにか引っ張って、玄関から一番遠い僕の部屋に押し込む。
丸まってしまっている智也くんの頭にタオルケットを被せて、少しでの遮音になるように。
『靄』の残滓はあとで取ってあげるね。
今、僕の敵は、玄関だ!
「心配ないからね! 父さんに連絡、って、スマホ取ってくる!」
そう言って智也くんに声をかけて、リビングまで走ってポケットからレシートを取り出して握る。
接触せずの『靄』の捕獲の成功率は低い。
でもやってやる! やるっきゃない!
玄関扉がドンドンと叩かれ続ける。
迷っている暇はない。
玄関の内側に体の前面をできる限りくっつくように押しあてる。
『靄』が蠢く範囲にいたとしても憑いている人と接触せずの捕獲成功率は、物凄くよく見積もって五割。一割すら言い過ぎかもしれないくらい成功率は低い。
でもやる。
この日常の生活で発動できる異能は限られているから、異能の無駄遣いはできない。『鑑定』したいけど、もうやる!
きっと『靄』は智也くんを目指して伸びている。扉の向こうの智也くんのお父様が『靄』本体に憑かれているのかがわからないけれど、そう仮定すると、今、僕は『靄』が広がっている中にいるに違いない。
扉の厚さが最短距離。すぐそこ。
ドンと扉を叩かれたその瞬間に異能を発動! 来い!
全神経を集中させて『靄』を捕まえる。
焦って逃げられたり霧散されないように慎重に。
見えない敵を想像しながら、ずるりと引っ張り出すイメージで。
吐き気を催す嫌な気配が僕の体を侵すように広がっていくが、我慢だ! 我慢だ! 吐き気を飲み込み奥歯を噛み締める。
逃がすもんか!
実際はおそらく三秒もかかってない。
それが数十分もかかったように思うくらいの疲労度。
「……っ! はっ」
呼吸するのを忘れていた。
異能で捕獲した『靄』が、今、僕の中にある。
ジタバタ暴れている感じがする。
これ、きっと、本体だ。
成功した!
異能疲労で手足に力が入らない。ずるずると玄関の扉を伝って床に座り込みそうになるけど、歯を食いしばって動く。
あんなに何度も叩いていた音がなくなり、玄関の外がピタリと静かで、扉の向こうの智也くんのお父様がどうなったのかも心配だけど、僕は智也くんを一人にしておけない。戻らなきゃ。
這って戻ろうとしたらピンポーンと玄関扉の横のインターホンが鳴って、悲鳴を出しそうだった。
「五十嵐さーん、大丈夫ですー?」
インターホンから聞こえてきた声の人がわからない。誰? 隣の部屋の人じゃない。お隣さんが帰って来るには時間が早い。
「下の階の、えーと、斜め下の遠藤ってもんです。……留守かな? つか、このオッサン。大丈夫なのか?」
下の階の遠藤さん。会ったことないけど、父が下の階に住んでいるのは警視庁勤めの人ばかりって言ってたような気がする!
「あ、あの!」
「あ、ボクがいらっっしゃる?」
キッチンにあるインターホンの応答機まで行くのは無理だと思って、扉越しに玄関の外に叫んだら、ちょっと安心した声が返ってきた。はい、僕がいます!
「こここ、こ、こわ、くて」
「あ! いいよ、いい、開けなくていいから。お父様は?」
「ししし、した、下に行って」
「あー、んー……、息はあるが反応ねぇな……。あ、外のね、男性が伸びちゃってるから、救急呼ぶね」
「え? え?」
「いい、いい、お父様が戻るまで開けなくていい。……あっ、はい、救急、救急をお願いします。えっと倒れた男性がいまして──」
智也くんのお父様が倒れた? なんで?
遠藤さんは僕と扉越しに会話しながら救急に電話しちゃったけど、多分警視庁の人だし、倒れてしまったという智也くんのお父様の状態を見てくれているのは言葉からわかった。
任せよう。
僕は、智也くんのところ!
足がブルブル。無理、立てない。四つん這いで僕の部屋に戻ろうとしたら、タオルケットを握りしめた智也くんが部屋から出てきちゃった。
「な、なに、な、な」
「と、父さんが戻るまで、出ちゃだめだからね。外は警察の人が来てくれてる」
「ゆ、ゆゆ、ゆうと」
「……ちょっと、こわかっ……た、だけ」
怖かったのは本当。
智也くんのお父様が怖かったんじゃない。
『靄』が怖かったわけでもない。
智也くんの未来に影が差さないかってことが怖くて、今、外で起きていることがわからないのが怖い。
扉を叩いて叫んでいたお父様の声が聞こえなくなって、僕は四つん這いだし、混乱だよね。
ヘナヘナと座り込んだ智也くんに抱きつく。
さっきの『靄』の捕獲で全部だったらいいんだけど、智也くんに残滓は残ってない? 視る余裕はないから念のために捕獲するよ。
三枚目のレシートを握って、『靄』を捕獲する異能を発動したら、あったね『靄』の残滓たち! また気持ちの悪い気配が僕の体の中を侵すように暴れるけど、逃さないから!
この残滓とともに智也くんの悲しみも苦しみも、僕が取り除けたらいいのに。
突如の喧騒からいつもの静けさに戻って、玄関の外で対応してくれている人と、あ、父の声が聞こえてきた。
もう安心だー!




