第六十一話
アズールヘヴン南西部、第二境界。
空が夕焼けに支配される中、暴走したトガビトの出現場所付近には沈黙に似たざわめきに包まれていた。
トガビトまで約2000メルトルは離れている塔に記録者たちは集合していた。
足元に積もる砂塵、崩れかけた壁面、そこかしこに残る戦いの痕。
古びた石造りの回廊がうねるように続く先、その最上階でレイスたちは、目標に目を凝らしていた。
細い風が、横から抜けていく。
「…この距離でも見えるのか…」
誰かがぽつりと呟いた。
背後からは、記録者たちの呼吸音。
慎重さと焦りが綯い交ぜになったその音に、彼女の耳が敏感に反応する。
「あれを本部まで誘導か…」
「ヤバそうだな…それに、本部は方は大丈夫なのか?あれが行って…」
誰かの声に、別の誰かが答える。
不安と警戒、そしてわずかな苛立ちが滲む。
最上階の空気が重くなる。
感情そのものが渦巻いているような重圧がここまで届いているようだった。
「レイスさん。各自、配置に着いたようです。いつでも作戦を開始できます」
「…ああ、始めるか…」
レイスは横にいるレスルの言葉に頷いた。
「…では作戦開始の号令を」
レスルは端末を操作して配置された記録者たちと通話を繋いだ。
「…皆、手を貸してくれたことを、まずは感謝させてくれ。我々はあのトガビトを止めるべく、本部の記憶の塔まで誘導する。各自、決して無理はするな。絶対に全員生きて戻るぞ…!」
「あれを止めることが出来たら、俺たちも英雄ですね!」
トガビトの重圧に抗うように、誰かが軽口を叩いた。
「カディス、この前逃げたお前の彼女も戻ってくるかもな?」
年若い記録者の声が響く。
「うるせぇよ、グエナ!」
言われた男が肩をすくめ、笑いながら返す。
最上階に笑いが溢れ、空気が弛緩した気がした。
「皆さん、これが終わったら、レイスさんが奢ってくれますよ」
レスルもレイスのことを見ながら記録者たちに言った。
「ふふ…そうだな…終わったら、私が奢ろう。好きなだけ飲み食いするがいい」
その言葉に、数人の記録者たちが歓声を上げて、笑い声を漏らし、手を叩く。
けれど、その笑いはすぐに静まっていった。
遠く、地鳴りのような音が響く。
トガビトの蠢きが、空間の底を揺るがしている。
レイスはその方向に目をやると、すぐに視線を戻した。
「……全班、最終確認だ。誘導班、牽制班、支援班。すべて、予定の通りに動く。連絡は怠るなよ。そして、トガビトの姿は精神を貫く…あまり直視するな」
「もしもの際は即時に撤退をしてください」
レスルが淡々と告げる。手元の端末に指が走る。
「アジク様は?」
レイスが訊ねると、すぐに返答があった。
「既に潜伏済み。誘導の準備は整っているそうです」
レスルが肩をすくめるように言った。
「……あの人が素直に手を貸すなんて、少し気味が悪いですね…」
「あの男のことは私も読めない…だが、今は信じよう」
小声で呟く声に、レイスは笑みを浮かべるでもなく、ただ小さく頷いた。
「……よし」
その一言の後、レイスはゆっくりと、手を掲げた。
風が止まったかのような静寂の中で——彼女の声が、はっきりと響く。
「記録者たちよ——今より、“記憶の誘導”作戦を開始する!」
その声に、応えるように各所の回廊から魔力の光が灯る。
それはまるで、遠くで燃え始めた星々のように——闇を切り裂く意志の現れだった。
そして。
遠方、トガビトが動いた。
膨れあがる影。
地面に触れるだけで腐食するような爛れた腕が、ずるりと持ち上がる。
無数の闇に浮かぶ目に狂気と悲しみに染まっていた。
トガビトはレイスたちまで届くほどの声を上げた。
『……ぁ……⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎!!!』
