第五十六話:アウェイク
レイスへの説得が成功して、祭壇を後にした一行は、再びあの山道を戻っていった。
霧は、まだどこか名残惜しそうに足元を這っていたが、行きよりも少しだけ、光が濃くなっていた気がした。
レイスは終始無言だった。だが、その表情からは、かすかな迷いと、まだ言葉にできない感情が伝わってきた。
「……あの、歩き疲れてませんか……?」
シィロがそっと声をかけるが、レイスはただ小さく首を横に振るだけだった。
そのやり取りを聞きつつも、朝陽は先ほど見た映像を考えながら、歩いていた。
(あの…トガビト…笑ってるように見えたけど…何処か焦ってみえた…?それに、どうして彼は自分からあんな恐ろしいことに向かっていったんだろう…?)
当然答えはない。
考えてもわからないことばかりだった。
誰も多くを語らないまま、時間だけがゆっくりと流れていった。
それでも三人の歩みは、確かに前へ進んでいた。
* * *
——そして、トキレイム。
日は落ち、辺りは薄暗い。
名残の赤が遠くで、コントラストを描いていた。
門を抜けて石畳を踏みしめる音が、再び“日常”の中へと戻ったことを告げる。
石畳の音が夜気に吸い込まれていく。
ランプの灯りがぽつぽつと灯るトキレイムの通りに、三人の影が静かに現れた。
その中のひとり——
肩に布をかけ、長杖をついた煤けた女性の姿に、町人たちの足が止まる。
「……なぁ…おい…まさか……」
「ちょっと、見て……あれ、レイス様じゃないか……?」
ざわめきは徐々に広がっていく。
通りすがりの記録者たちの目も、一様に驚きと戸惑いに染まった。
それもそうだ。
消息不明だった記録者、レイス。
誰もが”帰らぬ存在”になったと思っていた。
しかし、その存在が今、目の前に立っているのだから。
「お、おれ、記録者本部に行って報告してくる!」
ひとりの若い記録者が、弾かれたように走り出す。
靴音が石畳を打ち、トキレイムの静かな夜に急を告げた。
「レイスさん……でも、なんだか様子が……」
「本当に……ご本人……?」
レイスは、周囲から注がれる視線にひるむことなく立っていた。
だが、その眼差しに、かつての鋭い知性や誇りは宿っていない。
空白と、わずかな困惑。
それが、彼女を今ここに立たせていた。
彼女はほんの一瞬、空を見上げる。
星はまだ出ていなかった。
「……皆さん、驚かせてしまって……すまない」
レイスはぽつりと、静かにそう言った。
その声に、周囲の空気がわずかに揺れる。
「……私は、きっと“レイス”と呼ばれていのだろう…。でも……申し訳ない、私には、その記憶がないんだ…」
誰かが小さく息を呑んだ。
騒ぎ出す者も、詰め寄る者もいない。
ただ、夜のランプの下、静かな衝撃だけが町を包んでいた。
「……彼女たちと共に……失ったものを探し、取り戻すためにここに来たんだ」
そう言って朝陽とシィロのほうに視線を向ける。
二人のうなずきが、その言葉の真実を静かに支えていた。
* * *
広がるざわめきの中、足音が急速に近づいてくる。
「すいません、通してください。記録者本部の者です」
通りの奥から、複数の記録者が駆けつけてきた。
その先頭に立っていたのは——
「レスルさん……!」
金属のような素材出てきた外套をまとった男性。
各地で暴れるトガビトを撃退するために前線に配置されていた記録者のレスルであった。
シィロが思わず声を上げた。
レスルは駆け寄ってくるなり、朝陽たちの後ろに立つ人物に目をとめる。
——そして、瞳を見開いた。
「…レイスさん…やはり、無事でしたか……」
その名が再び夜の空気に刻まれる。
けれど、レイスはほんの少しだけ眉を動かしただけだった。
「……申し訳ないが、君のことを覚えていない。私が“レイス”であるのかも、正直、定かではないのだ」
レスルは一歩だけ近づいて、その姿をじっと見つめた。
しかし、レイスは正面から視線を受け止める。
「……どうやら、ここに来るまでに聞いた噂は、本当だったようですね…」
レスルの声は普段のように冷静のままであった。
「ですが、あなたはレイスさんで間違いはありませんよ」
そう言った声には優しさが含まれているようだった。
そして、レイスに背中を向けた。
「……あなたの部屋は本部にあります。でも今は、落ち着ける場所へ向かってください」
「はい。すぐ囲まれてしまいそうですし…宿泊施設のほうに向かう予定でした」
シィロの言葉に、レスルは小さく頷いた。
「ハンゲツ様には私から連絡しておきます。皆さん、そちらを——」
レスルが周囲の記録者たちに手で指示を出す。
数名が即座に反応し、人垣を少しずつ整える。
町の人々のざわめきの中で、ひとまずの移動が始まった。
「それでは、行ってください」
そう言って、レスルが道の先を指差した。
「……ありがとうございました」
シィロや朝陽が感謝を口にして、レイスは無言で頭を下げる。
三人がレスルの前を通り過ぎたあと、声が届く。
