第三話 君に勝って良いのは私だけだ
コツ、コツ、と音が鳴る。
モリアーティが手に持つステッキが石畳を叩く音だ。
今日はよく晴れた休日。婚約者の王太子からの誘いもないし未来の手駒探しに行こう、と街に出たモリアーティだ。
モリアーティが謎解きによる人助けなんてやっているのはもちろん善行ではない。その犯人を将来の手駒とするためだ。
だからこそ、
「君の歩みは軽やかだな。どんな男でも見惚れてしまうだろう」
「ご冗談を」
「まあ私はそのステッキになにか仕込まれていても驚かないが。
例えば、剣とか」
「これはただのステッキですわ」
なぜか途中で自然な顔をして隣に並んできたこの名探偵すっごく邪魔、と思っている。
現在は子爵令息だが、今も諮問探偵みたいなことはやっているみたいだし。
なのでもしかして待ち伏せしていたんじゃなかろうな、と思っている。こいつそれくらいやりそう。
「モリアーティ嬢、そろそろどこかに寄らないかい?」
「あらいやだ、いつわたくしがあなたの連れになったのかしら」
「私としてはもう少しあなたと親睦を深めたくてね」
「ですから婚約者のいる身にそんなことを言うものではありませんわ」
そして外聞を気にしないところは前世から変わらない。
この男の生活、実際ひどかったからな。生活と外聞をまともに整えていたのはワトソン氏だ。
「その婚約が破棄されるかもしれなくても?」
「…デリカシーがありませんわね。
本人に直接言うものではなくてよ」
「失礼。あなたの美しさに目が眩んで」
「欠片も思っていないことを」
本当に外聞を気にしない。だが、喉が渇いたのは事実だ。
仕方ない。この男が同伴なのは癪だが、ホームズと情報交換をするのも一つの手だ。
「ではどこか良い店を知りませんこと?」
「ああ。いい店がある」
そう言ってホームズが案内したのはその道からそう遠くないカフェテリアだった。
店内に入るなり、自分を見てぎょっとした顔をした男にモリアーティは目を瞠る。
「あら、殿下。お久しぶりです」
そう、なぜか街中の庶民の店に、王太子であるカイルがいた。
いや、なぜかというのは愚問か、とその向かいに座る男爵令嬢カレンを見て思う。
いかにも「身分を気にしない」男爵令嬢が誘いそうな店だ。
「卑しい奴だな」
「は?」
「わたしたちをつけていたのだろう。
嫉妬深い女だ」
「いいえ、たまたま入ったら殿下たちがいただけですが」
いや本当に。嫉妬どころか若干存在忘れていたわ、と思う。さすがに言わないが。
「嘘を吐くな!」
「いいや、嘘ではありませんよ。私が彼女をこの店に誘ったのです」
不意にすっと前に進み出てモリアーティをフォローしたのはホームズだ。
「お前は…」
「ホームズと申します。カイル王太子殿下」
「聞いたことがない名前だな。どうせそこらの下級貴族だろう」
ふん、と鼻を鳴らしたカイルに、ホームズの目が輝いた。
「おや、これは好都合。
殿下は私があなたに求婚していることをご存じないらしい」
「それだけ噂に疎い御仁ということですね。王太子として嘆かわしい」
「なにをひそひそ話している!」
つい顔を見合わせて小声で話し合ってしまった。
だって未だに知らないってびっくりだよもう、とモリアーティ。
「改めまして申し上げます。
私はモリアーティ嬢に恋をしている者です」
「は…?」
「ですので、王太子殿下がそちらのご令嬢と結婚なさりたいのであれば、どうかモリアーティ嬢を私に」
「わたくしは了承していませんけどね」
「そうつれないことを言わずに。
幾千の星にも埋もれない輝きを放つあなたに、囚われた男の嘆きを聞いてください」
「お断りします」
「そんなところも素敵だ」
モリアーティの手を取って囁くホームズに、カイルはずっとぽかんとした顔をしていた。
本当に気づいてなかったんかいこいつ。
なんだかんだでカイルたちから離れた席に座ったモリアーティとホームズは頼んだ料理が運ばれてくるのを待ってカップを手に取った。
「うん、ここのコーヒーは美味しい」
「確かに、香りが良いですわ」
「でしょう?
