第六十四話
祈りの舞台。
光に包まれて動きを止めるミミ。
その光に照らされてミミの姿が露わになった。
“それ”を見た瞬間、朝陽の呼吸が一瞬止まった。
全身を構成する闇はどろりと溶けたように歪み、崩れ、黒く爛れていた。
ただれた皮膚の奥で、無数の眼が脈動している。
血管のように浮かび上がるそれらは、意志を持つかのように、絶えず動き、揺れ、こちらを——“見て”いた。
口も鼻もない“顔”らしき部分からは、熱のこもった呻きが漏れていた。
呻きなのか、言葉なのか。
どちらにしても、人の耳に届くには、あまりにも穢れている。
朝陽は唇を噛みしめた。
怖い。恐ろしい。逃げ出したい。
けれど——逃げない。
祈りを捧げると決めたのは、自分自身だった。
朝陽は想いが揺らいでしまわぬように震える身体を必死に抑えつけて対峙して呼びかける。
「……ミミ、待ってたよ」
朝陽は静かに語りかけるように言った。
『……⬛︎⬛︎⬛︎…』
ミミにある無数の眼が一斉に朝陽を見たのがわかった。
「…ミミ、聞いて」
一歩ずつ、ゆっくりとミミに近づいていく朝陽の姿にシィロたちは息を呑む。
「朝陽さん!危ないですよ!!」
シィロの警告も無視して歩む朝陽。
やがて互いに手を伸ばせば届くほどの距離になった。
ミミは威嚇するようにみじろぎした。
「ミミ…」
朝陽の呼びかけに、何処か怯えて、苦しんでいるようにも見えて、胸が痛んだ。
(……わたし、伝えたい。大丈夫だって。……もう、終わりにしようって)
胸の奥から、言葉にならない想いが湧き上がってくる。
それは、誰かに教わったものではない。用意された台詞でもない。
けれど、確かに——祈りだった。
朝陽はそっと目を閉じた。
次に唇を開いたとき、それはただの言葉ではなかった。
——祈りの“祝詞”が、静かにその口から零れ落ちた。
* * *
あまねく御方、影の座に堕ちしものよ
永劫の深き底より、我らの声、届かんことを
忘れられし名に、祈りを
裂けた光に、赦しを
ここに、願いを捧げる
穢れも、恐れも、すべて抱きて——
聞きたまえ、我が声を
忘れられし神よ
我らは汝を責めず
ただ、ただ、抱きしめん
いま一度、空に帰らんことを
夜の深き、そのさらに奥より——
朝陽の口から紡がれる祝詞は、どこか赦しを与えるような、あたたかい響きを帯びていた。
その声に呼応するように、彼女の身体から淡い光がこぼれ落ちる。
粒子となった光はふわりと宙を舞い、やがてミミのもとへと吸い込まれるように近づいていき、拒まれることも、弾かれることもなく。
まるでその存在を“許す”かのように、光はそっとミミの身体に染み渡った。
歪みと爛れに覆われたその身体に、優しい波のように滲んでいく。
ミミの背後で、影の奔流が揺らいだ。
祝詞の声が続くたびに、光は脈打つように広がり、静かに彼女を包み込んでいく。
それまで蠢いていたミミの身体が、ふと動きを止める。
怯えも怒りもない、ただ——受け入れるように。
赦しを知った者のように、静かに、身を委ねていた。
「祝詞を聞いているみたいですが…」
直ぐそばからシィロの声が届く。
——まだ、全て伝えきれていない気がした。
そして、朝陽はもう一度、唇を開いた。
願いの果てに、誰もが独りでいたならば
どうか、この手を——
穢れにまみれた記憶ごと、包み込むと誓おう
もしも——
あなたが祈りに応え続け、誰にも名前を呼ばれずに、消えていったのだとしたら
この声が、その静寂を破る最初の音になりますように
もしも——
あなたが怒りに満ちて、誰にも想いを伝えられずに、叫びを封じられていたのなら
この声が、凍てついた扉を開く鍵となりますように
忘れられた神よ
もう一度、あなたの名を呼ばせてほしい
ゆっくりと眼を開く朝陽。
宙を舞った光の粒子が全て、ミミに溶けきったそのとき。
——ふわり、と。
朝陽の足元から、黒とも紫ともつかない柔らかな闇が立ち上がった。
けれど、それは冷たくも、怖くもなかった。
まるで深い湖に包まれるような感覚。
(これは……導かれてる?)
