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第一話 モリアーティの事情

 煌びやかな舞踏会。そのホール。

 その片隅で不意に金切り声が響いた。

「あなたがわたしのネックレスを盗んだんでしょ!」

 その内容に舞踏会にいた紳士淑女たちも何事かと動きを止め、視線を向けた。

「ち、違うわ。わたし、そんなことしてない」

「じゃあこれはなに?」

 一人の子爵令嬢を責めているのは、同じく子爵家の令嬢。

 責めているのはビエネッタ子爵家の令嬢で、犯人扱いされているのがジョゼット子爵家の令嬢か。

 ビエネッタ子爵令嬢がジョゼット子爵令嬢のバックから迷いなく一つのネックレスを取り出す。それにジョゼット子爵令嬢が青ざめた。

「ほら、ここに動かぬ証拠があるわ」

「そ、それは、床に落ちていたからあとで届けようと…!」

「見え透いた嘘ね」

「なにが見え透いた嘘なのかしら?」

 ビエネッタ子爵令嬢の背後に控えた取り巻きの令嬢たちもジョゼット子爵令嬢を糾弾し、絶体絶命と思われたそのとき、割って入ったのは涼やかな女性の声だった。

「あ、あなたは」

 背筋を伸ばし歩いてきたのは真紅のドレスを纏った、結い上げた長い銀色の髪の令嬢だ。


「モリアーティ侯爵令嬢…!」


 ビエネッタ子爵令嬢の取り巻きの一人が青ざめる。

 とても家の階級で勝てる相手ではない。

「このネックレス」

 モリアーティはすっとビエネッタ子爵令嬢が持っているネックレスを手に取り、ぶら下がっている宝石を見つめる。

「これは、明らかなレプリカですわ。本物の宝石ではありません。

 こんなものを、資源が豊富な鉱山を持つビエネッタ子爵家の令嬢が持つでしょうか?」

「そ、それは、その」

「このレプリカはジョゼット子爵令嬢に盗まれたと、冤罪をかけるためのもの。

 もっと言えば、わたくし見ていましたわ。

 あなたがこれ見よがしにこのレプリカを落とし、ジョゼット子爵令嬢が拾うよう仕向けたところを」

「…うっ」

 モリアーティの言葉に青ざめたビエネッタ子爵令嬢は、「わたしの勘違いでした!」と大声で言って、取り巻きの一人に持たせていたグラスを手に取る。

「ああ、お待ちになって」

 もう用は済んだはずのモリアーティは、不意に取り巻きの一人が持っていたもう片方のグラスを手に取る。それにビエネッタ子爵令嬢が息を呑んだ。

「わたくしも喉が渇いてしまいましたの。これをいただいてよろしいかしら?」

「そ、それは…!」

 慌てて制止してきたビエネッタ子爵令嬢に、モリアーティは妖しく笑むと彼女に近寄って耳元で、


「本当はグラスを持たせた彼女に中身を飲ませることが目的だったのだろう?

 このグラスは元々君が持っていたもの。中に毒を仕込むことは容易い。

 犯行の動機は婚約者が彼女に好意を持ったことかな?」


 と囁いた。

 ビエネッタ子爵令嬢が息を呑み、真っ青になって凍り付いた。

「あの状況なら、君は疑われないものねえ?

