第四話: 昨日の雨と、ひとこと
翌朝。まだ早い時間だというのに、陽射しはすでに容赦がなかった。
湿った空気のなか、街路樹の葉がじっとりと濡れているのは、昨夜の夕立の名残だ。
登校途中、天音空はゆっくりと坂道を歩いていた。
制服の襟元にまとわりつく湿気が不快で、けれどそれ以上に、心の中が落ち着かない。
(……あれって、なんだったんだろうな)
雨の匂い。
叩きつけるような雨音の中で、ふいに握った手の感触。
濡れたアスファルトの匂いと、雨ににじんだバス停の屋根。
口にしなかった言葉が、あの沈黙の中でずっと揺れていた気がする。
触れて、離れて、何も言えずに終わった。
ただそれだけの出来事。
——なのに、胸の奥が妙にざわつく。
触れた手の温度。
雨に打たれる音の中、
……そして。
(最後、少しだけ……笑ったような気がした)
ほんの一瞬で、見間違いかもしれない。
でもそれが、ずっと頭から離れない。
「……ニヤけてんぞ、お前」
突然背後から声をかけられ、空はびくっと肩を跳ねさせた。
振り返ると、伊織が自転車を押しながらにやにやと笑っていた。
「お、おはよう伊織……って、ニヤけてない!」
「いやいやいや、めっちゃニヤけてたって。なんかあったろ昨日。
言ってみなさい天音くん、この伊織さまがきいて進ぜよう」
空は慌てて前を向き、早足になる。
「ちょっと濡れただけだって。服がまだ乾いてないだけで、別に変なこととか……」
「ふ〜ん? で、“濡れただけ”で、その顔なわけ?」
「……うるさいな……」
「マジで何かあったな、お前。俺の超鈍感な観察眼でもわかる。
あれだろ?“手が触れた”とか“屋根の下で二人きり”とか、
なんか映画みたいな展開だったんだろ?」
「ち、ちげーし!」
「図星かよ。あはは、いいなぁそういうの、青春だなぁ〜!」
空は言い返さず、ただ前を向いたまま歩き続ける。
けれど、ふいに伊織の声色が、少しだけ変わった。
「……で、本当に何もなかったのか?」
「……たぶん。俺からしたら、“ちょっと”何かあった気はしたけど……
天音さんはそんなつもりじゃなかったんだろうなって」
伊織は少しだけ歩調を緩めて、空の横に並んだ。
「お前がそう思えるなら、それでいいと思う。
でもさ、ちょっとでも引っかかってんなら——その感覚、大事にしとけよ」
その声は、いつになくまっすぐだった。
すると、そのときだった。
校門前の角を曲がった先。
制服のスカートが揺れるひとりの少女の姿が、ふたりの視界に飛び込んできた。
空の足が、ほんの一瞬だけ止まる。
天音朝陽。
朝の光の中で、少し風に髪を揺らしながら、静かにこちらに目を向ける。
空が何かを言う前に、彼女はすっと口を開いた。
「……おはよう、天音くん」
その声は、昨日の夕立のときとはまるで違っていた。
冷たくもなく、刺すような拒絶でもなく。
ただ、まるで“普通の挨拶”として、そこに置かれたような——けれど、心に残る声だった。
空は、何も言えなかった。
ただ、そのひとことに返す言葉を探す前に、彼女はすれ違っていった。
振り返ることも、立ち止まることもなく。
風が通り抜けるように、その存在は過ぎていった。
「……今のって、天音さん、だよな?」
伊織がぽかんとした顔で言う。
「“おはよう”って言われてたよな。お前、なんかしたの?」
「……いや、別に……何も」
空の声は、やけに遠かった。
思い返すのは、バス停での沈黙。
手の感触と、濡れた空気と、言葉にならなかった距離。
——そして今の、“ひとこと”。
(なんか……違った気がする)
その小さな違和感が、胸に淡く、けれど確かに残っていた。
教室に入っても、空の頭の中はさっきの声が残ったままだった。
いつもと変わらないはずの景色。
ざわめくクラスメイトたち、開いた窓から吹き込む生ぬるい風。
でも、ひとつだけ——どこかが違って見えた。
朝陽は、すでに席に座っていた。
窓際の席で、文庫本を静かに読んでいる。
昨日の昼と同じように。何事もなかったかのように。
……けれど、空にはわかってしまう。
(昨日と違う。少しだけ、違う気がする)
それが思い違いかどうかはわからない。
でも、朝陽のページをめくる指がどこか柔らかく見えた。
時折、風に髪が揺れて、それを耳にかけるしぐささえ、妙に意識してしまう。
(なんでこんな、気になるんだろ)
自分でもわかっていない感情が、胸の奥でぽつぽつと広がっていく。
「おーい、空ー、聞いてる?」
後ろから小声でつつかれた。
伊織だった。
「あ……ああ、聞いてるって」
「いや、聞いてない顔だったぞ。……お前さ、もしかして、ほんとにちょっと、惚れてんじゃね?」
空は手元のノートに視線を落としながら、そっと目を逸らした。
「ないってば、そういうのは」
「へえ〜?」
伊織は意味ありげににやにや笑いながら、それ以上は何も言わなかった。
空は、ほんの少しだけ振り返る。
斜め後ろの席。昨日“おはよう”と言ってくれた彼女が、静かに本を読んでいる。
声をかけようと唇が動きかけたけれど、言葉にならなかった。
昨日の“おはよう”が、壊れてしまいそうで——
それが、妙に惜しく思えてしまった。
空はまた前を向いて、軽く息をついた。
その日は結局、話しかけることができずにいた。
そして放課後のチャイムが鳴るころ、空は窓の外に目を向けた。
傾いた陽が校庭を長く染めて、水たまりには淡く赤みを帯びた空が映っている。
風が少しだけ吹き、映った雲が静かに揺れた。
雨に濡れた土の匂いがまだ残っていて、空気のどこかに昨日の“続き”のようなものが感じられる。
(……なんだろうな)
あの一言だけで、ほんの少しだけ、世界が違って見える。
誰にも気づかれないほどの、小さな揺らぎ。
でもそれが、空にははっきりとわかる気がした。
視線の先、校門の向こうに、朝陽の後ろ姿が見えた。
まっすぐ前を向いて歩く彼女の背中を、空は言葉もなく見つめた。
昨日とは違う今日。
同じようで、違う日常の始まり。
そんなことを思いながら、空は机の中にノートをしまい、鞄を肩にかけた。
ちょっと加筆しました。