唸りをあげる風を身に受けながら、レイスは一歩、前に出た。
「——行くぞ!」
* * *
次々と塔から飛び降りていく記録者たち。
皆、声は上げることなく、トガビトを取り囲むような配置に進んでいく。
『誘導班、いつでも行けますよ』
『牽制班も問題ありません』
耳元の通信機から報告が届く。
「…よし、支援班も配置に着いた…誘導を開始しよう」
その言葉の終わりと共に、通信機越しに音が響いた。
* * *
南西部、第一境界。
トキレイムもかなり遠目にはなるが、見える距離まで暴走したトガビトを誘導してきた。
作戦中の事故は起きておらず、全員無事のまま誘導を成し遂げていた。
記録者たちは距離を正確に保ちつつ、手に持った封具に魔力を纏わせている。
「こっちだ!トガビト!」
誘導班の先頭に立っていたカディスが、声を出しながら感知範囲に踏み込む。
誘導を続けて慣れてきた頃、それは起こった。
『⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎!!!!』
付かず離れずの距離で挑発するように動く記録者に我慢の限界が来たのか、トガビトは大きく叫ぶとその身体を這うようにうねる闇を真っ直ぐと発射してきた。
「………あ」
突然のことに誰もが固まってしまい、動くことが出来ずにいた。
——そして、カディスに直撃した。
「…あああああ!!」
カディスが闇の侵食によって絶叫をあげる。
『…⬛︎⬛︎⬛︎!』
トガビトがまるで、笑うような声を上げて、追撃するかのように更に闇を射出した。
次弾も命中するかと思われた瞬間、レイスがカディスの前に到着し、封具である長杖から冷気と共に氷の壁を展開した。
衝突し凄まじい音を立てたが闇が氷の壁を貫通することはなかった。
「カディス!意識はあるか!?」
「あああ!!!痛い!いだイ!イたい!!!」
レイスの問いかけに返答することもできず、カディスは地面をのたうち回る。
闇は着弾した場所からジワジワと範囲を拡げて侵食しているようだった。
「これは……支援班!カディスをすぐに、撤退させろ!牽制班!トガビトに距離を取らせるぞ!」
トガビトから目を離すことなく、レイスは指示を出して、トガビトに寄り、注意を引く。
そして、牽制班の1人が封具から魔力を放ち、トガビトとレイスの間の地面を隆起させて、壁を作った。
「カディス!しっかりしろ!」
塔の最上階でカディスと話していたグエナが駆け寄って、肩に担ごうとしゃがんだ。
「…待て!不用意に触るな…!」
手が触れる前に、グエナの肩が掴まれて後ろに引き倒される。
「何を!」
「この闇は侵食を続けている。不用意に触れば貴様も侵されるぞ…?」
アジクはカディスを蝕む闇を見つめながら言った。
「…なら、どうすればいいんですか!こいつは俺の仲間なんです!」
グエナが起き上がり睨むようにアジクに詰め寄った。
しかし、アジクの目はグエナを映していなかった。
「これは素晴らしい密度だな…だがトガビトよ、闇は貴様だけが使うわけではない…」
そう言ったアジクの前方の空間から、黒い腕が4本現れてカディスの身体に取り付いた。
「があああ!!」
「クッ……これほどとは…一筋縄ではいかんな…」
まるで何かを研究者のような顔のアジクが黒い腕を動かしていく。
「何をしている!!」
レイスが後方のアジクを確認して、声を荒げた。
「……レイスか…今、この闇を逆に侵食し取り込もうとしているところだ…もう少しあれを抑えていろ」
「…ふざけ…いや、わかった…カディスを頼みます…」
レイスはすぐに状況を判断して、アジクに一礼した後、再びトガビトの注意を引きに戻った。
「…まぁ、この男はなんとか助けてやる……」