 ジョゼット子爵令嬢への冤罪はその目くらましだったわけだ。

 だが甘いと言わざるを得ない」

「あ、あなたは」

「なに、本当に人を殺す覚悟があるなら私の元に来たまえ。

 誰の目にも確実な、完全犯罪の術を伝授してあげよう」

 妖艶な微笑を浮かべてモリアーティは告げると、ビエネッタ子爵令嬢から離れて歩き出す。

 不意にパチパチ、と拍手の音が響いた。

「見事だ。モリアーティ侯爵令嬢」

「またお会いしましたわね。ホームズ子爵令息」

「ああ、この日を私は一日千秋の思いで待っていた」

「まあ、見え透いた嘘を」

「本当だとも」

 ホームズ子爵令息と呼ばれた真っ直ぐな短い黒髪に碧眼の男は恭しくモリアーティの手を取るとその手の甲に口づけた。

「あなたほど素晴らしい花はこの世に存在しない。

 その頭脳の片鱗を垣間見られて歓喜しているよ」

「あら、無礼な。

 わたくしには婚約者がいるとご存じで?」

「だが、その王太子は今、どこぞの男爵令嬢に夢中だな」

 その言葉にモリアーティは眉をしかめる。


 誰が呼んだか、悪役令嬢。


 モリアーティをそう呼ぶ声が社交界には存在する。

 それも婚約者である王太子カイルがモリアーティを放って街で偶然出会った男爵令嬢と恋に落ち、彼女に夢中になっているからだ。

 身分違いの恋に憧れる貴族の子女たちは多い。そんな子女たちがその恋を「真実の愛」と呼んで応援し、邪魔なモリアーティを「悪役令嬢」と呼んだのだ。

「あなたも、わたくしを悪役令嬢と?」

「ああ、その呼び方もあなたに似合いかもしれないな」

 ホームズはモリアーティの手を握ったまま、愛おしげに見つめて、


「私はそんなあなたを愛しているのだ」


 それに周囲の貴族令嬢たちが黄色い歓声をあげる。

「やはりホームズ子爵令息がモリアーティ侯爵令嬢に恋をされているというのは本当でしたのね」

「でも身分が違いすぎるわ」

「あら、身分の差なんて王太子殿下とあの男爵令嬢に比べたら」

「それに先ほどジョゼット子爵令嬢を助けたモリアーティ様の凜々しさ、わたしあの方が悪役令嬢とは思えませんわ」

「わかります。そのような公明正大な方が王太子様の浮気で蔑ろにされるなんて」

「それなら身分が低くとも、ホームズ子爵令息と結ばれたほうが」

 好き勝手に話す貴族令嬢たちに、モリアーティの目が沼のようによどむ。

 目下、モリアーティの悩みはこれだった。




「全くなんだねあの名探偵は!」

 舞踏会の翌日、モリアーティは自宅である侯爵家の本邸のサロンで苛立たしげにテーブルを叩いた。テーブルに並んでいる紅茶の入ったカップとお菓子の載った皿がその衝撃で跳ねてカチャン、と音を鳴らした。

「おやおや、麗しのモリアーティ嬢。

 そうカリカリするものではないよ。花のかんばせが台無しだ」

「そうだね~。まあ古今東西、美人は怒った顔がより美しいというものだけど」

「やかましい。麗しいなんて思ってない顔で言うんじゃないよ。

 そっちの胡散臭い天才技師も」

 モリアーティがぎろりと睨んだ先には、サロンのソファに優雅に腰掛け紅茶を飲んでいる美青年と怪しげな胡散臭い男。

 片方はセバスチャン・モラン。国有数の貴族、モラン伯爵家の令息である。

 透き通るような金糸の短い髪、美しい海の色のような瞳、見事なしつらえの白を基調とした装束を纏った、多くの貴族令嬢たちを夢中にさせる色男。

 そのもう片方は腰以上に長い真紅の髪を細い紐で首の後ろで結った糸目のいかにも胡散臭い年齢不詳の男。

 名をフォン・ヘルダーと言う。

 モリアーティ家お抱えの天才技師だ。

「まあ、あのお二人は以前からああですから」

「お前もそうだっつってんの」

「ぼくは善良な執事です」

「曇りなき眼で嘘を吐くんじゃない」

 堂々とした態度で言い張るのはモリアーティが飲んで減ったカップに紅茶を注いだ年若い青年。銀髪の青年はどことなくモリアーティに面差しが似ている。

 それもそのはず。彼はモリアーティ侯爵が不義で作った子。言わばモリアーティの異母弟だ。

 それ故にモリアーティ家を継ぐことはあり得ない十六歳ほどの青年の名をフレッド・ポーロックと言う。

「全く、一体なんの因果だよ。

 ホームズの奴とライヘンバッハの滝で決着をつけて死んだと思ったら女に生まれ変わって、しかもロンドンでもイギリスでもない異世界で、しかもお前たちがいる上にあのホームズまで!」

