第二話 ホームズの事情
シャーロック・ホームズはこの世界では子爵令息だ。
前世ではそうではなかった。中流階級の生まれで、貴族の彼にはとても身分では及ばなかった。
だからこの頭脳で彼を追い詰めた。
だが結局勝つことは敵わなかった。
結論としてライヘンバッハで彼を、モリアーティを殺すことでその野望を断つことは出来た。だが、彼の犯罪を立証することは出来なかったのだ。
「ああ、良い朝だ。死のう」
「待ってくれホームズ。突然起きてきて朝陽を見るなり不穏な発言しないでくれ」
ホームズ子爵邸の一室、起きてくるなりそうぼやいたホームズに同居状態になっていた青年がツッコんだ。
彼の名はジョン・H・ワトソン。前世からの相棒であり、この世界では男爵令息である。
「朝陽が眩しすぎるんだ。陽に焼かれてしまう。
私は太陽の下では生きられないんだよ」
「吸血鬼みたいなことを言うな」
「吸血鬼もこの異世界には存在しないんだね。がっかりだよ。
解剖してその仕組みを知りたかった」
「はいはい怖い目のままぼやいてないで紅茶飲んで」
ワトソンは椅子から立ち上がるとホームズの手を引いてソファに座らせ、その前のテーブルにカップを置きポッドからまだ温かい紅茶を注ぐ。
「ハドソン夫人が用意してくれたパンだよ」
テーブルには美味しそうな焼きたてのパンが並んでいる。
その一つを摘まんで口に運び、
「この世界は食事が美味しいね。イギリスときたらひどかった」
と呟いた。
「やめてくれ。生まれ変わってから飯の美味さを実感するたび、イギリスの飯のまずさに思いを馳せてしまうんだ」
「お互い様じゃないか」
そんなことを話しながら紅茶とパンを口に運び、ホームズは一息吐く。
「良い朝だ。死のう」
「だからやめろ」
「薬はどこだ?」
「させるか。なんのためにぼくが同居していると思ってるんだ」
がしっとホームズの腕を掴んだワトソンにホームズはよどんだ目で、
「モリアーティ教授を殺した時の夢を見た」
と告げた。
「…ああ、なるほど」
「彼が死んだ後のロンドンの空しさときたら思い出したくもない。
やはり彼のいないロンドンは退屈だった」
「じゃあ、なおさら死ぬわけにいかないだろう?
生きているモリアーティ教授と再会したんだから」
「そうなんだ!」
ワトソンの言葉にホームズはぱっと顔を輝かせ、立ち上がる。
「あの頭脳、あのふと見せる悪を魅了する微笑。
間違いなく彼女はモリアーティ教授だ!
教授に再会出来た今、死んでいる場合ではないのだよワトソンくん!」
「そうそう、その意気だ」
「ということで出かけてくるよ!」
「えっ、今から!? どこに!?
モリアーティ教授に会いに行くにしたって時間が早すぎ…!」
突然言い出したホームズにワトソンは驚くが、ホームズは笑顔で、
「大丈夫だ。つく頃には良い時間になっている」
と答える。
「って、どこに」
「先日子息が倒れたという、フォイック侯爵家だよ」
午前の十時過ぎ。フォイック侯爵家の門の前に佇んでいた令嬢の姿を見つけ、ホームズは喜び勇んで駆け寄った。
「モリアーティ嬢!」
「…ホームズ子爵令息。なぜここに」
「いや、ご子息の話を聞いてね」
「…相変わらず謎の気配を放置しておけない御方で」
「あなたこそ」
ホームズはモリアーティを見つめて声を甘くする。
「いつも謎のあるところにはあなたがいる。
なぜだろう」
「たまたまですわ」
「たまたま、ねえ」
「ええ。今日も父と親しい侯爵の元へお見舞いに参っただけですわ」
モリアーティがそう答えた時だ。門が開いて執事がこちらに会釈した。
「お待たせしました。当主がお待ちです」
「ありがとうございます。あと彼は」
「おお、お噂のホームズ子爵令息殿まで。
ご子息が倒れた理由について当主はひどく悩まれております。
どうぞお力となってやってください」
彼は客ではないので放っておいてください、と言おうとしたモリアーティは執事の言葉につい舌打ちをする。
ホームズがいい笑顔でモリアーティを見つめていた。
「おお、モリアーティ嬢とホームズ子爵令息!