あなたも気に入るかと思って」
「舌の確かさは褒めて差し上げます」
まあどうせ見つけてきたのワトソン氏だろうけどな、とか思っていると真摯(に見える)なまなざしを注がれた。
「モリアーティ嬢。
そろそろ本気で考えてはいただけないでしょうか」
「なにをです?」
「私の、この愛を」
「嘘くさいですわね」
「そう言わずに。あなたにだけ、信じて欲しいのです」
(嘘吐け! 脳味噌しか興味ないくせに!)
(ああ、そうだとも! 欲しいのは頭脳だけだ!)
同じレベルの頭脳の持ち主が故か、共に死線を彷徨った故か、なぜかアイコンタクトで意思疎通が可能になっていた二人であった。
その矢先に悲鳴が聞こえて、我に返ると視線をそちらに向ける。
悲鳴を上げたのは店のウェイトレスだ。
見やるとカイルと相席していたあの男爵令嬢がテーブルの上に倒れて呻いている。
「ど、毒、が」
「毒だと!? そうか、お前が盛ったんだな!」
息も絶え絶えに訴えたカレンにカイルがこちらを見て指さしてくる。
「この距離でどうやって彼女の食事に毒を混入するんですの」
「お前なら出来るはずだ!」
「なんですその理屈」
本当になんだその理屈、と思う。恋に目の眩んだ男の言うことなんてこんなものかもしれないがこのままでは殺人犯にされてしまう。
「まあモリアーティ嬢の頭脳を持ってすれば出来ないことはないだろうがね」
「ほら貴様の連れもそう言って」
「だがモリアーティ嬢なら、そんな致死量に全く満たない毒は仕込まないだろう」
「は」
不意に立ち上がったのはホームズだ。
彼は大股で彼らのテーブルに近寄ると、苦しげに喘ぐカレンを診て告げる。
「明らかに致死量に満たない毒だ。そんな量を仕込むなら、犯人はおのずと絞られる」
そう言ってカレンのバックを手に取り、その中から流れるように液体の入った小瓶を取り出した。
「あ」
「これが混入された毒だ。つまり、犯人はそこで倒れている男爵令嬢本人だ」
「そ、そんな馬鹿なことが」
「動機はある。この毒をモリアーティ嬢が仕込んだことにすれば、確実に君との婚約破棄に持って行ける。充分なメリットだ」
確かに充分なメリットである。モリアーティも同じ推理をしていた。
偶然出くわしたのにモリアーティを罠にかけるための毒を準備していたのは、モリアーティが人助けのためによく出かけていると知っていて、いつ偶然出会っても良いように常に持ち歩いていたのだろう。
「あ………」
カイルもその可能性に気づいて息を呑む。
「だが私はそんな真似を許さない。
私以外がモリアーティ嬢に傷跡をつけるなんて許さない。
モリアーティ嬢を上回っていいのは、この私だけだ」
凜々しい面差しでそう堂々と告げると、ホームズは紳士の所作でモリアーティの手を取った。
「行こうか、モリアーティ嬢」
「早くお医師様に見せて差し上げてくださいな。致死量でないとは言え、苦しいでしょうから」
ここは王太子に敗北を与えるために乗ってやる、とエスコートされたまま、モリアーティはそう告げてホームズと一緒に店を出た。
「別に助けてくださらなくてよかったのですよ。
あれくらいわたくしでもどうにか出来ました」
「だが、彼は君の言葉には耳を貸さないだろう?
私が言うほうが効果的だ」
店を出て道を歩きながら、口にしたモリアーティにホームズはさらりと返す。
「本気、ですのね。
本気でわたくしを娶るおつもりだと?」
「もちろん、それが私がこの世に生まれてきた意味だ」
「ずいぶん大きく出ましたわね。
それで、あなたが死ぬとしても、でしょうか?」
そう告げてモリアーティは視線を前に向ける。
道の向こうに佇むのは、モリアーティを陰で守るため尾行していたセバスチャン・モラン、フォン・ヘルダー、フレッド・ポーロックの三人だ。
彼らの穏やかではない視線を受け止め、ホームズは勝利宣言をするように微笑む。
「もちろん、必ず勝って君を手中に収めよう」
そう囁いてモリアーティの手を取り、手の甲にキスを落とす。
「我が愛しの頭脳よ」
最後まで頭脳しか見てないなこいつ、とモリアーティは心底思った。