第五十九話
『……ハンゲツ。準備に取り掛かるのは構いませんが、まずは“祈り”とはどのようなものかを皆に見せるべきでは…?』
剪定者が一歩前に進み出る。琥珀色の瞳が静かに細められた。
「おお…そうじゃな……実際に祈りの姿を見せれば、理解も深まろう。頼めるかの」
『わかりました。……これは、過去に捧げられた祈り。記録に残せない、けれど、私の中に“宿っている”記憶です』
剪定者は朝陽たちの方に、そっと腕を向ける。
その動きに合わせるように、空気がふるりと震える。
まるで何かが、深い地の底から呼吸を始めたかのように。
少女の腕先に、柔らかな光が灯る。
金糸のように織り込まれた光が、掌の上に浮かび上がった。
次の瞬間——その光が枝分かれするように四方へと広がり、朝陽、シィロ、レイス、レスル、そしてハンゲツへと、それぞれの胸元へそっと触れるように飛んだ。
「……っ!」
朝陽は思わず息を呑む。
光が触れた瞬間——視界が、白く塗り潰された。
その白の中から、静かに映像が立ち上がる。
* * *
それは、崩れかけた神殿のような場所だった。
霞がかった空の下、石柱は傾き、世界の端がぼやけている。
その中央に——少女がひとり、静かに立っていた。
年の頃は朝陽と同じか、あるいはもう少し幼いだろうか。けれど、その眼差しは澄みきっていて、恐れも迷いもない。
彼女の前には、黒い影がうごめいていた。触れればただれそうな皮膚に、蠢く無数の目。人の形を保っているようで、どこかが決定的に違う、歪な存在。
——暴走したトガビト。
少女は、その前に跪く。
そして、両手を胸の前で組み、唇を開いた。
声は聞こえない。けれどその姿、その動きのひとつひとつが——「祈り」そのものであることは、直感的に理解できた。
胸の奥に、何かがじんと沁みる。言葉で説明できない何かが、確かに伝わってくる。
少女の周囲に、淡い光が灯る。祈りに呼応するように、トガビトの動きがゆるやかになる。
まるで、その声に耳を傾けようとしているかのように——。
そして、映像は静かに霧散する。
元の空間に意識が戻る。
誰もが言葉を失ったまま、静寂が広がる。
剪定者が、そっと手を下ろす。光は、跡形もなく消えている。
『……これが、“祈り”を捧げるという行為です。形式ではなく、“想い”を届けるための全身全霊の祈り』
その言葉には、何かを選び続けてきた者の、静かな重みが宿っていた。
「……あの少女は、何を……唱えていたのですか?」
朝陽が、かすれる声で問う。
『……それは……祈りの言葉は、言葉として“聞かせる”ことはできないのです』
剪定者は静かに、しかし厳かに答えた。
『ですが、祈りの言葉は、唱えればよいものではありません。そこに“想い”が伴わねば、それはただの音。祈りにはなりません』
ハンゲツもゆっくりと頷く。
「そうじゃな……あの場に立った時、その存在を見て、自ずと心に浮かんだもの——それが祝詞となる。己の言葉で、己の願いを込めて唱えるのじゃ」
『定められた呪文ではありません。自身の“許し”と“祈り”を、そのまま言葉にするのです。神の耳に届くのは、書かれた記録ではなく、魂の記憶なのですから』
再び、沈黙が応接室を満たしていた。
やがて、ハンゲツがゆっくりと口を開く。
「……祈りを捧げる者には、清き心と、ゆるぎない“想い”が必要じゃ。わしが知る限り——その条件にもっともふさわしいのは、朝陽。おぬしじゃろう」
「……わ、わたし……ですか?」
朝陽が目を見開く。
戸惑いと不安が入り混じった声音で呟いた。
「うむ。おぬしは、トガビトにも向けられる“赦し”を知っておる。心から誰かのために祈ることのできる者じゃ」
ハンゲツの言葉に、誰も異を唱えなかった。
剪定者も、ふわりと微笑を浮かべて言葉を継ぐ。