待ちかねたぞ!」
客室に案内されると、室内で侯爵が待っていた。
「お招きに預かり光栄に存じます。それで侯爵、ご子息の容態は」
「良くないようだ。理由がわからず困っている。
そなたたちの知恵で助けてくれ」
「力を尽くします」
侯爵の頼みに淑女の礼で応えたモリアーティは、勧められるままソファに腰掛ける。
すかさずホームズも隣に座ったので軽く睨んでおいたが。
程なく執事がポッドと軽食を運んできた。
皿に載っているのはプティングで、置かれたカップに濃い色の紅茶が注がれる。
そして執事がそっと皿に置いてあった蕾の花を紅茶の上に置くと、花がぱっと開いた。
「まあ、素敵ですわね」
「うちの庭で栽培している花はどれも熱で花開くものでしてな。
こうして飲むのが習慣なのです」
「ご子息たちもこうやって?」
「ええ」
頷いた侯爵にモリアーティはカップを手に取って納得しながら紅茶を口に運び、味わった。
「ああ、いい香りですわね。紅茶の味が濃いから花の甘さもほとんど感じませんわ」
「そこが重要でしてな。花の中には苦みが出てしまうものもあります。
濃い味の紅茶はちょうど良いのですよ」
「なるほど」
「では軽食を終えたら、庭に出ましょう」
侯爵はそう告げて紅茶に口を付けた。
庭に出るとたくさんの花が見えた。
侯爵の言う通り、花が閉じているものが多い。
ふと見えたのは鳥籠のような形の温室だ。
「あちらは?」
「あちらはいけません!」
焦ったように声を荒げた侯爵にモリアーティは目を瞠る。
「ああ、失礼。あちらはまだ改良中の花がありまして、とてもお客人に目にかけるわけには」
「なるほど。承知しましたわ」
「旦那様、ヒューベルト様からご連絡が」
「ああ、今行く」
不意に執事が侯爵を呼び、侯爵は慌ててそちらに走って行く。
それを見送って、ホームズはモリアーティに小声で、
「どう思う?」
と話しかけた。
「どうもこうも、結論は一つですわ」
そう答えると見張りがいないのをいいことに、あの温室に近づき、扉を開けようとする。
だが鍵がかかっている。
「退きたまえ」
ホームズが進み出て、ピンを鍵穴に差し込むと手早く開けてしまった。
「どうぞ、レディ」
「あなた、犯罪者のほうが向いていますわよ」
「お互い様さ」
そんなことを話しながら温室の中に入る。
中に咲いていたのはどれも同じ紫の花弁の花だ。
一輪摘んでホームズは匂いを嗅ぐ。
「どうです?」
「ああ、君の推理に間違いはなさそうだ」
「決まりですわね」
そう顔を見合わせた矢先、大きな足音が響いてきた。
温室の中に飛び込んできたのは侯爵だ。
「ここに入ってはならないとあれほど!!」
「侯爵。ご子息が倒れられた理由がわかりました」
「え」
「ご子息はここの花を紅茶に乗せて飲まれたのですわ。
いつもの習慣のように。
それを、侯爵もご存じだったのでは?」
「…あ」
さあっと侯爵の顔が青ざめた。
「私を呼んだのは、警察を介入させないため。
優れた頭脳を持つと噂の私が調べてなにも出なければ、貴族の方々は納得するから、と。
残念でしたわね」
「し、しかしわたしはなにも…!」
「ええ、侯爵はなにもしておりません。ご子息もまたなにも知らずにやってしまった。
これは不幸な事故です」
モリアーティの言葉に侯爵がわずかに安堵の息を吐く。
「ですが、」
そう言い置いてモリアーティは続ける。
「ヒューベルト先代侯爵様の場合はどうでしょう?
