第五十八話
「記録者で力を合わせる必要があるのう」
老人はそう言って、にっこりと笑った。
「……力を合わせる……ですか? ……そんなこと、本当に出来るんでしょうか…?」
シィロは視線を落とし、胸元で両手を握りしめて、不安を滲ませながら、ぽつりと呟いた。
その言葉に、隣のレスルが、眉をひそめながら口を開いた。
言葉を選びつつも、率直な懸念を口にする。
「ハンゲツ様、僭越ながら申し上げますが……記録者の大半は、協調という言葉とは縁遠い気質を持っております。中には他者の意見を軽んじ、動こうとしない者も……少なくありません」
言葉を選びながらも、厳然たる事実を告げるようにレスルが言うと、室内の空気が一瞬、静まり返る。
「……うむ、責任者としては、わしもそれを恥じておる。残念ながら、それは否定できん」
ハンゲツは目を伏せ、一度深く息を吐いた。
だが次の瞬間、顔を上げると、瞳に静かな光を宿しながら言葉を続けた。
「しかしの——記録の塔での“空”の宣言、皆聞いておる」
その言葉に、朝陽の目がわずかに見開かれる。
「空の言葉は、確かに塔の頂より記録者全体に届いた。強く、真っ直ぐな“想い”じゃった。あれを聞いてなお、心を動かされぬ者がおるなら、そやつは記録者ではない。……想いを軽んじる者に、記録を守る資格はないからの」
静かだが、はっきりとした決意を帯びた声だった。
「……そして、そういった“想い”を胸に抱く者を助けたいと願う記録者も、必ずおるはずじゃ。空を助けたいと願うお主たちに、手を貸してくれる者は、きっと現れる」
その言葉に、朝陽は小さく息を吸い、隣でレイスが頷いた。
シィロが静かに口を開く。
「……仮に、手を借りられたとして——私たちは一体、何をすれば良いのでしょうか」
「そうじゃな…その話をするとしよう」
ハンゲツが話を始めようとしたところで、重く、硬質な足音が廊下から近づいてくる。
ダンッ、ダンッ、ダンッ。
まるでその足取り自体が、何かを告げているかのようだった。
直後、扉が勢いよく開かれた。
「ハンゲツ様、こちらにおられましたか…!至急の報告があります!」
一人の若い記録者が駆け込んできた。息を切らし、額には汗がにじんでいる。
その顔を見て、朝陽が一瞬だけ眉をひそめる。
先日、シィロに突っかかってきた記録者だった。
そして、その記録者の視線が、シィロに向けられる。
ごくわずかに顔を顰めたが、すぐに報告の姿勢に戻ったため、朝陽だけがその小さな動きに目を留めていた。
「申してみよ」
ハンゲツの一声に、記録者は深く息を吸い、告げた。
「本部より南西、第四境界付近にて——異常な存在の出現により、甚大な被害が発生しました!」
「……異常な、存在……?」
レイスが低く呟く。
シィロも、少し険しい顔になる。
「また……ミミの“種子”でしょうか」
「……状況は、以前に出現した“種子”とは明らかに異なっています。その…報告では……“這いずる塊のようなもの”で……皮膚は黒く爛れ、無数の目が脈打っていると……」
その報告の内容に部屋の空気が冷たくなる。
どこかで誰かが、息をのんだ。
ハンゲツが、ゆるやかに目を細める。
「……お主。どんな姿であったか、もう少し詳しく聞いておるか?」
報告者は、資料の端末を手早く操作しながら、言葉を続けた。
「……一部始終を見た者の報告です。“獣でも人でもなく……ただ、這い、うねり、崩れながら進む影。眼の奥が狂いそうになる”と……まるで、祟られているような姿であった、と……」
「ふむ……」
ハンゲツの目が細くなり、卓の上に片手をつく。
「……暴走の果て、かのう」
その呟きに、レスルが思わず顔を上げた。
「ハンゲツ様……何か心当たりが?」
老人はゆっくりと頷いた。
「うむ。おそらく、それは“ミミ”と名乗っていた特異型のトガビトに違いあるまい。……いや、“ミミ”の成れの果て、と言うべきかもしれんな」
老人はそう言って、報告者の方へ振り返った。
「……報告、ご苦労であった。その存在については、こちらで引き受けよう。お主は取り急ぎ、一般の者たちに“決して不用意に近づくな”と伝えておいてくれんかの?」
「はっ」
記録者は深く一礼し、足早に部屋を後にした。
扉が閉まり、再び部屋に静けさが戻る。
ハンゲツは、その若い記録者の背中をしばし見送ってから、卓上の湯呑みに手をかけた。
一口だけ含んだその手がわずかに止まる。
……気づいていたのだろう。
あの記録者がシィロを見たときに、顔を顰めた瞬間を。
だが、ハンゲツは何も言わなかった。
それは、場を守るためか。
——あるいは、本人が“受け止め、立ち向かうべき”ということかもしれない。
湯呑をそっと卓に戻し、老いた指先が膝の上に重ねられる。
「……さて。これより先は、知る者の限られた話となる。
皆、覚悟して聞くがよい」
朝陽たちは、静かに頷いた。
その空気の変化を、誰もが感じ取っていた。
ハンゲツはしばし目を閉じ、そして、ゆるやかに口を開く。
「“トガビト”とは、本来——神の成れの果てじゃ」
シィロの目が大きく見開かれる。
レイスの眉もピクリと動いた。
レスルは驚きよりも、深く納得したような面持ちだった。
