第六十七話
眠りは浅く、夢とも現ともつかないまま、夜がゆっくりと溶けていった。
窓の外が薄青く染まり始めた頃、空は布団の中で目を開けた。
窓辺から差し込む光はまだ弱く、白い靄が外の街を包んでいた。
遠くで聞こえる鳥の囀りが、朝を告げている。
空はそれを耳にしながら、夢と現実の境がゆっくり溶けていくのを感じていた。
小さく息を吐き、上体を起こす。
部屋の空気はひんやりとしていて、裸足で床に降りて、背伸びをした。
服を整え、洗面台で顔を洗うと、冷たい水がようやく意識がはっきりしてくる。
そんなとき——扉が軽く叩かれた。
「空、起きてるか?」
「はい、今出ます」
扉を開けると、レイスと後ろには朝陽が立っていた。
「おはよう、空」
お互いに挨拶をして、空は部屋の外に出た。
「準備ができているなら、ハンゲツ様に会いに行こう」
空はうなずき、廊下に足を踏み出す。
昨夜の静けさとは違い、朝の廊下は澄んだ光で満たされていた。
窓から差し込む陽光が床に長い影を落とし、その先で鳥の影が一瞬横切る。
そんな何気ない景色が、不思議と胸に沁みた。
三人は並んで歩き始める。
靴音だけが響く中、レイスがふと視線を前に向けたまま言った。
「……昨夜は、よく眠れたか?」
空はほんの少し間を置き、「まぁ……ほどほどに」とだけ答える。
その声に、レイスの口元がわずかに緩んだ気がした。
外へ出ると、朝の風が頬を撫でる。
空は深呼吸を一つして、足を進めた。
朝の光はまだ柔らかく、屋根瓦の上に白い鳩が羽を休めている。
修繕中の石壁に新しい漆喰を塗る手の動きが、どこか儀式のように静かだった。
子供が荷車を押しながら駆け抜けると、土埃がふわりと舞い上がっている。
程なくして記録者本部が見えてくる。
昨日と同じようにハンゲツが静かな佇まいで三人の到着を待っていた。
「よう来たな…空、朝陽。早速だが少し歩くとしようかのう…」
3人に着いてくるように促すと、ハンゲツは背を向けて歩き出した。
* * *
トキレイムの中を歩いて行く。
ハンゲツの姿を見ると復興作業をしている町民たちは作業を止めて頭を下げていた。
「お主たちはよう頑張った…」
歩きながら話すハンゲツ。
その声は大きいものではなかったが、3人の耳にははっきりと届いた。
「空…。お主は記録の塔での宣言通り、朝陽を想い、代償からの救いを成功させた」
「朝陽…。お主も空の記憶を失くして、心の拠り所がなかったにも関わらず、一途に信じ、想い、祈りの言葉によって、空とこの世界を救った」
「ミミについては…お主たちが来なければ、と言う声もあったが…わしは遅かれ早かれ同じことが起きておったと予想しておる……未だトガビトの脅威が去ったわけではないが、今回のことでお主たちを責めることはわしが許さん」
ハンゲツとレイスは2人に深々と頭を下げた。
「…頭を上げてください…そんな大したことはしていないです…」
頭を下げる2人を空たちは止める。
「…2人にこれを渡しておこう」
ハンゲツは懐から小さな鍵を取り出し、空に手渡す。
「これは……?」
「元の世界とこの国を繋ぐ“門”の鍵じゃ。如何なるときも移動が可能と言うわけではないが、これを使えば、またこの世界に来ることも可能じゃ」
鍵は銀色というより、長い年月を経て月光の色を帯びたような輝きだった。
鍵は冷たく、手のひらに収まるほど小さいのに、微かに脈動するような不思議な温もりを帯びていた。
「どうして…そんな貴重なものを私たちに…?」
「…お主たちはシィロが戻ることを信じておるじゃろう…?それさえあればまた巡り合う可能性も高くなるはず…という理由じゃダメかのう?」
ハンゲツは片目を瞑って、ニヤッと笑った。
空と朝陽は互いに目を合わせ、深く頷く。
「…ありがとうございます!」
「では……参ろうか」
* * *