同じように体調を崩され伏せっておいでだとか。
先ほどの手紙に花に関する追求が書かれていないかあなたは気を揉んだでしょう。
どうやら先代侯爵、あなたの叔父君はなにも気づかれていなかったようですが」
「…っ」
「あなたは先代侯爵に毒を盛る気はなかったのでしょうね。
あなたが毒を盛りたかったのは、同席していたサイモン侯爵でしょうから。
しかしなにかの手違いで先代侯爵が飲んでしまった。
この花の毒は遅効性。普通の医者では、病としか診断されないでしょう」
「…ぐっ」
モリアーティの言葉に悔しげに顔をゆがめ、侯爵はその場に膝を突いた。
「この花の毒だと言えば、彼らの命は助かるでしょうがあなたの犯罪も明るみになる。
あなたの名誉か、大事な家族の命か、お好きなほうを選んでください」
そう告げるとモリアーティは踵を返し、歩き出す。
「行きますわよ。ホームズ子爵令息」
「ああ、わかったよ」
モリアーティの言葉にホームズは頷き、一緒に邸宅を出る。
道を歩きながら、「目的が果たせなくて残念だったね」とホームズは告げた。
「なんのことでしょう?」
「私がいては、侯爵になにも言えなかっただろう。
そう、例えば『完全犯罪を実行したいならいつでも私に声をかけたまえ』とか」
「おやおや、失礼ですわね。それではわたくしが大悪党のよう」
「そう、君は大悪党だ」
ホームズはそう断言して、足を止めたモリアーティの少し前を歩くと立ち止まって振り返った。
「そして私はそんな大悪党の君を愛しているよ。モリアーティ教授」
そう告げて、ハットをかぶり直すとホームズは歩いて行く。
モリアーティがこちらを見据える怜悧な視線すら心地よかった。
「ただいま帰ったよワトソン君!」
「お帰り。いつになく上機嫌だね。ホームズ」
ホームズのためにすっかり居候となっているワトソンが庭の花の手入れをしながら帰宅したホームズを出迎えた。
ホームズは足早にワトソンに駆け寄って、
「やはりモリアーティ教授は私の愛したままの頭脳を失っていない。
これは最大級の喜びだ」
と目を輝かせて語る。
「ああこんなに嬉しいことはない。
なにしろ今度こそ、彼のあの優れた頭脳を生きたまま残すことが叶うのだから」
「…それでモリアーティ嬢に求婚しているのかい?
恋に落ちたとかではなく?」
「当然だろう。教授の長所なんて頭脳しかない」
「ばっさり言い切ったね君………」
ワトソンはちょっと引いた。確かに前世で聞いたモリアーティ教授は大悪党そのものだったけれど、だからってせめてもうちょっと手心をというか。
「本当に後悔したんだよ前世では。
ライヘンバッハから落ちた後、教授の脳はひどく損傷していてとてもホルマリン漬けにして保管出来る状態ではなかった。
そもそもホルマリン漬けにしたところで、あの頭脳が生み出す謎はもう二度と味わえないのだと教授のいない世界で思い知ったのだ」
「だから求婚を?」
「そうだとも。
結婚してしまえば教授の行動を制限出来る。
教授の恐ろしさはその頭脳のみならず、彼に従うセバスチャン・モラン大佐たち腹心の存在だ。だから彼らと引き離す。
そうすれば教授の脅威はかなり減らせるだろう」
真顔で語るホームズにワトソンはやや引きながら、
「ちなみに、その過程で教授に愛が芽生える可能性は…」
とか細く問いかける。
ホームズはきっぱりと、真剣そのものの顔で答えた。
「ないね! 頭脳の素晴らしさはともかく人間的に終わっているあの悪党に恋など百万回生まれ変わってもない!」
そもそも私は女性にも男性にも興味はないのだよワトソン君、と語るホームズを余所に、ワトソンはやはりモリアーティに同情した。