朝陽は息を呑む。
「神……?」
「うむ。古の時代より人々の“願い”と“祈り”を受け続けた神々のうち、応え続けるあまり、自我を削り、祈りに飲まれ……そして“記憶”そのものを喰らい始めた存在がおる。彼らは己を保てなくなり、境界の彼方へ堕ちた。それが“トガビト”じゃ」
静かな語り口ではあったが、確かな重みが宿っていた。
「……求められるばかりで、愛されなかった存在。感謝も労りもなく、ただただ願いを押しつけられ続けた果て……彼らは神でありながら、最も深い孤独に堕ちた。そして、“存在の意味”そのものが歪み、祈りではなく、記憶や想いを喰らうようになったのじゃ」
「……そんな……」
朝陽は言葉を失う。
しばしの沈黙が流れる。
「では……なぜ、私たち記録者には……そのことを教えてこなかったのですか?」
シィロが震える声で問う。
ハンゲツは、その問いをしばらく黙って受け止めた。
すぐには答えず、まるで何かを選び取るかのように、言葉を慎重に探しているようだった。
「……それを知ったとて、人の心は“信仰”へと揺れやすい。堕ちた神とて神。かつて信じ、救われた者にとっては、今なお崇めるべき対象となりうる」
「……崇拝されてしまう……?」
レスルが、はっとしたように呟いた。
「うむ。人は弱い…。神の力に魅入られ、間違った信仰に身を投じる者が出ぬとも限らん。“これは神ではない”と言い切るためには、“神であった”という情報そのものを封じねばならんかったのじゃ」
ハンゲツの声音は苦く、老いの静けさと痛みが滲んでいた。
「……堕ちた神であるがゆえに、討つのではない。封じ、静め、忘れさせることが……この世界の均衡を保つ、唯一の道であったのじゃ」
言葉の終わりに、再び静寂が落ちる。
そして、再びハンゲツが沈黙を破った。
「そう、暗い顔をするでない。先ほども言ったであろう?堕ちた神であれ、何であれ方法は残っておると」
『…そうですよ、言葉の重さに萎縮させてどうするのですか』
突然、応接室に少女の声が響いた。
「おぉ…剪定者…ちょうどお主を呼ぼうと思っておったところじゃ」
琥珀色の瞳をした少女がそこにいた。
『ええ…わかっています。空を取り戻すためにトガビトに祈りを捧げるのですね?』
「…祈り…ですか?」
朝陽は、剪定者に目を向けた。
『相手は堕ちてしまったとしても神。であれば願いを届けるために祈りを捧げ、祝詞を唱え、神の耳を傾けていただく他ありません』
剪定者は目を細め、まるで祈りの記憶をなぞるように語った。
『これは、この世界で唯一、神に届く“記録ではない力”です』
「……記録ではない、力……」
レスルが、息を呑むように繰り返した。
『記録は、形をとどめるもの。言葉、映像、思念、どれも“外”に向かって放たれたものです。ですが“祈り”は違う。内から生まれ、繋がりを求める力。記録では掴めない“核”に』
「届くということですか…?」
朝陽が小さく続けた。
「うむ…暴走しておらぬとしても、皆の協力の元、祈りを捧げる必要があったがのう…」
『そうですね。現状、そのトガビトは暴走状態にあるということ…より記録者と連携を取り、誘い出し、誘導する必要があるかと思います』
剪定者とハンゲツは目を合わせて頷く。
「…ハンゲツ様。誘導とは、祈りを捧げるには特定の場所である必要が…?」
「祈りを神に捧げるのじゃ、それに見合う舞台は必要じゃろう…?」
ハンゲツの言葉に、剪定者も静かに続ける。
『祈りを捧げるには象徴的な意味を帯びた場所が必要です。——記録の塔の頂点。もっとも神聖で、記憶と祈りの交差点となる“最奥の間”。そこでなら、想いは境界の向こう、堕ちた神にまで届く可能性があります』
剪定者は一拍おき、どこか静かな、しかし鋭い瞳で朝陽たちを見つめて続けた。
『祈りは必ず届きます。ただし、それは“願いを叶えてくれる”という意味ではありません。届いた先で“聞いてもらえるか”、そして“応じてもらえるか”は別の話です』
「つまり……聞いた上で、拒まれる可能性もある……?」
『あります。そして、通じた場合でも、トガビトは“神”。与えるだけの存在ではなく、“対価”を求める存在でもあります』
空気が張り詰める。
「……返してほしければ、何かを差し出せ……というわけか」
レイスが呟いた。
『ええ。ただ、そこまで至れば、こちらにも“選択”ができます。……応じるか、拒むか。あるいは、闘うか——』
「その“返してほしければ”が、どんな内容になるか、ですね……」
レスルが渋く眉を寄せた。
『それは、届いた祈りにトガビト自身がどう応じるか。私たちには、まだわかりません。けれど、まずは届けなければ、交渉の場すら生まれない』
剪定者の声は穏やかだったが、微かに緊張の色も含んでいた。
「……交渉の“場”を創るための祈り……」
朝陽が繰り返すように呟く。
そして、しっかりと前を向いた。
「わかりました。やります。私たちで…!」
朝陽は拳をそっと握りしめた。
その目には迷いの色はなかった。
ハンゲツが目を細め、うなずいた。
「よかろう。ならば……準備に取りかかろうかの」
その声には、長い時を超えてもなお、希望を信じる老いた者の力強さがあった。