「まあ僕たちがそろっているのはまだわかるとして、ホームズまでいるのは解せないですね。まあ決着をつけたって言ってもホームズ生きていたから教授は無駄死に…」

「そういう余計なこと言うから睨まれるんだよ君~」

「はい代弁ありがとうねヘルダー君」

 ぶつぶつとぼやいたモリアーティにモランが余計なことを言い、モリアーティに睨まれた矢先にヘルダーがツッコむ。

 かつて、よくあった光景だ。

 だがここはあのロンドンではない。モリアーティも50代の男ではなく、年若い貴族令嬢だ。

「で、どうするんです? モリアーティ教授」

「殺すんだよ」

「王太子を?」

「うん?」

「えっ?」

 不思議そうな顔をしたフレッドに、モリアーティは盛大に首をかしげる。

「あなたがいながら平気で浮気しているあの王太子は放っておいていいのかと言っているんですよフレッドは」

「あ、ああ。…王太子ね。そういえばそんなのいたっけ」

「完全に忘れてる~」

「王太子、存在感ゼロじゃないですか…」

 フレッドの言いたいことを言い直したモランにモリアーティはぽんと手を打ち、ヘルダーが愉快そうに笑い、フレッドがわずかに王太子に同情した。

「だってホームズと比べたらなんだっけ、あれ、日本のことわざ、ええと、月とゴキブリ」

「元よりひどくなってますよ教授」

「まあ、決まった婚約者がいながら浮気する男の扱いなんて女性から見たらそうだから」

「そういうモラン大佐は大層おモテになっているようですが」

「嫌だな。僕は全ての女性を慈しんでいるんだ。全ての女性は麗しい花だよ」

「聞いたかい? フレッド君。あれが女の敵って奴だよ」

「今実感しました」

 身も蓋も血も涙も神も仏もない例えをしたモリアーティにフレッドが更に同情し、フォローを入れたモランの主張にヘルダーがツッコみ、フレッドはうん、と頷く。

「でも、万が一にも気の迷いを起こす可能性はないんですか?

 ホームズと」

「はあ~~~~~~~~!?

 私が!? あのにっくきホームズと!? それ本気で言ってるフレッド君!?」

「ほら、あいつ顔だけはいいじゃないですか」

「君も大概言うヨネ」

 ぶっちゃけたフレッドにヘルダーが肩をすくめた。

「ない! あいつの顔がいくら良くてもない!

 あいつの取り柄は頭だけ!

 それ以外はマイナスのマイナスの薬ジャンキー!

 ワトソン君よくあんな奴の相棒やってられたよねってレベルの人の心のない名探偵!」

「まあ確かに彼は人の心がない」

「それには同意~」

「確かに人の心はない」

「全会一致で結論の出る人格破綻者に恋なんてするか!

