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ニライカナイの夏  作者: 坂崎文明
第二章 オオモノヌシ編

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第十三話 氷川神社の謎

「メガネ先生、氷川(ひかわ)神社はやっぱり、素戔嗚尊(すさのおのみこと)八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した出雲の簸川(ひかわ)、今の斐伊川(ひいかわ)が由来ですか?」


 千堂薫(せんどうかおる)は前々から気になっていた氷川神社の由来をメガネ先生に訊いてみた。


「それはおそらく、後付のエピソードで、氷川(ひかわ)はもう一つの説である『()』は『()』でもあり、『カハ』は『泉または池』をあらわす古語なので、『冬に凍結する泉』または『霊験あらたかな泉』という意味が最初だったと思う。後に、武蔵野国造むさしのくにのみやつこに出雲系の国造が来て簸川(ひかわ)とかけて、そういう由来を広めた可能性が高い。武蔵野国一ノ宮の大宮氷川神社の鎮座地『高鼻』は、古代に見沼という巨大な沼の低地に突き出た大宮台地上にあり、古代からの湧水地だった。聖なる泉は古代の信仰の対象であり、おそらく、元々は『冬に凍結する泉』から『霊験あらたかな泉』という意味になり、氷川(ヒカハ)神社が転じて、氷川(ヒカワ)神社になったんだと思う。当初の見沼の水の神の信仰が素戔嗚尊(すさのおのみこと)櫛名田比売(くしなだひめ)大己貴神(おおなむちのかみ)への信仰に変わっていった」


 メガネ先生はそういう話をしながら、タブレットPCを出して、『()』や『()』などの漢字を画面に映して、丁寧に説明してくれた。

 

「なるほど、武蔵野国の支配者が変わることで、最初の意味に新たなエピソードが付け加えられ、由来が微妙に上書きされていく訳だ」


 薫も何となく永年の疑問が氷解したようだ。


「そうそう。もう少し遡れば、縄文海進の際に、この辺りまで海が入り込んでいて、その後、海水が引いていくと、見沼という大きな沼になり、それが江戸時代には湿地帯を田んぼに変える事業によって、見沼田んぼと呼ばれるようになっていく。氷川神社の摂社には「門客人(もんきゃくじん)神社」があり、江戸時代までは「荒脛巾(アラハバキ)神社」と呼ばれていた。アラハバキは東北地方などの縄文の神だが、『ハバキ』『ハハキ』の『ハハ』は蛇の古語なんだよね。『ハハキ』とは『蛇木(ハハキ)』あるいは『竜木(ハハキ)』であり、天に伸びていく大樹を蛇に見立てて、祭祀の中枢に置いていたという。つまり、蛇神信仰だね」

 

 メガネ先生はそこで一息、置く。


「ということは、蛇神を抑えるために、八岐大蛇を退治した素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭神に置いてるんだ」


 薫が目を輝かせながらいう。


「そうとも言えるんだが、櫛名田比売(くしなだひめ)の両親の足名椎(アシナヅチ)手名椎(テナヅチ)という名前そのものが、古語で『足の無い精霊』、『手のない精霊』という意味になり、手足がない精霊から発想すると、それは蛇の精霊かもしれないし、そもそも『ヅチ』自体が古語で蛇を意味する。蛇の呼び名、別称としては『虫、ツチ、ヅチ、ツミ、ハハ、ハバ、カ、カカ、カガ、ウカ、ウガ、ツツ、ミ、ナガ、オロチ』というものがあるので、気を付けないといけない。宇迦之御魂(ウカノミタマ)という神様もいるが、古語の宇迦(ウケ)は穀物、食物を意味するけど、食物、農耕、稲から大地の女神、蛇などの信仰との関連は濃厚で、結局は蛇神信仰に繋がっていく。頭が八つで尾も八つの八岐大蛇(ヤマタノオロチ)は出雲の簸川(ひかわ)の氾濫の象徴で、稲の神である櫛名田比売(くしなだひめ)は毎年、川の氾濫で田んぼが水害に遭うのを娘が攫われると例えたのかもしれない。素戔嗚尊(すさのおのみこと)はそれを防ぐ治水技術を持った人物なのかもしれない訳で。八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の『目はほおずきのように真っ赤、その腹は血に染まっていた』というけど、製鉄によって真っ赤に染まった川の比喩とも言える」