『そして、朝陽の隣には——シィロ、あなたがついてあげてください。支える力は、祈りを強く、深くする。あなたの存在は、祈りの“環”に不可欠です』
「……はい、もちろんです」
シィロは小さく頷きながら、そっと朝陽の手を取った。
「私が朝陽さんを支えます…!」
その温もりに、朝陽の瞳がわずかに潤む。
「ありがとう……」
少し間をおいて、レイスが静かに口を開いた。
「……我々は何をすれば良いのでしょうか?」
ハンゲツが目を閉じ、ゆっくりと頷く。
「暴走状態のトガビト——ミミを、安全に、かつ確実に誘導するには、記録者の力が必要じゃ…レイス、おぬしは記録者たちをまとめるのじゃ…」
「…私が…?ハンゲツ様のほうが適任では……」
「おぬしは誰かを護るために、常に最前線に立っておった。そして厳しくもあり、優しくもあった…皆をまとめるのにおぬしほどの適任はおらぬよ」
「っ…!……あ、りがとうごさいます。精一杯やらせていただきます…!」
「うむ、頼んだぞ」
ハンゲツは優しく微笑む。
『では、レイス。記憶の塔。その最上階に、最奥の間、祈りの舞台。そこへ、記録者たちと力を合わせることで、ミミを誘導し、朝陽の祈りを“届ける”のです』
剪定者の言葉に、レイスが静かに頷く。
「我々がトガビトを正面から討てぬならば——その存在に、道を示します」
剪定者は不安そうな朝陽に微笑みかける。
『朝陽、不安はあると思いますが、あなたなら出来ます』
全員の視線が、朝陽に注がれた。
その眼差しを受け止めながら、朝陽は静かにうなずく。
「……わたし、やります。空を返してもらうために。……ミミに、ちゃんと……伝えるために」
作戦は、静かに動き出そうとしていた。
「…よし、私は記録者たちに話をしてくる。レスル。お前も来てくれるか?」
レイスの瞳は輝くように力が篭っていた。
「もちろん、付き合いますよ」
歩き出すレイスの背に、ハンゲツがそっと言葉を添える。
「……頼んだぞ、レイス。おぬしのような者が、未来を拓く鍵となるのじゃ」
レイスは力強く頷くと、応接室から出て行った。
2人を見送った朝陽たちに、剪定者が声を掛ける。
『朝陽。祈りを捧げるための舞台に行く前に身を清めましょう。シィロは朝陽のための装束を取りに行ってください』
「装束ですか?」
『ええ、堕ちてしまったとはいえ神前ですからね、全てを整える必要があるのですよ……装束は朝陽を案内した後、私の元に取りに来てください』
「なるほど、わかりました……行きましょうか、朝陽さん」
シィロが微笑み、朝陽をそっと導くように立ち上がる。
朝陽も小さくうなずき、ふたりは静かに応接室を後にした。
扉が閉まる音だけが、静寂の中に響く。
残された空間に、ふわりと穏やかな空気が流れる。
ハンゲツがふと、剪定者に視線を向けた。
「……のう。お主が手を貸すのは、本当に珍しいことじゃな」
『……ええ。ですが、どうしても……放っておけなかったのです』
剪定者は、いつになく静かな声音で言葉を紡ぐ。
『……朝陽の母は、私の姉でした』
「……やはり、そうであったか」
『思い出したのです。記憶の祭壇で、ヒナタに再会したあの日に…』
淡い光のような笑みが、その唇に浮かぶ。
「…ヒナタに…?」
『…剪定者に選ばれて、感情も過去の記憶も失いましたが、ヒナタが名前を呼んでくれたあの日…少しずつですが、私の世界に色が戻ったのです』
剪定者はふと目を閉じて、自身の胸の内を感じていた。
『…ヒナタはすぐに行ってしまいましたが、ヒナタに似た、朝陽のために私は何かをしてあげたいのです』
「……ふむ、そうか。そうであるなら、わしも全てを尽くそう。ヒナタのために。……そして、お主の覚悟に応えるためにも」
ハンゲツの声が、深く静かに部屋を満たした。
『……はい。彼女の声が、私の世界を変えたように。朝陽の声もまた——この空に、届くと信じています』