「…レイスさん、無事で良かったです」
レイスは思わず振り向いたが、申し訳なさそうな顔をして目を伏せ、言葉が続くことはなかった。
* * *
3人は町を進み、宿泊施設に到着した。
先頭に立っていたシィロが扉に手をかけて、ゆっくりと押し開いた。
「一度、食堂で休みましょう…」
そう言って、中に入っていった。
扉を抜けてすぐの場所——
記録者の宿泊施設にあるホール。
夜の帳が落ちた今も、広々としたホールには一定の魔力が静かに漂っている。
ホール中央に佇むのは、“エクシウス”と呼ばれる球形の構造体と石像。
球形はぶ厚く、金属と鉱石のような質感が混ざり合った不思議な素材で形作られている。
周囲には幾何学の文様が刻まれ、どこか魔法陣のようにも見える。
時折、内部からから機械のような音が響いていた。
——その隣には、オブジェに向けて手をかざす人物の石像。
その隣には大きな翼を閉じて石像の人物の隣に伏せるグリフォン像。
「レイスさん。ここが、宿泊施設のホールです」
シィロがそう言いながら、ランプの光に包まれた空間に足を踏み入れる。
レイスは一歩遅れて中に入り、エクシウスを見上げる。
「…何か、思い出しそうですか…?」
「……すまない…だが、ここはすごいな…」
エクシウスと石像の迫力にレイスは目を離せずにいる。
朝陽もまた、ゆっくりとその中へ歩みを進める。
その瞬間だった。
——カチ、と何かがはまる音がした。
音源は、エクシウス。
魔力が走るような気配とともに、球形の中で何かが”起動”した。
「……!?」
朝陽が立ち止まる。
エクシウスの表面は淡く光を放ち、幾何学模様のような魔法陣が浮かび上がった。
やがてそれは、ひとりでに回転を始めた。
その動きに連動するように、球形の外縁がいくつかの節に分かれ、回転しながら位置を入れ替えていく。
まるで歯車のように。まるで、何かを“呼び覚ます”かのように。
それは、エクシウスが“呼びかけに応じた”かのような起動だった。
「え……これ、動いて……?」
朝陽の声に、レイスが目を細める。
「これは……何…が…?」
エクシウスの起動により、球形の中心が現れていく。
そこに、まるで“何か”が向こう側からこちらを覗いているような、そんな奇妙な感覚が生まれていた。
目の前の光景に魅入られる3人。
そのとき——チリ、という音とともに、レイスの服の内側で、何かが微かに光を帯びた。
レイスがそれに気づいて服の中に手を入れて、そこにあるものを握った。
「……これは…?」
手の中には空の色を切り取ったようなノエリウム。
その小さな石は、淡く輝いていた。
彼女の瞳に、戸惑いが走る。
胸の奥に、名もなき痛みが一瞬だけ走った。
その光は、エクシウスの光に呼応するように脈動していた。
「エクシウス……と、共鳴してる……?」
シィロがそう呟いた瞬間。
——エクシウスが閃光を放った。
まるで魔術そのものが炸裂するような、眩い光と風。
重力が反転するような奇妙な浮遊感が、三人を包み込む。
石像は動かない。
ただ、その影が一瞬だけ——ほんのわずかに、エクシウスの光に反応したように揺らめいた。
——それは、記憶の共鳴の、始まりだった。
* * *
——光の奔流。
エクシウスから放たれた眩い光が、三人を包んでいた。
時間が、重力が、記憶が、すべて曖昧になっていく。
ここがどこなのか、自分が誰なのかも、ふと忘れそうになるほどに——
視界が、色彩の波に変わる。
淡い蒼、やわらかな金、ぬくもりを宿した白。
それらがゆっくりと交錯し、揺蕩うように形を変えていく。
——そして、そこに現れたのは。
「空……?」
雨が降っていた。
遠くで、雷が響いていた。
朝陽は知っていた。この光景を、忘れるはずがなかった。
「…空、ここにいたんだね…」
朝陽は隣にいる空に声を掛ける。
隣では空が笑っていた。
「——。」
空が、何かを言った。
——懐かしい。あたたかい。戻ってきた、時間。
「…ごめんね、忘れてしまっていて…」
そして、時間は儚いまま。
世界は一転して、色彩を失っていく。
「……行かないで」
朝陽が手を伸ばす。空へ。約束へ。
でも——
その姿は、光の粒になって崩れ、風に混じって消えていった。
「待って……空……!」
* * *
光が、静かに収まっていく。
広がっていた色彩が収束し、元のホールの空気が戻ってきた。
エクシウスは再び沈黙し、静かにその輝きを閉じていた。
けれど、確かに、何かが変わっていた。
「…思い出した」
レイスの瞳には、かつてのような強さが戻っていた。
彼女は何も言わず、拳を握りしめる。
「……そうですね…」
シィロはその横顔に目をやりながら、前を向いた。
朝陽は、頬に伝う涙に気づき、そっと指先で拭った。
静寂の中で、誰からともなく、声が生まれる。
「──取り戻そう。“空”を」
その言葉に、誰もがうなずいた。
もう一度、あの笑顔に会うために。
彼の想いを、この世界に繋ぎなおすために。