 そもそもあいつだってねえ! 私に恋なんかしてないんだよ!」

 モリアーティの叫びにモラン、ヘルダー、フレッドが同意し、モリアーティはシャウトする。

「え、じゃあなんで彼、教授を口説いてるんですか?」

「そんなの決まってる」

 そう、据わった目でモリアーティは言う。




 いつも持ち歩いているステッキを手に、モリアーティは一人道を歩く。

 全く、見当外れにも程がある。あのホームズが自分に恋とかないない。

「おや、モリアーティ嬢」

「うげ」

 角を曲がったところで見た目だけは麗しい子爵令息に遭遇してモリアーティはつい率直な感想が口を吐いた。

「ひどいなモリアーティ嬢。

 私はこんなにもあなたに会いたかったのに」

「あら、そうかしら失礼」

「本当だとも。なんならここで傅いて誓っても良い」

 彼、ホームズは整った顔立ちに凜々しい表情を浮かべてかぶっていたハットを取り、真摯に告げる。

「私はあなたの虜だ」

「仮にも王太子の婚約者に告げることではないのでは?」

「その王太子はあなたのことなど眼中にないだろう」

「あなた、人の心がないと言われませんこと?」

 モリアーティはにっこり微笑んで言ってやる。

「ああ、よく言われるね」


▼ しかし ほーむずに こうかはなかった


 麗しい尊顔であっさり返された。

 そうですね。前世から君は人の心がない探偵を自負していたね。

 そうドン引きした矢先だ。

「その男を捕まえて!」

 不意にこちらに走ってきた男が二人のほうに突進してくる。

 モリアーティはあっさり躱し、ホームズは素早く出した足で男を転ばせた。

「オレンジ泥棒よ!」

「おれは盗んでねえ!」

 追いかけて来た露店の店主が言うのに、男はなにも持っていない手を見せて主張した。

「ふむ」

 ホームズが顎に手を当て考えたとき、モリアーティが男の手を取って指先の臭いを嗅ぐ。

「わずかにオレンジの香りがしますわね。

 盗まれてからどのくらい経ちまして?」

「ええと、気づいたのが数分後だから…」

「なるほど。つまり皮を剥いて食べる時間くらいはあったと」

「だからなんだ! そんなの証拠にはならねえ!」

 そう主張し続ける男を見て、モリアーティはにっこり笑むと腰のポシェットから一つの小瓶を取り出し、一つ中の錠剤を取り出して男の手のひらに載せた。

「これは心臓病の薬ですわ。この薬はオレンジと飲み合わせが悪いんですの。

 もしあなたがオレンジを食べていれば、これを飲めばあなたは死ぬでしょう」

「ヒッ」

「あら、なぜ悲鳴を?

 あなたはオレンジを食べていないのでしょう?

 ならなんの問題もありませんわ。さあ、どうぞ。無実を証明なさってください」

 みるみるうちに青ざめた男にモリアーティは薬を飲むよう勧める。

 男は手のひらの上の薬を見つめ、飲もうとしたが結局出来ずにその場に座り込んだ。

「店主、彼が犯人ですわ」

 そう告げて、モリアーティは軽やかな足取りでその場を立ち去った。

「ずいぶん強引なアブダクションをする」

「あら、あのくらい、真実を証明するためには厭わないのでしょう?」

 ついてきたホームズの言葉にそう返して、「事実君はそうだったのだから」と内心呟いた。

「これはただの風邪薬。そもそも心臓病の薬と飲み合わせが悪いのはグレープフルーツです。ですがその知識がないものにはわからないことですわ」

「さすがだ。モリアーティ嬢」

「あなたに褒められても」

「いいや、私の本心だ」

 目の前に回り込んだホームズが真っ直ぐな視線で告げ、傅くとモリアーティの手を取る。


「やはり、私は君を愛しているようだ。

 どうか、私と結婚して欲しい」


 その求婚にモリアーティはある記憶を思い出す。

 あれは懐かしい元の世界。

 ライヘンバッハの滝でまさに決着をつけようともみ合っている最中、こいつはこう叫んだのだ。

「やめたまえ教授! こんなところから落ちたらどうなるか!」

「なにを言う! 貴様とて私を殺す気だろう!」

「ああそうだ! だがそれは君の脳味噌が無事であってこそなんだ!」

「……は?」

 滝の轟音にも負けない声で、奴は言った。確かに言った。

「こんなところから落ちたら君の脳味噌が損傷してしまうじゃないか!

 マイディアブレインが!

 そんなことは許しがたい!

 君の脳味噌は無事なまま持ち帰ってホルマリン漬けにしなければ!」

 その叫びに思考がフリーズした。


(この男はもしや、私の脳味噌だけを目当てに追ってきた?)


 ならばここで決着をつけなかったらこの男は一生私を追ってくる。

 私に待っているのはデッドオアブレイン(死か脳味噌か)だ!

 それなら仕方ない。死なば諸共だ!

 そう思って力を込め、一緒に滝壺へと落下する。

 ホームズの「私の脳味噌が~~~~~!!!」という叫びは、悲しいかな私の最期の記憶になった。


「お断り致しますわ」

 にっこり微笑んでホームズ子爵令息の手を振り払う。

「私は決して諦めないよ。必ず君を手に入れる」

「ああ、そうですか。あなたの身分でどうにかなるならね」

 そう表向き涼やかな表情で言って背を向けながら内心叫んだ。


 お前、私の脳味噌にしか興味ないんだろ知ってんだぞ!!!

 誰がほだされるものか!


 悪役令嬢モリアーティ、自身の脳味噌を狙うホームズと結婚するのがマシか、浮気した王太子と結婚するのがマシか、究極の選択であった。


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