第六十話
記録者本部の中、広めの集会室に次々と集まる者たち。
薄明かりに照らされながら、誰もが口を閉ざし、ただ床を見つめていた。
空気は重く、張り詰めている。
静寂を破ったのは、レイスの凛とした声だった。
「みんな、集まってくれてありがとう」
彼女は部屋の中央に立ち、ゆっくりと全員を見渡す。その視線は、一人一人を確かめるように、丁寧に動いていく。
「みんなも報告を聞いたと思うが、暴走したトガビトが南西、第四境界付近境界に出現した」
ざわめきが生まれた。目を伏せたままの者、顔を上げて問いかける者、唇をかみしめる者。
「現在も移動しており、このままではアズールヘヴン全域に被害が拡大する可能性もある。だから、我々は記録者として、暴走したトガビトを鎮めるために、今こそ動かないとならない」
レイスの声に、静かに寄り添うようにレスルが一歩前に出る。金属で出来た外套の裾が揺れる。
「……あの規模のトガビトを鎮めるには、特殊な方法が必要です。それを実施するためにも私たちはトガビトを、記憶の塔、最奥に誘導します。皆さんにはその作戦に協力してもらいたいのです」
その言葉に集まった記録者はざわめいた。
レイスとレスルはそれを無言で聞いている。
「……それは…我々に囮になれということ…ですが…?」
やがて、一人の記録者が震える声で尋ねる。
「…誘導という性質上、囮と言われてしまえばそうかもしれない…だが、あくまで遠くから、傷付けぬよう注意を引いて“導く”んだ。可能な限り、危険は犯さず、こちらに向けて、その意識を誘うように動く。……そのための布陣を、今ここで決めたい」
レイスは少しの間を置いて、記録者に返答をする。
「……俺には…無理、です………俺の目の前であれに飲み込まれました……あいつは助けてくれって、俺に言ったんです…でも、俺は怖くなって逃げてしまった……だから、またあれに近づくなんて、想像するだけで…足がすくんでしまって…うぅ……」
その記録者はそのまま地面に泣き崩れた。
集会室の空気が少しずつ硬化していく。
「……友を…そうか…それは辛かったな………皆も無理だと思ったら言ってくれ。決して無理強いをするつもりはない。協力できる者だけ残ってくれ」
レイスの瞳には悲痛の色が浮かんだ。
そして、そのまま部屋に集まった記録者の一人ひとりを見ながら言った。
皆、一様に硬い表情のままだった。
激しい葛藤。
結果、誰一人として動こうとはしなかった。
そのとき、集会室の扉が勢いよく開いて、一人の記録者が入ってきた。
「………情けない事だな。誇り高き記録者たちが、トガビト一匹に手も足も出ず、あまつさえ安全圏で注意を引くだけの、無能でも出来そうなこともできないとはな……」
室内に入るなり、すぐに動けない記録者に対して暴言を溢す。
暴言に対して、室内の温度が一気に上昇して、視線を一斉にその者に向けた。
「聞けば、あの落ちこぼれのシィロでさえ、参加すると言うのに…貴様らと来たら…」
そこに立っていたのは責任者代行も務めるアジクであった。
誰もが息を飲んで、反論の言葉を飲み込む。
「…アジク、様…どうしてこちらに…」
「このアズールヘヴンの危機。この誇り高き記録者であるアジクが力を貸さないわけにはいかないだろう?」
「…アジク様、自ら協力してくださる、と…?」
レスルが胡乱な目でアジクを見る。
「勿論だ、ここにいる腰抜け共に比べれば役に立てると思うが…?どうせ、貴様らはここで、指を咥えて見ているだけしか出来まい」
アジクはレイスの隣まで歩くと、記録者たちを振り返って嘲笑った。
「どうした?言い返せまい?」
記録者たちの瞳には憤怒。
幾ばくかの静寂の後、若い記録者が拳を握り、声を張った。
「……オレも行きます!レイスさん。あなたが先頭に立つなら、背中は預けられます」
続いて、もう一人。
「私も。このアズールヘヴンを護れるのは私たちだけですから!」
堰を切ったように次々と記録者たちの声が上がる。
いつしか、集会室全体から声が響いていた。
レイスはわずかに目を伏せ、呼吸を整える。
だがその瞳には、感謝の光が宿っていた。
「……ありがとう。……みんな」
その一言に、短い沈黙が流れる。
そして、誰からともなく、小さな頷きや視線が交わされていた。
肩をすくめて笑う者、目を伏せて拳を握る者、何も言わずに一歩前に出る者。
言葉はなかったが、それぞれの形で想いが返されていた。
レイスはそれを受け取るように、静かに目を閉じた。
「何をすればいい?」
「配置はどうする?」
次々と飛び交う声に、レスルが素早く応じた。
手元の地図を広げると、記録者たちの視線が一斉に集まる。
「報告によれば、現在、トガビトの位置はここ——第四境界の南西区域です。ここから先は、移動力と妨害力に応じて各々配置に就いてもらいます」
レスルは地図の数ヶ所に指を滑らせながら示した。
「この道筋に沿って、魔力による結界と誘導の流れを構築します。基本は“前方に誘導し、後退しつつ引きつける”。ただし——接近しすぎないこと。最低でも200メルトルの距離を保ってください」