アジクは一時も闇から目を離すことはなかった。
男の額には汗が滲む。
近くで立ち尽くしているグエナは言葉を発することなく、その光景を息を呑んで見守る。
「…こんなものだな……だが、中々に満たされた…腐っても神と言ったところか…」
アジクは誰にも聞こえない声で呟くと、近くに立つグエナに目を移した。
「おい、もう侵食は止まった。さっさとこいつを連れて下がれ」
グエナはその言葉を咀嚼した後、何度か頷いてカディスを肩に担いで後方へと下がっていく。
その姿を見届けることなくアジクはレイスへと声をかける。
「レイス、あれは取り除いた!さっさと誘導を再開しろ!」
氷の礫で闇を弾いていたレイスはその声を聞いて、冷気を霧のように地面に叩きつけて煙幕とした。
「皆!今のうちに一度距離を取れ!体制を立て直し次第、作戦を再開する!」
その号令に記録者たちは後方に下がる。
アジクの姿もすでになかった。
「レスル、班を立て直して指揮を取れ。私は時間を稼ぐ」
レイスは支援班で全体把握を担当しているレスルに耳元の通信機から指示を伝えた。
『……わかりました。無理はせず』
レスルが簡潔に返事をしたのを聞いて通信を切った。
(…レスルなら任せておけば良いように動くだろう)
煙幕にしていた霧が晴れていき、トガビトの輪郭がはっきりと見える。
表面にある無数の目が一斉にレイスを捉えた。
「……久しぶりだな…ミミ。来い、少し遊んでやる…!」
レイスは新たに短槍を取り出し、両手に封具を構えて笑った。
* * *
本部までの直線経路から離れた森の中。
日は更に落ちて、空は燃えるような色となっている。
一度離脱した記録者たちが体制を立て直すために集まっていた。
「…各班、消耗の具合はどうですか?」
レスルが記録者たちの顔を見渡して尋ねる。
「誘導班、カディス以外は問題なく動けます!」
「牽制班は消耗なしです」
「支援班も同様ですが、グエナをカディス離脱のために安全圏まで付き添わせたいと思います」
各班のリーダーからの簡潔な報告にレスルは頷く。
「わかりました、両名の離脱を認めます。トガビトの誘導経路から離れて、一度南東部の町に向かってください」
レスルの指示にグエナは木にもたれさせて座らせていたカディスを担いだ。
「…すまねぇ、グエナ…」
カディスが目を伏せたまま、かすれた声で言う。
「ああ…気にするな…。それに助けたのはアジク様だ…後で礼を言っておけよ」
グエナは肩をすくめ、それ以上話すことなく、ゆっくりと南東部へと歩みを進める。
2人の離脱を見届けると、レスルはふとアジクを探して周囲を見た。
(……アジク様がいない…?)
見渡しても姿はなく、しかし——空気のどこかに、残るような気配だけがあった。
「アジク様は見てないか…?」
「いえ、トガビトの元を離れてから姿を確認していません」
近くの記録者に尋ねるが、誰も知らないようであった。
「…そうですか」
(……少し気にはなりますが……今は作戦の再開ですね…)
そう思い直すとレスルは記録者たちに指示を出した。
「…皆さん。今レイスさんが1人で、あのトガビトを抑えています。我々も向かいましょう。ですが、更に何かしてくる可能性はあります。大事をとって、更に200メルトルほど離れた距離から誘導を開始します。レイスさんもそれで構わないですか?」
レスルは指示の最後に、通信機からレイスに話しかける。
『…ああ…!構わ、ない…!…こっちだ!ミミ!』
通信機の向こうで、爆音と共にレイスの怒鳴り声が響いた。
「……テンション高いな……」
「あの状況で、どうしてあんなに……」
誰かが小さく呟き、周囲に苦笑が広がった。
「…はぁ。では行きましょうか」
少しため息を吐いて、記録者たちに行動を促すと、戸惑いながらも各自、走り出した。