朝陽は抵抗することなく、その感覚に身を委ねる。
次の瞬間、世界が静かに反転する——。
* * *
「——さん!朝陽さん!」
聞き慣れた声に目を開けるとシィロが心配そうな顔で覗き込んでいた。
シィロに支えられて身体を起こして、辺りを見渡した。
薄暗く、遠くまで見通せない深い闇。
目の前のシィロの姿だけはっきり見えているのが不思議だった。
「……ここは…?」
「わかりません…朝陽さんが闇に覆われそうになったとき私も飛びついて…気が付いたらここに…」
そう言われて世界が反転する前のことを思い出した。
柔らかな闇に包まれるような感覚。
「そっか…きっと、ここはミミの中…」
朝陽は思い当たったことをつぶやいた。
「え!そんなこと…いや…そうかもしれません…」
慌てて否定しようとしたシィロだったが何かを感じ取ったのか頷いた。
「そうなの…この場所に漂ってる空気がミミがまとっていたものに似ている気がするの…」
この場所から感じるのは、”苦しみ”や”悲しみ”などを織り交ぜた空気であった。
「…シィロさん、ここがミミの中なら」
「そうですね…探さないと、ですね。ミミを」
朝陽の言葉をシィロが引き継いだ。
2人はそろそろと立ち上がると、再び辺りを見渡した。
「でも…どっちに向かえばいいのかわかりませんね…」
シィロは行き先が掴めないまま、首を捻る。
深い闇は言葉通り、先も見通せない。
「…あっち。あの方向にミミがいる気がする…」
朝陽は一点を見つめて、そちらに向けて指を指した。
「……わかるんですか…?」
「はい…何となくですけど…」
朝陽はシィロの方に向き直ると手を差し出した。
シィロはコクコクと頷くと無言で手を握り返す。
「行きましょう…きっと、これが最後です」
2人は朝陽の指差した先に向かって、ゆっくりと歩き始めた。
* * *
「意外と広いですね…迷子になったら…」
シィロは、ふと“もしこの先で朝陽と離れ離れになったら”という想像をしてしまい、自分がまた、誰にも見つけてもらえず、暗闇に一人取り残されるような気がして——握っている手に思わず力を込めた。
「大丈夫ですよ。もうすぐ着くはずです」
その様子を見て、朝陽は包み込むように笑った。
シィロは恥ずかしそうにして、手を緩めて進む先を見る。
何処までも続くような錯覚。
足音は吸い込まれるように闇に消えていった。
そして、代わりに——
どこからともなく、かすかな音が混じり始める。
……ひくっ、ひぐっ……。
それは最初、風の音かとも思えるほど弱々しいものだった。
けれど次第に、それが“泣き声”であることがはっきりしてくる。
「……聞こえますか?」
朝陽が足を止める。シィロも、静かに頷いた。
「……子どもが泣いてるような……?」
周囲の闇が、わずかに揺れているように見えた。
まるで“感情”が、空気の色を変えているかのように。
さらに歩みを進めた先に、ぼんやりとした明かりが現れる。
光の中には、全てのことから目を背けるように膝を抱えて泣いている少女の影があった。
少女の隣には、2人にとって見慣れた人間が寄り添っていた。
「空さん…?」
「待って!様子がおかしい…」
思わず空の姿に駆け寄ろうとするシィロを朝陽が止める。
少女の隣にいる空の目は虚ろで、表情もなかった。
——その姿に、朝陽の中の何かがざわめいた。
そして、その隣に虚ろな目で佇む空の姿が、胸に深く突き刺さった。
(空……何があったの……?)
まるで魂だけが、どこか遠くに行ってしまったようで——。
けれど、その手が、誰かをそっと撫でている。
優しい、はずのその手が、まるで操り人形みたいに動いていて、痛々しかった。
ようやく会えた空はそこにいるはずなのに、空じゃないみたいだった。
彼の声は、まるで壊れかけた録音テープのように、同じ言葉を繰り返していた。
『……もう、大丈夫……頑張ったね……ずっと、ここにいるよ……君のそばに……』
それは慰めではなく、まるで“刷り込まれた役割”を演じるかのようだった。
「……空……」
朝陽はそっと声をかけたが、彼はまるで気づかないように、同じ言葉を繰り返すばかりだった。
(……届かない。今の空には、私の声が……)
ミミは顔を伏せ、涙を流しながら蹲っていた。
彼女の背からは、まるで触手のように黒い影が伸び、意思とは関係なく空を繋ぎとめているようだった。
そして——微かに聞こえた。
「……こんなはずじゃなかったのに……」
低く、掠れた声。
「苦しかった……ずっと……誰も……誰も……」
「自分だけを見てくれる誰かが……欲しかっただけ、なのに……」
嗚咽混じりの言葉が、静けさの中で震えていた。
「ミミ……」
朝陽の声が静かに響くと、ミミは2人の存在に気が付いて顔を上げた。
「……空を取り返しに来たの…?」
ミミは縋るような目で2人を見る。
「…その…つもりだった…だけど…どうして、泣いているの…?」
朝陽の声は揺らぐ波のように優しかった。
ミミは2人から視線を外して、独白するように話し始めた。
「私は…ずっと誰かに、私だけを見てもらいたかったんだ…。だから、たくさんの人のお願いを、なんでも、どんなことでも叶えたよ……」
「そうすれば、私だけを必要としてくれると思った。大切にしてくれるって、信じてたのに……」