 

 メガネ先生こと服部信三郎(はっとりしんざぶろう)も流石にしゃべりすぎで疲れたのか、ここで一息ついた。

 話の反応としては、薫は楽しそうに聞いてるし、蛇腹泉(じゃばらいずみ)こと蛇娘さんも興味深く聴いてるが、橘怜(たちばなれい)坂本亮(さかもとりょう)君に至っては、少し居眠りしかけていた。

 黒鉄美里(くろがねみさと)は意外に熱心に聞いてるが、月読星(つくよみひかる)先生も連日の疲れか少し居眠り気味なのは仕方ないだろう。

 ルナ先生はもう熟睡していた。

 そんな光景を眺めつつ、森山涼介(もりやまりょうすけ)も眠い目をこすりながら必死に話を聞いていた。


「そうかあ。櫛名田比売(くしなだひめ)の両親の足名椎(アシナヅチ)手名椎(テナヅチ)が蛇神に仕える蛇の精霊である謎はちょっと解らないけど、出雲には根強い蛇神信仰があるのは分かった。縄文時代から蛇神信仰はあるし、水神、農業の神として、蛇神に仕える一族はいて、それを抑えたり制御するために、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の霊威を借りる神社が多いのも解りました。なんか凄く勉強になった気分です。メガネ先生にいろいろ話してもらって良かったです」


 という感想を薫は言いながら、かなり満足げだった。


「出雲やアステカなどで行われてた『生贄(いけにえ)の儀式』は一見、野蛮で残酷に見えるけど、自然の神々から恩恵を受けている人にとっては、その恩恵への『人としての精一杯の返礼』という意味もあるので、あながち間違いではなくて。それによって自然の神々をコントロールできるという呪術でもあった。ただ、古墳に古代の王と共に人が埋められる慣習も埴輪(はにわ)に置き換えられて行ったし、今では廃れてしまっている制度だけど、呪術の世界では何かを得るためには何かを捧げるという『等価交換』の原理は未だに根強く残ってるとも言えるね」


 メガネ先生はこの長めの講義をそんな言葉で締めくくった。

 それに対して、涼介が珍しく自分の意見を言い出した。

 

「僕は『生贄(いけにえ)の儀式』があった古代社会の縄文時代などの狩猟採集社会は単純再生産の循環型社会だと思います。それが、その仕組みが消えて行って、穀物とか日本では米という富が蓄積するようになって、その富の蓄積によって、人口が増え、経済が発展する成長社会になっていく。アステカなどで行われていた国家間であらかじめ取り決めて、戦士たちが戦う疑似的な戦争の『花の戦争』は一種の『生贄(いけにえ)の儀式』の発展形だと思う。『生贄(いけにえ)の儀式』というのはフランスの思想家のジョルジュ・バタイユなどが言っていた『普遍経済学』で言えば、穀物という富や人間さえ、いずれ、消費、消尽されないといけない。それが戦争とか経済崩壊になるか、それとも、『生贄(いけにえ)の儀式』や自然災害になるかは分からないけど、それが自然の法則であり、そういうもんなんだなと感じました。僕もよく分りませんが」


「涼介、話が難しすぎる」


 美里から突っ込みが入った。


「涼介はたまにはいい事をいう」


 薫からは意外に良い評価である。


「そうだね。経済人類学の過剰蕩尽理論というやつだね。結局、地球に降り注ぐ太陽エネルギーを単純消費するか、富として蓄積していって成長社会にして、戦争とか経済崩壊で盛大に大崩壊させるかの文明のスタイルの違いかな。諸行無常、形あるものはいずれ無くなってしまうからね」


 メガネ先生は悟りを開いた高僧のような解説をした。

 お釈迦様は偉かったという結論ですね。

 話が解りやすいと涼介は思った。

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