ハンゲツの案内で、記録者本部の奥にある重厚な扉の前に立つ。
扉の表面には、星と雲を象った彫刻が刻まれており、どこか懐かしい光を放っていた。
「……これが世界を繋ぐ扉じゃ。時期的に今はちょうど、あちらとこちらが繋がっておる」
「如何なるときも移動が可能ではない…という話ですか…?」
「左様じゃ…一年にわずかな日数のみ、繋がる…これを逃せば次回はまた一年後、というわけじゃ」
ハンゲツは扉の輝きを見つめると一度、言葉を切った。
「本当はもう少し、アズールヘヴンで身体と心を休めてもらいたかったが…お主たちには、あちらの世界での生活もあろう」
申し訳なさそうな顔のハンゲツ。
後ろに控えるレイスの顔にも僅かに寂しさが滲み出ていた。
「そう、ですね……少し急だったのでびっくりしてしまいましたが…確かに一年も帰れなくなったら大変です…」
「失踪届とか出されちゃうかもしれないしね…」
残念そうな空と朝陽。
だが、家族、友人との再会など一年も待たせる訳にはいかなかないと考えて、2人は結論を出した。
「ハンゲツ様、色々とありがとうございました。それにレイスさんも…レイスさんがいなかったら、きっとここまで来れませんでした。俺にとってレイスさんは最高の仲間です…!」
空の言葉に頷く朝陽。
それを受け止めて優しく微笑むハンゲツ。
「ありがとう…空。朝陽。だが私は少しだけ力を貸しただけだよ。この結果はお前たちの想いや勇気が成し遂げたことだ…そして、そんなお前たちと僅かでも共に歩けたことを私は一生忘れることないだろう」
そう言うとレイスの瞳から一粒だけ涙が溢れた。
「む、こういう別れは涙腺が緩くなっていかんな…」
レイスは困ったように笑い、空と朝陽を抱きしめた。
「これで永遠の別れ、というわけでもない。2人ともまた会おう」
2人の耳元で優しく響くレイスの言葉に頷いた。
「はい、また来ます…!」
空と朝陽は2人で鍵を握ると世界を繋ぐ扉の前に立った。
星と雲の彫刻が瞬いて、その時を待っている。
「鍵を差し、扉を開くのじゃ。行き先は、おぬしらが知っておるはずじゃ」
空と朝陽がお互いの手を握る。
空と深呼吸し、鍵を差した。
カチリという音と同時に、扉の隙間から眩しい光があふれ出す。
光の向こうに見えたのは、懐かしい青空——。
空が振り返った時、レイスは片手を上げたまま、風に髪を揺らしていた。
ハンゲツの袖も風に翻っていた。
そして、2人の後ろにシィロとミミがいた気がした。
その全ての輪郭が光に溶けていくのが惜しくて、空と朝陽はお互いの握る手に力を込めた。
次の瞬間、風と光に包まれ、足元の感覚がふっと消えた。
* * *
目を開けたら、神社に立っていた。
雲一つない青空は、どこまでも深く澄んでいる。
陽射しは肌を刺すほど強く、熱気が地面から立ち上る。
それでも、頬を撫でた風には、ほんのわずかに木々の葉の青い匂いが混じっていた。
いつもなら静かな境内。
耳に痛いくらい鳴いている蝉の声で現実に戻ってきたのだと感じる。
足元にはハンゲツに貰った鍵が落ちていて、今までの事が夢ではないと訴えていた。
空は足元の鍵を拾い上げた。
月光を閉じ込めたような銀白色が、夏の陽にかざされてかすかに揺らめく。
けれど、もう脈動も温もりもなく、ただ静かにそこにあった。
「戻ってきたね…」
隣から朝陽の声が聞こえて、顔を向ける。
「そうみたいだ……」
「……長かったね」
「うん……俺、忘れないように記録に残しておこうかな…」
「すごく良いと思う…どういう風に残すのかな?」
「うーん…あ、小説とか、どう…?」
空は少し考えて、フッと頭に思い浮かんだことを朝陽に伝えた。
「小説?…ふふ…それ、面白そう。完成したら読ませてね…?」
朝陽が下から顔を覗き込むようにして満面の笑みを空に向ける。
空はその仕草と笑顔に眩しそうに目を細めて顔を逸らす。
「…完成するかな?」