「でも……結局、誰も残らなかった……。恨まれて、疎まれて、石を投げられて、最後には忘れられてしまったの……」
ミミの瞳には、過去の記憶が波紋のように広がっていた。
「空なら…強い想いを持ってる空だったら、このおかしくなってしまいそうな渇きが…永遠が…失くなると思ったのに……手に入れたら、想いを失ってしまった…こんな空じゃ、私は独りのままだ…どうして、私は独りなのかなぁ…何か間違ったのかな…失敗したのかな……独りはもう嫌だよぅ…」
頭を抱えて泣きじゃくるミミの姿。
——その姿に、朝陽の中の何かがざわめいた。
目を逸らしたくなるほど、弱くて、寂しそうで。
(……あの日の私に、似てる)
母が突然いなくなって、どうしてなのかも分からなくて。
寂しいと口にすることもできなかった、あの頃の自分。
(……空をこんなふうにしてしまうほど、彼女は……)
誰でもいいから、私のことだけを見てほしいと、
心の奥で叫んでいた“私”が重なった。
(だからこそ…私は言わなくちゃ…)
朝陽は、目の前の存在をまっすぐに見つめた。
揺れるまなざしの奥に、ためらいと、それでも伝えたいという強い意志が宿っていた。
彼女は小さく息を吸い——そして、言葉を紡ぎ始める。
「ミミ…あなたは…本当の意味で空を手に入れたわけじゃないよ…」
「え…?」
力のない目で朝陽を捉える。
「誰かを想い、想われたいなら…あなたは、その誰かの心を手に入れなくちゃダメ。無理に手に入れたものはいびつで、崩れてしまう…」
「………」
ミミは黙って朝陽の言葉を聞いている。
「あなたがしたことを皆は赦してくれないかもしれない…けれど、あなたは今までたくさん苦しんできた……それでも、誰かを想ってきたことは、本当なんだよね。傷つけたけど、それは全部“誰かを失いたくなかった”から、だったんだよね……」
(私も、ずっと誰かに赦されたかったんだ。誰にも言えなかった気持ちを、ただ“いいんだよ、わかってる”って、抱きしめてもらいたかったんだ)
だから今、目の前で泣いているこの子を見て、放っておけなかった。
「……だから、勝手だけど……私が赦したい。あなたのこと、ちゃんと見たいから」
朝陽は、そっと一歩前へ出る。
両手を胸元で組み、ゆっくりと目を閉じた。
「あなたが、どれほど苦しかったか……全部はわからない。けど、願っていたことだけは、わかる気がするの」
静かに、穏やかに語りかけていく。
「——誰かに、見つけてほしかったんだよね」
だが僅かに震える声だった。
「誰かの“たったひとり”になりたくて……ずっと、声をあげてたんだよね」
語るたびに、胸の奥の痛みが、ゆっくりとほぐれていく。
「……私も、そうだった。だから、わかるの」
わずかに、目を伏せて笑うように、彼女は言葉を続けた。
「赦すっていうのは……ただ“許す”ってことじゃない。“わかりたい”って……相手に手を伸ばすことなんだと思う」
朝陽は、そっと胸元に手を当てた。鼓動が、祈りのように響いている。
「私は、あなたを赦したいって思ったの」
「……そして、空を返してほしいって……心から願ったの」
彼女の声は、少しずつ確かなものになっていた。
「それが、私の“祈り”で……“祝詞”に込めた想いだったんだよ」
目を逸らさずに、まっすぐに伝える。
「その想いを持って……私は、あなたと“いる”よ」
静かに言い切ったあと、朝陽は一歩だけ、そっと踏み出す。
「……それじゃ、だめかな?」
その瞬間——
背中から伸びる触手のような闇がかすかに震え、小さなざわめきが生まれる。
音もなく、風もないのに——そこに、何かが“揺らいで”いた。
ミミの目が朝陽の姿を捉えた。
「……わたし、と……?」
声にならない声が、空気を震わせる。
「……それって……わたしだけを……見てくれるの……?」
その問いは、か細く、幼い。
誰かに届くことを願いながら、壊れかけた魂が発する、最後の声のようだった。
朝陽の胸の奥が、熱くなる。
「……うん。見てるよ。ちゃんと……あなたを」
光が揺れる。空気が変わる。
まるで——何かが引き戻されるような気配。
歪んでいたものが、ほんの少しだけ“戻り始めた”ように思えた。
そのときだった。
「ダメです!」
静けさを裂くように、シィロの声が響いた。
彼女は一歩前に出て、朝陽の肩をぐっと掴む。
「朝陽さんは、空さんと約束したんでしょう……!」
その手が、強く震えていた。
けれど、朝陽を止める気持ちは本物だった。
「あなたには大切に想う人も待ってくれる人もいるんです!ここに…この場所にあなたを残すわけにはいきません!」
「……っ、でも、私……!」
朝陽の心に、先ほどの祈りのときの感覚が蘇る。
(……私の祈りが届いたのは、私が空を“大切に想っている”から。空の心を知っていて、空と過ごした時間があるからこそ…)
(……けど、私はミミの心を聴いた…今更無視なんてしたくない…)
迷いと決意が、胸の奥でせめぎ合う。
「朝陽さん。心配しないで。私が、残ります。ここで、この子のそばに居ますから——」
シィロの瞳はまっすぐだった。怯えてなどいない。
むしろ、それまでにない強さが、そこには宿っていた。