「トガビトは、どのくらいの距離で感知するのでしょうか?」
記録者の一人が声を上げる。
「良い質問です。現時点での観測では、約600メルトルが感知範囲です。ですが、動きが一定でなく、黒い影がうねるように伸びる特性がある。予測できない動きに注意してください。背後を取られるケースも想定されます」
緊張が空気を引き締めていく。レスルは一つ一つの質問に的確に答えながら、視線を全体に巡らせた。
一方で、レイスは地図を睨むように見つめたあと、顔を上げた。
「……皆。今、この時だけは、互いを信じて動いてほしい。個々の技術ではなく、“連携”が鍵になる。バラバラでは、決して導けない存在だ」
記録者たちの目に、緊張と共にわずかな光が宿る。
「さあ、行こう。作戦開始だ!」
レイスの号令に、記録者たちは一斉に動き出した。部屋の扉が開かれ、足音が重なり合いながら次々と消えていく。
そのときだった。
アジクがふらりと歩み寄り、レイスのすぐ隣に立ち、低く囁いた。
「……レイス。皆に“本当のこと”は言わなくてもいいのか?」
レイスがぴくりと眉を動かす。
「……アジク様は、知っておられるのですね……?」
「当然だ。ハンゲツ様は巧妙に隠しているが、私の情報網にかかれば——この程度の秘密、隠し通せるものではない」
アジクは口の端を吊り上げ、喉の奥で笑う。
「……ハンゲツ様は、皆に伏せるよう命じました」
「ふむ……やはり、貴様も盲目的に信じるか」
その言葉には棘があったが、アジクの表情はどこか愉しげだった。
「まぁいい。レイス。これは“一つ、貸し”にしておくぞ?」
その意味を問うよりも早く、アジクは軽やかに背を向けた。
長いコートの裾を揺らしながら、扉の外へと姿を消していく。
レイスはその背中を見送る。問いかけも、追いかけることもせず。
(……堕ちた神。いや、それ以外に——まだ、何かあるのか)
胸の奥に、ざらりとした疑念が残ったまま、レイスは地図を再び見下ろした。
* * *
一方その頃——
本部の中でも特に静かな一角、遮光窓から淡い光が差し込む部屋。
シィロに案内されてシャワールーム前の脱衣所に到着した。
「…ここです。私は剪定者のところに装束を取りに戻りますね」
「ありがとう、シィロさん」
「はい、それではまた後で」
手を胸に当て、ゆっくりと頷いた朝陽は、先ほどよりもほんの少しだけ強く見えた。
扉が閉まり、しん……とした静寂が空間を包んだ。
(…神様とか…祈りとか…本当に、大丈夫かな…想いが届くなんて、完全には、信じきれていないかもしれない…)
身を清める準備をしながらも、朝陽の内心ではまだ実感がなかった。
しかし、周囲の状況、体験から、あり得るのではないかと思っている面もあった。
朝陽は静かにシャワールームへと足を踏み入れる。
(それでも——空を助けたい。それだけは、はっきりしている)
手を伸ばし、水に触れる。
それは肌を刺すように冷たく、自分の内側の“ざらつき”を少しずつ溶かしていくようだった。
(うん、きっと大丈夫だよ、想いは…届くはず…)
水の流れが、まるで心の迷いを押し流していくようだった。
自分の中に残っていた弱さや迷いが、少しずつ透明になっていく——そんな気がした。
* * *
シャワーの音が静かに響く。
やがて水の落ちる音が消えて、しばらくしてからシャワールームの扉が開く。
脱衣所には既にシィロによって、ワンピース型の装束が置かれていた。
朝陽はそれを手に取ると、身に纏った。
肌からは余計な熱が抜け、少し冷たい風がすっと通り抜けていくような気がした。
着替えが終わったタイミングで、ノックの音が響く。
「…どうぞ」
ドアの外に向かって声を掛けると、扉が控えめに開かれてシィロが入ってきて、朝陽の姿を見つめた。
「変じゃないでしょうか…?」
「……すごく似合ってますよ。これなら朝陽さんの想い、きっと届きます」
そう言いながら、シィロはそっと朝陽の肩に手を置いた。
その掌から伝わる体温は優しく、言葉以上に安心感をくれた。
「ありがとうございます」
朝陽は少し照れたように微笑んだ。
「……朝陽さん、レイスさんがミミを舞台に誘導するまで、まだ時間が掛かると思いますが、今から向かいますか?」
シィロの問いかけに、朝陽は少しだけ目を伏せ、それから静かに息を整えるように答えた。
「うん……今から行って、待ちたい、と思います。舞台で、自分の気持ちを、もう少しちゃんと整えたいです。……落ち着かせて、祈りの言葉を見つけたいから」
その言葉に、シィロは嬉しそうに目を細め、力強く頷いた。
「……はい。じゃあ、一緒に行きましょう。祈りの舞台へ」
* * *
祈りの舞台への道を歩きながら、シィロは朝陽に振り返った。
「……大丈夫ですよ。頼りないとは思いますが、私もついていますからね」
小さい声であったが、確かにそう言って、また前を向いて歩き出した。