不安をポツリと溢す。
「応援するよ、空」
「……うん、決めた…!小説を書くよ!タイトルは『そらのかけら』な!」
じっと見つめてくる朝陽に耐えきれなくなった空は顔を見つめ返すことなく言った。
そして、それが可笑しくてどちらともなく吹き出して笑い合った。
笑い声が重なり、境内に響く。
石畳を照らす日差しが、ふたりの影を長く並べて伸ばしていく。
「おかえり。朝陽」
「ただいま。空」
しばらく笑った後、2人は手を繋いだ。
「家に、帰ろう」
朝陽が頷くと2人は歩き始めた。
去り際に空は一度、御神木を振り返った。
御神木は、ただの古びた幹に戻っていた。
空洞は影も形もなく、夏の光の中で葉擦れだけが揺れている。
(あの扉も役目を終えたのかな…)
葉の間からこぼれた光が、一瞬だけ銀色に見えた。
それが残り香のように胸を撫でた。
「どうしたの?」
「ううん、何でもないよ。行こう」
そして、前を向く2人は他愛無い話をしながら家路に着いた。
* * *
「お兄ちゃん!もうご飯出来てるよ!」
突然の声にまぶたを開けると、妹のあかりが部屋のドアを叩いていた。
「今、起きるから!」
「早く来てねー!」
部屋の前から去って行く気配を感じながら、慌ててベッドから飛び起きて制服に袖を通す。
階下に降りて顔を洗ってからリビングに向かう。
「あ、お兄ちゃん!遅いよ!」
リビングには珍しく家族が皆、揃っていた。
昨日、自宅に帰った後、無断外泊を母とあかりに搾られた。
父は知っていたが家族に心配をかけたのだ、怒られて当然であった。
視線が空に集まる。
母とあかりの目には怒りはもうない。
父も優しい目で見つめてくれていた。
空は急いでテーブルに座ると、皆で手を合わせた。
「いただきます」
家族で朝ごはんを食べながら団欒の時間が訪れた。
「お兄ちゃん。今度、朝陽さん連れてきてね?」
「え…なんでだよ…」
「お兄ちゃんの彼女に相応しいか、あかりが見極めないと…!」
「ぶっ…!彼女じゃねぇよ!」
「またまたー…あ、やば!そろそろ行かなきゃ!ご馳走様でした!行ってきまーす!」
ニヤニヤ笑っていたあかりは時計を確認すると、慌ててリビングを飛び出して行った。
「…ったく」
「…で、実際はどうなの…?」
「親としては気になるよね」
顔を見合わせて揶揄うように笑う両親。
「母さん、父さん!」
* * *
「そろそろ俺も行ってくるよ」
空はそう言って席を立って、空いた皿を洗い場に運んだ後、鞄を手に持って玄関に向かう。
「空、ちょっと良いかな…?」
玄関で靴を履いていると背後から聞こえた父の声に振り返る。
「…どうしたの父さん?」
「手短にね。さっきは巫山戯てしまったけど、今度、本当に連れておいで、優輔もね」
「え…優輔って…朝陽のお父さんのこと、だっけ…?父さん知ってるの?」
「まぁね…じゃあ行ってらっしゃい」
含みがあるように笑う父は言いたいことを言うと空に手を振った。
しばらく続きを待っていたが詳しく教えてくれる気はないようだった。
「…行ってきます」
渋々、玄関を開けて外に出ると、夏だというのに涼しい風が髪を撫でた。
家から少し離れたところに朝陽が立っていた。
「朝陽、おはよう。待たせたかな…?」
「おはよう、空。今、着いたところだよ」
空が声を掛けると朝陽は顔を上げて、空に笑いかけた。
「じゃあ、行こうか」
空が朝陽に手を差し出すと朝陽はその手を握り返して前に進み始めた。
2人の手は2度と離れることがないように強く、強く握られていた。
* * *
枝の上を黒と白が入り混じった毛並みの猫が2人をじっと見送る。
風が吹き抜け、葉がざわめくたび、尻尾がゆっくりと揺れた。
その背後には、雲一つない空がどこまでも広がっていた。
そらのかけら、ついに完結です!
最後まで読んでいただいてありがとうございます!




